百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

横吹赤地蔵

2007-12-30 17:30:53 | Weblog

 12月30日  (日) 
                          平成17年1月1日より 1,094日目
                                      歩いた歩数       その距離
                          本日         14,154歩           9,908m
                          総計   15,297,820歩  10,708,474m
                 北京より石家荘・洛陽.・西安を経て蘭州に向かう。後165,676m

            

   私のウォーキングの主なコースは3ルートで、そのAコースの中に綱切橋がある。その袂、東岸が「横吹」で其処に「赤地蔵」がある。信仰心の薄い私は地蔵を横目に通り過ぎるのが常だが、今日、私の前を行く老人が地蔵堂に入ったので私も足を止めた。

 老人は蝋燭を何本か立て、何かぶつぶつと読経して立ち去った。私は道路に立って地蔵堂の全景写真を撮った後、中に入った。今まで気づかなかったが、最近掲げられたと思われる「横吹赤地蔵由来」が目に入った。読むほどに全く知らなかった赤地蔵の由来に衝撃を受けたので此処に記載する。

            

                    横吹赤地蔵尊由来

古来よりの言い伝えによれば今の横吹地籍に人馬の往来ができる道が開かれたのは凡そ百年ほどまえのころで寛文のころ飯山城主松平遠江守の時代といわれる。

 そのころは天狗岩のあたりを畦道ほどの狭い所を蔓や木の根にすがりながらかろうじて通行していたために一度足を踏みはずせば千仞の谷底、怒涛逆巻く千曲川、加えて夜ともなれば物盗り追剥の類が現れて物品を強奪し、時には千曲川に突き落とすなど実に物騒な難所であった。

 享保六年(一七二一)安田村湯本与左衛門は交通の安全と命を落とした多くの人びとの霊を慰めるために地蔵菩薩をこの地に建立した。向かって右より三番目がこれで蓮華台に「享保六午歳安田村住人湯本与左衛門」と銘がある。

 その後安永六年(一七七〇)正月十二日にはいわゆる木島騒動(安永の騒動)が起きた。その直接の原因は安永五年の年貢を六年一月十五日までに完納するよう命じられ領民は一応請書を出したが、この時期は雪中でとうてい無理であるから三月まで期日を延ばして欲しい嘆願した。

 しかし中野代官所代官臼井吉之丞から強く断られたことによるものである。そのことだけではなかった。その数年前明和八年から年貢米は江戸まで運ぶべしと厳しい命令が出されていたのである。これも奥信濃の農民にとって死活の問題であった。これらの不平不満が積もって爆発したのが木島騒動である。

 正月十二日朝木島沖へ集まった農民は中野陣屋へ押しかけ、年貢の引き下げ、納期の差延を訴え既に年貢を取り立て納入しようとする村々名主宅を襲って打ちこわしの挙にでたのである。そして頭目と目指されたのが上新田村年番組頭藤助と野坂田村東組冶部為衛門の二人で、二人ともに横吹地蔵で獄門さらし首の刑に処せられた。その他にも当村の何人かが島流しや所払いの重刑にあった。これらの人々は幕府代官の過酷な重税から農民の暮らしを守ろうとして犠牲になった人たちなのである。

 後年地元の農民が相諮り二人の霊を慰めその義心に感謝するため二体の地蔵尊を建立した。現在の赤地蔵尊がこれである。交通安全の護りとしてまた人々の難儀を救ってくださる霊験あらたかな地蔵尊として二百有余年近隣の人々の信仰を集めているのである。

  


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2 コメント

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改めて お地蔵様 (モッポさん)
2007-12-30 20:55:58
昭和49年から安田で稲を作っていて地蔵尊のまえは毎年何回も通っていましたがトラックのため横目で眺めていました。これほどの大事件が木島村にあったとは勿論知りませんでした。午後さっそく出かけて「由来」を何回も読み返してきました。
今年一年ブログにお邪魔して本当にいろいろ勉強させていただきました。ありがとうございました。
どうか良いお年をお迎えください。
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モッボさんへ (highmaster)
2007-12-31 17:50:12
 いつも私のブログに訪ねて下さって有難うございます。

 そして見て下さるだけでなく、確認のために足を運ん出まで熱心に観察されていることに感謝すると共に敬意を表します。

 来年もよろしく!
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