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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

戦後のジャズ受容史

2005年10月26日 | 読書
 葉っぱ64さんの「千人印の歩行器」に、ジャズ名盤の有名なジャケットの写真が掲載されている。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051019
 名盤だの有名なジャケットだのといわれてもジャズに疎いわたしにはピンとこないのだが、あの写真は「あの、足のレコード」といえば世界で通じるグローバルスタンダードなジャケットだったのだ。

 とりたててジャズファンというわけではないわたしが読んでもこの本はかなりおもしろかった。わたしはジャズもクラシックも好きだけれど、造詣が深いわけではない。どちらもBGMに過ぎないから、オタク的な聞き方はしないし、レコードへのフェティッシュな愛もない。それでも、本書にあふれるジャズへの愛情を感じるにつけ、どんどんジャズが好きになっていく気がする。

 この本はジャズの音楽的な解説書ではなく、戦後の日本でどのようにジャズが取り上げられてきたかを検証する言説分析だ。そして、ジャズがどのように聴かれてきたか、その受容史について明らかにすることを目的とする。

 だから、本書で語られるのはジャズ演奏や演奏家の歴史・伝記ではなく、小説であり映画であり、さらにはジャズ喫茶という<ジャズ聴衆者たちの場>だ。ジャズ好きの作家として有名な中上健次や村上春樹、五木寛之らの作品が俎上に載せられ、ジャズを描いた映画やジャズをBGMに使った映画が分析される。戦後、日本ではスウィングジャズが大衆的な人気を博し、ジャズとは大衆的な音楽であり、クラシックのような「高等な」ものとは一線を画されていたということが、たとえば映画「嵐を呼ぶ男」を例に引いて語られる。

 それがいつの間にかフリージャズの全盛時代になると次第にジャズは難解なものとなり、現在ではクラシックと同等に扱われるようになっていくのだ。

 本書で目を引くのは、ジャズ喫茶批判だろう。モラスキー自身がジャズ演奏家であり、長らく日本に住んでジャズ喫茶を利用していたことから、その独特の文法というかマナーには違和感があったようだ。彼にとってジャズとは生で聴くものであり、聴衆との掛け合いのもとに一回限りのその場だけのかけがえのない演奏を楽しむものなのだ。それなのに、ジャズ喫茶ではおしゃべり禁止、身体を動かしてもいけないし、リクエストを受け付けない店もある。客はじっと目をつぶって腕組みし、レコード演奏に耽溺しなくてはならない。そんな堅苦しい聴き方はジャズの精神に反するのではないかとモラスキーは批判している。

 だが、ジャズが自由を体現するものならば、「堅苦しい」聴き方をするのも人それぞれ「自由」なはずだ。ジャズの受容について批評する言説そのものがジャズの文法を裏切るというパラドクスが生じる。

 本書の最後のほうに取り上げられた若松孝二プロの映画作品に使われたジャズ音楽の前衛的な扱いについても印象に残った。若松作品の前衛性がフリージャズの文法にぴったりなのだろう。「十三人連続暴行魔」という若松孝二の作品を見ていないしあまり見たいとも思わないのだが、ここに使われた阿部薫のジャズ音楽というものを聴いてみたいという好奇心にかられた。

 音楽についての言説を読むというのはストイックな行為であり、読めば読むほど「音そのもの」への飢餓感が増すのだ。本書に取り上げられている曲が聴きたくてたまらなくなる。こういう本にはCDを付けることができないのだろうか? 本に登場する順に録音されたCDを付録に付けてもらえないものだろうか。全曲が無理ならさわりだけでも……。

 不思議なことに本書にはストリートにおけるジャズがまったく取り上げられていない。定禅寺ジャズフェスティバルのような大きなイベントはもちろん、大阪のあちこちで80年代後半以降毎年開かれているジャズ・ストリートにも一言の言及もない。これは何を意味するのだろう?? そしてまた、モラスキーは既にジャズは全盛時代を過ぎた過去の音楽だと認識しているようだ。だからこそ、ジャズ喫茶というのは「懐かしい」ものであり、ジャズのLPレコードも過去を懐かしむために存在するかのように述べる。だが、ジャズストリートの盛況ぶりを見れば、その認識には疑問符がつくのではなかろうか。

<書誌情報>

戦後日本のジャズ文化 : 映画・文学・アングラ
  マイク・モラスキー著. 青土社, 2005

富田林は大阪じゃない?!(笑) 金毘羅一代記

2005年10月21日 | 読書
 今日は仕事を休んで家でのんびり……なんてことはありえねーっわけで、今日は病院3件、息子の学校2件、と用事が立て込んでいるのである。しかし、忙中閑あり。合間を縫ってブログを更新してしまうわたしってエライ。おほほほ

さて、わたしとほぼ同い年の作家笙野頼子のけったいな小説『金毘羅』に、こんなくだりがある。

《母方の祖母は都会に生まれ育った女でした。通天閣の見えない場所に住む人間を全て差別していた。通天閣を見ない人間は「ど百姓」であり「田舎者」である。富田林を大阪だと言った人間を彼女は許さない。》

 これには苦笑。今でこそ富田林市民になってしまったが、6年前にここに引っ越してくる前はまさか自分がそんな辺境の地に住むことになるとは思っていなかった。子どものころから、富田林といえばPLランド(今はない)とPLの花火の場所、というイメージしかなく、それは遠足で出かけるような田舎だったのだ。
 で、この小説を読んでこんなあけすけな富田林差別を見て笑ってしまったわけ。

 さて、そもそもこの小説に興味を持ったのは、黒猫房主さんの『評論誌「カルチャー・レビュー」blog版』に掲載された村田豪さんの書評http://kujronekob.exblog.jp/1685869を読んだからだ。村田さんの大絶賛書評を最後まで読まずとも『金毘羅』に興味津々。
 ここでわたしがなんやかんやと書くよりも、村田さんの褒めちぎりを読んでいただいたほうがいいと思うので、ではみなさん、↑をクリック。

 というのもなんなんので、ちょいとだけ書いておくと、じつはわたしは途中で飽きてしまったのだ、この小説に。だって文体が美しくないんだもの。

 最初こそあっけにとられて読み始めたけれど、途中でなんだか「長すぎるよな、こんなに書かなくてもいいんじゃないかい」と思い始めたのだ。それに話が難しすぎる。今まで人間だと思って生きてきたけれど47歳になって急に自分が金毘羅であることを思い出してしまった金毘羅一代記、その金毘羅が語ることは神話の世界、土俗の宗教と国家と反権力のカウンター宗教、という非常に大きなテーマなのだ。わたしはこういう話に明るくないので、「ほんまかいな」と思うようなことも多々あり、ついつい疑いの目で読んでしまう。でもおもしろいんですよ、言っときますけど。

 神様の話よりも、わたしはこの金毘羅の苦しみに共感してしまった。すごく痛々しくて、「ほんとうは男なのに女として育ってしまった金毘羅」という、人間世界でもっとも疎外された人生を生きてきた47歳の女性に激しく同情してしまったのだ。家族と折り合えず、家族を苦しめ、学校になじめず、道化のように生きてきた金毘羅の人生。ジェンダーの齟齬に苦しむ人生。肉体的にはトランスジェンダーというわけでもなさそうだけど、「ほんとうは男なのに女として生きる」という感覚、わたしにはすごくわかる。
 「この子は母親のお腹のなかで(オチ×○ンを)落としてきたんだ」とわたしもよく言われた。男勝りでお転婆で、女友達より男の子とのほうが違和感なく遊べた子ども時代を思い出す。

