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名馬列伝 2:斬れすぎた刀

2004年09月19日 | スポーツ
日曜日のテーマは『スポーツ』近ごろは『競馬』をお送りしています。

というわけで今回紹介する名馬は「サイレンススズカ」です。

一般的には“音速の貴公子”と聞いて第一に思い出すのは、アイルトン・セナでしょう。
しかし競馬界で“音速の貴公子”は誰かといえば、おそらく大半の方が「サイレンススズカ」の名を挙げるのではないでしょうか。

まだ競馬ファン歴10年そこそこの僕ですが、「サイレンススズカ」ほど鮮烈な印象を受けた馬は他にいません。
段違いの、ケタはずれのスピード。持って生まれた才能の違いを見せつけるような、圧倒的な強さ。そして、あまりにも早すぎる、劇的すぎる死・・・。

3歳(当時4歳)の彼は、“貴公子”の名にそぐわない暴れん坊でした。素質はダントツと言われながら、レースでは出遅れやゲートからの脱走、指示を無視した暴走と、おぼっちゃまさながらのワガママぶり。
その気性や、某レースでまたがった某ジョッキーがかました、「圧倒的に大差が付いたから油断して手綱を緩めたら、後方から来たマチカネフクキタルに抜かれちゃった事件」など、イロモノ視されていた面もあります。

しかし明けて4歳になり、天才武豊とめぐり会った彼は生まれ変わりました。
眠っていた素質を開花させた、などというありきたりの表現では追いつかないような、まるで次元の違う実力を見せました。
段違いのスピードに身をまかせ、とにかく逃げに逃げ、ペースを他の誰も追走できない早さにつりあげ、そのまま大差を保ったまま、いやそれどころか更に差を広げ、しかも余裕で勝ってしまう・・・。
化け物じみた強さで連勝を重ね、ついにはG1宝塚記念まで逃げ切ってしまいました。

圧巻だったのは、秋の毎日王冠。
1歳下の“怪物”と呼ばれた「グラスワンダー」・「エルコンドルパサー」を相手に迎え、サイレンススズカの調教師、橋田満氏は記者に「サイレンスズカは勝てますか?」と問われ、こう答えました。
「面白いレースを見せますから、ぜひ見に来てください」
年下の“怪物”など、貴公子の眼中にもなかったのです。
レースは、後の凱旋門賞準優勝馬と年度代表馬に影をも踏ませぬ余裕の逃走劇。サイレンススズカは2頭の“怪物”を、まさに子供扱いして見せました。

そして、6連勝で臨んだ秋の天皇賞。圧倒的な一番人気に推され、ファンの関心は勝敗よりも「何馬身差で勝つのか」に移っていました。
スタート直後から飛ばしに飛ばし、かつて誰も逃げ切ったことのない超ハイペースになります。
はたしてこんな殺人ペースでも勝ってしまうのか? またひとつ常識を打ち破ってしまうのか?
少しの不安と大きな期待に輝く目に見守られ、そして迎えた最終コーナー。悲劇はそこで起こりました。
突如としてスピードを落とし、ふらふらと歩みを止め、不自然に曲がった脚でくずおれるサイレンススズカ。
左手根骨粉砕骨折 予後不良。
歓声で包まれるはずだった場内は、悲鳴で満たされました。
その規格外のスピードさながらに、早すぎる死が訪れたのです。

のちに武豊は回想します。「サイレンススズカは、まるで僕を落とすまいとかばうように、折れた脚でふんばり、ゆっくりと倒れていった」と。

サイレンススズカほど、誰からも強さを愛され畏怖された、そしてその死を惜しまれた馬は他にいないのではないでしょうか?
まだ海外競馬があまりにも遠かった当時。“世界”を感じさせてくれる名馬だったサイレンススズカ。
もしもあの時、死神の手からも逃げ切って快勝し、翌年には世界を舞台に戦っていたら・・・。
彼の名を思い出すたび、そんな空想を描いてしまいます。

サイレンススズカの父、日本競馬史上最高の名種牡馬といわれるサンデーサイレンスは数え切れないほどの名馬を輩出しています。しかし、サイレンススズカと同年に産まれた駒たちはいずれも小粒で、「不作の年」とまで呼ばれていました。
ひょっとすると、本来均等に振り分けられるはずだったサンデー産駆としての素質が、その年だけはすべてサイレンススズカ一頭に集中し、凝縮したのではないか。そんな妄想を当時の僕は抱いたものです。

「サイレンスズカのスピードは、サラブレッドには耐えられない、本来持ち得てはならない物だったのではないか」そんなことを語る人が多くいました。
斬れすぎる刀は、収める鞘すらも両断し、自らを滅ぼしてしまう。
サイレンススズカはそんなことを思わせる、稀代の名馬でした。