フレーム憑き :視ることと症候
斎藤 環著 青土社
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著者によると、真実は一つしかないそうである。いや、「一つしか存在しないものこそが真実」なんだそうだ(本書前書きより)。
精神科医が映画をどのように分析するのか、お手並み拝見、映画の中にどんなリアルを見るのか、期待にわくわくするのだが、これがどういうわけか、著者の小説分析ほどには明晰さが感じられないのだ。分析の鋭さになるほどと膝を打ちながらもどこか物足りなさを感じつつ、本書を読み進めることとなった。
この本は著者がこれまでいろんなメディアに書いた映画評のまとめだから、文体にかなりのばらつきがある。難しすぎて何を言っているのかよくわからないものから、くだけすぎて物足りないものまで、また内容への踏み込み方も深さに幅がある。
半分ぐらいまで読んだところで、だいたい斎藤さんの好みがわかってくる。わたしの大嫌いな根性悪監督フォン・トリアーを絶賛したり、下品なギャグで笑わせてくれた「少林サッカー」を激賛したりするのだから、要注意だ。かと思うと「マルホランド・ドライブ」の分析(デヴィッド・リンチは唯一の分裂気質監督であり、この作品を「夢オチ」と解釈するのは間違いで、本作はメタ世界の多重化・複数化を試みている)には「さすが」とうならされるし、「ドニー・ダーコ」の分析(時代は80年代の分裂から90年代の解離へと変化する)もさすがは精神科医、視点が違うな、と思う。
やはり、本書の中でもっとも目を引くのはフレーム論だろう。わたし自身は映像フレーム論に通じていないので著者の理論がどれだけ独創的なのかは判断できないが、少なくとも「イノセンス」の押井守論や「マルホランド・ドライブ」のリンチ論は新鮮さに満ちていた。それに、北野武とタルコフスキーを同じように偏愛できるなんて、この人の頭の中はどうなっているのだろう、と逆にこっちが精神分析したくなる。
また、他にもそそられたのは宮崎駿論だ。宮崎監督=ロリコン少女愛倒錯者説にはちょっと驚いたが、しかしそういえば哲学者森岡正博氏も『男は世界を救えるか』の中で「風の谷のナウシカは「ロリコン・エコロジカル=フェミニズムの金字塔」と言っていたことを思い出した。この人たちってそういう目で宮崎アニメを見ていたのね……(笑)。
ご本人は「オタクではない」と断りつつ、次々に登場するアニメのタイトルは、わたしが未見のもの(名前すら知らない)のがほとんどなのだ。斎藤さん、けっこう濃いじゃないの。アニメに関しては、そのオタク的世界が深すぎるので禁断の園の香りがして、あまり近づかないようにしているのだが(なにしろ、「やおい」とか「萌え」とか、用語の意味すらよくわからない)、やはりこれからの社会分析・精神分析にはサブカルチャーは絶対にはずせないのだろうなと思う。
斎藤氏の好みや癖がわかってくる頃には、いかに著者が「これは傑作だ」「素晴らしい」と褒めちぎっていても、「見るのはやめよう」というチェック機能がヒクヒクと働きだす。逆に、「こういう誉め方をしているときは必見だな」と、ネットですぐさまDVDが発売されているかチェックする。映画だけではなく、巻末に漫画評も掲載されていて、これがまたおもしろくって、ついつい取り上げられた漫画を読んでみたくなるから困る。いずれにせよ、映画評も漫画評も読んでいて大変おもしろいのは、単に知的な分析が鋭いというだけではなく、著者の個人的な思い入れや偏愛ぶりが微笑ましく読者の共感を呼ぶからだろう。
映画ファンには、とってもためになる本。固い文体から楽しげな文体まで様々に駆使しつつ、斎藤さんの映画への愛が溢れた一冊だ。あまりに映画を楽しむことにハマって、精神分析するのを忘れている文章もあるのは愛嬌か。