 ちなみに、金毘羅というのはもちろん四国は香川県にある、あの「こんぴらさん」のことだ。現在では琴平神社というらしいが、なんだかよくわからない。だって、金毘羅って、神仏習合のカミさんだから、ほんとは仏なのか神なのかよくわからない。詳しいことは村田豪さんの解説その他をよんでほしい。わたしは小説一冊読了したのに、さっぱりわけがわからなかったわ。とほほ

 わたしは神とか運命とかけっこう信じているほうなので(でも風水は信じないし、占いも信じないし、特定の宗派への信仰心もない)、国家に回収されない宗教的な心情というものには共感するのだ。

 こんな奇妙な文体の奇妙な小説があったというだけでも驚きだけれど、内容はとても深いので、実は癖になるかも、と思っている。次は『水晶内制度』を読むつもり。

<書誌情報>

金毘羅 / 笙野頼子著. -- 集英社, 2004

ラジオ・ナマ内田樹を聞いた

2005年10月16日 | 読書
 わたしはテレビはほとんど見ないがラジオはよく聞く。毎朝、受信料不払い貫徹某放送局の番組を聞いているのだが、先ごろ、初めて内田樹さんの声を聞いてしまった。感動~

 ウチダファンでありながら、ナマウチダを見たことがなかったのであるが、ついにお声を聞いたのである。
「それでは今朝は少子化問題について神戸女学院大学のウチダタツルさんにお話を伺います」とアナウンスが流れた瞬間、「ええっ、ウチダさんが!」とあわてて耳をダンボに。しかしねえ、社会政策学者でもないウチダ先生に少子化問題を聞いても先生は処方箋なんて言わないよぉ、いいのかい、誰や、人選したのは。と笑う。案の定、「少子化なんて屁でもない」とはおっしゃらなかったが、そのように聞こえるコメントであった。
 
 それにしてもウチダ先生は早口やねぇ。「ラジオ的には苦しいなあ、もっとゆっくりしゃべらなあかんで」と夫も言っていた。

 して、このたび、ウチダ先生の『身体の言い分(からだのいいぶん)』を読了。

すでに葉っぱ64さんhttp://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050811
とみきちさんhttp://yomuyomu.tea-nifty.com/dokushononiwa/2005/09/post_044b.html#more
がおもしろいと薦めてくださっている本だ。

 内容は『先生はえらい』とだぶる部分がかなりある。最近のウチダ本は内容のだぶりが目立つ。そろそろ先生、ちょっと考えないと。

 でもま、やっぱりこの本も面白かった。よくよく読んでみると、ウチダさんは言うことが矛盾してたりするのね。で、本人もそんなことはわかっていて、「ぼくは相手によって言うことが変わるんです」としゃあしゃあとしている。おまけに、「ぼくは反省しない人間なんです」って。だから、「他人にも「反省しろよ」なんてまず言わないですね。あ、言ってるかもしれない。でも、そういうことについても反省しないから(笑)」という御仁なのだ。

 この本には難しい言葉は全然出てこない。ラカンが、とかレヴィナスが、なんていうことはまず登場しない。登場しないにもかかわらず、内田さんのラカン理解やレヴィナス理解が随所に顔を出す。

 この本で注目すべきはやはりコミュニケーション論だろう。言語によるコミュニケーションを超えるものを内田さんと池上さんは語る。
 あ、そうそう、池上六朗さんというのは1936年生まれ、元航海士、今、「三軸修正法」なる整体法を普及させようとしている整体師(という紹介でいいのだろうか。「整体師」なんて本書のどこにも書いてないけど)。その池上さんの治療の方法がいっぷう変わっていて、「場の雰囲気」とでも呼べばいいのか、「以心伝心」と言えばいいのか、池上さんの楽しい気持ちを伝えることで「患者」をリラックスさせてしまう。「伝える」といっても、言葉で表現するのではなく、池上さんが「小笠原の海にいて楽しんでいる自分を想像するだけで、患者は治ってしまう」というような嘘みたいな話なのだ。ほんまかいな。

 ほかにも、「強く念じたことは実現する」とか、身体の持っている共感能力、とか、二人は「オカルト」みたいなことも言うんだけど、そういうのってわたしも「信じられる」と思う。

 コミュニケーションの相手にたいして敬意や愛情があれば、言葉を超えて共感をわかちあえるし、相手が何を欲しているのか、次になにを言おうとしているのか言い当ててしまうことだってある。いつも注意深く相手を観察し、愛情を持って接していれば、コミュニケーションは言葉を超えると思う。だからこそ、子どもに愛情を注げば彼・彼女が何を考えているかわかるし、微妙な変化にも気づくものだ。

 翻って、なかなか「自分の身体」の言い分をちゃんと聞いてこなかったかな、と反省もする。

 子育てを楽しめとか、感動体験しろとか、内田さんの言うことは、表層だけ受けとめれば「なんだ、保守的なおっさんの戯言か、なにも新しいことなんて言ってないよ」と言われそうな気もするが、やはりこれは読者の側に「注意深く聞く(読む)」ということを求めてくる本だと思う。


<書誌情報>

身体の言い分 / 内田樹, 池上六朗著. -- 毎日新聞社, 2005

『危険社会』

2005年10月10日 | 読書
 本書は、チェルノブイリ原発事故の衝撃の中で書かれた。環境問題は国境を越えるということがヨーロッパではいかに深刻な問題であったか。本書で扱う「危険」とは、まず第一に「環境への危険」、人体への「健康被害」という問題だ。

 しかもこの危険は、近代化が進めば進むほど構造的に増大するというやっかいなものであり、かつこの危険は知識によって感知できる種類のものなのだ。放射能や農薬の危険性は目に見えない。環境問題については知識のある者だけがその危険性を知り、恐怖におびえる。
 かつてのようにわかりやすく見えやすい「富の不平等」や「貧富の格差」といったものだけが問題となるのではなく、むしろ知識の格差のほうが「危険社会」をめぐる問題の本質だろう。

《 個人化された人生は、一方において、その構造上、自分で形づくっていかなくてはならないものなのだが、他方で外界に対して開かれててもいる。家族と職業労働、職業教育と労働、行政と交通制度、消費、医学、教育学等といった、システム論の観点からすれば分離しているように見えるものが、すべて、個人の人生のなくてはならない構成要素になる。部分システムの境界は、部分システムには適用されるが、制度に依存した個人の情況のなかにいる人間には適用できない。……人生を営むことは、このような条件下では、システムの矛盾を個々人の人生において解決していく営みとなる。
 ……脱伝統化と地球規模のメディアネットワークの設立とともに、個々人の人生は、ますますその直接的な生活圏から解き放たれる。そして、国境を越え、専門家の境界を越えて存在する抽象的な道徳に身をさらすようになる。この道徳によれば、個々人が潜在的に持続的見解をもたねばならない。同時に、個々人は一方で取るに足らない状態に格下げされるが、他方で、世界形成者という偽りの玉座に押し上げられる。政府が(依然として)国民国家の枠組みのなかで行為するのに対して、個々人の人生はすでに世界社会に対して開かれている。さらに、世界社会は個々人の人生の一部である。》(p269-270)

 近代において進行する個別化はまた、様々な受難が個人に対してふりかかっていることを表している。共同体全員が被る災難ではなく、個々人が受けとめるべき受難として現れるのだ。たとえば、昨今の職場の多くの問題もそうだろう。労働者階級が団結して資本に立ち向かうというような問題対処の方法がもはや無効になっているのだ。リストラは個別にやってくる。職場のイジメも個別具体的な個人に向けられる。チームワークよりも個々人の成果が問われる。わたしたちはこのような社会に生きている。

