(太字は本文からの引用)
《政治的で難解な監督として遇されてきたゴダールが、いまや知的でちょっとおしゃれな映画作家のようにもてはやされてしまう状況
……
小川紳助の『三里塚』シリーズや土本典昭の『水俣病』シリーズを見たり論じたりすることさえも、高級な政治的趣味をもった人たちの「私的趣味」の世界と見られかねない
…
まちがいなく私たちはいま、映画を議論するための公的な空間自体を喪失するという困難な状況に立たされている。》(p.15)
70年の頃のような熱い政治の文脈に映画を置くことがほんとうにできると思っているのだろうか。そして、それが必要なことなのだろうか。「ホテル・ルワンダ」のように映画を消費することに苛立つわたしでさえ、もはや映画を政治の道具として見ることは不可能ではないか、それはむしろ不要なことではないか、と思っている。では、わたしは映画をどのように見たいのだろう。どのように解釈し、それを社会に向けてどのように差し出していきたいのか? わたしの言葉がいったい誰に届くというのだろうか。
この本は面白い。買ってもいいと思うぐらいだ。序文だけを読んで多少感じた違和感はその後ぶっとんだ。特にやはり中村秀之さんの論は読み応えがあった。それに斎藤綾子さんの木下恵介論も面白い。これはジェンダーから見る映画論なのだが、決して表層的攻撃的なジェンダー論ではないところがよかった。
「市民ケーン」を見たらよけいに中村さんのすごさを体感。とてもあの映画からこういう読みはできない。本作をニュース映画批判だと看破する批評が公開当時にもあったのだが、その批判の仕方に対して、中村さんは次のように批判する。
《その批判の方法が「ケーンと彼の世界に対する、ニュース映画よりも豊かで信じるな見方を呈示する」点にあると書いてしまうとき、デニングは、表面と深層、外部と内部、真実と虚偽、さらには善と悪という二元的対立を受け入れ、結局のところ「内幕情報屋」的空間の視線構造にとらわれているのだ。これこそメロドラマ的な読解といわざるをえない。換言すれば、このような解釈が、この映画をめぐる言説空間それ自体のメロドラマ性を維持することい貢献してきたのだ》(p152-153)
長い間本作の巻頭に挿入されているニュース映画は『マーチ・オブ・タイム』だと言われてきたが、中村さんはむしろ『ニューズ・オブ・ザ・デイ』というハースト社のニュース映画こそが参照元だと指摘している。そして、実はこの架空のニュース映画は『市民ケーン』そのものに似ている、という。
《『マーチ・オブ・タイム』のコピーであると見せかけてテクストの外部の方向をあからさまに指示しながら、実はそれが含まれているこの映画それ自身をも再帰的に指示している。つまりテクストを開く他者言及とそれを閉じる自己言及を同時に、かつ遊戯的におこなっているのである。》
中村さんは本作の参考本としてしばしば取り上げられる『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』に手厳しい批判を加える。
《製作裏話をウェルズとハーストの個人的な出会いに由来する対決として描いたこの「ドキュ・ドラマ」は、恥ずかしいほどに、後の通俗的な意味での「メロドラマ」に仕立てられている。それは、映画の効果として生み出された観念を、あたかもこの映画の原因であったかのように置き換え、事後的に起源を捏造している》
やはり、末尾のまとめの言葉が圧巻だった。この映画がこういうものだと、いったい誰が気づくだろう? しかし、たった一人(あるいは数人)の観察眼鋭い社会学者が気づいたとして、本作がそのように受容されていないとしたら、ウェルズが本作に仕掛けたメッセージはどこにも届いていないではないか。中村さんは本作をどのような映画だと看破したのだろうか、それは以下の通りである。
《『市民ケーン』という「興行的な仕掛け」は、映画の受容をめぐるコンテクストそれ事態のメロドラマ性を脱構築する装置だった。……『市民ケーン』に一杯食わせられていることにはほとんど誰もきづかなかった……『市民ケーン』は、表層と深層の区別、外部と内部の分割、さらには両者への偽と真の配分というメロドラマ的な操作そのものを派手に見世物化し、あるいはイベント化しつつ、他方でこれらの対立の一切を脱臼させているのだ。》
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以下、本書の目次を引用。
はじめに 長谷正人
第1章 占領下の時代劇としての『羅生門』――「映像の社会学」の可能性をめぐって 長谷正人
第2章 失われたファルスを求めて――木下惠介の「涙の三部作」再考 斉藤綾子
第3章 ハリウッド映画へのニュースの侵入――『スミス都へ行く』と『市民ケーン』におけるメディアとメロドラマ 中村秀之
第4章 ヒッチコック(もまた)戦争に行く――『救命艇』のなかの黒人 飯岡詩朗
第5章 『シンドラーのリスト』は『ショアー』ではない――第二戒、ポピュラー・モダニズム、公共の記憶 ミリアム・ブラトゥ・ハンセン[畠山宗明訳]
第6章 柳田國男と文化映画――昭和十年代における日常生活の発見と国民の創造/想像 藤井仁子
第7章 反到着の物語――エスノグラフィーとしての小川プロ映画 北小路隆志
