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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『フレーム憑き 』

2004年10月13日 | 読書
フレーム憑き :視ることと症候
斎藤 環著 青土社

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 著者によると、真実は一つしかないそうである。いや、「一つしか存在しないものこそが真実」なんだそうだ(本書前書きより)。

 精神科医が映画をどのように分析するのか、お手並み拝見、映画の中にどんなリアルを見るのか、期待にわくわくするのだが、これがどういうわけか、著者の小説分析ほどには明晰さが感じられないのだ。分析の鋭さになるほどと膝を打ちながらもどこか物足りなさを感じつつ、本書を読み進めることとなった。

 この本は著者がこれまでいろんなメディアに書いた映画評のまとめだから、文体にかなりのばらつきがある。難しすぎて何を言っているのかよくわからないものから、くだけすぎて物足りないものまで、また内容への踏み込み方も深さに幅がある。

 半分ぐらいまで読んだところで、だいたい斎藤さんの好みがわかってくる。わたしの大嫌いな根性悪監督フォン・トリアーを絶賛したり、下品なギャグで笑わせてくれた「少林サッカー」を激賛したりするのだから、要注意だ。かと思うと「マルホランド・ドライブ」の分析(デヴィッド・リンチは唯一の分裂気質監督であり、この作品を「夢オチ」と解釈するのは間違いで、本作はメタ世界の多重化・複数化を試みている)には「さすが」とうならされるし、「ドニー・ダーコ」の分析(時代は80年代の分裂から90年代の解離へと変化する)もさすがは精神科医、視点が違うな、と思う。

 やはり、本書の中でもっとも目を引くのはフレーム論だろう。わたし自身は映像フレーム論に通じていないので著者の理論がどれだけ独創的なのかは判断できないが、少なくとも「イノセンス」の押井守論や「マルホランド・ドライブ」のリンチ論は新鮮さに満ちていた。それに、北野武とタルコフスキーを同じように偏愛できるなんて、この人の頭の中はどうなっているのだろう、と逆にこっちが精神分析したくなる。
 
 また、他にもそそられたのは宮崎駿論だ。宮崎監督=ロリコン少女愛倒錯者説にはちょっと驚いたが、しかしそういえば哲学者森岡正博氏も『男は世界を救えるか』の中で「風の谷のナウシカは「ロリコン・エコロジカル=フェミニズムの金字塔」と言っていたことを思い出した。この人たちってそういう目で宮崎アニメを見ていたのね……(笑)。
 ご本人は「オタクではない」と断りつつ、次々に登場するアニメのタイトルは、わたしが未見のもの(名前すら知らない)のがほとんどなのだ。斎藤さん、けっこう濃いじゃないの。アニメに関しては、そのオタク的世界が深すぎるので禁断の園の香りがして、あまり近づかないようにしているのだが(なにしろ、「やおい」とか「萌え」とか、用語の意味すらよくわからない)、やはりこれからの社会分析・精神分析にはサブカルチャーは絶対にはずせないのだろうなと思う。
  
 斎藤氏の好みや癖がわかってくる頃には、いかに著者が「これは傑作だ」「素晴らしい」と褒めちぎっていても、「見るのはやめよう」というチェック機能がヒクヒクと働きだす。逆に、「こういう誉め方をしているときは必見だな」と、ネットですぐさまDVDが発売されているかチェックする。映画だけではなく、巻末に漫画評も掲載されていて、これがまたおもしろくって、ついつい取り上げられた漫画を読んでみたくなるから困る。いずれにせよ、映画評も漫画評も読んでいて大変おもしろいのは、単に知的な分析が鋭いというだけではなく、著者の個人的な思い入れや偏愛ぶりが微笑ましく読者の共感を呼ぶからだろう。

 映画ファンには、とってもためになる本。固い文体から楽しげな文体まで様々に駆使しつつ、斎藤さんの映画への愛が溢れた一冊だ。あまりに映画を楽しむことにハマって、精神分析するのを忘れている文章もあるのは愛嬌か。




学者の映画評はおもしろい

2004年10月11日 | 読書
立て続けに映画批評を読んだ。
どちらも癖のある、斎藤環氏と宮台真司氏の映画評は、互いに映画への偏愛をつまびらかにする、その偏愛ぶりが微笑ましい。

映画を愛する人の映画評はほんと、おもしろい。
というか、映画を愛していなければ、映画評も書けないのだ、実は。彼らの批評を読みながら、次に見るべき映画のチェックを怠りなく行うわたしもやっぱり映画マニア。

この二冊は映画マニア二人の個性が強烈に出た映画本だ。しかも、それぞれの専門分野に惹きつけての批評もたいへんおもしろい。映画評論のプロパーが書くよりもおもしろい。
偏っているだけによけいおもしろい。

この二冊についてはbk1に書評を投稿する予定。
内田樹さんの『映画の構造分析』とともにこれらの本はお薦めだ。

ただ、彼らはいずれも、映画批評を行っているというよりは、映画を使って社会システム論を展開したり(宮台。「実存批評」と本人は称している)、映画をつかって現代精神病理の分析を行ったり(斎藤環)、ラカンの解説をしたり(内田樹)というように、自分の専門分野の解説を映画を通じて行おうとしている。そういう意味では、映画の解説にはなっていない。

