多摩丘陵から四季便り

オリンパスのEM1に12-40mmF2.8を付けて撮っています。四季の折々の風景をお届けします。

インドネシア語(2)

2005-05-12 19:41:22 | Weblog
昨晩NHKテレビのインドネシア語講座を見ていました。バリ島でのマサージ場面をやっていました。 Sakit Di Mana?(どこが痛いですか)、 Kaki Saya Sakit(私は足が痛い)等とやっていました。

私もインドネシアでゴルフの後、よくマッサージに行きました。手術台のようなところにうつ伏せに寝て、マサージをしてもらいますが気持ちがよく、時々寝てしまいます。

さてネシア語では Sakit(サキット)は痛い、Ruma(ルマ)は部屋。Ruma Sakit(ルマ・サキット)は病院となります。Gigi(ギギ)は歯です。Gigi Sakit(ギギ・サキット)で歯医者となります。

なんだか簡単でしょ。Air(アイル)は水、目はMata(マタ)で涙はAir Mata(アイル・マタ)です。つまり目の水が涙という事で妙に納得しました。

ところでこの写真はネシア後とは全く関係ありません。家内が植えなおしたダリヤです。因みにネシア語で花はBunga(ブンガ)。バリのホテルなどで水の中に浸けた花を見た事があります。花は邪気を遠ざける信じられているようです。


私の家は山の向こう(我的家在山的郡一邊)

2005-05-11 21:32:20 | Weblog
これは最近発行された有田芳生という人の書いた”テレサテン十年の真実”と謳った本です。私は美空ひばり、都はるみ、それにテレサテンのフアンなので、インターネットで知って即座にネットショップで購入。

というのも私が香港に駐在していた1980-1985年頃香港でとても人気がありました。当時香港で1番のホテルはマンダリンホテルでしたが、その次に有名だったのが九龍半島のハーバービューに面したところに建ったシャングリラホテルでした。

シャングリラホテルを建てたのは当時東南アジアの砂糖王と言われた中国系マレーシア人のロバートコック氏でした。テレサテンは当時息子のボーコックと恋仲でした。私は特に彼女の”雨の空港”という歌が大好きです。彼女は幼い時から歌が上手で”台湾の美空ひばり”といわれ中国の人達にも大人気であったが、台湾と中国との狭間でいろいろ悩まれたとか。

最後はタイのチェンマイで15歳年下のステハン・ピエールというフランス人が外出中にホテルで亡くなりました。その本によればテレサと恋仲だったボー・コックはシャングリラホテルで銀座のホステスだった女性と結婚。ボー・コックも彼女の死後タイの女性をバイクに乗せ走っているのが目撃されたとか。

テレサテンも美空ひばりも同じ運命(個人的には幸せでなかった)を辿ったようです。歌の名声を得て、幸せかと思いましたが、悲劇的な死を迎えたようです。この本は彼女のスパイ説、本当の死因、中国政府の思惑、天安門事件の繋がりと闇の世界に読者を導いてくれます。テレサフアンの私としては見逃せない一冊です。読後の感想は後日書きます。

テレサテン(中国名テン・リー・チュン)永遠なれ!

ベトナムの女性

2005-05-10 21:15:13 | Weblog
今日は10年有効のパスポートが出来たので引き取りに都内に出かけました。帰りの電車の中でほほえましい光景にでくわしました。赤ちゃん連れのお母さんが電車に乗ってきました。すると隣に座っていた女性(おせいじにもにも美人とは言えないが、失礼)が赤ちゃんを見て、たどたどしい日本語で赤ちゃんに話しかけ、その手を握りました。そうすると赤ちゃんもうれしそうに手を握って離しません。

暫く赤ちゃんの手を握っていましたが、赤ちゃんとお母さんは電車を降りました。私が英語で”貴方はベトナム人ですか?どこから来ましたか?私は数回べトナムに行きました”等話すと、たどたどしい日本語で、今日本で日本語を勉強していると。我々日本人が失ったその素朴さ、親切、思いやりを感じさせてくれました。やはり貧しいと人の心は暖かいのかと、今の日本の飽食さとの対比を考えてしまいました。彼女といろいろ話していましたが、駅が近ずき降りていきました。

