ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

ユア・マイ・サンシャイン

2008年02月10日 | 映画レビュー
 売春婦だったウナはHIVキャリアなのに、そうと知っていても彼女に純愛を捧げ尽くす愚直な男ソクチュン。まさに愚か者への一途な愛を描いたベタベタベタな映画。しかしあまりのベタさとあまりの純愛に突き抜けているので感動してしまう。彼女が売春しようと自分を嫌おうとそんなことはものかは、とにかく愛して愛して愛し抜く、その愛の力はどから湧いて出るのだろう? ウナの愚かさゆえにソクチュンは彼女を愛するのかもしれない。ウナの愚かな行いと改悛の深さにソクチュンは彼女を深く愛するのだろう。こんな映画に感動してしまうわたしもどうかしている。でも実話だというから二度びっくり。(R-15) (レンタルDVD)

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韓国、2005年、上映時間 122分
監督・脚本: パク・チンピョ、音楽: パン・ジュンソク
出演: チョン・ドヨン、ファン・ジョンミン、ナ・ムニ、ソ・ジュヒ、ユン・ジェムン、リュ・スンス

アメリカン・ギャングスター

2008年02月09日 | 映画レビュー
 1970年代、麻薬密売で闇の世界をのし上がった黒人ヤクザとニューヨーク市警の麻薬捜査官の汚職、そして彼らを追う正義の捜査官、という三つどもえを描いた、実話に基づくサスペンス。リドリー・スコットの演出はさすがの手練れ。 

 導入部で若干話が見えづらい部分があって、映画を見慣れていない人はここで脱落しそう。しかし、その後はどんどん面白くなる一方であり、終わってみればなんと、2時間半を超えていたことなど忘れてしまう面白さ。満足度十分のエンタメ作品でした。麻薬密売で巨利を得る黒人マフィアのドンと彼を追う捜査官の物語という、善悪のはっきりしたわかりやすいストーリーだけれど、リドリー・スコットは省略法を多用してかつスピーディな編集によって大人の鑑賞に耐える重厚な雰囲気のある作品に仕上げた。

 ヤクザの親分=デンゼル・ワシントン、警官=ラッセル・クロウという二大スターの激突が見せ場だが、実はこの二人の物語は交錯することがなく並行して語られていく。スター達が火花を散らすシーンは物語の終わりになってやっと実現するのだ。

 さて、上で「善悪のはっきりしたわかりやすいストーリー」と書いたが、実は個々人のキャラクターを見れば、それほど善悪は判然としていない。麻薬を売る悪人デンゼル・ワシントン=フランク・ルーカスは、貧しい生まれ育ちで、6歳から貧困の辛酸をなめている。麻薬で成功した後には貧民街ハーレムの住民たちに施しをする「善い人」なのだ。彼はこのやりかたを尊敬する親分から学んだ。決して派手な生活を好まず、目立たないように端正な服装でいつも上品なたたずまいを崩さない。しかし、やるときはやる、冷酷な殺人者だ。

 一方、正義の味方、賄賂が通じない警官ラッセル・クロウ=リッチー・ロバーツは、仕事一筋で家庭の重荷を妻一人に背負わせ、おまけに女関係が乱れて離婚訴訟を起こされている、という輩。スターが演じているというだけではなく、この主役二人のキャラクターが際立っていて、映画の大いなる牽引力になる。

そもそもフランクが捜査線上に上らなかった理由は、彼が目立つことを恐れて質素に暮らしていたからなのだ。とはいえ、じつは豪邸に暮らして田舎から母親ほか一族を呼び寄せてはいたのだが。フランクは、仲買人を通さずに産地直送でヘロインを輸入し、高品質な商品を市価の半額で売るというディスカウントショップばりの商売で成り上がってきた。彼は麻薬密売でなくても商才ある実業家となるべき人物だったのだ。その「産地直送」についても東南アジアの危険な麻薬栽培地域に自ら赴くだけの度胸ある人物だったし、遠縁に米軍関係者がいたという幸運もあって、ベトナム戦争中の米軍機を麻薬密売輸送機にしたてていたのだ。