あ、ところで、学者の映画批評といえば、浅田彰と蓮実重彦とドゥルーズを忘れてはならないのだが、どーもこの人たちは何を言っているのかよくわからないので…
ぶくぶく(←沈没する音)

ところで、わたしが気に入らなかった映画「ユリイカ」について、斎藤環さんも宮台真司さんも絶賛しているものだから、ちょっと気になって、いったい自分でどんな映画評を書いたのか、読み直してみた。なるほど、内容に対する不満よりも、「声が聞き取れない」とかいう文句だったのね。あの当時は今の新しいホームシアターセットにするまえの崩壊寸前のTVモニターで見ていたし、しかもメディアがビデオだったので、画像音声ともに悪かったのだ。
「ユリイカ」はテーマや脚本はすごくいいと思ったのに、ダレタ演出だという印象ばかり残った映画だったのだ。あれほど意図(描こうとしたもの)と結果(描かれた作品)の乖離が甚だしいものも珍しいと思ったものだ。

 だが、ひょっとしてもう一度DVDで見直したら違う感想を抱きそうな気がする。



『野川』

2004年10月05日 | 読書
ソネアキラさんがこの本を読了されたようだ。
bk1に気合を入れて書評投稿されるというので、楽しみにしている。

わたしは書こうと思ったけど、既にkingさんがすばらしい書評を書いておられるし、ほとんどわたしの感想と似ているので、投稿をためらっているうちに、図書館に本を返してしまったのでもう書けなくなってしまった。

これほど、読んでいる最中は苦痛でたまらないのに後からじわじわ浸みてくる本も珍しい。

古風な文体は、源氏物語以来の日本文の伝統が現代にも息づいていると感じさせるものがある。

しかも、縦横にゆきかう思索のさまよいは、夢幻とうつつ世の境をなくし、生きるリアリティは「死」と隣あわせでこそ実感できることを読者に知らしめる。

そこかしこに漂う死の香りは不思議と親しみのもてるものだ。既にわたしももう「死」のほうに近い年齢になったということか。

遠い昔の友人の秘め事も、不思議と脳裏にくっきり浮かぶようで、映画の一シーンを見ているようなざわめきと官能の昂ぶりをもたらす。

ソネさんによればこの感覚は、

「形而下に訴えるというのか、ゲスな表現をすれば、キ○タマを握られたというか」
ということらしい。
わたしはキ○タマを握られたことがないのでわからないが、こういうとき、女性ならどう喩えるんだろう。いま少し言葉が浮かんだが、ここに書くことは控えさせていただきます(笑)。

とにかく、もう一度読んでみたい小説だ。
『アフターダーク』? 比べ物にならん。(ごめんなさい、shohojiさん)


「家族の中の迷子たち」

2004年09月25日 | 読書
 ドキュメンタリー作家椎名篤子『家族外「家族」』の漫画化。1998年に漫画単行本が出た。今回、文庫で読んだので、老眼が始まった目には小さな文字がつらい。勢い、読み飛ばしてしまったところも多い。

 小児科医や精神科医から見た児童精神科患者の実態を描く。全部で6ケース。

 いずれもケースも、病んでいるのは子どもではなく親のほうではないかと思えてくる。精神科医たちは、子どもの症状を判断するさいに必ず親の生育歴や現在の家族関係などを尋ねている。
 場合によっては祖母・母・娘の三代にわたる症例が描かれていたりして、家族の中の孤独という悲劇が次世代に持ち越されるケースに暗澹たる気持ちになった。

 ただ、気になるのは、精神科医たちの分析には「社会性」が希薄あるいはまったくないということだ。心の病気の原因はほとんどの場合、母子関係にある。そして母子関係がうまくいかない原因は父母の関係つまり夫婦関係が不和だということに尽きるようだ(ケース6は夫婦円満だったが)。

 確かに目の前の患者に「あなたの病気の原因は近代産業社会が生み出した矛盾の…云々」と言っても始まらない。とりあえずは「いまここにある危機要因」を取り除くことしかないだろう。

 だが、一人の精神科医の努力だけではいかんともしがたいものがあるだろうし、何よりもシステムの問題がここには横たわっている。小児科医と精神科医を兼務するようなシステムが存在しない。そして、その両方の経験がある医者は異様に多忙だ。


 また、この作品に取り上げられた6ケースはいずれもいわゆる「児童虐待」とは違う。親は子を愛しているし、懸命に子どもを救おうとしている。だが、その気持ちがうまく子どもに伝わらないし、ある場合にはまったく逆方向に作用してしまう。ここに家族関係の難しさがある。

 そして、その解決の一つの方法として、母親に母性愛を求め、父に社会性を求めることによって患児が回復するということには疑問を感じてしまう。
 「父」のモデル不在の家庭(父親が頼りなく、母が一家の大黒柱になっている)では、男の子が父をモデルにして育つことが困難なので、さまざまな症状が身体に現れてしまう。つま先だけで歩く男子、あるいはかかとだけで歩く男子が登場する第一話では、父の父性役割をとりもどすことが治療につながっているのだ。

 これって何? 男は男らしく。家長として立派に振る舞う父を見て男の子は男として自立していくですって?? こういう性的役割分業のステレオタイプを押しつけることで治療しようなんて、そいういう時代錯誤が行われているのかと驚いてしまった。

 しかし、それによって患児が治癒されるのなら、フェミニズムが訴えてきたことはまったく無意味ということなのだろうか? この皮肉には苦笑してしまう。

 それから、そもそも「治療」とはなんなのだろう? 医者は確かに献身的に治療に当たっている。その涙ぐましい努力には頭が下がるが、不登校の子どもを「治療」して学校へいけるようにすることが「解決」であり「治療の終了」を意味するのか? 学校のほうに問題はないのか? これだけ多くの不登校児が生まれるというのは、学校のほうに問題があるのではないのか。そもそも学校へほんとうに行かなくてはならないのか?