この歳で外人に話しかけるのは一寸ためらいがありましたが、今日はなんか気分的にすっきりしています。やさしい心根の少女に会ったからです。

楽しいインドネシア語

2005-05-09 19:19:03 | Weblog
私はインドネシアにかってすんだ事があるので、時々ネシア語のおさらいをしています。数年前家内とバリ島に行った時は現地の人と簡単な会話を愉しみました。海外旅行の楽しみは現地の人との交流もあります。ネシア語は難しくありません。

例えば: 人はorang(オラン)、森はhutan(ウータン)、だからオランウータンは森の人という意味です。米はnashi(ナシ)、魚はikan(イカン)、お菓子はkue(クエ)。『人はおらん、飯は無し、魚はいかん、菓子は食え』といった感じです。散歩はジャランジャラン、だいたいはキラキラ、どういたしましてはサマサマ、わりかんはバギバギといった具合です。

ネシアはキラキラの国で、大雑把な人がおおく、きっちりしていないと我慢できない人にはストレスを感じる国ですが、私のように超いい加減な男には似合っているようです。街でネシア人に会ったら話しかけようと思っています。

親戚の来宅

2005-05-09 17:40:29 | Weblog
先週の金曜日家内の姉(71歳でまだ働いている元気はおばさんです)が関西より来ました。久しぶりに関西弁でにぎやかな事。私は通夜に行きましたが、二人で新橋演舞場で行われている舟木一夫ショーに出かけました。元々私は舟木一夫のフアンで、たまたま家内が応募した招待券が当たり私が行く予定でしたが、予定変更で姉に行って貰いました。

コンサートは中年のおばさん、おじさんで一杯だったとか。家内によれば望遠鏡で覗いた舟木一夫の顔も年齢を感じさせたと言っていましたが、姉にはいい思い出だったようです。

昨日は家内と姉で浅草に行きました。一人暮らしをしている娘も現地合流し、女性陣、3人で愉しんだ由。晩は浅草名物の鉢からはみ出るほどの海老のてんぷらの乗っかった天丼を食したようでこれも満足だったようです。

今日は帰るので、新横浜の駅まで見送っていきました。5月末には愛知の万博に行こうと約束しました。この秋には東南アジアに旅行しようと言ってましたが、やはり関西のおばちゃんは元気でんな。見習わないといけないと思いました。

健康の有難さ

2005-05-08 19:12:46 | Weblog
私の友人の通夜に行って参りました。死因は大静脈瑠破裂でした。どうもこの病気は血管の中にコレステロールが溜まり、血管の流れを悪くさし、何かの原因で圧迫されると、血管が破裂し、死に及ぶというものです。

物の本によれば肥満、ストレス、酒、タバコがよくないらしいです。世の男性諸君気ををつけてください。葬式は立派なものでしたが、やはり死んで花見が泣くものかという言葉を思い出しました。生きて、生きて、生き抜く。そのためには普段からの健康管理が大事と痛感しました。

大静脈瑠破裂でなくなった人に石原裕次郎さんが居ます。やはり酒の無茶のみはいけないようです。焼香を上げたとき香港での思い出過ぎりましたが、その人がもういないとはいまだに考えられません。合掌。

訃報(2)

2005-05-07 11:12:55 | Weblog
昨日戦友が亡くなったので、香港駐在時親しかった香港の友人に訃報の件を連絡しました。お悔やみとか告別式とか普段使わない英語が出てくるので、辞書と首っ丈でメールを作成しました。

今朝その人から返信のメールが入っていました。旧友(ラオ・ポン・ユー)の突然の死にビックリする一方、お互い健康に注意しましょうと書いてありました。香港駐在時は3人で食事をしたり、
夜総会(広東語でヤッチェンムイといい、ナイトクラブの事です)に行ったり思い出は尽きません。