 最後のよりどころはどこだろうか、家庭か? もはや家庭さえても個人化しているのだ。「貫徹された近代の基本形は孤立した個人」だとベックは言う。家族解体をフェミニストは叫んだ。しかしベックは次のように言う。

 《一部の女性運動のように、まったくもって正当に、近代をうみだした諸伝統をさらに延長させ、市場適合的な男女平等を訴求し推し進める人々がいる。この人々が知らなくてはならないことがある。それは、この路の終わりに存在するものは、十中八九は、平等になった男女が和合している状態ではなく、対立するさまざまな路や状況のなかで個々人がばらばらにされた状態である》(p246)

 ベックのもってまわった言い方は独特で、はっきりと名指してはいないが、男女の不平等な現実に対する批判を述べつつも一部のフェミニズムに対する疑問・批判も忘れない。それが正鵠を射ているのかどうか、わたしには自信をもって何かを言うことができないのだが、この第2部第4章で書かれた「わたしはわたし――家族の内と外における男女関係」は興味深く、何度も読み返したくなる。

 そして、さらにおもしろかったのが第3部「自己内省的な近代化」の第7章「科学真理と啓蒙から遠く離れてしまったか――自己内省化そして科学技術発展への批判」だ。

 科学はいま、科学の発展じしんが産み出した危険に直面している。そして、専門化細分化した科学は、それぞれが競争を繰り広げる。そして外部の大衆によって批判にさらされた科学は、今度はその批判する科学を必要とするのだ。
「科学に対する反対が科学化される」(p328)


 本書に書かれている内容じたいに目新しいことはない。にもかかわらずとても興味深くおもしろく読めるのだ。文体の巧さもあるが、知識社会という近代の特徴をよく捉えているからだろう。エッセイのように修辞を凝らして書かれた文章なので、部分的に引用しづらいのが特徴だ。社会分析の著作であるけれど、表層的な社会現象を取り上げて分析しただけではない。底に流れる「近代把握/批判」の確かな視座に惹きつけられた。

 ベックの近代観には、「矛盾を生きる」という哲学があると思う。わたしたちは矛盾の中を生きざるをえない。そこから逃げる・それを断つ、ことよりも、矛盾の中を生きて矛盾と格闘すべきだと彼は述べているように思う。

<書誌情報>
 
 危険社会 : 新しい近代への道 ウルリヒ・ベック [著] ; 東廉, 伊藤美登里訳.
   法政大学出版局, 1998. (叢書・ウニベルシタス ; 609)

(注記)原著(Suhrkamp, 1986)の完訳. 二期出版(1988年刊)で省略した原著第2部を新たに訳出し,修正・加筆したもの ;

「希望格差社会」再読のために『危険社会』を読む

2005年10月08日 | 読書
 9月7日のブログに書いた本書へのわたしのコメントは誤読ではないかというご指摘メールがあったので、再度、最終章だけ読み直してみた。

 この本は読んでいる途中でなんだか暗い気持ちになりとっても嫌な感じがして――そう、この感じは『負け犬の遠吠え』の読書中の感覚に近い――途中で多少飛ばし読みをしたために、最終章の処方箋の部分を<心を込めて>読んでいなかったようだ。

 で、「誤読」とまではおっしゃっていないが、ちょっと違うんじゃないかというメールをくださった原田達さん(HPは「研究室№203」)からのコメントを転記する。

>  かれの『家族というリスク』(勁草書房)には
>
> 「これからは、それぞれの子どもが、自分で具体的目標を設定し、それを
> 努力で実現するという生き方が、自己肯定感や希望を生みだすでしょう。
> その具体的目標はみんなが同じでなくてもいいのです。ボランティア活動
> でも、体験活動でも、子どもが望めば勉強でもかまいません。その子ど
> も子どもの個性と能力に合わせた目標設定ができるよう、親が適切な援
> 助と指導を与えること与えることがますます重要になっています」(p231)
>
> とありますから。そして、このような多元的で自由な意志の重視とそれへ
> の社会的援助という発想もまたベックの影響があると思います。
>
>  かれは、明確な処方箋を提示しませんが、これは社会学者としては
> 「正統な」スタンスだと思います。「意図と結果のパラドクス」が身にしみて
> いる社会学者は、社会政策論のような発想をなかなかしません(できま
> せん)。だから、かれは、これらの本の中で、事実や傾向を「価値判断」
> に囚われることなく叙述・分析しています。
>  こういうスタンスは、しばしば誤解されます。現状を「肯定」しているとい
> う風に。でも、かれはそうじゃないはずです。

 
 なるほど、『家族というリスク』は未読だが、ここに引用されている部分は確かに魅力的だ。
 
  さて、『希望格差社会』の結論部は概要以下のように書かれている。

 従来の公共政策(社会政策)は、大きな政府が金を集め再分配して福祉政策として生活保護や失業保険などのセーフティネットを構築して最低限の生活保障を行ってきた。この政策が不要になったわけではないが、リスク化や二極化によってやる気を失った人に希望をもたせることはできない。現在生じている問題は、経済的生活の問題以上に、心理的なものである。ではどうすればいいのか。リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的政策によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となる。


 山田さんは「二極化は避けられない現状」と認識しているようだ。それを前提に処方箋を書こうとしている。わたしはそこに納得できないものを感じている。夢もチボーもないやんか、と思うのだ。わたしのような夢想家はしょせんは政治家にも経済学者にも社会政策立案者にもなれないのだろう。宮台氏に観念サヨクと嘲笑されるだけなんだろうな。でも夢とか希望がないのは嫌だ。(←単なるわがままか?(^_^;))

 で、本文の最後に「逆年金制度」の導入を提唱されているのは、ユニークだと思った。老人に年金があるように、若者にも年金を、というわけ。自活できるようになるまで金を貸して、あとで返済させる制度だそうな。奨学金みたいなもんかな?

 山田さんが理論的に多くを負っているベックの『危険社会』に遡って読んでみることにした。ベックの本は「近代化」について述べたものだ。内容詳細とコメントは読了後に別エントリーで。

9.11を描いた山田詠美の小説

2005年10月07日 | 読書
 山田詠美『PAY Day!!!』から印象に残ったセリフを…

「恋には証人が必要なのかしら?」

 恋する女の子は、自分の恋について微に入り細に亘って友達に喋らずにはいられない。まるで証人を求めるかのように。

 「デートの基本は食事だ」

 そう、恋の想い出はすべて食事に結びついている。食事とセックスは同じようなものなのだろうか。今夜、わたしとあなたは何を食べる? 何を食べた? どんなふうに、どんなおしゃべりとともに? そして、お互いをどんなふうに味わい尽くしたかしら。わたしを食べて。あなたを食べたい。


 『Pay Day!!!』は、9.11のテロによって母親を亡くした17歳の双子の兄妹の物語だ。物語の舞台はサウス・キャロライナ。ニューヨークに住んでいた双子たちは両親の離婚によって兄は父とともにディープ・サウスへと引越し、妹は母とともにニューヨークに留まる。そして9.11。

 彼ら兄妹の母はイタリア移民2世、父は黒人。そして双子たちの見かけは白人のように見えるようだ。9.11のあと、父たちが住むサウス・キャロライナにやって来た妹と兄との葛藤と愛、彼らそれぞれの恋愛が描かれる。母に反発ばかりしていた兄が、母を亡くしてはじめて言葉にできなかった愛情を母親に感じ始めている。

 喪失からの再生、あるいは亡くした人への愛情の確認、といった、ある意味では「陳腐」な物語だ。山田詠美が『A to Z』で見せたような小気味よい文体のリズムがここでは見られない。物語の舞台がアメリカだからか、どうにもリアリティが迫ってこない。決しておもしろくないわけではないけれど、何か1枚膜がかかっているようなもどかしさを感じながら読了した。主人公達が若いので、世代的な違和感もあったのかもしれない。