 いろんなことを考えさせてくれる作品だった。


「クレーターのほとりで」

2004年09月16日 | 読書
『新潮』2004年9月号所収。
保坂和志さんが絶賛していたので興味を惹かれて読んでみた(葉っぱ64さん、ありがとうございます)。

これはガルシア=マルケスもびっくりの奇想天外な物語だ。ガルシア=マルケスは100年の時を翔ける物語を書いたが、こちらのほうは数千年規模の話。

よくこんな小説が書けるなあというのがまず第一印象だ。
読んだ後のなんともいえない妙な感じはどういえばいいのだろう。この物語は終わってないよね、というべきか、オチをつけてないやんかというべきか。

作家はわざとやっているのか無意識なのか、古今東西の雑多な知識を詰め込んで皮袋の中でぐちゃぐちゃ振りました、できました、はい、こんなの。て感じで小説を読者に差し出している。

これ、もう少し長編で読んでみたい気がする。

ネアンデルタール人が主役の小説なんて、映画「北京原人」を思い出す(見てないけど)。うーむむ

評価は下しがたいが、この人の次の作品にそそられてしまうのは確かだ。




「白いカラス」と『ヒューマン・ステイン』の勝負は原作の勝ち

2004年09月15日 | 読書
 いままでのところ、今年一番気に入った小説がこれだ。

 久しぶりにbk1にも書評投稿した。

-----------bk1書評--------------

映画「白いカラス」は映画としては失敗作だと思いながらも、その豊かなテーマに心惹かれ、原作はさぞや素晴らしいに違いないと本書を読み始めたのだが、案の定、この豊穣な原作から映画はほんのひと絞りの果汁を汲み出しただけであることがわかった。それでもあれだけ心に残る作品ができたのだから、いかに原作が優れているかの証左と言えよう。

 小説の中心人物コールマン・シルク教授のイメージは映画とずいぶん違う。アンソニー・ホプキンスはミスキャストだ。ショーン・コネリーに演じさせるべきだったのだ。シルク教授はホプキンスよりずっと見た目が若くて精悍でスマートな老人なのだ。だからこそ34歳のファーニア(ニコール・キッドマン)が恋するのも納得なのに。

 さて、物語の舞台は大学、しかもその知的世界の裏側を描いており、たいそう興味深い。この小説にはいくつもの挿話が複雑に編みこまれている。

 白人として生きてきた黒人が人種差別者のレッテルを貼られるという皮肉と欺瞞。
 継父からの性的暴力と夫の暴力、わが子の死、を経て今は老人とのセックスに命を吹き込まれる女性の苦難の人生と官能。
 ベトナム帰還兵が戦後数十年を経てなおジャングルの悪夢に憑りつかれている悲劇と壮絶な暴力。
 文字を覚えられない生徒に四苦八苦する女性教師の絶望。
 名門家系の圧迫から逃げるためにフランスからアメリカへやってきた若き女性文学者の野心と失望。

 以上すべての物語を、作家は神の目をもって一人称で語る。「私」ネイサン・ザッカーマンという作家は小説の語り部であるが、主役は作家の友人コールマン・シルク(元)教授だ。ネイサンは一人称で物語を紡ぎつつ、コールマン周辺の人物の内面に大胆に迫り、彼ら・彼女らの心理を詳らかに開陳する。まるで人体を腑分けするように、ネイサンの魔術によって皮をめくられた人々の苦笑と嘆息と狡知と驚愕と恐怖がありありと読者の脳裏に浮かぶ。


 文体は淡々として平明かつ知的。しかもいくつもの物語を重層的な時制の下に配置し、時間を縦横に往還することによって小説世界にふくらみを持たせた。コールマンの「秘密」も早々と明らかにされるが、この作品には、ネタバレしようが動じないだけの巧みな構成力とテーマの深さ、文体の品位で読者を最後まで惹きつけて放さないだけの魅力がある。

 重要な登場人物たちすべての生き様と苦悩の背景は一つずつが説得力ある筆致で描かれているため、わたしはどの人物にも並々ならぬ関心や同情を感じてしまう。
 ベトナム帰還兵レスター・ファーリーのおぞましい暴力に戦慄しながらも彼をこのような人間にした悲劇に同情を禁じえないし、コールマンを陥れるフランス人教授デルフィーヌ・ルーにさえ、憐れさを感じる。名家である母の一族の圧力に抗しながらの血の呪縛から解き放たれない頭脳優秀で美しいデルフィーヌ。映画ではこのデルフィーヌのエピソードを大胆にカットしてしまったのが惜しまれる。

 さらに、映画ではコールマンに子どもがいないことになっていたが、これも原作と異なる。原作ではコールマンには4人の子どもたちがいて、その存在がコールマンの精神生活に大きな影響を及ぼすのだから、これはぜひカットせずにおいてほしかった。

