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枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

睦月、小潮・上弦

2014年02月07日 | Weblog

 暦には、その日にするべき家事の記載がある。例えば、裁断に特に佳し。とあれば、衣類を裁ったり、縫う準備をしておくのだ。記憶を辿ってみれば、祖母が暦と睨めっこして、明日の段取りをしていたものだ。手斧初めの日に薪割をする。金神さまの居る方角は避ける。

 まあ、迷信であるのかもしれないが、家を建てたり壊したりする時には、念入りに方角を調べ、障りのないように充分な注意をしていた。それでも事故が起きることもあるし、運の悪さも重なることがある。科学的な根拠は不明だ。数字の上に現れない不可思議さだ。

 あちこちで雪が降り、思わぬ弊害が起きている。本来なら、12月や1月は積雪があり、寒さにじっと耐えていた。昨今の暖房器具の普及で、暖かで快適な暮らしに転じてきた。その反面に、焚き火を知らない子が多い。焼き芋もその火にくべて焼いていたのだが・・・。

 童謡の歌詞にもあるが、垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落葉焚き、あたろうかあたろうよ、相談しながら歩いてく。当時には、芋は焚き火でするか、風呂の焚口で出来た火に入れて焼くかで、買って食べるなどありはしなかった。焼き芋とも言えない価格。

 そう言えば、と買っていた芋を思い出し、焼き芋にする。明日のお八つにしよう。昭和の時代も遠くなったもの。はったい粉が麦でできていることも、熱い湯をかけ、練って食べることも知らない。高齢者なら感嘆する。ご馳走の意味合いが、全く違う。贅沢になったもの。

 埴生の宿を聴いて、記憶が甦る人も居れば、仰げば尊しに、学び舎や教師も思う者は少ない。昨今の卒業式に、歌っているのを聞いたことがない。この歌を聴けば、季節の中で雪が降ることがあるのに気づくのだ。情緒豊かな歌詞が、情景を鮮明に浮かび上がらす。

 宮部みゆき ペテロの葬列を半分読破。毎晩なので捗々しくないが、少しづつ読むしかない。孫等にも興味を持ってほしいが、ゲーム感覚だったり、ときめく内容に変わっている。本が読みたいのは、自分の知識を補い、更に省みて思考することだ。古典落語も愉しい。

 盛夏を繁れる枇杷葉。ゆりかごのうた、にあるように、木陰が涼しい。暑さを遮り、やさしい光に換えてくれる。

 

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良寛忌

2014年02月06日 | Weblog

 早春賦。寒さが和らぐどころではない。雪が舞い、風が荒れる。例年の風景になりつつある、天候不順である。都心に雪が降るのは、1月から2月にかけてが多い。3月の名残雪も結構あるのだ。最近、出番の少なくなった雪女だが、存在感があります。

 寒い。油断して、風邪を引く訳にはいかない。業務に障りが出る。それ以前に、倒れる訳にもいきませんね。先日の疲労困憊は、何年もの重なりが出たもの。普段、踏ん張っている分、どうにもならない。言い方では、鬼の霍乱とも云う。節分が近かった。

 我が家の駐車場、フェンスの側に鉢植えである椿が、蕾を膨らませている。これが咲くのは、奈良のお水取りの辺りで、やさしい色合いの花を、もったりとつける。十重二十重に花弁を埋める。白い椿は、挿し木はついたが、花が咲かないのは何故か?

 蝋梅の黄色が鮮やかに香る。季節の訪れを真っ先に、水仙と競い合う。未だ灰色の空の下でさえ、たおやかに匂うのは、何という清らかさであろう。静けさに溶け合うように冬を咲き、一足早く春を告げる。季節を先取る花には、凛とした美しさがある。

 来月の勤務予定を決めねばならない。孫の卒業があるので、それに合わせる段取りだ。お彼岸もある。墓参りを済ませてからのがいいようで、月末を有給休暇に考える。当初の予定でもあるが、JRの値上がりも響く。消費増税を福祉に充てる等嘘だ。

 地震や津波の都度に、義援金詐欺が多発する。横領もあるのには、呆気にとられる。何れも、どっちに転んでも、懐に入りさえすればいい、という安易な考えだ。悪い事をしている意識は無く、騙される方が莫迦らしい。そういう金はあぶく銭とも云うが。