 とはいえ、やはりキラリキラリと輝く描写や言葉の数々はわたしを魅了した。だから、いくつかのアフォリズムは心に残っている。そのうちの二つが冒頭に挙げたもの。

 イタリア料理って、ガーリックと香草が命だと思う。美味。

<書誌情報>

 Pay day!!! / 山田詠美著. -- 新潮社, 2003

Posted by pipihime at 23:58 │Comments(0)

靖国神社関連本、2冊

2005年10月06日 | 読書
 先ごろ、高橋哲哉著『靖国問題』を読んだので、もう少し違う角度から靖国神社について読んでみようと、歴史的アプローチの本2冊にあたってみた。

 高橋さんの本は靖国神社の政治的・イデオロギー的側面の分析に偏っていたが、坪内本は靖国神社をめぐる風俗史である。坪内祐三は靖国神社が明治時代には競馬や相撲や祭が開かれる娯楽場であったことを強調する。靖国神社一帯の土地の説明から始めて東京を山の手と下町に分ける境界線が靖国近くの九段坂にあることを述べていく筆致はなかなか魅力的で、本書は東京の都市文化史でもある。

 明治・大正時代の文学作品に靖国がどのように描かれているか、著者の得意とする明治文学から多くの作品を引いて引用文を書き連ねているところは、小説の紹介としてはおもしろいけれど、わたしが読みたかった「靖国」とはちょっとずれていると感じてしまう。

 徹頭徹尾、靖国神社をアミューズメント施設として描きつくそうとすることには疑問が残る。靖国の「ある一面」を取り上げてそこにだけ光をあてることの問題を感じてしまった。もちろん、靖国の多面的な部分を掘り起こそうという意図はわかるし、それじたい興味深いのだが、こういう書き方でいいのかなと思う。

 そしてもう一冊は『靖国神社』。新刊書だ。こちらは歴史家の力作なのだが、事実を積み重ねる叙述が淡々と続くと少々読みづらい。文体で読者を惹くということもない真面目で固い本だから、とっつきにくい読者も多そうだ。て、わたしのことやんか(^^ゞ。

 本書はとりわけ戦後の靖国について詳しく分析してある。敗戦直後の靖国神社の主張、遺族の主張、それを受けた自民党の動き、反対派の主張がどのようにからまりあい変化してきたかがよくわかる。

 一言でいえば、靖国をめぐる論説は、「慰霊」「顕彰」「追悼」をめぐる攻防戦だった。敗戦直後は「平和主義」へと傾きかけた靖国神社側の主張が、やがて世の中の「逆コース」といわれるような動きに合わせるかのように、いつしか「平和の礎」としての靖国という考えかたから変化して、戦争を称揚し賛美する主張へと変わっていく。その様子が『靖国』という機関誌を分析することによりつぶさに描かれている。

 戦争の記憶が薄れるにつれ、だんだんと戦争への反省も薄れ、戦死者を英雄として祀る考え方が台頭してくるようだ。そういう考え方の変遷に大きな影響を与えたのが「軍人恩給」の存在だと赤澤氏は述べる。戦後まもなく、軍人恩給は廃止され、遺族たちは生活の支柱も精神的な支柱も失ってしまった。それまでは、「国のために戦った褒賞としての恩給」という位置づけがあったのに。それを失くしたために、「死んだ者は犬死だったのか」という痛切な思いが遺族を苦しめたのだ。ひいてはその感情は戦争を否定し、平和へと向かう。

(なお、一旦はGHQの指令により廃止された軍人恩給は、1952年4月に「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」の施行という形で復活する。再軍備政策と軌を一にする動きであった。)

 本書を読んで新たに知ったことは、自民党の集票マシーンというイメージしかなかった立正佼成会が、靖国の国家護持に反対し、先の戦争を侵略戦争と位置づけてその反省の上に「靖国国民護持」運動を展開していたということだ。立正佼成会の青年部は中国人の遺骨収集事業にも参加していた。こういうのを読むと、「保守」とか「革新」とかいうレッテル貼りの二分法は一面的な評価でしかなかったのだなと反省させられる。

<書誌情報>
靖国 = Yasukuni / 坪内祐三著. -- 新潮社, 1999(写真は2001年刊行の文庫本)

靖国神社 : せめぎあう「戦没者追悼」のゆくえ / 赤澤史朗著. 岩波書店, 2005


『黒いスイス』

2005年09月29日 | 読書
 ミケ子さんのブログでの紹介で本書を知ったわけだが、永世中立国スイスが軍隊を持っていることぐらいはわたしも知っていたけれど、この本に書かれていることは驚くべきことばかりだった。


 アルプスの山々に囲まれた平和な国、森と湖の国、という美しい観光国のイメージと裏腹に、過去にはロマ(ジプシー)の人々を国家が誘拐「矯正」していた国。中立を謳いながらナチス・ドイツに協力してユダヤ人を排斥した国。冷戦崩壊まで核武装計画を密かに進めていた国。相互監視社会の警察国家。移民を排斥し、ネオ・ナチの世界的中心地となりつつあるスイス。徹底した秘密主義を守ることで有名なスイスの銀行は脱税や横領や麻薬の金をロンダリング(資金洗浄)するのに利用されてきた。

 ここに描かれたスイスはまさに「黒いスイス」だ。
 
 が、「黒いスイス」だけではない。ヒトラーの迫害を逃れて国境を「不法」に越えようとした難民に滞在許可証を発行し続けた警官のエピソードも挿入されている。その警察官は不法行為を密告されて免職となり、刑事裁判にかけられて有罪判決を受けた。49歳で失職して82歳で亡くなるまでとうとう定職につくこともなく、窮乏生活を強いられたが、それでも自分のしたことを間違ってはいなかったといい続けたという。
 この心打たれる話があるのでずいぶん救われた気になるが、本書を読むとスイスというのは恐ろしい国だというイメージへと変っていく。

 もちろん、どんな国も天国ではありえない。いいところもあれば悪いところもあるというのは当たり前の話だ。美しいイメージしかなかったスイスの裏の顔を描いた本書は驚くべきことが暴露されていて、とても興味を惹かれるのだが、だからといってスイス人が悪い人間だという短絡も避けるべきだろう。どんなルポも一国の多面的な様相を描きつくすことなどできない。

 本書を読んで痛感することは、ネオ・ナチの台頭がグローバリズムの進展と同時に起こってきているということだ。グローバリズムと排外主義は双子のようなものなのだろう、この日本の国で起きているナショナリズム言説の台頭もグローバリズムの広がりと軌を一にしている。スイスの現状で言えば、このことがもっとも気になるところだった。 
 
<書誌情報>
 黒いスイス / 福原直樹著. -- 新潮社, 2004. -- (新潮新書 ; 059)

「時間とあいまい」…鶴見俊輔論

2005年09月26日 | 読書
 去年の今頃、鶴見俊輔さんに小熊英二さんと上野千鶴子さんがインタビューした『戦争が遺したもの』の読書会をしていた。そのとき、何人がかりかでこの素晴らしい本を読んで、ああでもないこうでもないと語りあったというのに、その誰もが気づかなかったことを原田達さんが雑誌『Becoming』16号に書かれている。

 同じ本を読んでも読みの深さが全然違う。さすがは鶴見俊輔研究者だなと感動すると同時に、原田さんがずっと鶴見俊輔を追いかけ続ける理由がやっとわかったような気がする。

 『戦争が遺したもの』において、鶴見俊輔は自分よりずっと年下の研究者である上野と小熊に「追及」されて、しばしば言いよどむ。原田さんは鶴見の「言い淀み」に注目する。

《人が言い淀むとき、時としてそこに重要なものが芽ぐんでいるものである。言語化しようとしてできないもの、もしくは言語化の前の段階に踏み込んだとき、人は言葉をうしなう。じつは鶴見俊輔は、この前言語化の領域の重要性をうまずに語りつづけた思想家だった》

