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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

積読本の中に埋もれていた『反=理論のアクチュアリティ』

2005年08月20日 | 読書
 積読本を入れた引き出しをあけて「そろそろちょっと整理しようかな」と何気なく何冊か手に取ってパラパラと読んでみた。読み始めるとつい引き込まれるのだが、なにせ時間がないし、今同時に3冊の本を並行して読んでいるからこれ以上読書はできないのだ。

 その中の一冊に『反=理論のアクチュアリティ』があった。これは大学の同級生馬場靖雄くんが編者になっている本だ。そういえば読んでなかったわ。彼はルーマン研究者で、彼から寄贈された大部な『社会の芸術』もまったく手付かずだ(ごめんなさいごめんなさい)。

 して、その『反=理論』の目次を見ると、馬場さんの名前の次に、先ごろからなぜか話題の北田暁大氏の名前があるではないか。「へー」と思ったので、ついでだわ、と馬場・北田両氏の論文だけ読んでみることにした。あ、フーコー論があるから、園田氏のも読もう。

 馬場論文は社会学理論についての論考。メタ社会理論はものの言い方がおもしろい。しばしば社会システム論は理屈ばかりに走って実証との接点を忘れていると批判されるが、馬場さんはそれに応えてこう言う。

「この本の内容はどんな現実性をもっているのか」との疑問に対しては、「あなたがこうしてこの本を読んでいること自体が、われわれの発話が現実に存在し、現実性をもっていることの証である」と答えておこう。(まえがきより)

 そして、馬場論文の結語は次のように語られる。この結論はなんだかおもしろいというか、よく「わかった」んだけど、そこに至るまでのゲーデル的脱構築だの否定神学だのという哲学概念の操作がけっこう長い。

+++++++++以下、p32より引用++++++++

 かくして社会学理論は失敗することによって、すなわち社会に関する普遍的な言説として流通・浸透し損なうことを通して、自分自身に抵抗しつつ自己を貫徹する。社会学理論が現代社会に対して「批判的」な機能を担うのは、この点においてである。つまり社会学理論は、コンスタティヴな内容においてではなくパフォーマティヴな効果において、現代社会が単一のパースペクティヴからは把握されえないことを、また特定の「価値」「規範」によっては統一されえない分裂した存在であることを、示すわけだ。したがって、もはや理論の内容に準拠して批判的な理論とそうでない理論とを弁別することはできない。社会学理論はその位置価(Stellenwert)そのものによって「批判的」たらざるえをえないのである。
 ただし正義の場合と同様に社会学理論も、失敗を目的としてはならない。あくまで普遍的に語ることをめざしつつ、結果として失敗しなければならないのである(もちろん、こう述べること自体を含めて)。したがって、二重の目隠しが必要になる。ルーマンがよく用いる言い回しをパラフレーズするなら、社会学理論は見てはならないということを見てはならないのである。

++++++以上、引用ここまで+++++++++

 馬場さんはmixiに参加されていて、つい先日友達リストへの招待が来た。「馬場靖雄」っていうコミュニティもあるんだ、初めて知ってしまった。

 この論文を読んで東浩紀『存在論的、郵便的』のことが少し理解できたのが収穫。それにしても理論社会学って難しいね。こんなの毎日やってたら眉間に皺が固まって日本海溝みたいになっちゃうよ(^^;)。


 さて、次は北田暁大論文「政治と/の哲学、そして正義」。これはアメリカのプラグマティストでありリベラリストであるリチャード・ローティに関する論文だ。そういえば北田さんは『嗤う日本の「ナショナリズム」』でも最後にローティを取り上げていたな。宮台真司がローティを持ち上げることに批判的な目を向けていた。

 北田さんのローティ批判は一言でいえば、「ローティは自国文化第一主義者であり、彼がいうところの「文化左翼」にほとんど言いがかりのような批判を加えている」というもの。

 ローティがいうところの「文化左翼」とは「カルチュラル・スタディーズ、フェミニズム、ポストコロニアリズム」を指すらしい。そういえば、ミヤダイが嫌いなのもこの三つだ。

 ローティは、文化左翼どもが哲学の世界で形而上学の理屈をこねていればいいものを、政治に口出しし、しかも哲学が政治より上等なものであるかのように言いふらすことが気に入らないらしい。

 けれど、北田さんに言わせると、ローティが指し示すところの「文化左翼」なるものがそもそも的はずれであり、文化左翼を批判する基盤たる彼自身の哲学=プラグマティズムもまた《思想なき思想》に他ならないのに、自分のプラグマティズムについてはその危険を顧みることはしない。

 「本質はない、というのが本質だ」と語る「文化左翼」は本質主義に陥っている、というローティの批判じたいは正しい。というか、傾聴に値するだろう。ローティがやり玉にあげる反本質主義者は、サルトル、ド・マン、デリダ、ラクラウ=ムフ、ラカン、リオタールなど。

 ローティは自分が信仰するラディカル・プラグマティズムだけは「反本質主義の罠」に落ちていないという根拠のない確信を抱いているらしい。それはつまり、アメリカ式立憲民主主義が最も素晴らしいとする根拠のない信仰と同じだ。


 さて、三つ目の論文「行為としてのフーコー」(園田浩之)について。
 「フーコー主義社会学」なる言葉あるとは知らなかった。言説分析である社会構築主義のことは以前本を読んだから知っているけど、そのときに「フーコー主義社会学」なんて書いてあったかしらん?

 なになに、ラカン派からのフーコー批判とそれへの反批判? ふーむ、「郵便的」ねぇ、また出てくる、「否定神学」。とまあ、ちょっとそそられる内容ではあるのだが、時間がない。これはかなり理屈っぽい話で、わたしが読みたいと思っているフーコーとは違うみたいなので、今回はとりあえずパス。すんません、また今度。

 ※本書の収録論文を挙げておく。

◆二つの批判、二つの「社会」 馬場 靖雄著
◆政治と・の哲学、そして正義 北田 暁大著
◆規範のユークリッド幾何学 竹中 均著
◆社会的世界の内部観測と精神疾患 花野 裕康著
◆行為としてのフーコー 園田 浩之著
◆社会における「理解可能性」と「理解不可能性」との循環 表 弘一郎著


 近いうちに積読本のリストを作ってみよう。いっとき100冊を超えていたのだが、ちょっと減ってきたし、これからは積読本は50冊以内に抑えるように心がける。とゆーか、皆無にしたいもんやわ。最近はとんと本を買わなくなって、ほとんど図書館で借りるようにしているんだけど、それでもジワジワ増える。ときどき在庫一掃やって、古本屋に売り飛ばしたり捨てたりうちの図書館に寄付したりしているんだけど。やれやれ。

<書誌情報>
 
 反=理論のアクチュアリティー / 馬場靖雄編. -- ナカニシヤ出版, 2001

『ホモ・サケル』とは聖なる人間 : 読書メモ(1)序章と第1部

2005年08月14日 | 読書
 ギリシャ人の2つの「生」

 ひとつは「ゾーエー」zoe ……人にも動物にも共通の「単に生きている」という事実を指す。
 ひとつは「ヴィオス」vios ……個体や集団に特有の生きる形式、生き方を指す。

 「人は善く生きるために存在する」(アリストテレス)

 アリストテレスは人間を政治的な生き物と定義している。

 フーコーは『知への意志』(『性の歴史』第1巻)の中で次のように述べている。

「人間は数千年のあいだ、アリストテレスにとっての人間のままだった。つまり、生ける動物に政治的な実存の能力を加えたもの、である。近代の人間はというと、政治において、生ける存在としての自分の生が問いただされる動物なのである」

 アガンベンは序章において、自らがフーコーの後継者であることを宣言する。フーコーが『監獄の誕生』においてふれなかった、あるいはふれることができなかったのは「収容所」の問題である。

 本書の狙いは三つ。(監訳者あとがきより)
1.主権権力はもともと例外状態を維持しようとするものだということ
2.例外とされ排除される聖なるもの(ホモ・サケル)は宗教にではなく政治にかかわるものだということ
3.政治の領域が拡大されるにつれてその例外はいたるところに姿を現すようになるということ

第1部「主権の論理」
 カール・シュミット『政治神学』(原著1922年、日本語訳1971年未来社)からの引用が続く。

「主権者は、法的秩序の外と内に同時にある」

 「一般」を説明するためには「例外」を説明するのがよい。例外は実定法を超越する一つの要素である。

 例外化とは一種の排除である。

 ノモスとピュシス

 ノモスの定義がよくわからない。
 ノモスとは「世俗的秩序」とか「法・習慣」と訳されるようだ。アガンベンはしかし、そこにもっと多義的な意味をもたせている。

 ピュシスは「自然で本性的な秩序」とか「聖なる秩序」と訳されるケースがある(ネットでの検索の結果)が、やはりアガンベンはプラトンその他を引用しつつ、この語に多くの意味を含ませている。
 
 プラトンの関心はピュシスとノモスの対立ではなかった。

 主権者とは、暴力と法権利のあいだが不分明になる点であり、暴力が法権利へ、法権利が暴力へと移行する境界線だ(p50)