 人としての資質に、相手を和ませる特技があれば、それが慈善家の散財であっても、貧窮している者が救われるなら、よしとする。贅沢をするのでもなく、その日暮らしの身の倹しさが、お布施を持って集まるだろう。徳を積むほどに救われていた良寛。

 思考回路の凍結。寒さに冬眠状態を脱せない。堂々巡りが、矢鱈と増えるのも、歳の重なり具合か?宇宙は鈍い鉛色、月の影も星の瞬きも観えない。静寂な時間だけが過ぎ、明日に向う希望へと変わる。何だか主体性のない流され方。自信が揺らぐ。

 挿し芽で増える。夏場は外で咲き、冬には室内に取り込む。赤の鮮やかさが眼を惹く。

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奇跡の人

2014年02月05日 | Weblog

 三重苦のヘレン・ケラーが、ハーバード大学まで行き、世界中の人々に、奇跡の人と云われるには、アニー・サリバン教師の不屈の精神が支えていたからだ。生きてさえいればいい、と言う考えは哀れみだけです。そういい切ったサリバン教師。人間としての生き方を!

 この世の全ての物には、名前があること。目が見えなくても、耳が聴こえなくても、学ぶことはできるのよ。哀しみや苦しみもあるが、それよりも歓びの大きさを教えたい。何時如何なる時に於いてさえ、人としての幸せを教えたいと願うが、行先は暗澹たる想いであった。

 介護の仕事も、普通に人としての生活を送ってもらいたい。食事をし、風呂に入ったり、のんびりと寛いだり、居場所のある暮らしをしてもらいたい。決して、ご機嫌を取ったり、虐待をすることでもない。極当たり前の一日を過ごしてもらいたいのだ。安心と安全の中で。

 主演女優が素晴しいのは云うまでもない。ヘレンそのものを演じた、パティ・デュークは、後にサリバンをも演じている。DVDを、迷いの気持ちになった時に観る。アルジャーノに花束では、チャーリーの素朴さに惹かれる。原作に忠実ではないが、心理描写が上手い。

 りぼんの付録であり、水野英子氏が描いていた。これが驚異的なものだったので、鮮明に覚えている。サリバン教師も、ヘレン・ケラーも亡くなって久しい。奇跡の人と全世界が湧き上がる中、日本にも何度か訪れている。諦めてはならない。学ぶ方法はあるのよ。

 五体満足であろうと、障害を持っていようと、本人や周りの者の考え方や環境・境遇で、生き方に差が出て来るものなのだ。自分の置かれている立場を、認識していながら、どうすれば知識を増やし、勉学していけるかを常に考えていたいもの。希望は捨てない。

 書籍の素晴しさは、云うまでにないが、一日24時間をどう使おうと自由だ。同じ時間を共有するなら、使い方を工夫して、努力できる自分でありたい。学校に行っているだけが、学びではない。様々な事柄の、幅広い視野を持ち続ける事も、とても大切な心だ。

 我が家の晩夏。爽やかな風の通る、清らかな庭でもある。そこら中に枇杷葉の繁れる空間である。百日紅と白枇杷。

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二十四節気・立春

2014年02月04日 | Weblog

 立春は、冬の陰気に閉ざされた万物に、春の陽気が立ち初めるという意味で、『立春』と言われる。毎年二月四日頃である。暦には記されている。旧正月が過ぎ、節分を経てのことが多い。それにしても、ここ数日の天気の不安定さはどうだろう。

 体調不良に陥りそうな、気温の変化だ。午前中はのんびりと過ごし、珈琲メーカーが壊れたのを取替え、財布も新しいのにした。心身ともに新しくしたいが、こればっかりは元に戻らない。姿勢を保つことや、心理的な余裕を持つことも、大切な要因。

 研修のレポートを書かねばならず、四苦八苦する。他人の真似をしようとしても、空振りに終わる。自分の言葉で考えをまとめるしかない。高々、1枚と言うが、難題である。仕方なく、見当外れになってもいい、とこれまでの思いを箇条書きにした。

 孫の誕生日。早12歳である。新しい命が誕生する、そういった神秘的なことも含めて、家族が増えていくことのありがたさを感謝し、育っていく魂のエネルギーに圧倒される。背格好は既に母親を抜き、傍まで追いついて来ている。後、4cm!