 差別とアイデンティティの病理や差別撤廃運動の弊害、大学と学問の荒廃(むしろ、大学教員の高慢と怠惰というべきか)といった現代アメリカ社会の問題(日本社会の問題でもある)を凝縮させたお手並みに拍手。
 
 ※映画「白いカラス」レビューはHP「吟遊旅人」のシネマ日記に書いてます。観てから読むか読んでから観るか悩んでおられるかた、原作は観てから読んでください。先に読んでしまうと物足りなさばかり目立つでしょう。


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 以下は、bk1に書かなかったこと。

 コールマンが学生たちに読ませたギリシャ古典戯曲の内容が女性差別的だと、ある女子学生が不満を女性教授にもちかける場面で、わたしは自分の学生時代のことを思い出した。英書講読のときにある教官が使ったテキストが女性差別的な内容だったので、わたしはその英語の授業時間中ずっと不愉快だったのだ。よっぽど教官に抗議してやろうかと思ったが面倒なのでやめた。

 本書ではこの場面、コールマンはその女子学生のことを、「ろくに勉強もせず古典劇など何も理解していないのに文句だけは一人前だ」と取り合わない。
 今思えば、もしあのときに教師に抗議していたら、わたしもそのようにしか見られなかったんだろうなと思ってちょっと苦笑。

 タイトルの”The human stain "を映画字幕では「傷」と訳していたが、原作では「穢れ」と訳している。前後の文脈からすると、「穢れ」と訳するほうが適切だが、映画の場合は確かに「人間の傷」と訳したほうがぴったりくる場面だった。

 映画「白いカラス」レビューはここ

<書誌情報>

ヒューマン・ステイン
フィリップ・ロス著 ; 上岡伸雄訳. 集英社, 2004

シルミド事件関係本を読み比べる(2)

2004年09月11日 | 読書
 事件の関係者に徹底取材した小説。内容はほぼ映画通りなのだが、映画より時制が複雑であり、訓練兵たちが自爆したあとの病院での話や死刑のようす、30年後のエピローグも加えてあって、感動的な話に盛り上げてある。映画よりこっちのほうがいい。

 小説は、シルミド部隊の訓練兵たちが乗っ取ったバスで自爆する場面から始まる。訓練兵のシャバでの生活や、恋愛なども細かく描いてあり、人物への感情移入が容易なのも映画より本書のほうだ。

 <書誌情報>
  シルミド : 裏切りの実尾島
  イスグァン著 米津篤八訳 早川書房(ハヤカワ文庫) 2004.05




 最後に、映画の原作になった小説を紹介する。1999年韓国で発表された小説で、これが映画の直接の原作になったらしいが、映画とこの小説では多少設定が異なる。一番の違いは、映画ではシルミド訓練兵は全員自爆したことになっているが、小説では生き残った人間がいることになっているということ。

 この小説の作者は金庫破りの罪で獄中にいた人で、出所してから自伝小説を書いて作家になったという人物だ。だから、この小説もシルミド事件のことは半分も書かれていなくて、ほとんどが「刑務所の中」物語になっている。

 受刑者である白東虎が、獄中でシルミド事件の真相を語る生き残り兵から話を聞くという展開がこの小説の一つの軸。もう一つの軸が、白東虎の恋人で美人スリの大胆な金庫破り事件だ。
 エンタメ性の高いハードボイルド小説であり、文体も美しいとは言い難く、知的なものも感じられない。

 <書誌情報>
 シルミド / 白東虎著 ; 鄭銀淑訳. 幻冬舎, 2004

読書会の報告書

2004年09月07日 | 読書
 台風の次は地震で、その次はまた台風で、そしてまた地震。今朝も揺れました。ちょうど着替えている最中で、ブラジャーを持ったまま裸でうろうろ。ひやー、たまりません、この格好で外へ出れば世間の大迷惑とちゃんと自覚しているので、あせったわ~

 さて、鶴見俊輔『戦争が遺したもの』の読書会を開催した、その報告書をHPの「よしなしごと」に掲載しました。原田達さんから頂戴したメールも転載しています。

全文は長いので「よしなしごと」を読んでください。
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/diary0409.htm#01

blogは長文には向かないと思うので、これからも読書会報告は「よしなしごと」に掲載します。

怖い漫画を読んだ

2004年09月03日 | 読書
 楳図かずおの『洗礼』文庫本4巻、読了。
なんでこの漫画を今頃読んだかというと、永野潤という人が激賞していたからなのだ。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/

で、なんでこの人のサイトを見つけたかというと、「ピピのシネマな日々」をはてなアンテナに加えてくださっていることを発見したからなのだ。

永野潤さんは、わたしよりひと世代ほど若い大学教員で、サルトルの研究者だそうな(いまどきサルトル研究者がいるとは思わなかった)。

永野さんが、楳図かずおの『洗礼』が岡崎京子の『ヘルタースケルター』よりずっと怖い傑作だと絶賛されていたので、読んでみたのであった。

その昔、恐怖に震え上がって夜も眠れないほどになりながらも読むのをやめられなかった楳図かずお。

さすがにこの歳で読むと、「怖くてトイレへ行けないから付いてきて~」と家族に泣きつくようなことはないが、やっぱりものすごく怖かった。なによりも絵が怖い、絵が。

そして、よくぞここまで恐ろしげなことを考えつくよなーと感動するほど、ぞっとする悪意。こういう、人の悪意を徹底的に暴くような物語を書ける人って、やっぱりどこか冷酷な人なんじゃないかと思ってしまう。わたしには無理。