 アガンベンは「逆接」を強調する。それは意図と結果の乖離という言葉を思い出すように、社会学の出発点たるヴェーバーの視点と同じだ。
 

 4.1 
 
 アガンベンはカフカの説話「法の前」を引用する。法の門は開かれているのに、農民はそこへ入ることができない、という例のあれだ。大澤真幸さんが『文明の内なる衝突』で引用していた(たぶん。『自由を考える』だったかな?)。

+++++以下、p76より引用++++++

 カフカの説話は法の純粋な形式を露出していると言える。その形式をとることで法は、もはや何も命ずることがないということで――すなわち純粋な締め出しとして――最大の力で自らを肯定する。農夫は法の潜精力へと引き渡されるが、それは法が、農夫からは何も求めず、法自体が開かれてあるべしということ以外の何も厳命してはいないからだ。主権的例外化の図式にしたがえば、法は農夫に対し、自らを適用から外すことで自らを適用し、法の外に農夫を遺棄することで、彼を法からの締め出しの内に保つ、と言える。開かれた門は農夫だけに向けられたものだが、この門は農夫を排除することで包含し、包含することで排除する。これこそがあらゆる法の最高の頂点であり、第一の根源である。『審判』で司祭が法廷の本質を「法廷はおまえからは何も欲していない。法廷はおまえが来るときは迎え入れ、おまえが立ち去るときには行くにまかせる」と要約するとき、彼が言い表しているのは、ノモスの本来の構造である。

++++++++引用ここまで++++++++

 アガンベンの「法の門」解釈はおもしろい。農民は法の門からついに閉め出されるのだが、それはひょっとしたら彼の複雑な戦略ではなかろうかというのだ。つまり、結果的に法の門は閉まってしまうわけで、門の効力を断ち切る結果をもたらしたのだと考えられるではないか。門は彼のためだけに開いていた。そして農夫は門前でのたれ死ぬことによって門を永久に閉めさせた。彼は法の力から自由になったのだ。
 「あまりに開けているがゆえに入ることを許さない門に適した唯一の戦略である」(p86)。

 国家の終わりと歴史の終わりとを、一方を他方に抗して動員することで同時に思考できる思考だけが、今日、思考の務めにふさわしいものだろう。(p92)

 第1部章末「境界線」という節で、アガンベンはベンヤミンの『暴力批判』に言及する。

 法権利と暴力の結びつきを保持するもの、それが「剥き出しの生」である(@ベンヤミン)。

 ここまできてやっとアガンベンは本書の主題らしきことを言う。もう100頁近いよ(T_T)。

+++++++以下、p99-100より引用++++++

 生の聖なる性格という原則は我々にはまったく馴染みのものとなっており、我々は次のことを忘れてしまっているようだ。すなわち、我々が倫理的-政治的概念の大部分を負っている古代ギリシャにはこの原則は知られていなかったばかりか、我々が「生」というただ一つの語で差し示している意味上の圏域を、その複雑さをもたせたままで表現する語も古代ギリシャにはなかった、ということである。ゾーエーとビオスの対立、生きることと善く生きることの対立(つまり、生一般と、人間特有の生の様式との対立)は、たしかに西洋の政治の起源にとっては決定的である。

 ………
 人間の生はいつどのようにして、最初に、それ自体聖なるものと見なされるようになったのか? …… 主権において例外かされ補われているのは何なのか? 主権的締め出しの保持者とは誰なのか? ベンヤミンもシュミットも、やりかたは互いに異なるが、生(ベンヤミンのいう「剥き出しの生」、シュミットのいう「反復するうちに錆びついてしまった機構の外皮を破る…実効的な生」)を、例外において主権と最も密接な関係をもつ要素として指し示している。この関係をこそ、いまや明らかにしなければならない。

++++++以上、引用++++++++

 はぁぁ~、やっと本論です。疲れたので続きはまた今度。次はいよいよ第2部「ホモ・サケル」。ここまで読むのにどんだけ苦労したか(大汗)。


◆目次◆

第1部 主権の論理
 1.主権の逆説
 2.主権者たるノモス
 3.潜勢力と法権利
 4.法の形式
 境界線


<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003

山田詠美にはまる

2005年08月13日 | 読書
 ああぁ~、またまたとみきちさんにそそのかされてしまった!
 この人のお奨め上手にはいつも完敗でございまする。もうあなたのいいなりよっ、てな感じ。



 ぼくは勉強ができない。と宣言して周りの好意的笑いを受けてしまう、とってもナイスな高校生が主人公。秀美とうい名のハンサムボーイはシングル・マザーの美人ママと好色なおじいちゃんと3人で暮らしている。この3人が3人とも浮世離れしていて、こんな人たちが一つ屋根で暮らしていたらほんとうに楽しいだろうなと思わせる。

 およそありえそうもない人々のおしゃれで洞察力鋭い会話には脱帽。リアリズムなんてまったく感じられない小説なのに、描かれていることは「人生の真実」だ。秀美は高校生らしからぬ老成した観察力をもって自分の周りの人間を見ている。

 「とみきち読書日記」で最初にそそられたのはこの本のほう。「A2Z(エイ・トゥ・ズィー)」

 「とみきち読書日記」のコメント欄で

とみきち「恋愛中に読むと、とっても良い、と友達が言ってました」
ピピ「わっかりましたぁ! 早速恋します。」
とみきち「んも~~~っ、言うことなしのベストなリアクション!」

 というようなやりとりがあって図書館で借りた。とみきちさんからは「では早速恋したんですね」というレスがあったが、……その件についてはコメントを差し控えさせていただきます(笑)。そんなおいしいことがあればここに書くってばっ(~o~)。

 この小説を読む前に『ぼくは勉強ができない』を先に読んだほうがいい。同じ人物が登場するからね。そう、ぼく=秀美くんのいかす母親、仁子が出てくるのである。この物語は仁子の同僚の恋物語。

 35歳という微妙な年齢の女性編集者とその夫、どちらも婚外恋愛中。夫婦は別々の出版社に勤務し、二人が同じ作家を担当することもあるというライバル同士。そんな夫一浩には一年前から若い女がいた。妻夏美に恋人の存在を告げて家を出て行く一浩。しかしこの二人、なぜか全然深刻にならない。夏美は夫の浮気を知って泣くけれど、どこか醒めている。おまけに自分まで10歳年下の恋人を作ってしまう。

 さて、この夫婦のダブル不倫はどうなるのでしょう。AからZまで、26文字で人生のすべては描ける。その26文字を使ってそれぞれを頭文字に26の単語を紡いで夏美の気持ちを描いていく。山田詠美、すごいです。こんなに軽快でわたしにフィットする文体は久しぶりだ。物語は少しずつ時間を飛ばして先に進む。そしてほんのちょっと時間を戻る。この往還がまったく断絶なしにすっと挿入されるあたり、とっても映画的な小説だ。

 「不倫」だなんて、だれが倫理を決めたの? 不倫だなんていいたくない、これは恋なの。彼はわたしの恋人。そう言う夏美は、まるで十代の女の子のようにはじけた恋をする。あまりにもあっけらかんと明るく楽しく胸を焦がす恋には、ちょっと恥ずかしくなってしまう。さすがにわたしぐらいおばさんになってしまうと、こういう恋は感情移入が難しい。むしろ、夫婦の絆とはなんだろうと考えさせる部分のほうがずっと感情同化がたやすい。

 山田詠美はけっこう説教臭かったり哲学臭かったりするのだけれど、それを日常レベルの言葉で深く考え、感覚を鋭くえぐっていくから、読者にはぐさぐさくる。恋に恋するような有頂天の恋。その最中であってさえどこか醒めている夏美という知的で美しい女性のまなざしが眩しい。

 そして、作家が編集者の言葉を借りて読者に語りかける小説への愛。ここにも胸が熱くなるものがある。

 こんなに素敵な小説を薦めてくださったとみきさんに感謝!
 小説の内容詳細はとみきちさんのブログをお読みください。心に響くセリフが引用されていて、しみじみします。

<書誌情報>

 
ぼくは勉強ができない / 山田詠美著. -- 新潮社, 1996. -- (新潮文庫 ; や-
34-6)

A2Z / 山田詠美「著]. -- 講談社, 2003. -- (講談社文庫)