 読書会でも参加者が一様に違和感を表明した、<上野千鶴子による従軍慰安所でのできごと追及問題>について、原田さんは鶴見と上野の歴史観の違いを指摘する。

 鶴見は「日付のある判断」を重要視する。歴史的出来事を今から振り返って批判するのではなく、「その人物と思想が生まれた時点にもどって理解する」のが鶴見のやりかただ。

 ここには、鶴見の時間意識が反映されているという。
《時間は遡及できるし、遡及すべきだという発想がここにはある。このような発想を鶴見が手に入れたのは、R.レッドフィールドの『小さなコミュニティー』を読んだときである。それから50年、鶴見はこの時間感覚をしつように手放さない》 

 さらに、その鶴見の時間感覚を生んだ要因に彼の鬱病があるという。

《「あとの祭り」という時間感覚にとらわれているうつ病者だからこそ、それを乗りこえる時間意識に魅惑されることがある。それは、「過去を生きることはできない、未来を生きねばならない」という言葉が鶴見にあたえた治療的衝撃のことである。………
 鶴見はうつ病を病んでいたからこそ、「ポスト・フェストゥム」な時間意識からはなれ、ありうべき未来がふくまれているものとして過去を再構成することができたのだろう》

 原田さんがここで指摘されている「時間感覚」、「日付のある判断」、「過去がいつまでも決済できないものとして現在を呪縛する」ということがらは、戦争責任・戦後補償問題を考える大きなヒントになると思う。

 原田さんは、鶴見俊輔の「言い淀み」を生むもうひとつの要因、「あいまいさ」にも言及する。鶴見俊輔は矛盾するものをそのまま受け入れる思想家だという。

 個別性に注目し、「自分の問題」として社会問題を見る鶴見の立ち位置は、時として社会運動内部から批判を受ける。上野千鶴子の「慰安所に「愛」は存在するのか」という追及、「国民基金に賛成したのは間違いではないのか」という追及がそれであるが、それに対して鶴見俊輔は殴られつづける(批判される)ことを引き受けると宣言する。鶴見俊輔の位置取りは、「知的マゾヒズム」だ。しかし、それが今や受け入れられる素地は小さくなっていると原田さんはいう。

 さらに小熊英二もまた、自分(知識人)の位置はどこにあるのかよりも、他者をどう見るかが問題だと言う。「自分の問題」としてものごとを見るという鶴見の位置取りがここでは通用しないのだ。

 わたしは鶴見俊輔という哲学者の魅力がこれまでいまいちよくわからなかった。『戦争が遺したもの』を読んでやっと「鶴見さんってすごい」と思えるようになったのだが、原田論文を読むことにより、その思いはいっそう深まった。原田さんは『鶴見俊輔と希望の社会学』(2001年)よりもいっそう鶴見の思想そのものに踏み込んだ。鶴見俊輔は汲めどつきせぬ魅力を持つ人なのだろう、わたしはまだまだそのほんのとば口を覗いたにすぎない。


 『戦争が遺したもの』を読まれた方には、原田達「時間とあいまい」を併読されることを強くお奨めします。ぜひぜひ、『Becoming』16号を購入して読んでみてください。理解がいっそう深まります。

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『ホモ・サケル』メモ:第3部

2005年09月25日 | 読書
 第3部、アガンベンは収容所を分析対象とする。フーコーが晩年に研究した「生政治」の対象からはずした収容所、いっぽう、ハナ・アーレントが研究対象としながら生政治的な視点をもちこまなかった収容所。アガンベンは収容所を分析するとき、フーコーとアーレントの視点を引き継ぎ架橋しようとする。

 わたしたちは今一度「人権宣言」の意味を再確認する必要があるのではないか。
アーレントは人権と国民国家の結びつきについて、ほとんど議論を展開していないという。アガンベンは言う。

《いまや、人権宣言の数々を、立法者に永遠の倫理的原則の尊重を課すことを目的とする(実のところあまり成功を収めていない)法を超える永遠の価値を無償で布告するものとして読むことをやめるときである》(p176)

 人権宣言は「臣民」を「市民」へと変貌させた。かつて、主権をもった主体は「自覚ある自由な政治的主体としての人間」であったのだが、19世紀と20世紀の主権主体は「人間そのもの」(アガンベンの言葉では「剥き出しの生」)だ。人は生まれればそれだけで既に「人権」をもつ。

 こういう発想は実は、ナチズムと親和性がある。

《ファシズムとナチズムは何よりもまず、人間と市民のあいだの関係の再定義である。いかに逆説的に見えようと、ファシズムとナチズムは、国民主権と人権宣言によって開かれた生政治的な背景の前に置かれてはじめて十全に認識可能なものとなる》


★「難民」(p182~のまとめ)

 難民は人間と市民、出生と国籍のあいだの連続性を断つことで近代の主権の原初的虚構を危機にさらし、国民国家の秩序をおびやかす。難民はアーレントのいうように「権利の人間」なのであって、市民という仮面をつけずに「権利の人間」が出現した最初のことであり唯一のことである。しかし、だからこそまさに、難民という形象は、政治的に定義づけるのが困難だ。

 ナチスは、ユダヤ人から完全に国籍を奪った上でなければ絶滅収容所に送ることはできないという規則を守っていた。

 近年、市民権の前提としてのみ意味を持っていた人権が市民権から徐々に分離され、市民権の文脈の外で用いられるようになっている。難民が大量に発生する時代になると、「聖なる不可侵な」人権を叫んでみても問題を解決できない。国連難民高等弁務官の努力は政治的な性格をもちえず、もっぱら人道的な性格しかもちえなかった。

 難民という概念を人権概念から分離しなければならない。近代国民国家の衰退と危機は人権が使い物にならなくなっていることを含意している。
 

3節 「生きるに値しない生」

 不治の精神疾患に罹った患者を安楽死させることにヒトラーは「人道的見地」から固執した。優生学の観点からその「安楽死」は発案されたのだろうか? いや、実際に安楽死させられたのは老人と子どもであり、彼らに生殖能力はない。ではなぜヒトラーは絶滅計画の実行を欲したのか?

 その説明はただ一つ。「生きられるに値しない生」は倫理的概念ではなく、政治的概念であり、そこで問題となっているのは主権権力によって基礎とされるホモ・サケルの殺害可能で犠牲化不可能な生が極端に変容したものである。近代の生政治の観点からすると、安楽死はむしろ、殺害可能な生に関して主権的に決定することと、国民の生物学的身体への配慮を引き受けること、この二つの交点に位置している。それは、生政治が必然的に死の政治へと転倒する点をしるしづけている。
 

4節 「政治、すなわち人民の生に形を与えること」

 近代の生政治の新しいところは、生物学的な所与がそのままでただちに政治的な所与であり、政治的な所与がそのままでただちに生物学的な所与である、という点にある。
 人権宣言によって主権の基礎となった生は、いまや国家の政治の主体にして対象となった。
 20世紀の全体主義は、生と政治の力動的同一性を基礎としている。これがなければ全体主義は理解できない。ナチズムがいまだに謎でありスターリン主義との親和性が説明のつかないままなのは、我々が全体主義という現象を生政治の地平における複合の内に位置づけることを怠ってきたからだ。