いやあ~、それにしてもよかったっす。
楳図かずおって、ただならぬお方。下手な哲学書よりずっと含蓄深い漫画を描きます。

読書会の課題図書にしたのは大正解

2004年08月21日 | 読書
 ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』、小熊英二『<民主>と<愛国>』、と読んできて、続いて『戦争が遺したもの』を読むと実によくわかる。さくさく読める。あまりにもおもしろくて途中でやめられなくなる。本書はとてもいい本だ。読みやすいということだけではなく、考えさせられるヒントがずいぶん多い。

 鶴見ファンならもうおなじみになっているような事柄や発言でも、わたしにとっては新鮮な感動がある。

 鶴見語録で印象に残ったものを書き留めてみた。

 愛されることは辛い<ことだ 

 マルクスはいいんだけど、マルクス主義は宗教だ

 鶴見さんは、アンビバレントな思想や人間に惹かれる。そして、人はそのように生きるものだという哲学がある。わたしはこの考えにものすごく共感を覚えてしまう。あれかこれかではなく、例えば戦争ならば、日本人は加害者でもあり被害者でもある。どちらかだけを生きることはできない。

 上野千鶴子が鶴見さんに厳しく迫って、従軍慰安婦を蹂躙した慰安所で愛がありえたか、と問う。鶴見さんは「そこにも愛がある」と譲らない。売春婦を妻にした文学者たちを挙げて、彼らは妻を愛したのだ、それは愛だと主張して譲らない。
 上野さんはそれに対して、「愛だけではなく、そこに権力が存在したはずだ」とさらに追及の手を緩めない。

 これは不思議なことだ。愛はそもそも権力と不可分なものだということをなぜ上野さんにはわからないのだろう。

「愛は権力だ」もしくは、「愛こそは権力だ」

 わたしはこのように思っているのだが。

 愛は他者を支配することを欲望する。そして愛は他者を支配する力を持つ。愛する人の微笑みを得るためだけに、人はどれだけ必死の努力を傾注するだろう。愛する人に振り向いてもらいたいために、人はどれだけその人のもとに額ずくだろう。

 愛と権力は不可分なのだ。たとえそこに経済的・政治的権力関係が存在しなくても、愛は本質的に権力を伴う。

 とにかく本書はあまりにもおもしろいので、早く続きを読みたくてうずうずするのだ。仕事中にも思い出して、手が震えるような思いに苛まれる。「ああ~、あの本の続きを早く読みたいっ!」ってね。

 でも、そう思えば逆にゆっくり読みたいという気持ちにもなる。こういうことはあんまりない。
つまりはものすごくおもしろい本なのだ。へたな小説を読むよりずっとおもしろい。

 最近つらつら思うことだが、評判になった小説を読んでもあんまりおもしろいと思えない。むしろ、こういう本や、哲学書を読む方がずっとスリリングでおもしろいのだ。

 たとえば『ららら科学の子』。これ、おもしろくない。分析が浅い。これを読むぐらいなら、『民主と愛国』を読む方がずっと時代状況をつかめるし、時代を生きた人々の息吹や苦しみが伝わる。

 『ららら科学の子』の主人公は悩んでいないのだ。あの時代を、1968年を、本当に生きて苦しんだとは思えない。全共闘世代に10年遅れたわたしですら、自分の若い頃の思想にもっと深い懐疑や苦しみを感じているのに、この小説はそこに迫っていない。

 わたしって文芸書読みに向いてないのかなぁ。


<書誌情報>

戦争が遺したもの : 鶴見俊輔に戦後世代が聞く
鶴見俊輔, 上野千鶴子, 小熊英二著. -- 新曜社, 2004

憲法草案作成の陰にロマンスあり

2004年08月16日 | 読書
『敗北を抱きしめて』下巻に登場するベアテ・シロタのことが気になったので、『憲法に男女平等起草秘話』 土井たか子, ベアテ・シロタ・ゴードン [述]. 岩波書店, 1996. -- (岩波ブックレット ; No.400)
を読んでみた。

 当時22歳のシロタはリサーチャーとして優秀な人材であったし、そのことを本人も隠さない。日本人なら謙遜しそうだが、彼女は「自分が優秀だった」ということを誇りにしているようだ。また、そのように訓練されるよい機会もあったという。

 また、草案をめぐる日本側の議論では、天皇制に関する部分がもっとも紛糾し、彼女が草案を書いた民法の部分も大激論になったという。

 シロタは、このときの一連の仕事で通訳として知り合った米軍のゴードン中尉と結婚した。憲法草案作成の裏にロマンスがあったのだ。
 ますます、映画化したくなる題材だなぁ~
 女性監督に映画を作ってほしいよ、ほんと。

Posted by pipihime at 21:50 │Comments(2) │TrackBack(1)
2004年08月15日
「民主と愛国」11,12章
 11章はあんまりおもしろくなかったが、12章は安保闘争の章である。時代の状況が手に取るように見えてくる。

 かつて、安保闘争関係資料を整理し目録を作ったわたしには、懐かしい記述や用語が登場してなんだかワクワクしてしまったが、それ以上に、小熊さんの、時代をつかむ認識眼というか、時代状況を的確に描き出す力量の大きさに感心した。