『奇跡を起こした村のはなし 』

2005年08月12日 | 読書
奇跡を起こした村のはなし ちくまプリマー新書
吉岡 忍著 : 筑摩書房

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 過疎に悩むどこの村落にとっても夢のような奇跡を起こし、村づくりに成功した新潟県黒川村の半世紀の歴史。
 2度の大水害、毎年の雪害に苦しめられた寒村がどのようにして村営畜産場や村営ホテルを4軒も持つ村へと発展したのか。どのようにして農業と観光で「立国」していったのか、ルポライター吉岡忍は村長を始めとした村の人々へ丹念にインタビューしていく。
 かつて農閑期には出稼ぎで男がいなくなった黒川村は、今では誰も出稼ぎに出たりしない。村営ビール園や村営畜産団地、村営ホテル、村営そば屋、村営スキー場、それらで働く村職員たちが大勢いるからだ。
 なにもかも村営でやってしまった「社会主義村」のリーダーは31歳で村長になって以来48年間この村をひっぱり続けた伊藤孝二郎。人跡未踏の荒野を沃野へと切り開く進取の気性に富んだバイタリティあふれる伊藤は、長生きして永遠に黒川村のリーダーであり続けると思われていたが、2003年癌に倒れ、今は銅像となって村営ホテルの前に立っている。
 村長になるやただちに若者たちに村営住宅を与え、集団農場を経営させた伊藤はまるで社会主義者ではないか(伊藤は左翼嫌いだが)。そのカリスマ的な存在感が他を圧倒したのは、単なる意気込みのせいだけではない。徹底的に情報を集め、政府の助成金・補助金をあらゆる方途で引っ張り出し、コネは大事にし、調査研究を怠らず、若者は次々に海外へ研修に送り出すという、大胆にして緻密な計画立案実行能力があったゆえんだ。
 黒川村の物語は成功譚だが、疑問もいつくか残る。山を削ってスキー場を作ったり次々と開発の手を休めることなく進めていったのは環境破壊につながるのではないのか? 植樹祭などは、天皇制に反対する人たちからいつも批判されているが、今生えている樹を伐採して土地を切り拓き道路を作りさんざん自然を破壊しておいて、そこに天皇が植樹するというまったくナンセンスな行事だ。
 じっさい、ダム建設計画には県内のNGOから批判が出たということが本書にも少し触れてある。だが、本書のトーンは全体として伊藤村政がバラ色だったように読みとれるのだ。一方でその紙背には、常に新規事業を開拓し続けてきた伊藤村政の自転車操業のような危なっかしさが隠されている。
 伊藤村長は「高度経済成長」という魔物を相手に村を疲弊から救うべく戦ってきたというけれど、実際にはその高度経済成長に助けられた面もずいぶんある。一村社会主義はまわりを帝国主義陣営に取り囲まれ孤軍奮闘したが同時に高度経済成長というもののおかげで黒川村は観光客を呼び込み繁栄したのだから。
一代目はしゃにむに努力して苦労する。その成果があがればそれでよし。問題は2代目3代目だ。伊藤村長亡き後、黒川村はどうなるのだろう。
あと、本書にはまったく書かれていないが、この村役場には労働組合はないのだろうか。ここの職員たちはみな異様によく働く。あきらかに労働基準法違反だ。いくら仕事が楽しいからといっても、これではちょっと問題があるのではなかろうか。伊藤村長以下、粉骨砕身して努力している姿には頭が下がるが、それを真似できない人だっているだろうに、と思ってしまう。
 この本を読むと猛然と黒川村(あ、もう市町村合併で胎内市になってしまった)に行きたくなる。いつかきっと行こう。と思う。


書評について

2005年08月05日 | 読書
 葉っぱ64さんのブログ「千人印の歩行器」を起点として「双風亭日乗」(双風舎の社長兼編集長のブログ)で「書評」をめぐって熱い書き込みが続いた。双風亭さんの真摯なご意見はまことに傾聴に値するものであり、そこにはわたしも書き込みをしたので、ここでもとりあげたい。
1回目http://d.hatena.ne.jp/lelele/20050801/1122847467

2回目http://d.hatena.ne.jp/lelele/20050802/1122925627

これは北田暁大さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』に対する批評がいかにあるべきかということをめぐって双風亭ことleleleさんが書かれたコメントだ。

「書評とは、本来は「作品には作品を」で批評し合うべきものを、それが物理的に困難な場合に、評者の側が「作品を書く」という行為をショートカットして、「作品」の代わりに提示するものなのだと思うわけです」
「評する側は、いつも安全地帯にいて、何でも書ける神様の視点を持っています。たとえば、誰かが北田さんの出自を「想定」して書くこともできる。北田さんの世代がどうだからと、一般化して書くこともできる。それが事実であろうとなかろうと、何でも書けてしまうのです。「作品」の範囲に踏みとどまらずに、神様の視点で書きたいことが書かれたものを、ここではカッコつきの「書評」としておきましょう。」

 これは、わたしや梶ピエール(kaikaji)さんの北田評への批判であるわけだが、全文は直接leleleさんのコメントとそれへのわたしや梶ピエール(kaikaji)さんのレスを読んでいただきたい。leleleさんは意を尽くして長文を書いておられるのに部分的に引用すると誤解を生むので、できるだけ全文を読んでいただきたいが、これは編集者としての著者への愛があふれたほほえましいものであると同時に、かなり厳しい「書評者への注文」でもある。

 わたしには本を評論するだけの力量が自分にはないとわかっているので、自分の書くものが書評だとは思っていない。単なる読書感想文だ。bk1に投稿するものもほんとうは読後感想文なんだけれど、bk1が「書評」だと称するからこちらもやむなく「書評」と呼ぶが、あれは本来の意味での書評ではない。

 どうせ素人が書くものだからと高をくくってブログに気楽に書き飛ばしているわけだが、それに対してleleleさんは苦言を呈しておられる。葉っぱ64さんが素人書評について「あくまで自分語りに終始して著者のレスを期待しない閉ざされた空間」だとおっしゃる定義にわたしも与するが、leleleさんは

「いくら自分で「閉じている」と信じていても、勝手に開くこともあり得ます。
 したがって、「無垢性」や「閉じている」ということを、いくら共通の前提にしようとしても、それらが無視されたかたちで、ネットに書いた文章は流通していくことになろうかと思います。
 なかでもやっかいなのが、「無垢性」です。書評で稼いでいないからとか、限られた人しか読まないから、自分たちは間違っていない(たとえ間違っていても免責される)、と信じてしまうことです。自分が正義だと思い込んだ人ほど、いいことをしていると思っていながら、他人への思いやりが欠けてしまったりするのが世の常。」

と書かれている。これはなるほど、と思った。確かにわたしのブログなんて読んでいるひとは限られているだろうし、どうせ著者も読んでないよ、と思っているが、それでも書いたことが一人歩きする可能性はゼロではない。もちろん自分では品位と節度をもって書いているつもりだが、つい筆がすべることもあるだろう。
 そういうときには、leleleさんの言葉を戒めにしたいと思う。

 褒めるのは簡単なのだが、けなすのはむずかしい。けなすだけならともかく、「批判」しようと思うと意を尽くすためには長文を書かねばならなくなる。それをするということは逆にいえばそれだけその作品に「愛」を感じているからだ。まったく一顧だにする必要もないようなもののことはそもそも取り上げて書いたりしないものだ。

 leleleさんにもコメントしたが、素人評者(ブロガー)にあまり厳しいことを要求するとかえって萎縮してしまう。そこは批判されている著者のほうも雅量をもって読んでね、と思う。もちろん書き手に自制心や節度を求めるのも当然だが。悪罵だけの文章は読んでいて気分が悪くなる、確かに。

 「神の視点で書かない」というリテラシーをleleleさんに教えられた。批判というのは難しい。著者が渾身を込めたものを批判するならこちらもそれだけの覚悟がいるのだろう。映画評もしかり。しかし、映画のときはけっこうボロクソに書いてるな、わたし。

80年代論、90年代論(2)

2005年08月01日 | 読書
 本書はエロ漫画編集者であった大塚英志の徹底的に個人的な回想録なのだが、自分のことだけを語りながら80年代という時代を浮かび上がらせていく手腕は見事だ。

 内容詳細はbk1の書評に詳しい紹介があるのでそちらに譲るとして、感想を手短かに。

 漫画家や漫画のタイトルなど固有名詞が頻出するので、それらの作品に通じていなければ読むのが苦痛になる部分があり、そのため本書を読むのは時間がかかった。

 だが、彼は時代を見通す鋭い目をもっている。昭和天皇危篤のおりに、平癒祈願の記帳に並んだ若者をどう評価するのか? その中の一人であった彼自身の語る言葉には説得力がある。いわく、あのとき記帳にいった若者達はじつは天皇について語る言葉も持たず、その語り方すら知らなかった。だからこそいま、巷に溢れるナショナリズムは天皇抜きなのだ、と。

 若者達は昭和天皇に他者性を喪失した親近感を抱いていた。天皇は「やさしいおじいさん」なのだ。

 実は本書を読了して既にかなりの時間が経ってしまった。もはや内容詳細は覚えていない、情けないことに。ただ、今後この本は折に触れて斜め読みしたり拾い読みしたりして再読するだろうと思う。

 本書より、北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズム』のほうがスマートで読みやすい。どっちが優れているかといった比較はできないのだが、ないものねだりの我が儘な読者としては、大塚英志と北田暁大を足して二で割ったような本が読みたいと思う。

 しかしやっぱり思うこと。大塚英志氏とわたしは同い年だ。だから同世代として語られてしまうのだろうけれど、違和感が大きい。わたしはいつも世代論には不満なのだ。それはわたしの個人的なルサンチマンに過ぎないが、「わたしの入る余地がない」と感じるからだろう。同世代の人々と違って新人類でもオタクでもないわたしをどう「分析」してくれるのか? どの世代にも入らないわたしのような少数派はどうすればいいのか? アイデンティティの揺らぎと疎外感に苛まれた青春時代の苦い思いがいまだに尾を引いている。

 わたしは大塚さんの「戦後民主主義を信じる」あるいは「戦後民主主義を奉じていくべき」という態度に頑固な好ましさを感じる。戦後民主主義は幻想だ。幻想だけれど、その幻想が役に立つことだってある。幻想であることを宣言しつつ、その幻想を使っていくべきではなかろうか。最近、なんとなくそんな気持ちになっている。