 このように見てくると、既にマフィアの麻薬密売ルートができあがっているところに新規参入する知恵と勇気のある黒人がフランクであり、彼はその意味では新しい時代のヒーローだ。しかし、そのやりかたが相変わらずの親類縁者を使う同族経営であったところがまた商売の綻びの原因でもあった。要するに、麻薬密売の世界も近代化の道へと歩まざるをえないということである。しかも、彼はベトナム戦争という奇貨を得て商売を伸ばした人間であり、その意味でも死の商人であった。

 折しも今、アメリカ大統領選挙が行われていて、民主党の黒人候補がものすごい人気を得ていることを思えば、この映画で描かれた被差別エスニック(黒人、ユダヤ人、イタリア系)がアメリカの表舞台を牛耳る時そう遠くはないと思われる。もはや70年代ではないのだ。もう、黒人であるというだけでは弱者でもマイナーエスニックでもない時代が目前にきている。


 で、何よりも最後が面白い。この映画は実在の人物たちをモデルに、当のモデルの承諾を得て作られた作品だ。そういう意味では、ラストに流れるテロップは最高の皮肉とジョークかもしれない。いや、和解と協力か。あるいは改悛と庇護か。


 ヘロインで儲けた悪い男なのにデンゼル・ワシントンがかっこよくて魅力的で困ってしまう映画だった。(R-15)

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AMERICAN GANGSTER
アメリカ、2007年、上映時間 157分
監督: リドリー・スコット
製作: ブライアン・グレイザー、リドリー・スコット、製作総指揮: スティーヴン・ザイリアンほか、脚本: スティーヴン・ザイリアン、音楽: マルク・ストライテンフェルト
出演: デンゼル・ワシントン、ラッセル・クロウ、キウェテル・イジョフォー、キューバ・グッディング・Jr、ジョシュ・ブローリン、テッド・レヴィン、アーマンド・アサンテ

黒い罠

2008年02月09日 | 映画レビュー
 アルトマン監督の「ザ・プレイヤー」でその長回しが素晴らしいと言及された作品なのでつい興味を持って見たけれど、確かに冒頭の長回しは奥行きも高さもあるスケールの大きなワンカットで感心したがあとはちっとも面白くない。なんにもハラハラもドキドキもしない警察アクションもの。1時間ぐらい見たところで寝てしまったからラストは知りません。

 面白くないとはいえ、物語の舞台がアメリカとメキシコの国境を往還しつつ展開するところは興味深く、ボーダレス時代の今となってはいろいろ考えさせられる材料にはなる。しかし、「混血」とか「こちらと向こう」といった「内在する他者」という隠れテーマが作品の中で深められる気配は感じられず、人物の造形にも深みがなく、単調なサスペンスなのでとにかく退屈してしまった。(レンタルDVD)

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TOUCH OF EVIL
アメリカ、1958年、上映時間 93分
監督・脚本: オーソン・ウェルズ、製作: アルバート・ザグスミス、原作: ホイット・マスターソン、音楽: ヘンリー・マンシーニ、ジョセフ・ガーシェンソン
出演: オーソン・ウェルズ、チャールトン・ヘストン、ジャネット・リー、ジョセフ・カレイア、エイキム・タミロフ、マレーネ・ディートリッヒ

ザ・プレイヤー

2008年02月09日 | 映画レビュー
 十数年ぶりで再鑑賞。初めて見たときもビデオだったが、今回も自宅でDVD。

 初めて見たときは、「映画史に残る長回し」と言われている巻頭8分のワンカットに全然気づかなかった。その当時、わたしは映画の技術的な面にはほとんど関心がなく、カメラアングルにもそれほど敏感でなかったから、これが8分間のワンカットであることに気づかなかったのだ。今見直してみて、このシーンをワンカットで撮らないといけない必然性はまったく感じない。だからこそ、かつて長回しに気づかなかったのかもしれない。けれど、見終わった後のなんともいえない皮肉な爽快感がたまらなく好きで、これはお気に入りの一作だった。