 「市民」という言葉は、安保闘争の中で初めて肯定的に使われた言葉だったのだ。敗戦後すぐは「プチブル」と同意語だった「市民」が、既成の組織から自由な人々という意味で肯定的に使われた。

 「市民」は、安保闘争のなかで現れた、自立と連帯が同時に実現している状態を形容した言葉だった。政治学者の福田歓一は当時の座談会で、個人が自発的に組織を作って連帯を生みだしてゆく感覚が安保闘争で生まれたと述べ、「つきつめれば、一人一党になったわけで、それが市民精神だ」と述べた。江藤淳も、自立と連帯を兼備した「新しい市民的な運動」の必要性を唱えた。(p524-525)

ただいま読書中「民主と愛国」10章まで読了

2004年08月14日 | 読書
 この本は『敗北を抱きしめて』と重なる時代を分析しているのだが、『敗北を抱きしめて』ほどにはサクサクと読めない。かなり時間がかかっていて、読了するのに2週間ぐらいかかるんじゃないかな。とほほ。
 同時並行であと3冊ほど読んでるが……

 サクサク読めない理由として、大量の人名に惑わされていることが挙げられる。
 本書は戦後思想史を分析する大著だから、大勢の知識人の名前が登場する。分析対象となっている人々の著作になじみがなければ、理解するのにかなり努力が必要だ。参考文献を読みながら(人名辞典とか著作紹介文献とか)でないと、前に進めないこともしばしばだ。
 
 逆に、なじみの研究者の名前が続出するところでは、過去に読んだ彼らの著作が頭をよぎって、独特のノスタルジーにひたってしまう。

とりわけ、第8章「国民的歴史学運動」の章では、わたしが学生時代、既に老大家だった歴史学者たちの若き日々が描かれ、たいそう興味深い。思えば、このように一時代をなした研究者たちの薫陶を受けることができたわたしはとても幸せだったのだ。でも、当時はその特権的幸福にまったく気づいていなかった。
 不勉強で傲岸不遜な学生だった我が身が恥ずかしい。ちゃんと勉強して先人たちから学べばよかったと今頃反省している。

 とにかく本書は、戦後知識人の思想にわけいる分析がたいそう興味深く、わたしは『敗北を抱きしめて』よりもずっと深いその思惟の世界に耽溺している。
 
  著名な思想家とは、ユニークな思想を唱えた者のことではない。同時代の人びとが共有できないほど「独自」な思想の持主は、後生において再発見されることはあっても、その時代に著名な思想家となることは困難である。その意味では著名な思想家とは、「独創的」な思想家であるよりも、同時代の人びとに共有されている心情を、もっとも巧みに表現した者である場合が多い。(p20-21)

 戦後思想の展開は、戦争をどのように体験したかということにかかっていたという。つまり、世代によって、戦後の知識人のスタンスの基本が決まったのだ。

 「ナショナリズムとデモクラシーの綜合」という思想、「民主」と「愛国」の両立は、戦争体験の記憶という土壌のうえに成立していたものだった。(p103)

 わたしは若い頃、明治20年からおよそ100年ぐらいの間に発行された新聞を通読するという仕事を10年以上続けたために、その時代の言葉遣いというものに慣れ親しむ希有な機会を得ることができた。

 だから、本書で小熊さんがやろうとしたことに目新しさは感じない。つまり、同じ言葉が時代によって異なってとらえられていたという事実は、わたしにとっては当たり前のことだったのだ。わたしだけではなく、歴史学者にとってはそれはあまりにも当然のことだったので、誰もそんな「言説」にこだわって分析する者がいなかったのだろう。

 本書で大きなキーワードは「民主主義」や「民族」「愛国」「市民」といった抽象的な用語なのだが、確かに、それらの用語が歴史的にどのように変遷していったかを分析することがそのまま、戦後思想史を跡づけることになる。

 わたしが、「思想を表す用語が時代によって異なった意味で流通した」ということを当然のこととして受け止めていたといっても、その根拠となる言説は当時の新聞や雑誌に掲載されたものである。わたしはそれぞれの知識人の書いたものを丁寧に読んだわけではなく、小熊さんが分析した思想家のうち、まったく未読のものも多い。

 だから、本書のように精緻な分析をされると、実に小気味よく、新鮮な感動を覚える。

 本書はあと半分残っているが、これを舐めるように読んで楽しみたいと思っている。

「敗北を抱きしめて」下巻読了

2004年08月08日 | 読書
 下巻では憲法改正過程がスリリングに語られる。GHQの中で改正憲法草案を作ったメンバーの中にウィーン生まれのロシア系ユダヤ人女性ベアテ・シロタ(22歳)がいた。憲法の中の「両性の平等」項目への彼女の寄与は大きかったそうだ。

ジョン・ダワーの語り口はほんとうにおもしろい。だから、いろんな情景が目に浮かんでくるのだ。
わたしは思わず、彼女をヒロインに映画を作ってみたいと夢想してしまった。コンテまで目に浮かんだよ。

ところで、細々した事実を隅々まで目配りの利いた筆致で描くダワーだが、上巻で民法改正について述べたくだりには事実誤認があった。

日本の家制度は完全に払拭などされなかったし、戸籍を遺したことで事実上家制度は残存してしまった。どうもダワーには戸籍制度があまり理解できていないのではなかろうか。戸籍というのは実に細かい制度で、戸籍フリークでなければ知らないようなことがいっぱいあるのだ。ジョン・ダワーが少々間違えてもやむをえないかもしれない。


「近代天皇制」という宿痾を考えるに絶好の材料を提供してくれた本書は(本書だけではなく他に多くの研究書があるが、これほどおもしろく読ませるものも珍しい)、マッカーサーの「民主主義」と「天皇制」が対立するものではないことを具体的に叙述している。

「押しつけ憲法」と言われている日本国憲法だが、マッカーサーは本気で日本の民主化を望んでいたにもかかわらず、憲法を日本人の手で作らせなかった(日本側の憲法草案を一蹴した)。それはなぜか?