<書誌情報>

「おたく」の精神史 : 一九八〇年代論
  大塚英志著. 講談社, 2004.(講談社現代新書 ; 1703)

80年代論と90年代論(1)

2005年07月31日 | 読書
 この本は、2ちゃんねらーたちが偏狭なナショナリズムをまき散らしアイロニカルに政治問題にコミットしながら、一方で「電車男」のようなベタな話に涙するのはなぜか、という「現代若者気質」を分析したものだ。ものすごくおもしろかった。おもしろかったにも関わらず、なんだかなーという読後感が残る本でもある。

 では本書の課題を著者に語ってもらおう。

現代(の若者)文化における二つのアンチノミー、つまり、「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのか、という問題系である。「序章」より


 現代若者気質を分析するために、著者はまず60年代論から始める。

 60年代の思想とは連合赤軍事件に端的に結果した「反省」の思想だった。60年代的な「自己批判」総括は、反省そのものが準拠枠を持たないシステムの中で循環し、それは最初から終わることがない「反省」だった。「なにをどう反省したら反省したことになるのか」という準拠枠を持たない悲劇。連赤事件は森恒夫や永田洋子の個人的資質を超えて、彼ら自身の外部にある「反省システム」によって駆動された事件だった。

 ※この「反省」という行為様式の分析についてはギデンズの「再帰的近代」の理論を参照すべし。


 連赤事件の総括を「反省」「再帰的近代」をキータームに行うのはものすごくわかりやすい。わたしは連赤事件関係者の手記はかなり読んだが、どれを読んでもなにかすっきりしなかったのだが(特に永田洋子の『16の墓標』は臨場感はあっても事件の分析には役立たない)、本書を読んで納得してしまった。再帰的近代が彼らの過ちの原因なら、ことはマルクス主義に固有の事件ではないということだ。近代が孕む宿痾なら、これからも繰り返される可能性はある。そういう意味では戦慄を覚える。
 
 ただ、その69年的「反省」を「反省」することによって80年代の糸井重里的「消費社会的アイロニズム」戦略が生まれたとするなら、それは結局のところ、60年代への一つの闘いに過ぎないし、それもまた近代の枠の中で近代を延命させるものとして働いている。

 さらにまた80年代も半ば以降は消費社会的シニシズムへと時代精神は移行し、いっそう「無反省」が進むというのが北田さんの分析で、そこへの反動として90年代以降のロマン主義的シニシズムが生まれたという。内容詳細はもうメモしている時間がないので、割愛。 

 終章に手っ取り早く結論が書いてあるので、ここだけ読んでもよさそう。

 本書に対しては梶ピエールさんがたいへん興味深い批判を二度にわたって書いておられる。わたしもその批判には首肯した。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050331
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050410
これはぜひお読みいただきたい。
 梶谷さんも指摘されているように、2ちゃんらーたちの振る舞いについて、北田さんの分析は必ずしても正鵠を射ていないと思う。北田さんは2ちゃんねるをちゃんと読んでいないのではないか。もしくは、かなりの距離感をもって2ちゃんねるを観察しているため、その「深部」に分け入ることができていないのではないか。

 東浩紀のオタク分析がおもしろいのは、彼自身がオタクだからだ。彼は自分の好きなことを研究対象にしている。北田氏はそうではない。 

 思うに、北田さんの論というのは一読して感じられる<頭のよさ>が長所でもあり短所でもあるのだ。ものすごくスパスパと分析対象を切っていくさまは爽快だが、なんだか後にモヤモヤしたものが残ってしまう。「ほんとうか? ほんとうにそうなのか? なにかそこに残余のものがあるのではないのか?」と感じさせてしまう。

 1971年生まれの北田さんは、<政治的悩める青年時代>、「僕って何?」と悩む69年世代のような青春の蹉跌を経験していないのだろうな、と思う。だからこそ、クールに切っていけるものをもっているし、徹頭徹尾、自己の立ち位置を不問に付したまま論が進むのもそれゆえだろう。

 東浩紀の『動物化するポストモダン』がとてもおもしろいにもかかわらず何か物足りないものを感じるのと同じように、本書にもどこかボタンがきちっとはまっていないような妙なもぞもぞ感がある。
 世代論というのはいつもわたし不満を抱かせる。オタクと新人類を分析すれば80年代は言い尽くせるのか? 連合赤軍事件を分析すれば60年代はわかったことになるのか? 2ちゃんねらーが現代の若者を代表しているのか? 

 不満はあってもこの本はおもしろいには違いない。北田氏の次の仕事に注目したい。

 この本はかなり宮台真司のこれまでの仕事と、大塚英志『「おたく」の精神史』を下敷きにしている。そこで、刊行年を遡って大塚の『「おたく」の精神史』を読んでみた。長くなるので別エントリーで。

<書誌情報>

嗤う日本の「ナショナリズム」 北田暁大著. 日本放送出版協会, 2005.(NHKブックス ; 1024)

読みながら観る「姑獲鳥(うぶめ)の夏」

2005年07月28日 | 読書
 映画と原作、観てから読むか読んでから観るかといつも悩むのだが、今回は「そうだ、読みながら観よう」とはたと膝を打った。
 なにしろ長いので有名な京極堂シリーズだから、読み始めてもなかなか終わらない。映画はもう封切られてしまった。ということで読み始めた本書、映画鑑賞予定日(明日!)までに読了できるか? ここ数日は通勤電車内でコーラスの練習録音を聞いているので読書時間が減っているし。

 途中まで読んだところで映画を観ることになりそうだなと思っているのだが、案外早く読了するかもしれない。だっておもしろいんだも~ん。

 相変らずの京極堂の薀蓄たれが退屈しないのだ。相変らずというか、本書が京極夏彦のデビュー作なんだから、このスタイルはここから始まったんだね。『絡新婦の理(じょろうぐものことわり)』のときはフロイトだのユングだの社会理論だの説明が長くて退屈してしまったのだが(でもプロットはすごかった)、今回の量子力学だの精神病理学だのはストーリーの邪魔にならない程度の長さに抑えてあるので気にならない。

 それにしてももうクライマックス場面が過ぎてしまったのに、まだ100ページもある。いったいこのあとどう展開させるんだろう?
 映画の公式サイトを見て配役を確認。なるほど、イメージどおりかな。原田知世というのはちょっと違うかも。

え? アガンベン月間はどうなったって? はいはい、わかってますってば。ぼちぼち読むんですよ、別に夏休みの宿題じゃないんだから、ゆっくり読みます(^^;)。やっぱり電車の中で読むかなぁ……

※追記
 映画見ました。うーん、だめだ、こりゃ。

「生命学をひらく」

2005年07月26日 | 読書
 これは森岡さんのはじめての講演集だ。内容は『無痛文明論』や『宗教なき時代を生きるために』、『生命学になにができるか』などとかぶるのだが、読んだ印象がかなり異なる。特に『無痛文明論』のような読みにくさがないから、お奨めと言える。無痛文明論は「自分をぬきにした議論はしない」というスタンスなので、読者に対しても倫理的にギリギリと迫ってくるため、読んでいてだんだん息が苦しくなってくるのだ。

 その点、本書はじっくり胸にしみてくるので、心穏やかに読むことができる(笑)。←あ、笑っていいのだろうか?

 目次を抜粋しておく。

第1章 いのちのとらえかた
第2章 「条件付きの愛」をどう考えるか
第3章 共感的管理からの脱出
第4章 無痛化する社会のゆくえ
第5章 無痛文明と「ひきこもり」
第6章 生命学はなぜ必要か
第7章 「死者」のいのちとの対話
第8章 「無力化」と戦うために

第3章の「共感的管理」とは、この場合「母性による管理」を指している。森岡さん自身が母親によって真綿で首を絞めるように管理訓育された生育歴があるようで、そこからの脱出が容易ではなかったと述べている。
 
 母親というのは「あなたを愛している」という言葉や「こんなにあなたを思っているのに」と涙を流すことによって息子を束縛する。母の涙というのは息子から反抗心を削ぎ脱力させる威力を持つのだ。と同時に息子を発奮させてしまう。この母のために、と。

 息子を持つ母としては自戒するところ多なり。でもうちの息子に泣き落としの手を使ったことはまだない。

  第4章と第5章は「無痛文明とはなにか」がわかりやすく述べられているので、手っ取り早く無痛文明論を知りたければここだけ読んでもいいかもしれない。

 「無痛化」とは、痛みのない方向へ苦しみを避ける方向へと文明が向かうことを意味するのだが、単に「快適な文明生活をエンジョイしよう」という物質的なことだけを指すのではない。
 悩み・苦しみに向き合わずそこから目をそらす装置がこの社会にはいくらでもある。娯楽や恋愛もそうなのだ、と森岡さんは言う。恋愛まで無痛化装置の一つだと言われるとちょっとどうかという気はするのだが、ものすごく卑近な例でいうと、子どもたちがすぐにキレたり忍耐力がないのも、やっぱりふだんから「痛み」に耐えられない体質を作ってしまう無痛文明のせいなんだろうなと感じる。