 巻頭の長回しに関していえば、カメラは室内から室外へと出て行き、登場人物も入れ替わり立ち替わり代わるから、撮影はかなり入念な打ち合わせが必要で、大変だったと思う。そういう点では、計算の行き届いたシーンだと感嘆するけれど、なんで長回しなのかやっぱりよくわからない。そのシーンの間には、オーソン・ウェルズの「黒い罠」の長回しが素晴らしいだのヒチコックの「ロープ」は全編ワンカットだのといった話題がオンパレードで出てくる。そうか、これは自己言及映画なんだね。このシーンでまず観客への宣言が入るわけです、これは過去の作品へのオマージュであり、映画製作そのものへの皮肉を込めた、映画システムへの自己言及ものであると。

 主人がハリウッド大手製作会社のプロデューサーで、スターたちがきら星のごとくカメオ出演しまくるから、映画ファンにはたまらない作品。ハリウッドシステムへの批判的眼差しもアルトマンの自虐ネタなのかはたまた鬱憤晴らしなのか、強烈に皮肉が効いていて面白い。本作のラストシーンこそは、とにかくハッピーエンドにしないと気が済まないハリウッドのプロデューサーたちへの強烈なパンチ。これはいったいハッピーエンドなのか違うのか? 観客をニヤリとさせる宙づりの終わり方は憎いねぇ。 

 随所に挿入される窓越しのシーンはサスペンスの雰囲気を盛り上げるのにぴったりだ。観客自身も覗きのスリルを味わえる。(レンタルDVD)


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THE PLAYER
アメリカ、1992年、上映時間 124分
監督: ロバート・アルトマン、製作: デヴィッド・ブラウンほか、脚本: マイケル・トルキン、音楽: トーマス・ニューマン
出演: ティム・ロビンス、グレタ・スカッキ、フレッド・ウォード、ウーピー・ゴールドバーグ、ピーター・ギャラガー、ブライオン・ジェームズ、シドニー・ポラック
カメオ出演: ジュリア・ロバーツ、ブルース・ウィリス、バート・レイノルズ、アンジェリカ・ヒューストン、ジョン・キューザック、ジャック・レモン、アンディ・マクダウェル、シェール、ピーター・フォーク、スーザン・サランドン、ジル・セント・ジョン、
リリー・トムリン、ジョン・アンダーソン、ミミ・ロジャース、ジョエル・グレイ、ハリー・ベラフォンテ、ゲイリー・ビューシイ、ジェームズ・コバーン、ルイーズ・フレッチャー、スコット・グレン、ジェフ・ゴールドブラム、エリオット・グールド、サリー・カークランド、マーリー・マトリン、マルコム・マクダウェル、ニック・ノルティ、ロッド・スタイガー、パトリック・スウェイジ

ヒトラーの贋札

2008年02月08日 | 映画レビュー
 見応え十分な作品と感じたのだが、見終わってどことなく不満も残る。戦後のユダヤ人たちの生き様をもう少し追ってみればどうだろう? 彼らはナチ協力者として告発されなかったのか? 朝鮮人BC級戦犯のことを思えば、収容所のユダヤ人達のナチスへの協力はどのように断罪されたのか、あるいは道義的責任を問われたのか、興味が湧く。
 

 ナチスの紙幣贋造計画=ベルンハルト作戦は終戦間近の1944年に開始された(映画ではそのように思えたが、原作本によれば贋造はもっと早くから始められていた)。ポンド紙幣を贋造することによってイギリス経済を混乱に陥れ、さらにドル札の贋造によりアメリカ経済を混乱のるつぼにたたき落とす。そのための秘密工場はドイツ国内ザクセンハウゼン強制収容所の中に造られ、担当したのはユダヤ人印刷技術者たちだった。強制収容所で死を待つしかなかったユダヤ人印刷工たちはいきなり「好待遇」の施設へと移送され、柔らかなベッド、新しいシーツにくるまって眠ることが許され、囚人服ではなく背広の着用(といってもそれはユダヤ人たちから剥ぎ取った古着なのだ)を許される。シャバでは犯罪者だった贋札作りの名人サロモンもここでは責任者として優遇されている。ロシア系ユダヤ人のサロモン(愛称サリー)は絵の才能があり、その才能を活かして収容所の中でナチスの将校の肖像画を描いて生き延びていた男だ。