マッカーサーは天皇を守らねばならないと考えていたのだ。

マッカーサーは、彼が押さえ込もうとしていた超保守主義者たちと基本的には同じ心配から行動を起こすことを決意したのである。最高司令官の三原則の中で、天皇の地位の問題が最初に挙げられたのは偶然ではない。それは、マッカーサーがもっとも関心を払っていたことであった。戦争放棄や封建制度の廃止は彼にとって二の次で、天皇制と天皇個人を救うことに世界の国々からの支持を獲得するために必要だと彼が考えた条件なのであった。これはマッカーサーが約束していた日本の「非軍事化と民主化」を否定するものではなかった。天皇はこの方面でも救世主になりうるからである。憲法修正をめぐる緊張にみちた壮大なドラマは、日本の保守主義者たちが最も大切にしている目標が、まさに政府自身の超保守主義的傾向によって危険にさらされていると思われたところに端を発していたのである。(p119)


また、これも従来言われていることだが、戦後日本の経済を支えた基本構造は戦時中にできあがっていたこと。

戦後の諸制度には、戦時のシステムから引き継がれたものがあったが、それらは必ずしも軍国主義的なものではなかった。たとえば少数の民間銀行への金融依存度の増大と並んで、産業の下請けネットワークも、戦争のシステムの一部であったが、これらはすべて、戦後経済に置いて系列と呼ばれた構造をささえる心臓部となった。大企業では、株主への配当よりも、いわゆる終身雇用を含む雇用の安定が重視された。これが戦後日本に特有のシステムとして特筆されることが多いが、その本当の起源は戦争中に発する。経営や産業に対する「行政指導」のように、政府が積極的に役割を果たすやり方も、戦争に起源がある。敗戦の苦難の中で、先の見えない戦後聴きに直面した多くの日本人にとっては、こうした従来の制度を維持していくことは当然の選択のように思えたし、アメリカ人のご主人たちのしぶしぶの同意の下に日本人がやったことは、本質的には従来の制度を維持することであった。後に「日本モデル」と呼ばれ、儒教的価値のレトリックで覆い隠されたものの多くは、じつは単に先の戦争が産んだ制度的遺物だったのである。(p389)

占領軍は、到着した瞬間から日本の官僚組織を保護した。そしてそれによって官僚組織の役割と権威を高めた。……強力な官庁である通商産業省が創設されたのが、占領が終わる三年も前であったという事実は、日本の官僚組織を強化したのはアメリカであったことを最も鮮明に示す例である。
 ……占領軍はそれ自体が官僚組織であった。……
 こうして、連合国最高司令官による新植民地主義的な上からの革命という変則的な事態は、諸刃の剣となった。それは純粋に進歩的な改革を推進すると同時に、統治の権威主義的構造を再強化した。船中のシステムと戦後のシステムが締め金(バックル)でつながっている――。そう表現する場合、連合国最高司令官こそがその締め金であったことを忘れてはならない。(p390-391)


 <書誌情報>

 
敗北を抱きしめて : 第二次大戦後の日本人
ジョン・ダワー [著] ; 三浦陽一, 高杉忠明訳
; 上, 下. -- 増補版. -- 岩波書店, 2004


朱い文箱から(アカイ フバコ カラ)

2004年08月03日 | 読書
 鶴見俊輔『アメノウズメ伝』平凡社ライブラリー版のあとがきに、鶴見さんが
「この本の書評を田中美津さんが書いてくれた。岡部伊都子さんがエッセイを書いてくれた」
と書いていたので、興味を惹かれて手に取った本だ。

鶴見さんの本に触発されて岡部さんが書いた「オカメロン」という巻末のエッセイだけを読むつもりで図書館で借りたのに、ついついほとんど全部を一日で読んでしまった。

このエッセイ集は、古めかしさが漂うぐらい端正で上品な文体に清々しさを感じる逸品だった。標題になった巻頭のエッセイ「朱い文箱から」は電車の中で読んでいて涙がこぼれてそうになり、困った。

岡部さんの文箱(ふばこ)の中には昔、隣の家に住んでいた東京帝国大学医学部学生からもらった手紙が入っていて、そのことにふれたエッセイだ。その手紙は21歳の学生が14歳の伊都子さんに宛てた情熱的で難解な愛の告白である。
その人の気持ちに応えることができなかった当時の岡部さんだが、戦争で亡くなったその学生さんへの思いを込めて書かれたこの文章には、戦争への憎しみをかきたてるものがある。
岡部さんの兄も婚約者も戦争で亡くなった。いかに多くの若者が、ただ明日を生きて迎える、という簡単なことができなかったか。無念という言葉も空虚に響くような激しい悲しみに襲われる。