 『無痛文明論』のエッセンスを手短に知りたければ本書がお薦め。でもやっぱりあの大部な本を読んで苦痛にもだえたほうがいいかもしれない(^^)。


<書誌情報>

 生命学をひらく : 自分と向きあう「いのち」の思想
   森岡正博著. トランスビュー, 2005

超多忙な一週間の終わりに『スペクタクルの社会』

2005年07月23日 | 読書
 今週はとにかく忙しかった。火曜はまだ余裕があったのだ。それが、水曜には顔が引きつりだし、木曜には頭が爆発しそうになり、金曜にはあきらめの境地に達したのであった。気分は「夏休みの宿題ができていない8月31日の小学生」。

 わたしは2年前からD大学の嘱託研究員を仰せつかっている。研究員とは名ばかりで何も研究していない。でもま、報酬をもらっているわけでないからえっか。それどころか研究会出席のために京都までの交通費も自腹を切ってるんだからね。でもさすがに何も発表しないわけにいかないから、昨日は「紹介報告」という番が回ってきたのであった。

 うちの図書館にある伝記資料の一覧リストをキーワードつきで作成し、なかの何点かをとりあげて詳しく紹介するとうだけのこと。ほんとならすごく簡単なはずなんだが、これがどうしてどうして。図書管理用パッケージソフトからエクセルへデータを落とすことが簡単にはできないのだ。テキストデータに落としてエクセルに載せ替えればよいのだが、それが入力文字数が固定長だったりして、結局は手作業になってしまう。

 えっちらおっちらと一項目ずつ貼り付けていたのだが、これが大変。そもそもふだんエクセルを使わないから使い方もわからない。マニュアル片手に眉間に皺を寄せ、それでもなんとか最低限のデータの貼り付けが終わったのが木曜の午後。その間に、手作業のおかげで過去の書誌情報の間違いをいっぱい見つけてしまったのでその訂正にも追われた。あー、目が痛い。頭が痛い。

 ところが! なんと、どういうわけか必要なデータのうち少なくとも200件ほどが抜け落ちていることが判明したのだ。遺漏分を探し出して一件ずつ貼り付けている暇はもうない。仕方がないから、金曜は不完全なデータを提出することになってしまい、「後日、修正版をみなさまのお手元にお届けします」と恥ずかしい弁明から始めねばならなかった。ふー


 とにかくよりによって昨日は暑かった。35度の大阪の町を出たのが午後2時半過ぎ。同じく猛烈に暑い京都の町をふらふらと西日に向かって20分間歩いていたのが午後4時頃。もう死んだね。

 疲労困憊しながらわたしの報告も終わり、もう一人の報告者M氏(大学の先輩でもある)の研究報告を聞いて、やれやれと帰途に着いた。京都からは遠いわぁ。でもま、おかげで帰りの電車の中で『スペクタクルの社会』を読了。

 本書は1967年に書かれたものだが、日本語訳はようやく1993年に出た。文庫本化にあたってかなり訳を訂正したという。30年近く前に現代社会を「スペクタクルの社会」だと看破したのは先見の明があったと言えるのだろう。でもこれはドゥボールのオリジナルで斬新な分析なのだろうか? 似たようなことは既に誰かが言ってたのではなかろうか。

 本書を読みながらまず感じることは、「新左翼」らしいその文体、語彙に懐かしさを感じるとともに、「疎外」(本書では「分離」)だの「階級闘争」だの「マルクス」だの「レーニン」だのと頻出するとうんざりしてくる、ということ。

 本書の書き方は独特だ。全部で221の断章の積み重ねからなる形式は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を想起させる。

 近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

 という文章で始まる本論は、高度に発達した現代資本主義社会が既にありあまる商品を生活のために消費するのではなく、記号として消費しているということを述べている。
 それって、今や常識やんか。だって、内田樹先生がしょっちゅうブログにそう書いているし。

 というように、この本に書いてあることは既読感が強い。「あ、これは内田センセイがいつも言ってることやな」「ここは森岡正博さんがどこかで書いてたことと似ている」「これ、原田達さんが『知と権力の社会学』で書いてたことと同じちゃうのん」とか思いながら読んでいるから、ちっとも新鮮味がない。逆にいえばそれだけ「スペクタクルの社会」論が後世の人々に多く引用され咀嚼されてきたということだろうか。でも今やだいぶ鮮度が落ちてしまっている。
 
 特に真ん中あたりの階級論が出てくるところは退屈なので思いっきりすっ飛ばして読んでしまった。で、つらつら読んでいるうちにいつのまにか本文が終わったんだが、その後に訳者解説が50頁もついている。これがまあ、おもしろいんだな。こっちだけ読んでおけばよかったかも。

 などと思っていたのだが、このメモを書くためにまた本書を読み直してみたら、なんと一回目よりもおもしろいのだ。どうなってんねん?(^^;)

 で、気になったところだけピックアップして引用しておく。

 第4章「時間のスペクタクル」より引用

 歴史と記憶の麻痺、歴史的時間の基盤の上に築かれた歴史の放棄、それらを現代において社会的に組織するスペクタクルは、時間の虚偽意識である。(テーゼ158)

 労働者を商品としての時間の「自由な」生産者にして消費者の地位に就けるため前提条件は、彼らの時間を暴力的に没収することであった。時間のスペクタクル的回帰は、生産者のこの最初の剥奪によってはじめて可能になったのである。(テーゼ159)

 集中した資本主義は、その最も進んだ部門において、「完成品の」時間ユニットの販売へと向かう。それらの時間ユニットは、一つ一つが、いくつかの数の商品を統合した単一の統一的商品である。その結果、「サーヴィス」経済や余暇経済の拡張のなかで、スペクタクル的住居や、ヴァカンスの集団的な疑似移動、文化消費への加入料金、「楽しい会話」や「いろんな人との出会い」というかたちでの社会性そのものの販売のための、「すべて込み」で計算した支払い形式が現れる。この種のスペクタクル的商品は、それに対応した現実の欠如感が劇化することによってはじめて広かったことは確かだが、分割払いが可能になることで、販売近代化のためのモデル商品のなかでそれが姿を現したということもまた同じように明白である。(テーゼ152)

 現代という時代は、本質的にはその時間を多種多様な祝宴の迅速な回帰として自己に示す時代であるが、実際は祝祭なき時代である。円環的な時間のなかで共同体が生の贅沢な浪費に参加していた瞬間は、共同体も贅沢もない社会にとっては不可能である。対話と贈与のパロディである現代の世俗化された擬似的な祝祭が余分な経済的浪費を促す時、それらの祝祭は、結局は、常に新たな失望の約束で埋め合わされる失望に終わるしかない。現代の余分な生の時間は、スペクタクルのなかで、その使用価値が縮小された分、いっそう高く己れの価値を吹聴しなければならない。時間の現実は時間の広告に取って代わられたのである。(テーゼ154)

 太字の引用が続くと読みにくいので、ちょっとコメントを。

 本書の最終章は「文化における否定と消費」と題されていて、やはりこれも断章からなるので、章全体を要約したりはできないのだが、概してドゥボールの本は文化論がおもしろい。きっとわたしの興味関心と一致するからだろう。最終章には社会学批判と構造主義批判が書いてある。

 「主体」とか「階級闘争」「プロレタリアート」を連呼するドゥボールの口調はサルトルやかつての左翼のそれを思い出してちょっと恥ずかしかったりする。その恥ずかしさは若い頃の自分の書いたものを読み直して感じる恥ずかしさに似ている。でも、わたしは若い頃の自分を全否定する気にはなれない。だから、ドゥボールの口調はともかくとして、最終章に書かれた構造主義批判については共感を覚える。

 さて、ドゥボールがどのように構造主義を批判するのだろう。それについては訳者解説から要約引用してみよう。

 ドゥボールは1957年に「シチュアシオニスト・インターナショナル」を設立し、1972年に解散するまでその中心人物であった。

 スペクタクルの理論は徹底した「代理=表象」批判の武器である。それがポストモダニストの思想と決定的に異なるのは、実践のレベルにおいてだ。ポストモダン思想が主体や歴史の概念を捨象し、「実践」の意義を認めないのに対し、シチュアシオニストは「状況の構築」をあくまで追求する。

 シチュアシオニストは思想を思想として考察する分離された思想家でも、政治を政治として追求する党派でも、独立した領域としての芸術を実践する芸術家でもない。彼らは、芸術と日常生活の革命、文化革命と政治革命を一体のものとして追求し、それを「構築された状況」のなかで統一的に実現しようとした。

 訳者解説のなかにシチュアシオニストの活動の歴史が語られているが、その徹底したラディカリズムには舌を巻く。既存の文化をすべて批判・破壊・ずらし・脱権威化しようとしたその実践にはあきれるやら笑うやら。彼らの作品を見てみたいと思わせる。ドゥボールにかかってはチャップリンも偽善的な人道主義者に過ぎないと糾弾される。ゴダールだって批判の対象だ。

 五月革命でのシチュアニストたちの活動についても訳者解説がかなり詳しく述べており、なんだか久しぶりにわたしは血湧き肉躍る高揚した気分になって
しまった。

 最初に訳者解説を読んでから本文を読んだ方がよいかも知れない。とにかくこの訳者解説はよかった。いや、別に訳者が旧知の友人だから言うわけじゃないです、はい。オリバーこと木下誠氏、いい仕事してますよ。

 

<書誌情報>


 スペクタクルの社会
  ギー・ドゥボール著 ; 木下誠訳. 筑摩書房, 2003.(ちくま学芸文庫)


日常と非日常の間

2005年07月17日 | 読書
わたしの最近の生活は、仕事・家事・育児・映画・フィットネスクラブ・読書の組み合わせで回転している。たまにコーラスに参加する。その合間に飲み会だの食事会だのが勃発的に出現する。さらにその合間を縫ってネットサーフィンしHPを更新する。そのうえ気が向いたら密かに小説を書く。

 これが働く主婦の日常というものだが、考えてみればつまらない日常だ。何ももの珍しいことはないし、ドラマなんて起きないし、趣味は?と訊かれても答は「映画と読書」という口にするのもはばかられるほどありきたりのことしか言えない。つまり「無趣味」ってことだろうか?