 サリーの関心事はもちろん<生きていること>。生きて終戦を迎えることだ。収容所の中のユダヤ人たちの望みはそれしかなかったことだろう。もはや死を目前にしたユダヤ人たちは「ムスリム」と呼ばれる無気力状態で人間の尊厳が奪われていたが、ベルンハルト作戦に従事させられたユダヤ人技術者たちは収容所の中の特権階級とも言える状態に置かれた。

 ナチスの作戦に協力するユダヤ人たちの中には反目が生まれる。ナチスへの協力は終戦を遅らせ同胞達への裏切りになると言いつのってサボタージュを決め込む若いブルガーがいるかと思えば、「正義のためになんか死ねるか」とブルガーに詰め寄る男たちもいる。偽ドル札の製造が遅れていることにしびれを切らせたナチの責任者ヘルツォークは、期限までにドルが贋造できなければ見せしめに5人を処刑すると宣告した。その期限までもう時間がない……!


 さて、ここでちょっと原作本について言及したい。原作は映画の主人公サリーではなく若い社会主義者ブルガーの著作による。ところが、原作を読んでわかることは、原作者ブルガーが社会主義者ではなく、単に収容所を出たい一心でいろんな工作を労した一人のユダヤ人であることだ。

 原作本はブルガー本人が直接体験したこと以外の出来事も細かく描かれていて、ベルンハルト作戦の行(くだり)に来るまでに160ページ以上が費やされている。で、ここまで読んで気づいたのだが、原作本は映画の原作というよりは原案であり、映画にとっては参考書程度の扱いしかなかったのではないか。ブルガーの人物像も本人の手記と映画ではずいぶん違うし、何より映画はサリーを主役に据えたことでドラマ的な膨らみを生んだ。せっかくの画家の才能を芸術方面には活かさず、「絵を描くより儲かるから」という理由で偽札作りに励んでいる犯罪者サリー、だが彼は自分の身が危ない収容所の中でも最後は仲間を守ることを決意したし、終戦直後の虚無的な行動にも惹かれるものを感じる。

 一方、映画の中では正義の人ブルガーはその正義感を発揮して収容所仲間の命を危うくする。ここでは何が正義か不正義かが判然としないのだ。冷酷なナチスの贋造担当将校にしたところで、意外とリベラルな面を見せたり、戦争さえなければふつうの優しい家庭人だったであろうに、と思わせる。

 というわけで、原作はこの事件に関連した様々な事実を押さえるにはいい参考書となるし、写真や図表が豊富に挿入されていて興味深い。また、ビルケナウ収容所からの脱走者の描写は手に汗握るたいへん面白い読み物になっている。ただし、著者ブルガーがいちいち出典を明記していないため、たとえばガス室に送られた囚人たちの最後の姿なんてどうやって知りえたのか? という疑問が残る(巻末に参考文献一覧の表記はある)。彼の直接の体験と調査による事実の掘り起こしとの区別がつかないのだ。提示されている資料も出典が明らかでないものが多く、史料的価値には疑問符が付くのが惜しい。

 とはいえ、映画に詳しく描かれなかったエピソードのうち、原作が取上げていて興味深かったのは、工房内でたびたび開かれた演芸会の模様だ。これまた強制収用所の中でそのようなものが開かれていたというのが驚きだが、囚人と親衛隊員たちが一緒になって笑い楽しんだというから二度驚く。さらに、偽札作りに携わった囚人たちの芸達者ぶりに三度驚く。ユダヤ人は一芸に秀でている者が多いとは思っていたが、まさにその通りだ。そしてもう一つのエピソードは戦後になって行われた証拠品の引き揚げ作業。敗戦直前にベルンハルト作戦の責任者クリューガーは証拠となる書類や贋札、金、外貨などを大量にアルプス山中の湖に沈めた。1959年と1963年にその引き揚げ作業が行われ、さらに1990年代になって著者ブルガー立会いのもとでアメリカのBBC放送が引き揚げ作業を行った。元ナチスの妨害があったというその様子もまたスリリングだ。