岡部さんは、戦争責任ということを深く考える。あの時代に世情に逆らって自分の言葉でものを言える人がどれだけいただろう。隣家の学生の母親は、その貴重な一人だったという。その「おばさん」の言動にまたわたしは感動してしまう。

学生の恋文など、読んでいて恥ずかしくなるような文章も挿入されているが、このエッセイは心打たれる珠玉のものだ。

そしてまた、岡部さんのナイーブな側面がよく現れたエッセイが、「ふたつの彫刻」。

舟越保武の彫刻「病醜のダミアン」
ゴーガンの彫刻「癩患者の像」

岡部さんは、この二つの彫刻に強い印象を受け、感動したという。そして、長らく交際のあるハンセン病療養所の患者に図録を送った。「素晴らしいものだ、ぜひ見てほしい」と彼女は素直に思って行動したのだが、その彫刻に元患者から「患者の醜悪な容貌を強調し、差別を助長する」という抗議があったことを知って、岡部さんは激しく反省するのだ。

この二つの彫刻が展示されることに元患者からのクレームが出、「表現の自由」をめぐってさまざまな議論を呼んだらしい。

岡部さんは、自分が元患者の痛みを知らずに無頓着で軽率な行動をとったことを反省して、次のように言う。

私が、元患者さんたち社会復帰者の心のいたみを感じないで、ゴーガン、舟越の二作品にすぐ感動したのは、なぜか

中略

 私が「いたみの前に感動した」自分に恥じて「ごめんなさい」とあやまったのは、それで事ずみとするためではなく、患者体験がない自分に欠けている認識の不足をわびるところからしか、真に近づく次がはじまらないからだ。このことがあったおかげで、今頃になって、かつて病者であった人びとにうずく心の残傷を思う。しんしんとひびく。


岡部さんの心の優しさや他者への感受性の深さには感動するけれど、なんで「ごめんなさい」と謝る必要があるのだろう。絵画や彫刻を見て感動する。それは作者の力強いメッセージを受け止めた素直な心根が受け取る本源的な感動だと思う。

それをまで否定して「ごめんなさい」と言う必要があるのだろうか。確かに、自分と同じような感動をすべての人が受けるわけではない。ハンセン病元患者にとっては不快なものなのだろう。そういうことに想像が及ばないのはしかし、その本人の精神の貧困さを表すのだろうか? わたしなら、最初に彫刻を見て感動したその気持ちを大事にしたいと思う。

元患者さんたちの怒りや悲しみはまた別次元の話だと思うのだが…



 書誌情報
 『朱い文箱から』岡部伊都子著. 岩波書店, 1995






結婚帝国女の岐れ路

2004年07月30日 | 読書
 上野千鶴子と信田さよ子の対談。

 わたしはずっと上野千鶴子ファンだったし、今でも好きなんだけど、どうも最近彼女の割り切り方についていけないものを感じるようになってきた。

 特に本書を読むとそう感じる。なんでもかんでも上野さんみたいに「いやなら別れたら」とか「なんでそんな男と一緒にいるのよ」とかすっきりいかないのが世の中で、その上、「今の三十代は親のインフラにパラサイトできる最後の稀有な世代で云々」などと簡単に世代論で一掴みにものごとを論断しないでほしいと思ってしまう。

 わたしなんて、三無世代だけど、自分じゃぜんぜん同世代の人たちになじめないと思っていたし、だから「今の若者は」とか「最近の30代は」などと世代でくくられるのがとっても嫌だったのだ。

 社会学者はマクロの話をするけれど、そこからこぼれる例外的な一人一人をどうしてくれるのよとわたしなんかは言いたいわけで、そうなるとそこは心理学者が拾ってくれるわけだ。ところが心理学の心理還元論がまたわたしには癪に障るわけで。

 となると、本書のような社会学者と臨床心理士との対談は、そのニッチを埋めるいいものになるはずなのだ。

 本書の対談が行われたのは2002年。発刊が2年遅れたので、「結婚の条件」や「負け犬の遠吠え」に出遅れてしまったのが、販売戦略的にはちょっと痛い。内容的にはかなりかぶるが、本書は対談だけに話がどんどんずれていくため、「結婚の条件」ほどにはきっちりとした分析をやったという印象が残らない。

 それに、特に前半は上野さんの個性が出すぎて、読んでいて違和感を感じてしまう。むしろ、後半、話題がドメスティック・バイオレンスとそのカウンセリングに入っていくあたりのほうがずっとおもしろかった。

 信田さよ子さんは、クライアントの生育暦を探っていくフロイト式のカウンセリングをしないという。そして、なぜDV男から女が逃げないのかという理由を分析している。その内容を上野さんの言葉を借りれば

 DV被害者の女性が、「どうして夫から逃げないのか?」というもっともな疑問に対して、「明日から生活が成り立たないから」という経済的な要因や、「暴力におびえきって自分からなにかをする力さえ奪われているのよ」といった無力化を挙げる通俗的な解釈に対して、わたしはずっと違和感を持ってきたが、彼女はそこに、当事者のプライドのゲームという主体的な関与をあげて説明してくれた。被害者は主体的にそこに留まるのだ、と。(p284)


 本書は、信田さよ子というよき対談者を得たことが最大の成果だ。