 6節「死を政治化する」においてアガンベンは脳死に言及する。脳死が人の死かどうかについて決定することはアガンベンの意図するところではない。と言いつつ、彼はいつの日か脳が移植できるようになれば、「死は臓器移植の単なる付属物になる」と述べることによって、脳死に疑問を呈している。

 生と死の境界は恣意的に動かされる。それは科学的境界ではなく政治的境界だから。

第7節 「近代的なもののノモスとしての収容所」

 収容所の住人はあらゆる権利を剥奪されて完全に剥き出しの生へと還元された。収容所はかつて実現されたことのない最も絶対的な生政治的空間である。
 
 現在の旧ユーゴスラビアで起こっている出来事(民族浄化、民族紛争)は、古い政治体制の再現ではない。むしろ古いノモスが損なわれ、住民と人間の生のあいだがまったく新しい割れ目に沿って脱局在化されている。

 アガンベンの認識は、収容所が今や新たな生政治のノモスとしてわれわれの都市に確固として存在しているということだ。そして、わたしたちはそれに気づかなければならない。


**************************

 それにしてもこれは難モノだった。同じ箇所を何度も何度も読み、日を置いてまた読み、他の本を読んでふと「あ、あれはこういう意味かも」と思ったり、とにかく難渋した。アガンベン月間はこの一冊だけで3ヶ月以上かかってしまった。毎日読んでいたわけではなく、むしろ何日も放擲しては他の本(軽い小説など)を読んでケラケラ笑ったり泣いたりしていたのである。

 1章は特に難解だ。2章もよくわからない。3章になってやっと少しはわかる日本語に出会えてほっとする(^^;)。

 アガンベンって、なんで素直にもっとわかりやすく書いてくれないのだろう。結論らしきものを後へ後へと送っていく、いったい何がテーマなのかさえわからないような書き方なんだもの。でもこういう本を読み終えた後って、なんだかずしんと胸に残るものがあるから不思議。「分からなくても何か、すごいことが書いてあるような気がする」のか、「分からないゆえに、いつまでも何かが残る」のか、どっちだろう。

 アガンベンには、ナチズムとファシズムを二度と再び許してはならないという強い
信念があるのだろう。ナチズムを解明するのにギリシャ哲学から始めるという迂遠な路は、一見、わたしのような西洋哲学の知識のないものには「なにをやっているんだか?」と映るのだが、これが最後までずっとキーワードでありつづける「ゾーエーとビオス」というものを考えるときに必須となるということがわかってくるのだ。

 そして、「9.11」を経験した(先進資本主義国側の)わたしたちには、次の「9.11」も次の「コソボ」も次の「パレスチナ」も回避するための思考のヒントになる深みがあるのだと思う。もちろん、「今のイラク」も。

 ただ、アガンベンの政治哲学はこのままでは使いようがない。権力の本質と変遷については深い洞察があり、とくに「人権宣言の無力」を宣言するアガンベンの指摘にはまったく首肯せざるをえないのだが、だからといって代替案がすぐに出るのかといえばそうではあるまい。

 引き続き、アガンベンの著作を読んでいきたい。

◆目次◆

第3部 近代的なものの生政治的範例としての収容所
 1.生の政治化
 2.人権と生政治
 3.生きるに値しない生
 4.「政治、すなわち人民の生に形を与えること」
 5.VP [人間モルモット]
 6.死を政治化する
 7.近代的なもののノモスとしても収容所
 境界線


<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003

『小説の自由』

2005年09月17日 | 読書
 この本は、小説の書き方指南を目的としているわけではないのに、読んでいるうちに不思議と創作意欲がムラムラとわいてくるのだ。目は文字を追いながら、頭の中には小説の文章がすらすらとあふれてくる。「おお、すごいぞ、久しぶりに新作を書こうかな」と興奮していたというのに、読み終わって1日以上経つと、すっかり「新作」の中身を忘れている! あー、誰か、頭の中に浮かんだ文章を文字に起こせる機械を発明してくでぇ~(涙)

 さて、結論から言うとすごくおもしろかったこの本の中でも、わたしは特に「身体と言語、二つの異なる構造」という章に妙にシンクロしてしまった。

 小説家保坂和志は、自分が小説をどのように書いているかを一生懸命この本で述べているのだが、それは絶望的な作業なのだ。なぜなら、彼は「小説家の思考様式や小説を小説たらしめている何か」を書こうとしているのだが、それは同時に「言葉では表現できない」ものなのだそうな。いわば、小説のなかでしか起こりえない、小説を書いているときにしか起こらないなにかを別の言葉で伝えようとするものだから、どうしてもそれが書けない。それは、身体的な何か」のようだ。

 「小説家というのは、身体と言語の不一致をラカンなどの理論によって理解する人間ではなく、その不一致つまり二つの原理の違いを実感ないし体感として生きている人間のことで、だから書くものにもそれが反映する」(p188)

 保坂はこの「身体と言語」の少しあとの部分でこういうことも書いている。

「私の中にあるのは他者の言葉ばかりではあるけれど、その優劣を決めるメタレベルが私の中にはあって、私はそれに導かれる。ということは、他者の言葉の中にもメタレベルとして機能しうる言葉があるということだろうか。それとも他者の言葉に還元され尽くされない私がいるということだろうか」(p196)

 誰の言葉にも回収されず、どんな言葉もつかむことができない「私自身」というものがある。そう保坂は言う。彼は「本当の自分なんてない」と書いたすぐ後でそういうのだ。それは論理矛盾か? いやちがう、と保坂本人が述べる。「論理矛盾だ」とツッコミするような人にこの本を読んでもらいたくない、とでも言いたげだ。

 この本は小説のことを書いているのだが、それを超える何かが書かれている、と感じる。うまくいえない、その「何か」。だって保坂じしんが表現できていないんだもの。

小説を読む/楽しむことと小説を批評することは別物だ。保坂は書評というものが大嫌いみたいだ。批評するために小説を読むという行為は、小説を読んでいるときにしか味わえないものを殺してしまう、と彼は言う。それは確かにそうかもしれない。保坂はまた、ストーリーの奇抜さや謎(だけ)で読者を引っ張るような小説も嫌いなようだ。子どものころはそんな小説がおもしろいとわたしも思っていたが、大人になるほど、それは違うと思い始めた。だから、保坂の言うことはよくわかる。

 いくらストーリーのおもしろさで引っ張らなくてもいいとはいっても、やはり独特のリズムというものが自分に合うかどうかで小説の評価が変わってしまうものだ。保坂の小説でも、わたしは『カンバセーション・ピース』は好きではないし、いくつか、あまりピンとこない作品がある。作家本人は満足した出来だと思っているかもしれないが、読者はどれを好むか、人それぞれだもんね、しょうがない。

この本の内容紹介についてはオリオンさんのbk1書評と栗山光司(葉っぱ64)さんのbk1書評をぜひお読みいただきたい。お二人が書かれたことに付け加えることはなにもないのだけれど、最後に、本書から気になった部分を抜き出しておく。



 私は固有性によって私がかけがえないのではなくて、ただ私と一緒にいた時間によってかけがえのなさがもたらされたのではないか(p150)


 小説には意味や問いへの指向は存在しないということにはならないか。ならない。小説の外にある意味を持ち込むことや形骸化した言葉の使用法や思考の組み立てに抵抗することによって、アウグスティヌスやカフカやベケットのように世界像が産出される。カフカやベケットの場合には”世界像”というよりも、”世界に対する手触り”とか”世界像の掴みがたさ”と言った方がわかりやすいかもしれないが、それもまた世界像なのだ。(p351)