 原作よりも映画のほうが遥かに秀逸な人間ドラマを描き上げた。原作は読まなくてもいいから映画はぜひご覧あれ。

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DIE FALSCHER
ドイツ/オーストリア、2007年、上映時間 96分
監督・脚本: ステファン・ルツォヴィツキー、製作: ヨゼフ・アイヒホルツァーほか、原作: アドルフ・ブルガー『ヒトラーの贋札 悪魔の工房』、音楽: マリウス・ルーランド
出演: カール・マルコヴィクス、アウグスト・ディール、デーヴィト・シュトリーゾフ、マリー・ボイマー、ドロレス・チャップリン

スウィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師

2008年02月03日 | 映画レビュー
 ひたすら暗くて救いようのないミュージカル。ミュージカルといってもセリフを歌に乗せているだけで、踊りのシーンはまったくない。ジョニー・デップの歌は予想よりもまともだったが、まあ、うまいとはお世辞にも言えない。

 血まみれドピューというのが苦手な人は避けたほうがいいでしょう。かくいうわたしも血しぶきものは苦手なんだけど、怖そうな場面は全部目をつぶっていたから大丈夫(^^;)。

 原作は19世紀の舞台劇。ブロードウェイでもミュージカルになったもので、1999年に映画化されている。ティム・バートンの本作は、ジョニー・デップという凄みのある暗い美男子を配して連続殺人鬼を演じさせ、凝ったカメラワークで映画的な退廃的美しさを醸し出す作品に仕立てた。19世紀ロンドンの暗い空、暗い町並みをオーソン・ウェルズ「市民ケーン」ばりのカメラワークで俯瞰していく、映画ファンの背筋をゾクゾクさせる魅惑的な場面をふんだんに生み出した。

 色彩のほとんどない映像、登場人物たちも死者のように顔色が悪く、鮮やかなのは血の色だけというおどろおどろしい映画で、恐怖心を募らせる不気味さはたっぷり。スウィーニー・トッドの銀の剃刀の輝きも不気味で怖い。

 ついこの前「ボラット」を見たばかりで再びサシャ・バロン・コーエンにお目にかかったが、ボラットとのときとはえらい違いで、この人、男前だということに気づいてしまいました。でも最初にスウィーニー・トッドに殺されるのが彼。

 無実の罪で終身刑に処せられたトッドは、岩窟王よろしくじっと復讐のときを待ち、15年後に脱獄してきたのであった。自分を嵌めたターピン判事に復讐するため。15年の間に残された妻は自殺、赤ん坊だった娘はターピン判事の養女となり、彼に監禁同然で育てられていたことを知ったトッドは、パイ屋の二階に理髪店を開業し、ターピン判事の来店を待つ…。復讐の鬼と化したトッドはいつしか連続殺人鬼となり、殺した人間の肉は階下のパイ屋の女主人ミセス・ラベットがひき肉にしてパイに混ぜて売る。恐るべき殺人共犯者たちは罪のない人たちを次々と残虐に殺していく…

 スウィーニー・トッドは実在の人物だとか、いいや都市伝説だとか諸説があるようだが、とにかく18世紀から19世紀にかけてのロンドンの暗さはこのような連続殺人鬼の登場も納得できるような陰鬱な雰囲気を人々に与えていたのだろう。産業革命が進んで近代化の波が都市の人々を不安に陥れる…