斎藤 環著 青土社
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著者によると、真実は一つしかないそうである。いや、「一つしか存在しないものこそが真実」なんだそうだ(本書前書きより)。
精神科医が映画をどのように分析するのか、お手並み拝見、映画の中にどんなリアルを見るのか、期待にわくわくするのだが、これがどういうわけか、著者の小説分析ほどには明晰さが感じられないのだ。分析の鋭さになるほどと膝を打ちながらもどこか物足りなさを感じつつ、本書を読み進めることとなった。
この本は著者がこれまでいろんなメディアに書いた映画評のまとめだから、文体にかなりのばらつきがある。難しすぎて何を言っているのかよくわからないものから、くだけすぎて物足りないものまで、また内容への踏み込み方も深さに幅がある。
半分ぐらいまで読んだところで、だいたい斎藤さんの好みがわかってくる。わたしの大嫌いな根性悪監督フォン・トリアーを絶賛したり、下品なギャグで笑わせてくれた「少林サッカー」を激賛したりするのだから、要注意だ。かと思うと「マルホランド・ドライブ」の分析(デヴィッド・リンチは唯一の分裂気質監督であり、この作品を「夢オチ」と解釈するのは間違いで、本作はメタ世界の多重化・複数化を試みている)には「さすが」とうならされるし、「ドニー・ダーコ」の分析(時代は80年代の分裂から90年代の解離へと変化する)もさすがは精神科医、視点が違うな、と思う。
やはり、本書の中でもっとも目を引くのはフレーム論だろう。わたし自身は映像フレーム論に通じていないので著者の理論がどれだけ独創的なのかは判断できないが、少なくとも「イノセンス」の押井守論や「マルホランド・ドライブ」のリンチ論は新鮮さに満ちていた。それに、北野武とタルコフスキーを同じように偏愛できるなんて、この人の頭の中はどうなっているのだろう、と逆にこっちが精神分析したくなる。
また、他にもそそられたのは宮崎駿論だ。宮崎監督=ロリコン少女愛倒錯者説にはちょっと驚いたが、しかしそういえば哲学者森岡正博氏も『男は世界を救えるか』の中で「風の谷のナウシカは「ロリコン・エコロジカル=フェミニズムの金字塔」と言っていたことを思い出した。この人たちってそういう目で宮崎アニメを見ていたのね……(笑)。
ご本人は「オタクではない」と断りつつ、次々に登場するアニメのタイトルは、わたしが未見のもの(名前すら知らない)のがほとんどなのだ。斎藤さん、けっこう濃いじゃないの。アニメに関しては、そのオタク的世界が深すぎるので禁断の園の香りがして、あまり近づかないようにしているのだが(なにしろ、「やおい」とか「萌え」とか、用語の意味すらよくわからない)、やはりこれからの社会分析・精神分析にはサブカルチャーは絶対にはずせないのだろうなと思う。
斎藤氏の好みや癖がわかってくる頃には、いかに著者が「これは傑作だ」「素晴らしい」と褒めちぎっていても、「見るのはやめよう」というチェック機能がヒクヒクと働きだす。逆に、「こういう誉め方をしているときは必見だな」と、ネットですぐさまDVDが発売されているかチェックする。映画だけではなく、巻末に漫画評も掲載されていて、これがまたおもしろくって、ついつい取り上げられた漫画を読んでみたくなるから困る。いずれにせよ、映画評も漫画評も読んでいて大変おもしろいのは、単に知的な分析が鋭いというだけではなく、著者の個人的な思い入れや偏愛ぶりが微笑ましく読者の共感を呼ぶからだろう。
映画ファンには、とってもためになる本。固い文体から楽しげな文体まで様々に駆使しつつ、斎藤さんの映画への愛が溢れた一冊だ。あまりに映画を楽しむことにハマって、精神分析するのを忘れている文章もあるのは愛嬌か。