あとがき 中村秀之
《政治的で難解な監督として遇されてきたゴダールが、いまや知的でちょっとおしゃれな映画作家のようにもてはやされてしまう状況
……
小川紳助の『三里塚』シリーズや土本典昭の『水俣病』シリーズを見たり論じたりすることさえも、高級な政治的趣味をもった人たちの「私的趣味」の世界と見られかねない
…
まちがいなく私たちはいま、映画を議論するための公的な空間自体を喪失するという困難な状況に立たされている。》(p.15)
70年の頃のような熱い政治の文脈に映画を置くことがほんとうにできると思っているのだろうか。そして、それが必要なことなのだろうか。「ホテル・ルワンダ」のように映画を消費することに苛立つわたしでさえ、もはや映画を政治の道具として見ることは不可能ではないか、それはむしろ不要なことではないか、と思っている。では、わたしは映画をどのように見たいのだろう。どのように解釈し、それを社会に向けてどのように差し出していきたいのか? わたしの言葉がいったい誰に届くというのだろうか。
この本は面白い。買ってもいいと思うぐらいだ。序文だけを読んで多少感じた違和感はその後ぶっとんだ。特にやはり中村秀之さんの論は読み応えがあった。それに斎藤綾子さんの木下恵介論も面白い。これはジェンダーから見る映画論なのだが、決して表層的攻撃的なジェンダー論ではないところがよかった。
「市民ケーン」を見たらよけいに中村さんのすごさを体感。とてもあの映画からこういう読みはできない。本作をニュース映画批判だと看破する批評が公開当時にもあったのだが、その批判の仕方に対して、中村さんは次のように批判する。
《その批判の方法が「ケーンと彼の世界に対する、ニュース映画よりも豊かで信じるな見方を呈示する」点にあると書いてしまうとき、デニングは、表面と深層、外部と内部、真実と虚偽、さらには善と悪という二元的対立を受け入れ、結局のところ「内幕情報屋」的空間の視線構造にとらわれているのだ。これこそメロドラマ的な読解といわざるをえない。換言すれば、このような解釈が、この映画をめぐる言説空間それ自体のメロドラマ性を維持することい貢献してきたのだ》(p152-153)
長い間本作の巻頭に挿入されているニュース映画は『マーチ・オブ・タイム』だと言われてきたが、中村さんはむしろ『ニューズ・オブ・ザ・デイ』というハースト社のニュース映画こそが参照元だと指摘している。そして、実はこの架空のニュース映画は『市民ケーン』そのものに似ている、という。
《『マーチ・オブ・タイム』のコピーであると見せかけてテクストの外部の方向をあからさまに指示しながら、実はそれが含まれているこの映画それ自身をも再帰的に指示している。つまりテクストを開く他者言及とそれを閉じる自己言及を同時に、かつ遊戯的におこなっているのである。》
中村さんは本作の参考本としてしばしば取り上げられる『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』に手厳しい批判を加える。
《製作裏話をウェルズとハーストの個人的な出会いに由来する対決として描いたこの「ドキュ・ドラマ」は、恥ずかしいほどに、後の通俗的な意味での「メロドラマ」に仕立てられている。それは、映画の効果として生み出された観念を、あたかもこの映画の原因であったかのように置き換え、事後的に起源を捏造している》
やはり、末尾のまとめの言葉が圧巻だった。この映画がこういうものだと、いったい誰が気づくだろう? しかし、たった一人(あるいは数人)の観察眼鋭い社会学者が気づいたとして、本作がそのように受容されていないとしたら、ウェルズが本作に仕掛けたメッセージはどこにも届いていないではないか。中村さんは本作をどのような映画だと看破したのだろうか、それは以下の通りである。
《『市民ケーン』という「興行的な仕掛け」は、映画の受容をめぐるコンテクストそれ事態のメロドラマ性を脱構築する装置だった。……『市民ケーン』に一杯食わせられていることにはほとんど誰もきづかなかった……『市民ケーン』は、表層と深層の区別、外部と内部の分割、さらには両者への偽と真の配分というメロドラマ的な操作そのものを派手に見世物化し、あるいはイベント化しつつ、他方でこれらの対立の一切を脱臼させているのだ。》
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以下、本書の目次を引用。
はじめに 長谷正人
第1章 占領下の時代劇としての『羅生門』――「映像の社会学」の可能性をめぐって 長谷正人
第2章 失われたファルスを求めて――木下惠介の「涙の三部作」再考 斉藤綾子
第3章 ハリウッド映画へのニュースの侵入――『スミス都へ行く』と『市民ケーン』におけるメディアとメロドラマ 中村秀之
第4章 ヒッチコック(もまた)戦争に行く――『救命艇』のなかの黒人 飯岡詩朗
第5章 『シンドラーのリスト』は『ショアー』ではない――第二戒、ポピュラー・モダニズム、公共の記憶 ミリアム・ブラトゥ・ハンセン[畠山宗明訳]
第6章 柳田國男と文化映画――昭和十年代における日常生活の発見と国民の創造/想像 藤井仁子
第7章 反到着の物語――エスノグラフィーとしての小川プロ映画 北小路隆志
あとがき 中村秀之