 孫が育っていく過程に、原発のない、放射線の汚染のない世界を、願って止まない。自然災害からは、逃げたりも避けたりもできないが、人間の身勝手さで、命の保障の無いことは許されないこと。多少の不便さはあっても、生活は守れる筈だ。

 某新聞の日曜版に、連載されている小説は、とても興味深い。昨今は、匂いのない、味気ない小説が多いが、季節感あり、人間の生きている証のような読み応えが面白い。海の匂いがし、梅の香りが漂う筋に、惹き込まれる。記憶が甦るのだ。

 読書人口が減っているから、書籍を読んでくれるなら、ネットでも何でもいい、と考えるようだが、紙の質感や、活字の感触に魅力を感じる。加えて1枚づつ捲る手触りがたまらない。テレビや映画のように、勝手に画面が変わるのは疲れるもの。

 子どもの頃に読んだ話も、今となって、完訳版で読み返したいのがある。不思議の国のアリス、青い鳥、アルプスの少女・ハイジ、アンクル・トムの小屋、砂の妖精、ニルスの不思議な旅に家なき子や秘密の花園。さて、図書館に行ってみよう。

 昨夏の庭の様子。じりじりと照りつける陽射しに、意気揚々と繁る枇杷葉。寒さが苦手な常緑樹。あらゆる病に効果がある。医者いらず。

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歯科治療・・・

2014年02月03日 | Weblog

 横着をしていたからか、虫歯がある。定期的に治療に通い、埋めたり削ったりしている。神経があるため、麻酔をするのだが、何やら他人の口のようで閉口する。気持ち悪い・・・。体の内面も、見てくれ度合いも、年齢相当の格好だが、歯だけはどうにも。

 滲みやソバカスを、最近はレーザーで焼くそうだが、高いお金をかけてまで、やろうとは思わない。枇杷葉茶で、消えるのは無論のことだが、美白作用もあるから、肌の状態は佳い。見えないところになるのも剣呑。致し方なく治療に通う羽目になった。

 此処の歯科は、パソコンの画面に、現在の治療状況が映されていて、自分で確認ができる。然し、治療中はまな板の鯉だ。緊張感を強いられるし、どうにも居心地が悪い。そうなんです。誰を基準にしているのか、坐高と身長の差に多大な無理がある。

 そうしてみると、普通がいいなぁ。としみじみ思う。目医者でも同じ事が言える。立っても座っても、横幅がない分を高く見られるのが困る。中学生の頃には、後の方に並び、座ると頭しか見えない。これで指示のわかる筈もない。教師の怠慢に憤慨した。

 要するに、身長に対する坐高が低いためだが、それを云えるほど活発でもなかった。自分ではそういったことは気づき難い。洋服屋に行ってやっと納得した。事実、上級生にからかわれるのが、八頭身であって、とても誉められているとは思えなかった。

 思春期には、どうということや何でもないことが、自分では気になるもの。普通でないことが堪えたのも事実。人と接しない書籍に填まったのも、そういったことが一因かもしれない。書籍には膨大に得る物があり、人間性を豊かにし、学べることが多い。

 物事を突き詰めて考えるのも、性格からのこともあるが、答えが見つからなくても、想像の域を広げられることが愉しい。書籍に依って、人生観を変えたり、見えなかったものがわかるのもうれしかった。未知の分野には、果てのない希望があるのだから。

 リエさんのと決めた枇杷葉。昨年、ご本人と初対面した。今年は、花芽が咲くかな?思うんだけど、枇杷葉って、よく似ている。

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春の訪れに・・・

2014年02月02日 | Weblog

 なにやかやと片付かずで、孫の誕生日会をした後、枇杷葉茶を作り、ドクダミの根槐を洗う。溜まっていた洗濯もあり、テーブルクロスを換え、暖簾も新調する。寿司飯を混ぜて、卵焼きをしていたら、息子の家族が到着。お腹が空いているので戴きます。