今日の夕方通夜があるので、参加しますが、その人のメールを奥様に渡そうと思います。
運命とは言いながら切ないですね。悔いの無い人生を送りたいものです。

訃報

2005-05-06 16:03:13 | Weblog
今日家内と朝食を取っていると電話がけたたましく鳴りました。何かと思って電話を取ってみると、何と私の香港駐在時代の前任者で62歳の人が急遽亡くなったとの連絡であった。

その人とは香港駐在以前から一緒に仕事をしていた。彼は酒とタバコが大好きで、所謂仕事人間です。香港に2度駐在、その後シンガポールに5年駐在。豪快な性格でした。これから人生を愉しむという時期になんということか。残された奥さんのことを暫く考えた。

人間の運命なんてわからないものですね。あの元気な人がとこんなに早く亡くなるとは信じられません。明日は通夜に出席しますが、奥さんにかける言葉もありません。

私は酒もタバコもやりませんが、どうなる事でしょう。これからの人生、健康に留意しストレスをためずに生活していきたいと思っています。

インドネシア語

2005-05-05 17:25:20 | Weblog
私はインドネシアに1998.10-2001.3まで約2年半住んでいました。場所は首都のジャカルタでした。
当時経済危機に襲われた後で、街ではデモがあるし、お乞食さんは多いし、とても危険な状態でした。ところが私は生まれつきいい加減で、のんきな性格で、あまり深く考えずに生活しました。
当時は単身生活で、会社が一軒家を借りてました。見かけはご立派ですが、安普請な建てかたで苦労しました。通常インドネシアでは女中さんを雇いますが、結構トラブルが多いいので私は男中さんを雇いました。掃除、洗濯、車の運転で一月約1万円の給料です。兎に角現地の人の給料は安い。ビックリしました。

所で生活をエンジョイするため現地の言葉を勉強する事にしました。私は学校に行かず、見よう見まねで覚えました。簡単なネシア語を書きます。


    魚はIKAN(イカン)
    米はNASHI(ナシ)
    お菓子はKUE(クエ)
    散歩はJYARAN JYARAN(ジャランジャラン)
    大体はKIRA KIRA(キラキラ)といった具合で大体同じ言葉を繰り返せばいい訳です。

不思議なもので英語のように学校で勉強しなくても、日常会話ができるようになりました。
それからというもの、店屋で値段を値切ったり、冗談を言ったり、車の運転手と話をしたりと
今までの生活が一変して楽しくなりました。やはり現地の言葉を話せると生活自体が活気ずきます。ゴルフ場でもキャディー(女性)のネシア語で話したりと、現地の生活をエンジョイできました。

現地の人は生活は貧しいのですが、それを物ともせず、苦しいながらに生きて行っており、彼らから学ぶものは多かったと思います。 という事で最近ネシア語も勉強しだしました。
今日はNHKテレビの3ちゃんの午後11時55分から5分間、アジア語学記行という番組があります。
バリ島の様子を写しながらのネシア語の勉強です。興味のある方はどうぞ。




今日は

2005-05-04 20:03:57 | Weblog
今日は晴天です。昨日娘も帰りって、普段の生活に戻りました。久しぶりに4人集まり、和やかな一時が過ごせました。昨日は娘が都内の自分の住まい(マンション)に帰るので、駅まで送っていきました。別れ際、駅の改札の前で娘が殊勝な事を言うので、有難いやら、大人になったやらといろいろ考えてしまいました。

息子も子供の頃は甘えん坊でしたが、立派に(我ながら私に似ずに良かったと思いました)一人暮らしをしてくれています。普段は電話の一つもよこしませんが、no news is good news(便りが無いのは無事な証拠)を地で行っています。

私の両親も、家内の両親も亡くなってしまいました。20年ぐらい前には、自分が子供を連れて親に愛に来ましたが、もう少し優しい言葉を掛けておけばと反省しています。今頃になって親の気持ちが判る此の頃ではあります。