 当時の時代背景の波をもろにかぶったスウィーニー・トッドという人物を現代に蘇らせた意味はなんだろう? 復讐の空しさを描くところがまさに9.11以後の作品だ。ラストの悲しさと陰鬱さ、おどろおどろしさはティム・バートン独特の美学に彩られていて、印象に残る。とはいえ、わたしはやっぱりこういう血まみれものはあんまり好きじゃない(なら見るなって?)。(R-15)
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SWEENEY TODD: THE DEMON BARBER OF FLEET STREET
アメリカ、2007年、上映時間 117分
監督: ティム・バートン、製作: リチャード・D・ザナックほか、原作: スティーヴン・ソンドハイム、ヒュー・ウィーラー、脚本: ジョン・ローガン、撮影: ダリウス・ウォルスキー、作詞詞作曲: スティーヴン・ソンドハイム
出演: ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、アラン・リックマン、ティモシー・スポール、サシャ・バロン・コーエン、エド・サンダース

夜顔

2008年02月03日 | 映画レビュー
 またまたまたしても、してやられた! なに、このラスト! 99歳の老監督のほくそ笑みが目に浮かびそうな意地の悪いこのラスト。あっけにとられた。

 ルイス・ブニュエル「昼顔」へのオマージュ作であり続編だから、「昼顔」未見だとまったく面白くないので、十分な復習が必要。わたしは復習しなかったのでわからない部分があって存した気分。「昼顔」から40年近くたって偶然再会した当事者たちは、密室ディナーの場で過去の秘密について明かそうとするが…

 そもそも、「昼顔」のことはほとんど覚えていない。カトリーヌ・ドヌーブの人間離れした美しさと、幻想的で美しいラストシーンしか頭に残っていないのだ。ブルジョアジーの頽廃なんて、そんなもの今更。とか思っていたのだが、ブルジョアジーはやっぱりブルジョアジーであります。40年経って偶然再会した、かつての高級娼婦「昼顔」と、彼女の夫の親友は、相変わらず贅沢な暮らしをしているようで。「昼顔」セヴリーヌを偶然見つけて彼女の後を追うアンリ・ユッソンの追跡劇はけっこうはらはらさせる。ユッソンの役どころをすっかり忘れていたものだから、面白みが半減してしまったのは残念。

 ユッソンが親友の未亡人セヴィリーヌを見つけてから、逃げる彼女を捕まえるまでがけっこう長い。この間のやりとりがやきもきさせ、ユッソンがセヴリーヌを追って入ったバーでのバーテンダーとのやりとりがまた興味深い。神なき時代の「告解」の相手はバーテンダーなのかもしれない。

 そして、ようやくディナーまでたどり着いた老人二人の高級ホテルでの食事風景がまた緊張感に溢れている。過去の秘密を明かそうと約束したユッソンは、嫌に上機嫌で、一方の昼顔セヴリーヌは緊張の面持ち。給仕人たちを追い払って二人きりになった後、彼女は何度も言う。「わたしはかつてのわたしではないの。もう別人なのよ」と。しかし、ユッソンは嗤う。「あなたが敬虔な信者になったのですか? あなたが?」と。

 40年の時を経ても、かつてのイメージはぬぐいようもない。背徳の欲望に身をさらし、倒錯した愛の世界に歓びを得たセヴリーヌは、何年たってもユッソンにとっては「昼顔」なのだ。夫を愛し抜いていたセヴリーヌは、どんな情欲に身を浸しても自分の愛は真実だったと語る。

 そして、丁々発止の会話が止んだとき、そこに現れるものは…

 これほど人を食ったラストはありませぬ。いつでもこんなふうに終わらせるのがもしおしゃれだと思っているなら、それは大間違い。これは、あくまでもルイス・ブニュエルの「昼顔」をどう解釈するかという問題であり、その解答たる続編をオリヴェイラはこう作ったという希有な成功例だ。いや、失敗かも。だって、劇場を後にする観客たる老人たちは、満足していたかな?(ものの見事に観客は中高年以上でした) 