 その後、娘夫婦が来て賑やかに会食。何時ものパターンだが、お腹一杯に食べ、誕生日のプレゼントを渡す。饅頭にケーキに、伊予柑と苺、キウィ。林檎を剥くには及ばず、ゲームを始める。昨夜降った雨も上がり、気温は上昇する。外の方が暖かいのだ。

 明日は節分、ということもあり、今日中に片付けねば。と、枇杷葉を切った次第。ドクダミの根槐も、掘ったままだったのを、泥を洗って新聞に広げる。横着をしていると腐る。このところ暖かいので傷みも速い。水だけでは怪しいと、枇杷葉エキスで洗った。

 枇杷葉の生葉を、サンタさんに送ろうとしていたが、何でも近所にあるらしい。結実しそうもない花芽を摘んで送った。我が家のは毎年、少しづつ採って保存し、緊急時の対応に当てる。種は実が生っても、たくさんあるのではないから、貴重には変わらず。

 蒟蒻の新しいのを出し、鍋で温める。枇杷葉の生葉を当て、じわじわと効かす。年齢的に、疲れが溜まり始めた。勤務もしんどい時がある。まあ、還暦過ぎと娘の同世代では、体力も違って当然だろう。それを同じに考えているとしたら酷。平等じゃない。

 来月のスケジュールは軒並みだ。古典落語もあるし、孫の小学校最後の月だ。休みの段取りを間違うと、えらいことになる。子どもの数が減って、複式にする案と合併案があるらしい。でも、大人の都合勝手ではなく、子どもの気持ちを優先してほしい。

 朝早く、集団でバスに揺られて行くのも、発育途上の健康にはどうだろう?体力のない、ここぞというときの、踏ん張りが効かない人間になる。誰かに任せていたり、右に倣えでは、思考回路が途絶えるだろう。気力も体力も、衰えることを危惧する。

 夏の陽射しの中に、咲き誇るベゴニア。枇杷葉の葉の下で、凉らしい。赤い色が、緑の葉に対照的。

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物思う・・・

2014年02月01日 | Weblog

 人間の生死とは、如何なることで左右される物だろうか。生まれた以上は、必ず死を迎えるのだが、あるいはまた、その長さにも依るのかもしれない。長生きする者も、短き生きざまもあろう。然しそれらのどちらがいいかは、誰にも決め手がないもの。

 それでも、どんな理由があるにせよ、わが子を親を殺せるものなのか。躾と言うのは、親である自分が、思慮分別のできる人間であること。何が正しいかを見極められること。他人の忠告を聴くことも大切なこと。紆余屈折がなくては、大人にはならぬ。

 ソロモンの偽証、やっと読み終える。この話は、あちこちであるかもしれないし、ないかもしれない。中学生の裁判など、誰も認めてくれないことだろう。果敢な勇気を誉めたいもの。他人に殺される人間は理不尽極まりないが、自分で命を断つのはどうか?

 孤独な心が、闇で揺れ彷徨う。止まることを知らずにか、また停止して動けないのか。生きている時には、傲慢であり豪語する者も、魂が離れれば宇宙に還る。其処では性別も、形も、心もない。あるとすれば、質量だけかもしれない。それもないかもだ。

 宇宙が混沌としていた頃、人類の形は無く、微生物の浮遊する世界では、どれが偉い等はなかった。目的も、意思もなかった。では、何かがあったのか?自分と言う、存在自体がわからなければ、或いは存在も定かではなくなるだろう。意志と体と機能。

 人間の体っていうのは、実によく出来ている。と思うのだ。その働きがどう作用するかで、幾通りもの人間模様ができるのだ。百人居れば百色の模様。織り上げる錦は違っていても、この世に存在することは同じ。星の輝きも似て、奏でる旋律も異なるのだ。

 そろそろキリ番が近い。明日は、孫の誕生日会で、恒例の集まりをする。春、真っ盛りには中学生になる。この孫等が大人になる頃には、原発や暮らしはどうなっているのだろう。福島第一原発の5.6号は廃炉に決定。平和である世の中を、切に願うのみ。

 パソコンの部屋に置いてある、観葉植物だが、居心地がいいのか、どんどん育っていく。あんまり構わないのがいい?

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