 『告白』を著した4世紀の神学者アウグスティヌスに言及しつつ、保坂は以下のように述べる。

《社会で起きていることは確かに”意味”だ。意味の塊だと言ってもいい。そして、それら社会で起きていることに心をわずらわせることは”問い”のように見えないこともない。しかし、そういう”意味”や”問い”は小説が書かれる以前にすでに存在していて、読者も書き手もそれをよく知っている。小説の中で大変な事件が書かれていれば、読者もつらくなったり「ひどいなあ」と思ったりはするが、それは日々のニュースを見ながら感じている気持ちを反復しているだけだ。
 小説は、――小説とう概念が生まれる以前の小説の機嫌としての散文であるところの――アウグスティヌスの書き方に顕著にあらわれているように、その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さが浮かび上がってくる。それらは小説を通じてじつげんされるのであって、小説の外から持ち込んでくるのではない。

 ………

 小説が外から持ち込むのは、意味や問いではなくて、風景や音や人物の口調や動作の方だ。私がこの連載で繰り返してきた”現前性”ということで、アウグスティヌスの場合には思考を組み立てる手順が読むプロセスにおける現前性となって、聖書の「創世記」の最初の七日間を形而上学的に根拠づけていくという特異な展開を生じさせる。》(p345-346)

<書誌情報>

 小説の自由 / 保坂和志著. -- 新潮社, 2005

希望格差社会

2005年09月07日 | 読書
 今頃だけれど、一部で話題になった『希望格差社会』を読了。

 この本を読みながらずっと感じ続けたことをひとことで言えば、「違和感」。

 現状を分析する手際はいいのだろう。すぱすぱと切っていくその手腕は「なるほど、そうなんだろうなぁ」とは思う。

 でもね、でもね、でもね。そんなふうに「世間の標準常識」なるものばかりに拠りかかっていいのかなぁ。そんなに世の中の人はみんな「安定した生活、上昇する生活水準」を求めて生きているのだろうか?(例外もある、とは山田氏も述べているが)
 そんなものが幸せなんだろうか? わたしの友人知人で、高学歴を持ちながら「世間的には劣位に位置すると思われる職業」についている人は何人もいる。もちろん、そこにはルサンチマンは生まれない。なぜなら、自分の意志で選んだ職業だし、上昇階梯を自ら降りてしまったのだから、それは「自由意志に基づく自己責任」だと納得しているに違いなかろうから。わたしも驚異的低賃金で長らく働いてきたが、「金より時間、趣味」と割り切っていたら納得できたわけで。(山田さんはこういう「スローライフ」はまた勝ち組の一つのライフスタイルに過ぎないと言っている。まあ、そう言われればそうなんだけど)

 ルサンチマンは上昇したくてもできない人々から生まれるのだろうから、社会的にはそこが問題になるのだろう。だからこそ、山田さんも量的な格差より心理的格差のほうを問題視するわけだ。「貧富の差があったって、みんながいつかは今より豊かになれる」と思えばルサンチマンも多少は和らぐ。
 でもいまや時代は変った。グローバリゼーションの時代にはもうみんなで豊かになるなんて、できないのだ。だから、「弱者」の自己肥大した無謀な夢や希望を早く諦めさせて、適当なところで納得させなくちゃ、というのが山田さんの主張。

 貧富の格差のほうをほっておいて「希望」だけを諦めさせようなんていう発想はどこか歪んでいるとわたしは思うんだけどね。それに、受験競争もそれなりに意味があるとか、学校は将来の就職先を振り分けるためのコース選別に便利だから存在するんだとか、そんな身も蓋もないことを言ってほしくないなぁ。それじゃあ、学問する意味とか、知識や教養を得る喜びなんていうものの意味がないってことやんか。
 

 本書については猿虎さんが2005年5月から6月にかけて何度も書かれているのを、参考にされたい。わたしは猿虎さんのご意見に同感。
 「猿虎日記」

 わたしのつれあいもこの本を読んで、「暗い気持ちになった。うちの息子はきっと負け組になるし、このままだと就職先もない」と嘆いていた。とほほ


こういう本を読むと、そもそも「希望」とか「夢」ってなんなんだ?と思わずにはいられない。マイホームが夢か? 金持ちになることが夢か? 有名になること? 一番をとること? どれもわたしの夢とは違う。

<書誌情報>

 希望格差社会 : 「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
    山田昌弘著. 筑摩書房, 2004

コンパクトにまとまった『日本とドイツ 二つの戦後思想』

2005年09月03日 | 読書
 この本は梶ピエールさんのブログに「お奨め」とあったのでそそられて読んだ本。やっぱり、おもしろかった。ついでにうちのつれあいにも薦めたら、彼も面白がって、ただいま読書中である。この本は「はじめに」を読むとついつい「これは面白そう」と思わせるものがある。だいたいが仲正さんの本は前書きがものすごく面白いのだ。

 何が面白いかというと、内容ももちろんだけど、文体かな。真面目くさった顔をしてぺろっと面白いことを言って周りを笑わせる人っているよね、そんな感じ。ご本人はすごく真面目に固い内容を取り上げているのに、へろっと面白いことをズケズケっと書いてしまう。技なのか天然なのか知らないけど、面白い。エスカレートすれば単なる罵詈雑言になりそうなところがそうなっていないのがいい、上品な辛口のまとめ方なのだ。たとえばこんなふう。

「私はしばしば、(元)マルクス主義学者と一緒に仕事をすることがあるが、彼らはよく、「日本のマルクス主義は、実践面では全然ダメだったけど、アカデミックな研究の蓄積では世界で最高水準だ」という言い方をする――マルクス主義者がそんなことを自慢してはダメだと思うのだが。」(p138)

 吉本隆明の「啓蒙主義批判」について触れた部分では、

「”吉本主義者”の中には、「大衆の共同幻想」の根深さを理由にして、現状肯定へと傾いてしまった者が少ないない。今頃になって、「吉本は、実際にはただのマイホーム主義ではなかったのか」と、かつのカリスマを非難している元新左翼あるいは左翼シンパはかなり多い――そういうのは、吉本のせいではなくて、自己責任だと私は思う」(p178)

 浅田彰が登場したときに左派からの反応が鈍かった理由について述べている部分。

「彼の文体があまりにも”おフランス系”――言い換えれば、軽い――の文芸批評風であったため、伝統的な左翼にとっては当初、正面から対決しなければならない”敵”とは思えなかったようである。単に、不真面目でノンポリな若者の代表として嫌っていただけと言うべきかもしれない」(p214)


 戦後日本の思想史を語る本はいくらでもあるだろうし、敗戦直後の思想史を世代論的言説分析というかたちで示してみせた労作『<民主>と<愛国>』(小熊英二)という大部な本もあるけれど、本書ほどコンパクトに手際よくやった仕事はないんじゃなかろうか。

 難を言えば、前半の「戦争責任」論をもう少しつきつめてほしかった。後半はポストモダンの現状(この20年の思想状況)を非常に手際よくまとめてあってそれはそれでおもしろかったのだが、「戦争責任論」を読みたい人には前半の記述は薄く、さらに後半には興味をそそられにくいだろう。

 いずれにしても日本の思想史をドイツと比べると見えてくることがいろいろあるものだ。やはり相対化というのはものごとをすっきりみせてくれる。これ、ドイツではなく別の国と比較するとまた別の位相が見えてくるのだろうな。

 コンパクトにまとめてある本書をさらにコンパクトにここに説明してしまうとそのおもしろみが半減するような気がするが、わたしがそそられた/印象に残った部分を列挙すると……