 それにしても、「家路」でも好感度が高かった老優ミシェル・ピコリ、「夜顔」でも小憎たらしいほど巧くて渋い。わたし好みのセクシーなお爺さんです。もともと「昼顔」の登場人物で、同じ役を演じている。バーテンダーを演じて印象に残ったハンサムな青年はオリヴェイラ監督の孫のリカルド・トレパ。カトリーヌ・ドヌーヴの代わりに彼女の40年後を演じたビュル・オジエもなかなか雰囲気が似ていてよかったです。でもまあ、この映画に金を出して見にいった観客を呆然とさせるラストにはちょっとどうかと思いましたよ、ホント。


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BELLE TOUJOURS
フランス/ポルトガル、2006年、70分
監督・脚本: マノエル・デ・オリヴェイラ、製作: セルジュ・ラルー
出演: ミシェル・ピコリ、ビュル・オジエ、リカルド・トレパ

家路

2008年02月03日 | 映画レビュー
 またしてもオリヴェイラにしてやられた!と思ったラストシーン。結末を宙づりにしつつ、観客を煙に巻くことをひょっとして歓びとしている?

 物語は、心の傷を癒しながら生きる老優の姿をユーモアをもまぶして描く。名優と謳われたジルベール・ヴァランスは既に年老いていたが、まだまだ現役の役者として舞台に映画に活躍していた。だがそんな彼のもとに悲報がもたらされる。妻と娘夫婦が事故で亡くなったのだ。遺された幼い孫を心の支えに、それでもジルベールは今日も舞台に立つ。ある日、アメリカ人監督がやってきて、病気で降板してしまった役者の代役をジルベールに依頼する。クランクインは3日後、しかも英語のセリフだ。難しい役だけれど、ジルベールならできるはずだった…

 冒頭、延々と舞台劇をそのまま映す。この映画には劇中劇がいくつもあって、それがけっこう長いものだから退屈してしまいそうになる。それに、「なんでこんなシーンが挟まってるの?」と不可解に思うような「無意味な場面」があるので、これまた退屈。ところがところが、この「無意味な場面」は無意味どころか、すべてに意味を持たせてあるのだ。最後まで見ればなるほどと納得する場面ばかり。同じシーンを繰り返すことによってもたらされるユーモアとペーソスの心憎いばかりの按配や、困難な役をオファーされた頑固な老優が懸命に演じるスリルある場面は、優れた演出の賜だ。

 最初のうち退屈だと思っていたこの物語にどんどんのめり込み、最後はほとんど手に汗握っているから不思議。そして「衝撃の」ラストシーン。年老いていくことの苦しさ惨めさが否応なく見る者の心に残る。


 メイキャップの場面が面白い。とても丁寧に撮られていて、メイク担当者の手際のよさがよくわかる。わたしみたいに化粧しない人間には化粧の場面は新鮮に見えるのだ。若作りの化粧を施されて最後は鬘をつけられたジルベールだが、これが全然似合わない。元のはげ頭のほうが似合っているし美しい。こういうことってあるのか! この場面にも、若作りする老優のどこか不機嫌で忸怩たる思いがそこはかとなく漂ってくる。

 特典映像に監督インタビューがあって、この映画の意図をオリヴェイラは「文明批判」だと述べている。しかし、そのような大仰な意図はこの映画から直接くみ取ることは難しい。それよりも、もっと身近な「老い」の辛さのほうがわたしの胸に迫る。ジルベールがオファーされた作品がジョイスの『ユリシーズ』であるというところも何か含蓄深いものを感じるし、何よりも、わたしが去年から読み始めて文庫本第2巻の途中でうっちゃったままになっている丸谷才一ほか訳『ユリシーズ』のことを思い出してぎっくとしてしまった。(レンタルDVD)


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JE RENTRE A LA MAISON
ポルトガル/フランス,
2001年、上映時間 90分
監督・脚本: マノエル・デ・オリヴェイラ、製作: パウロ・ブランコ
出演: ミシェル・ピコリ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジョン・マルコヴィッチ、アントワーヌ・シャピー、レオノール・シルヴェイラ