ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『映画の政治学』

2007年05月09日 | 読書
 (太字は本文からの引用)

《政治的で難解な監督として遇されてきたゴダールが、いまや知的でちょっとおしゃれな映画作家のようにもてはやされてしまう状況
 ……
 小川紳助の『三里塚』シリーズや土本典昭の『水俣病』シリーズを見たり論じたりすることさえも、高級な政治的趣味をもった人たちの「私的趣味」の世界と見られかねない
 …
 まちがいなく私たちはいま、映画を議論するための公的な空間自体を喪失するという困難な状況に立たされている。》(p.15)


 70年の頃のような熱い政治の文脈に映画を置くことがほんとうにできると思っているのだろうか。そして、それが必要なことなのだろうか。「ホテル・ルワンダ」のように映画を消費することに苛立つわたしでさえ、もはや映画を政治の道具として見ることは不可能ではないか、それはむしろ不要なことではないか、と思っている。では、わたしは映画をどのように見たいのだろう。どのように解釈し、それを社会に向けてどのように差し出していきたいのか? わたしの言葉がいったい誰に届くというのだろうか。

 この本は面白い。買ってもいいと思うぐらいだ。序文だけを読んで多少感じた違和感はその後ぶっとんだ。特にやはり中村秀之さんの論は読み応えがあった。それに斎藤綾子さんの木下恵介論も面白い。これはジェンダーから見る映画論なのだが、決して表層的攻撃的なジェンダー論ではないところがよかった。

 「市民ケーン」を見たらよけいに中村さんのすごさを体感。とてもあの映画からこういう読みはできない。本作をニュース映画批判だと看破する批評が公開当時にもあったのだが、その批判の仕方に対して、中村さんは次のように批判する。

《その批判の方法が「ケーンと彼の世界に対する、ニュース映画よりも豊かで信じるな見方を呈示する」点にあると書いてしまうとき、デニングは、表面と深層、外部と内部、真実と虚偽、さらには善と悪という二元的対立を受け入れ、結局のところ「内幕情報屋」的空間の視線構造にとらわれているのだ。これこそメロドラマ的な読解といわざるをえない。換言すれば、このような解釈が、この映画をめぐる言説空間それ自体のメロドラマ性を維持することい貢献してきたのだ》(p152-153)
 

 長い間本作の巻頭に挿入されているニュース映画は『マーチ・オブ・タイム』だと言われてきたが、中村さんはむしろ『ニューズ・オブ・ザ・デイ』というハースト社のニュース映画こそが参照元だと指摘している。そして、実はこの架空のニュース映画は『市民ケーン』そのものに似ている、という。

《『マーチ・オブ・タイム』のコピーであると見せかけてテクストの外部の方向をあからさまに指示しながら、実はそれが含まれているこの映画それ自身をも再帰的に指示している。つまりテクストを開く他者言及とそれを閉じる自己言及を同時に、かつ遊戯的におこなっているのである。》

 中村さんは本作の参考本としてしばしば取り上げられる『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』に手厳しい批判を加える。

《製作裏話をウェルズとハーストの個人的な出会いに由来する対決として描いたこの「ドキュ・ドラマ」は、恥ずかしいほどに、後の通俗的な意味での「メロドラマ」に仕立てられている。それは、映画の効果として生み出された観念を、あたかもこの映画の原因であったかのように置き換え、事後的に起源を捏造している》

 やはり、末尾のまとめの言葉が圧巻だった。この映画がこういうものだと、いったい誰が気づくだろう? しかし、たった一人(あるいは数人)の観察眼鋭い社会学者が気づいたとして、本作がそのように受容されていないとしたら、ウェルズが本作に仕掛けたメッセージはどこにも届いていないではないか。中村さんは本作をどのような映画だと看破したのだろうか、それは以下の通りである。

 《『市民ケーン』という「興行的な仕掛け」は、映画の受容をめぐるコンテクストそれ事態のメロドラマ性を脱構築する装置だった。……『市民ケーン』に一杯食わせられていることにはほとんど誰もきづかなかった……『市民ケーン』は、表層と深層の区別、外部と内部の分割、さらには両者への偽と真の配分というメロドラマ的な操作そのものを派手に見世物化し、あるいはイベント化しつつ、他方でこれらの対立の一切を脱臼させているのだ。》