 そんな日常は耐えるにしのびないものだろうか。わたしは案外楽しんでいるけど。そんな日常に耐え切れなくて若者たちはキレてしまうのだろうか。
 
 最近なぜか「日常」という言葉に敏感になっている。ここのところ立て続けに読んだ本に「日常」への言及が目立つ。『日常・共同体・アイロニー』なんていうそのものずばりの本も読んだし。もっとそのものズバリなら宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』(1995年)なんていう本もあったし。 

 宮台真司と仲正昌樹の対談『日常・共同体・アイロニー』は前書きと後書きがいちばんおもしろい。わたしは大笑いしながら読んだ。
仲正さんは自分たちのことをこう評価する。

 「非日常生に惹かれる若者たち」のオピニオン・リーダー的な役割を演じている宮台さんと、わかる人だけわかればいいという調子でちまちま皮肉ばかりいっている私とでは、体質が根本的に違うという認識(まえがき)

 仲正昌樹さんは元統一教会信者だ。東大の1年生だったときに入信して11年も信者だったというから、なかなかのもの。そのくせ自分は超越系が苦手だという。この人はほんとに変人で人付き合いが下手な人みたいだ。宮台さんの後書きによれば、4回の対談のうち、1回目は一度も二人の視線が合わなかったそうだ。それが回を重ねるごとに数秒ずつ視線が合うようになったらしい。

 まあ、とにかく、自分の対談相手を誉めているのかけなしているのかよくわからない前書きをわたしは笑いながら読んだ。仲正に対して「認知的不協和」を感じていたという宮台は、じっさいに対談してみてそれが徐々に解消していったという。仲正の著作は、「思想史について語るときはじつにブリリアンドなのだが、時事的現象について語るときには実存的バイアスによって偏った議論になりがち」だという評価をくだしている。これは貶しているのではないそうだ。
 この後書きに宮台は仲正の人物論を事細かく書いていて、それがおもしろい。仲正昌樹という人物像を描きつつ、左翼(正確には「サヨク」)批判へとつなげる論には「なるほど」と首肯するものがある。

 本文に直接関係ない引用が続いてしまったが、以下にこの対談から気になったところだけをメモしてみよう。

 アイロニーとは皮肉のことだ。アイロニストは皮肉屋のことだ。と、わたしは単純に考えていたのだが、彼らのいう「アイロニー」とは言説のメタ化のことのようだ。つまり、「わたしはこれこれについてワンパターンでよくないと思う。と言う、このわたしの言説じたいもワンパターンだということを知っている」というようなこと(らしい)。アイロニストには議論の着地点がない。自己言及を繰り返すだけだ。それはルーマンの社会理論にも通じる。

 近代のアイロニーはどうやって乗り越えるのか? ローティのように「近代を超えるには徹底して近代であるほかない」というべきか? 「外部なんてない」というのが宮台の主張だ。

 心情においてポストモダニストである人間がいるのはよい。私も近代の限界を超えたいと思う。でも、だったら「近代には外がある」などと幼稚園児の思考を吹聴するのでなく、近代のオルタナティブな使用を考えてもらいたいのです。(p122-123)

 アイロニズムはシニシズムに滑り落ちやすい。不徹底なアイロニズムは「だったら何でもありじゃん」という発想に陥る。なんでもありなら、イスラム教徒とキリスト教徒の間に線を引いてイスラム教徒を敵視したっていいやんか、と。シニシズムに対してはアイロニズムのワクチンを注射してやらないといけない。というのが宮台の主張。

 仲正は「日常性」という言葉が大嫌いだそうだ。

 左翼が衰退すると、まるでマルクス主義を薄めたようなかたちで、やや左翼的な傾向のある社会学が「現実」にスポットを当て出しました。あなたや私をふくめ、いろいろな人たちがいる。そして私たちは、普段は気づかない「日常性」のようなもののなかで生きている。「日常性」を見直すことは、私たちの「現実」を見直すことであり、社会の問題点を浮き彫りにすることである、といった言い方をします。粗っぽく要約すると、問題関心が、マルクス主義によって哲学的に裏打ちされた左翼運動の「現実」から、日々反復される「日常性」へとシフトしたのだということができるでしょう。(p225)

 仲正が『終わりなき日常を生きろ』をネタに、「日常性」について宮台に質問し、迫る。切り返す宮台は「これはもっとも話しにくいテーマだ」と苦笑しつつ、社会学における日常・非日常の定義から話を始める。

 社会学のなかで「日常と非日常」という概念を明示的に用いたのは、ヴェーバーのカリスマ概念とデュルケームの集合的沸騰概念。カリスマとは人のことではなく、性質のこと。具体的には、金力や暴力といった社会的属性に還元できない、非日常的な資質。

 聖なる内面世界と俗なる行動世界という二元論が近代の政教分離の起源だ。
 「社会が宗教よりも大きい」というのが近代社会の本義となったが、すると問題が起きる。「宗教が社会よりも大きい」からこそ宗教なのだ。なぜ社会が存在するのか、なぜ世界が存在するのかに答えてこそ宗教なのに、宗教が社会の枠内に収まってしまうと、社会で失敗した人間には宗教的救済がなくなってしまう。

 ……というような話から始めて、自分の中学高校時代の話へと振り、あとは『サイファ覚醒せよ!』に書いてあるような内容へと続く。仲正の質問への答になっているのかいないのかよくわからない。

 仲正は、日常と非日常は立場によって逆転することがよくあるという。機動隊に石を投げている左翼とブルセラ女子高生が例示される。やっている本人には「日常はこんなもの」という感覚があるかもしれないが、第三者にはそれが「非日常」に映るだろうし。

 仲正は統一教会の信者だったとき、自分が非日常の側にいるとは思っていなかったという。信者たちは外の人より少しだけ先に行っているという自覚があった。世間より少しだけ先に行っているという感覚が大事で、現状と乖離しすぎると布教の原動力にならない。この、「少しだけ超越している」というのが危ない。

 宗教の布教にとって大切なもう一つの戦略は「覆い隠されていた身体性の発見」@宮台(p254)だ。ドラッグを使ったり洗脳プログラムを使ってトランス・酩酊状態を生み出して身体性を拡張し、信者獲得へとつなげる。

 近代成熟期には、抑圧されてきた身体性の拡張可能性に人々の意識が向く。それは決して「近代の外」に出るものではない。同時に、社会システムはかつてほど身体性の拡張を抑圧する必要もなくなる。資本主義メカニズムが一定程度以上のプレゼンスを獲得すると、そこから逸脱すると生きていけないという不安を人々が感じるため、身体を巻き込めるようになるのだ。
 身体性の抑圧がさして必要でなくなったのは、ウェーバーがいうように、社会のさらなる脱呪術化がある。脱呪術化とは、呪術や宗教が消えることではなく、社会システムが呪術や宗教から相対的に無関連に回るようになること。
 後期近代の社会システムは、身体性の再拡張をある程度は許容していることになる。身体性の拡張が「近代の外部」を指し示すものだと軽々に考えてはいけない。(以上、p254-257の要約)


 宮台によれば、イエス・キリストとデリダとローティはいずれもアイロニスト、ということになる。
「構築は否定されず、実践は否定されないけれど、永久に疑われる」(p274)

 近代社会では「終わりなき再帰性」によって、どのような外部も内部化される。言い換えれば、どこかに屈折したアイロニストがいるという話ではなく、〈世界〉自体をアイロニー――全体の部部への対応――として見いだす。「終わりなき再帰性」によって、超越も外部も全体も非日常も宗教も、排撃はされないものの、効力を奪われて無害化される。ウェーヴァーの「脱呪術化」や「世俗化」の概念は、終局、このことを述べている。すると奇妙なことに、「終わりなき再帰性」のゲームに勤しむ私たちの営みが存在するということ自体、端的な未規定性としてあらわれてくる。
 いまや、かつてのような意味での超越や伝統や本来性(近代の外)はありえない。近代社会では、超越も伝統も本来性も、再帰的な生成物だ。すべの外部は内部であり、全体は部分だ。だから私たちはアイロニズムというポジションを手放すわけにはいかない。
 自己決定は、存在しないといえば存在しない。共同体も、存在しないといえば存在しない。自己決定の概念も共同体概念もマユツバであるにもかかわらず、自己決定は存在する、共同体は存在する、という想像的な前提抜きには、前に進めないのが私たちの日常なのだ。(以上、p272-277の要約)