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以下、本書の目次を引用。

はじめに  長谷正人

第1章 占領下の時代劇としての『羅生門』――「映像の社会学」の可能性をめぐって  長谷正人

第2章 失われたファルスを求めて――木下惠介の「涙の三部作」再考  斉藤綾子

第3章 ハリウッド映画へのニュースの侵入――『スミス都へ行く』と『市民ケーン』におけるメディアとメロドラマ  中村秀之

第4章 ヒッチコック(もまた)戦争に行く――『救命艇』のなかの黒人  飯岡詩朗

第5章 『シンドラーのリスト』は『ショアー』ではない――第二戒、ポピュラー・モダニズム、公共の記憶  ミリアム・ブラトゥ・ハンセン[畠山宗明訳]

第6章 柳田國男と文化映画――昭和十年代における日常生活の発見と国民の創造/想像  藤井仁子

第7章 反到着の物語――エスノグラフィーとしての小川プロ映画  北小路隆志

あとがき  中村秀之

市民ケーン

2007年05月09日 | 映画レビュー
本作を見る直前まで中村秀之さんの「市民ケーン」(『映画の政治学』所収、別エントリー参照)を読んでいたため、どのようなマスメディア論的読みができるかと思っていたのだが、全然そういうところにはわたしの意識が働くことはなかった。むしろ、人間ドラマというか恋愛ドラマのほうに心が傾き、映画のなかにのめり込んでいった。

 亡くなってしまった大富豪新聞王を回顧するニュース映画を冒頭で延々と映し出し、やがて本文へと入っていくこの構成のたくみなこと! 中村秀之さんはこの冒頭のニュース映画こそ、「市民ケーン」全体のポストモダン的本質を顕わにする部分だと指摘している。虚実が入り交じるこの巻頭の部分で、観客はニュース映画こそが作られたものであり、この映画の「本文」に描かれるケーンの姿こそが真実だと思わされる。だが、ラストで確かにその「真実」を描いたはずの「市民ケーン」という映画じたいが実は真実をつかみそこなっていることを知らされるのだ。謎を牽引する言葉、ケーンの死に際の最後の「薔薇のつぼみ」という言葉の謎を追う一人の記者。そして最後にかれがたどり着いた「薔薇のつぼみ」の真相が、実は真相でなどなかったという「衝撃のラスト」。

 わたしはずっとこの「薔薇のつぼみ」という言葉の謎は「マクガフィン」(@ヒチコック)だと思っていた。じっさい、マクガフィンには違いない。だが、そのマクガフィンにウェルズ監督は二重の意味を持たせた。ということは、実はマクガフィンではないのだ! 何重にも転倒させられる本作の巧みな構成にこそ天才ウェルズの才能がいかんなく発揮されている。もちろん映像は素晴らしい。今となってはさほど珍しいテクニックではないが、これを見た公開当時の人々はさぞや驚愕しただろう。

 華麗なるカメラワークばかり論評されることが多い本作だが、わたしはここに描かれた男性の支配的な愛情にとても興味を惹かれる。映像のテクニカルな部分だけではなく、脚本が優れているので、ありきたりなように見える男女の愛憎劇が巧みに観客の心を掴む。若くして大富豪となり、新聞社を買い取って好きなように権力を振るうケーンだが、彼は生涯求め続けた愛を結局は得ることなく孤独に死を迎える。その憐れさが最後に強烈な余韻を残す。

 ケーンは女性たちを愛した。しかしその愛は、「君に愛を与えよう、そのかわり私を愛しなさい、私の望むように」というマッチョなものだ。これは多くの男性が持つ愛情のありかたではなかろうか。男が女を愛するとき、その見返りに求めるものは女が彼の思うままになること、女が彼の望みのままに彼を愛し、女が彼の望みの性格・才能・気遣いを見せること。ケーンの愛情はまさにそのようなものであった。彼が大富豪であり権力者であったからこそその側面がわかりやすく見えるのだが、おそらく男の愛情は(何人かの女の愛情もまた)そのような権力欲に裏打ちされたものではなかろうか。それを決して責めることはできない。愛とは本質的に権力をふるうものだからだ。だが、その権力行使の結果は惨めな愛の敗残しかない。

 ところで、本作と並んで映画史上に輝く名作といわれている「第三の男」だが、オーソン・ウェルズが出演しているという共通点を除けばまったく作品の質は異なる。「第三の男」など足下にも及ばない。カメラ、脚本、演技が三位一体で魅せてくれる「市民ケーン」は傑作です。

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CITIZEN KANE 上映時間119分(アメリカ、1941年)
製作・監督:オーソン・ウェルズ、脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ、撮影:グレッグ・トーランド、音楽:バーナード・ハーマン
出演: オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、ドロシー・カミング、エヴェレット・スローン、アグネス・ムーアヘッド