 
 この本を出した「双風舎」からは宮台の対談本『挑発する知』が出ているが、『日常・共同体・アイロニー』のほうが内容が濃い。社会学の基礎講座ふうの作りにもなっているが、かなり議論が集中しているし噛み合っているので、基礎講座の部分を超えて現実政治へのコミットメントも興味深い。もっとも、宮台の主張にはいつもながら「ちょっとぉ」と思う部分は多々あるが。

 映画「パッション」の解説はおもしろかった。なぜイエスがかくも壮絶な苦難を耐えたのか? あの映画は何を描きたかったのか? 興味のある方は本書をお読みのこと。

 それにしてもミヤダイは口が悪い。「馬鹿左翼」だの「カルスタ・ポスコロ野郎」だのというのは下品だねぇ。やめてほしいわ。

 本書については葉っぱ64さんが何度かブログでとりあげておられる。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050403/p1
 葉っぱ64さんのご推薦でこの本を読み始めたわけだけど、やっぱり目利きがいいです、さすが。いつもおもしろい本を教えてくださってありがとうございま~す。




 ということで、ようやく二冊目の本の紹介を。

 『いきなりはじめる浄土真宗』の続編、『はじめたばかりの浄土真宗』を再読する。一回目読んだときにぴきぴきーんときた部分がどこだったのか、わからなくてあせっている。コメントをブログに書こうと思っていたのに、いったにどの部分を引用しようとしていたのかわからない。あちゃー、しまった、付箋つけとけばよかったよ。

 宮台もやたら宗教に詳しいけど、こっちは本物の宗教家釈徹宗さんと宗教的マインドに溢れた内田樹先生の往復書簡だから、内容は当然宗教宗教しているわけだが、釈さんの立ち位置が宗教を脱構築するようなところにあるから、ものすごくおもしろい。むしろ内田センセイのほうが宗教者じゃないかと思えるぐらい。

 制度宗教には日常からの逸脱よりも日常への還元に力を入れているところがある、というくだりにヒットしたのかな。と思って読み直してみたけど、どうも違うみたい。制度宗教が日常へ戻ってくる引力が強いということは、それだけ保守的っていうことやんか。社会を破壊する力には欠けるわけだ。うーん、ちょっとよくわからないけど、とにかくこの本もおもしろかった、ということで。ものすごく読みやすいから、『いきなりはじめる浄土真宗』とセットでお読み下さい。

 というかんじでお茶を濁す。ポリポリ

<書誌情報>

 日常・共同体・アイロニー : 自己決定の本質と限界
   宮台真司, 仲正昌樹著  双風舎, 2004


 はじめたばかりの浄土真宗 / 内田樹, 釈徹宗著.
   本願寺出版社, 2005. (インターネット持仏堂 ; 2)

映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の原作

2005年07月06日 | 読書
 ロード・ムービー「モーターサイクル・ダイアリーズ」はアンデスの山々の風景が美しい、明るく楽しい青春物語だった。その原作であるゲバラの若き日の日記が、本書。これはもう、映画と原作、どっちがいいかなんて比べられないね。

 ゲバラは文才のある人で、ゲリラ戦の日々を綴った『ゲバラ日記』も読ませるものだったが、本書もたいへんおもしろい。革命家チェ・ゲバラの片鱗はここにはほとんど見られないが、親友アルベルト・グラナードとの南米縦断無銭旅行の抱腹絶倒ぶりはどうだろう! 医者の卵と生化学者という肩書きをいいことに行く先々でタカリまくる、厚顔無恥な若者二人の旅は、いかにもラテン系の明るさと伸びやかさに満ちている。
 若者というのはこうでなくちゃ。これが若さの特権だよね、ほんとにうらやましい。でもわたしは若いときでもこんな無謀な旅はできなかったから、年齢のせいじゃなくて個性の違いだろう。

 ゲバラの文体はユーモラスで知的。誇張を得意とする修辞、軽快な文体は魅力的だ。この旅行記を読みながら、何度も映画の場面が目に浮かんだ。あの美しく雄大な風景はやはり映像で見なければわからない。いっぽう、ゲバラの繊細な感性や大人びた知性、といったものは原作を読まなければピンとこない。これはぜひ原作と映画の両方を見て読んで堪能すべき作品だ。

 映画の中で印象的だった場面なのに旅行記では書かれていない部分もある。たとえば、高名な医者の邸宅を訪ねて歓待され、その老医師の小説を無理やり読まされたゲバラが馬鹿正直に「こんなくだらない小説はない」と真面目くさった顔で論評する場面。融通の利かない実直な青年の一面が現れるところなのだが、ゲバラの日記に記載がないとすると、この部分はグラナードの日記に拠ったのだろう。
また逆に、日記のなかで爆笑もののエピソードとして描かれていることが映画に取り上げられていなかったりする。映画的にはすごくおもしろい場面になるだろうに、不思議だ。

 ピピのシネマ日記で「映画的には特にすぐれた演出がない」云々と書いたけど、この原作であの映画なら、じゅうぶんいい出来だと評価を改めることにした。ゲバラの旅行記はおもしろいのだけれど、会話文が少ないため、脚本にしにくかろうと思うのだが、映画は実に生き生きとした台詞や描写にあふれていた。

 ゲバラたちの好奇心はどこまでもアンデスの奥深くに入り込む。なんでも見てやろう行ってやろうという知性と感性がやはり後の革命戦争にはせ参じるゲバラを生んだのだろう。ハンセン病の療養所でのエピソードも映画ではクライマックスシーンとして描かれているが、本書ではわりと描写は淡々としているし、映画とかなり異なる。

 ところで、ゲバラたちが立ち寄った先には図書館や博物館もあるのだが、彼は歴史にもいたく興味があったようで、インカ帝国の歴史を書いたくだりがある。インカの王様にマ●コ2世という人がいて、征服者スペインに果敢に抵抗した英雄なのだが、なんとまあ、この人の名前が声に出して言えない日本語(笑)。「お」をつけて敬称で呼んだりした日にはもう~~(爆)。


 映画の感想はこちら、「シネマ日記」をどうぞ。↓
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/050609.htm


アガンベン月間ようやく始まる

2005年07月03日 | 読書
 今日は柳楽優弥くんの新作「星になった少年」の親子試写会の招待券が当たったのでそれを見に行くはずだったのだ。なのになのに、非情なわが次男S次郎は「ぼくはアクションものとコメディしか見ぃひんねん」と頑として言い張り、どうしても一緒に行ってくれない。なだめてもすかしても食べ物で釣ってもだめ。泣く泣く試写会をあきらめた。ちぇ~~! だって「必ず親子でご来場ください」って書いてあるんだも~ん(悔)。

 さて、アガンベンの著書だが、日本語版の出版は

スタンツェ -- ありな書房, 1998.10
人権の彼方に -- 以文社, 2000.5
 アウシュヴィッツの残りのもの -- 月曜社, 2001.9
中身のない人間 -- 人文書院, 2002.12
ホモ・サケル -- 以文社, 2003.10
開かれ -- 平凡社, 2004.7


という順番だが、今回の「アガンベン月間」では、上記の内、4冊を原著刊行順に読む。つまり、『ホモ・サケル』『人権の彼方に』『アウシュヴィッツの残りもの』『開かれ』の4冊をこの順に。

 
 『人権の彼方に』→『アウシュヴィッツの残りもの』→『開かれ』→『ホモ・サケル』を、それぞれ解説から読むようにという指導もあったのだけれど、やはり原著刊行順に読みたいという欲望にかられたので、この順で。
 ただし、師の指示に従ってまずは『開かれ』の訳者解説から読み始めることにした。

 でもその前に図書館から借りた本を読まなくては(汗)。いま、4冊の本(フォークナー『八月の光』、内田樹・釈徹宗『はじめたばかりの浄土真宗』、大塚英志『「おたく」の精神史』『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記 増補新版』)を同時に読んでいるので、それを先に片づけてからアガンベンにとりかかる。って、いったいいつ「アガンベン月間」が始まるんやろ~(大汗)。

 というわけで、本日は試写会の代わりに風呂掃除。カビ取りしようとすのこをどけてみたら……ああっ、宇宙人の襲来か?! いやさ、大量の黒カビやんか。あまりのことに絶句して、本日は念入りに大掃除。浴室の天井も壁も掃除してあとはキトサンの防かびスプレーを塗布した。
 久しぶりに浴室乾燥機のフィルターをはずしてみたら、カビが生えている。せっかくの乾燥機なのにほとんど使わないものだから、カビが生えてしまったではないか。今日こそお役に立ちます、じとじとジメジメの洗濯物を乾燥させた。

 ま、こういうことをしているから読書タイムもなかなか作れない。最近なぜか頭が痛くて夜はすぐに寝てしまうし、これはメガネを替えたせいかな? 

 いろんなことを考えながら風呂掃除をしつつ、「こうやって休日は掃除やら買い物やら料理の仕込みやらに追われて終わるのが働く主婦の日常かぁ」とうんざり。日常といえば、最近読了した『日常・共同体・アイロニー』というミヤダイと仲正昌樹の対談本がおもしろかったので、「日常」についてちょっとブログで書いてみようと思う。たまたま、今日読んでいた『はじめたばかりの浄土真宗』でも「日常と非日常」というくだりに行き当たったし。

 さて今日もあと1時間半。残りの時間で何ができるかな。

死ぬのは怖いか

2005年06月21日 | 読書
 「死」について考えるといっても、わたしにはそれを宗教的・哲学的に深めることなど手に余る。別に深く静かに熟考したわけではない。


 ただ、ランチを食べながら内田樹さんの仏教入門書『いきなりはじめる浄土真宗』を読んでいて、感応したのが「死はこわいか」というくだりだった、というに過ぎない。

 本書は毎度おなじみ内田センセイと浄土真宗の住職釈徹宗さんとの往復書簡集だ。続編『はじめたばかりの浄土真宗』と同時発売になった。

 その中で、内田さんは子どもの頃、異様に「死」が怖かったという経験を書いておられる。森岡正博さんも同じようなことを繰り返し書いておられるし、長じて哲学者になるような人はきっとそういう経験を経てきているのだろう。たぶん、それは哲学者の卵だけではない。わたしも子どもの頃、死ぬことが怖く怖くて、それこそ死にそうに恐ろしかったものだ。
 
 小学4年生のとき、自由テーマの作文を宿題に課されたことがある。ほかの子どもたちが子どもらしい夢やちょっとした日常雑記ふうのことを無邪気に書いていたのに、わたしだけが「わたしは「死」について考えると夜も眠れません」と書いていたのだ。わたしはそのことをひどく恥じた。

 その頃、わたしの悩みは不眠だった。ほんとうに死ぬのが怖くて夜も眠れなかったのだ。そのまま死んだらどうしよう、目が覚めなかったら……と思うと身体が凍りついたようになり、みぞおちの辺りが冷たくなったものだ。自分が「死」にとらわれていることが「子どもらしくない」と感じたわたしは、なぜ自分がほかの子どもと同じではないのかと忸怩たる思いでいっぱいだった。

 自分がいなくなった後も世界は存在し続けるという怖さ、自分の存在が何もなくなるという無限の世界に落ちる怖さにさいなまれていたその頃から思えば、今はそれほど「死」が恐ろしくはない。むしろ、もし不死の力を与えられたりしたら、そのほうが怖いと思う。死なない人生なんていやだ。もちろん、今はまだ死にたくないけどね。

 内田さんは、人間は歳とともに死ぬ練習をするという意味のことを書いておられる。だんだん死に対して免疫ができてきて、最後は「あ、もういいかな」って感じになれるみたいな。それはそのとおりだという気がする。それと、死が怖くなくなったのは、子どもが生まれたときだとも書いておられた。これもとてもよくわかる。

 山寺のご住職(おしょうさん)はブログ「方丈」で「死が本当に怖がられる所以は、「だれもが必ず死ぬ」ことにあるのではなくて、「いつ死ぬかわからない」ことにあります」と書いておられる。まったくしかり。では、いつ死ぬかわかれば怖くないのだろうか?

 わたしは、自分の死については受け入れられると思っている。いつ死ぬかさえちゃんとわかっていれば、それほど怖くはない。でもいきなり「明日の3時です」とか言われたら激しく動揺するけど。

 それより、受け入れがたいのは愛する者の死だ。とりわけわが子の死。これだけはとうてい受け止めることはできそうにない。では、まったき遠い他者の死はどうでもいいのか? と問われれば、「そう」とも言えるし「違う」とも言える。どんなに遠い地の人々の死でも、それが戦争や犯罪による死なら、つらいことだと思うし、避けられる死だと思うからこそ、避けるだけの英知を働かせるべきだと考える。
 
 以前、「ピピのシネマな日々」に「誰かの死について考えることができるなら、それはその人を愛しているということだ」という意味のことを書いた。わたしは最近よく身近な人々の「死」について考える。愛する人たちが死んでいく様子がリアルに想像できる。そのときに感じるであろうわたしの悲しみ・喪失感が現在のわたしに流れ込んできてわたしを泣かせる。未来の悲しみに涙するとき、わたしはその人を愛していると実感する。
 
 自分の死よりも、愛する人々の死のほうが恐ろしい。そう感じられるぐらいに歳はとったようだ。

 そして、愛する人との別れを覚悟しつつ生きていかねばならないというつらい日々を、わたしなら耐えられるだろうか。病とともにある我が子に向き合う親の心中やいかばかりか。
 

<書誌情報>

 いきなりはじめる浄土真宗 / 内田樹, 釈徹宗著. 本願寺出版社, 2005 (インターネット持仏堂 ; 1)

なぜフーコーに惹かれるのか 『フーコー : 知と権力』

2005年06月19日 | 読書
 昨日は朝からからだがだるくて、午前中は読書タイムにしようと思ったのに、本を開いたままベッドで2時間爆睡。寝ながら読んでたのが悪かったのね、いけません、こういう行儀の悪いことをしては。
 しかし、お昼ご飯を食べたあともやっぱり眠くてうつらうつら。やはり相当疲れているみたい。からだがだるくてしんどくて、脈拍は120/分も打っている。これはいつもの夏ばての徴候ではなかろうか?

 で、ネットサーフィンしたりシネマ日記を更新したりしてちょっと頭を切り換えてからフィットネスクラブへ。昨日は簡単なストリートダンスをしたのだけれど、いかに簡単でもステップを間違えるのが中高年。情けなや。45分間ちょっとステップを踏んだだけで汗だくになってしまった。
 マシントレーニングも少しだけ。

 運動後しばらくして血圧を測ったら上が96、下が70ぐらいかな。運動後なのにこの低さでは、やはり夏は乗り切れないなぁ。血圧を下げる薬はあっても上げる薬はない。低血圧人間にとって夏はとってもつらい。


 さて、前振りが長くなったけど、本日の御題は「フーコー月間のまとめ」。

 最初の予定より4倍延びてずるずると続けてきたフーコー月間は、ここらでいったん打ち止めにしたい。『言葉と物』や、他にも読み残した文献は多いが、またの機会にゆるゆると読みたい。フーコーは逃げないし。

 フーコー入門書としては本書がこれまでで一番おもしろかったのではなかろうか。フーコーの死から記述を始めている本書は、その死がエイズによるものであるという噂をめぐってまずは語り始める。

 そして、フーコーの伝記と著作の紹介が年代順に並ぶ。伝記的事実と著作の内容解説がたいへんバランスよく配置され、そのときどきのフーコーの問題意識、彼への評価・批判、さらにフーコーのリアクション、といったものがたいへんわかりやすい。

 本書の終章(第7章)で著者桜井哲夫さんは「ひとはなぜフーコーにひかれるのか」と問うている。常識を揺るがし、時代に否(ノン)と言った反逆児、ゲイであることの苦悩から出発する学問への姿勢に、人々が共感したからか。

 その答を著者は自らの経験を語ることによって導く。フーコーのおかげで「自由」になれた、と。

 フーコーは、確かに学問の世界で秀才であったろう。だが、彼の偉大さは、秀才であることをやめた点にある。秀才は、与えられた秩序のなかで模範解答を提示するにすぎない。フーコーが、既存秩序や常識からの逸脱に先立って得た直感は、彼の親友であるポール・ヴェーヌの言葉によれば、「希薄さ、空白の多さ」だった。(p292)

ヴェーヌのこの指摘は、フーコーの仕事の本質をついている。つまり、

 フーコーは、歴史の恣意性を直感したことで、自由になったのである。どのような問題関心にも存在理由はある。まったく無意味な疑問というものは存在しない。どのような疑問からも出発しうる。子どもの素朴な疑問も、練達の歴史家の疑問も同じ価値を持つ。違いはない。あらゆるものを疑い、空白を見いだし、その空白をつなげることで、一つ一つの疑問の答えが浮かびあがってくるだろう」。(p293)

 「外への思考」へと逃れ続けたフーコーは既存の秩序から自由でありえた。そして秩序のなかで不安を抱えながらいきる人々に鮮烈な印象とメッセージを与えたのだ。

 フーコーはゲイであることの苦しみから学問を問うた。個人の苦しみと問い掛けが世界そのものへの問いに開かれている。なぜ自分が苦しまねばならないのか、を問い、フーコーの歴史への旅は始まった。

 ただ、フーコーをあがめ奉るような風潮はもっともフーコー自身が嫌ったことだ。われわれは「フーコー主義」なるものを作ってはならない。

 フーコーが提示したことは、自らの生き方、自らの人生行路を考え、突き詰めてゆくことが、世界を解釈する道筋へとつながるという確信なのである。どのような学問研究も、実は一人一人の内面の探求からこそ始まるものなのだ。(p298)

 以上が、桜井さんの結論部分の要約。しかし、世界はほんとうに解釈されるのを待っているのだろうか?

 いずれにせよ、フーコーは魅力的だ。わたしたちに「価値」や「倫理」が普遍ではありえないことを教えてくれた。「普遍」とは何かを疑うことを教えてくれた。そして、「権力」に苦しめられ息が詰まる思いに閉塞するわたしたちに「権力」のありかを教えてくれた。自分自身もが「権力」の一部であることに気づかされたのだ。

 これからもまたフーコーをひもときたい。

<書誌情報>

フーコー : 知と権力 / 桜井哲夫著. -- 講談社, 2003. -- (現代思想の冒険者たちSelect)