 日本の護憲派の限界がどこにあるのか、ハーバマスの「憲法愛国主義」との関連での分析。
 日本におけるマルクス主義受容のいいかげんさ、あるいは「なんでもマルクス」で押し通す愚直さの実態。
 そして、最後に、ポスト・ポストモダンの現状にふれて、「知識人の死」宣言を下す部分。動物化しきったアニメ・オタクたちは、浅田彰や東浩紀が書いた本をわざわざ読まなくても「シラケつつノリ、ノリつつシラケル」生き方を自然と実践している。動物化した世界には啓蒙は不要だ。

 ところで、本書をめぐって「評論誌カルチャー・レビューBlog版」で論争が繰り広げられているので、参考までに。ちょっと論点が噛み合っていないように見えるのだが、けっこうおもしろかった。特に黒猫房主さんのエントリー記事は、戦争責任論を考える上で勉強になった。

<書誌情報>

 日本とドイツ二つの戦後思想 / 仲正昌樹著. 光文社, 2005.(光文社新書)

『ホモ・サケル』メモ(2):第2部

2005年08月28日 | 読書
 ローマの古法に、「ホモ・サケル」(聖なる人間)についての定義がある。

 ホモ・サケルとは、邪(よこしま)であると人民が判定した者のことである。そのものを生け贄にすることは合法ではない(neque fas eum immolari)。だが、このものを殺害するものが殺人罪に問われることはない(sed qui occidit,parricidi non damnatur)。

 これをどう解釈するのか?

 殺害が処罰されない、犠牲が禁止されている

 19世紀以来、「聖なるものの両義性」をめぐって人類学、言語学、社会学のあいだで研究交流がなされてきた。概念というものは、相矛盾する意味の両方を担ってしまう瞬間がある。


++++++以下、p119-122より引用++++++

 ホモ・サケルの条件を定義づけるのは、ホモ・サケルに内属した聖性がもつとされる原初的両価性などではなく、むしろ、ホモ・サケルが捉えられている二重の排除のおつ特有の性格、この者が露出されてある暴力のもつ特有の性格である。この暴力――誰もが罪を犯さずにおこなうことのできる殺害――は、供犠の執行としても殺人罪としても定義づけることができない。それは、諸兄とも冒涜とも定義づけることができない。それは、人間の法や神の法といった裁可された形式を離れて、聖事の圏域でも世俗的な活動の圏域でもない人間の活動の圏域を開く。この圏域をこそ、理解しようと務めなければならない。

 ……

 我々が問うべきなのは、主権の構造と聖化の構造は何らかのしかたで結びついているのではないか、この結びつきにおいて両者は互いを照らし出すことができるのではないか、ということである。……刑法からも犠牲からも離れた本来の場へと回復されたホモ・サケルは、主権的締め出しの内に捉えられた生の原初的形象を提示するのではないか、それは政治的次元を構成した原初的排除の記憶を保存しているのではないか……

 主権的圏域とは、殺人罪を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことであり、この圏域に捉えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである。

 ……

 主権の圏域と生なるものの圏域が近いものだということは非常にしばしば指摘され、さまざまなしかたで叙述されてきたが、この近さは、単位あらゆる政治権力がもともともっていたとされる宗教的性格の世俗化された名残であるのでもないし、単に政治権力に対して神学的な裁可の威信を保証しようとする試みにとどまるものでもない。(p122)

++++++++引用ここまで++++++++


 古代ローマ人はこういった矛盾をきちんと理解していたらしい。ローマ法によれば、父は息子に対して無制限の「生殺与奪権」をもつと考えられていた。これは単に家庭内における権力だけを指し示すのではない。

 原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである。

 ローマ人は父のもつ生殺与奪権と行政官のもつ支配権との親和性を本質的なものと感じていた。

+++++++以下、p130より引用、読みやすくするため適宜改行+++

 聖なる生は、政治的なビオスでも自然的なゾーエーでもなく、ゾーエーとビオスとが包含しあい排除しあうことで互いを構成する不分明地帯なのだ。

 ……国家を基礎づけるものは社会的な結びつきではない。国家は社会的な結びつきを表現するものではない。国家を基礎づけるのは社会的な連関の「解除」であり、国家は社会的な連関を禁止するのだ。いまや我々はこのテーゼに新たな意味を与えることができる。

 解除は、既存の拘束を解除するものとして理解されるべきではない。むしろこの拘束は、もともとはそれ自体、捉えられてあるものが同時に排除されてもあり、人間の生が無条件の死の権力へと遺棄されることでのみ自らを政治化する、という形をとる解除ないし例外化なのである。

 主権的な拘束は、実定的規範や社会的協定といった拘束より原初的であるが、この拘束は実は解除にほかならない。この解除が含みこみ産み出すもの――家と都市(国家)のあいだの中立地帯に住む剥き出しの生――は、主権の観点からすると、政治の原初的要素なのである。

++++++以上、引用おわり++++++++


 第5節「主権的身体と聖なる身体」において、アガンベンはエルンスト・カントローヴィチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』に依拠して、王がもつ主権の永続的本性について考察する。王の政治的身体は、殺害可能で犠牲化不可能なホモ・サケルの身体と似通っている。

 アガンベンはさまざまな古代や中世の王の葬儀(王は決して死なない)などの例をひきつつ、ホモ・サケルとは「生き延びてしまった捧げ物の生と同じ」と述べている。例えば、戦に際してその命を神に捧げ、死ぬつもりで戦場に赴いたにもかかわらず生き延びてしまった者。彼らは神への供え物であるにもかかわらず死ななかった。

 ホモ・サケルと主権者の身体には類似性がある。ホモ・サケルを殺しても殺人罪にはならない。王を殺しても単なる殺人罪ではなく、「大逆罪」と見なされる。ホモ・サケルの殺害は殺人罪以下であり、王の殺害は殺人罪以上である。いずれの場合も殺人罪の案件に対応しないという点では同じ。


◆目次◆

第2部 ホモ・サケル
 1.ホモ・サケル
 2.聖なるものの両義性
 3.聖なる生
 4.生殺与奪権
 5.主権的身体と聖なる身体
 6.締め出しと狼
 境界線

<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003

『河岸忘日抄 』

2005年08月25日 | 読書
河岸忘日抄
堀江 敏幸著

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 「いつまでもこの本と向き合っていたい」と思わせる馥郁たる香りの漂う小説だ。それは、贅を尽くした重厚で落ち着いた調度が安らぎを与えてくれるホテルのラウンジで、軽い酔いにうっとりしながら「いつまでも語り合っていたい」と思わせる心許せる人と飲む、そのような贅沢な時間と同じ。
 ストーリーなどはない、エッセイのような小説。登場する人物たちはたった数人だけれど、とてつもなく魅力的だ。
 フランスはセーヌ河上流に繋留された船に住む日本人青年が高等遊民の生活を続けていく様子が三人称で語られる。彼の思考のたゆたう先を読者もともに味わう作品だ。声高でない「イラク戦争」への批判が底を流れる。
 主人公の「彼」はほんの目の前にある対岸に渡ることを潔しとしない。すぐ近くなのに彼にとって対岸は遠い岸辺だ。それは「彼」と他者との距離でもある。
 もう一人の重要人物は、「彼」にその船を貸している年老いた大家。偶然の道行きから主人公が異国で知り合った実業家だ。大家は病院に入院したまま、死の日を待っている。まもなく死ぬというのに異様にエネルギッシュで口の減らないこの病人は、まるで映画「みなさん、さようなら」の主人公みたいだ。大家の口にのぼる処世訓は、一代で財を成した事業家の豪快さやウィットがけれん味なく発揮されて小気味よい。
 もう一人の客人は、西アフリカ出身の郵便配達人。いつのまにかすっかり知己となった郵便配達人は「彼」の数少ない友人の一人だ。いつもゆっくりとコーヒーを飲んで行く。郵便とはすなわち外界とのコンタクト。「外」を「彼」に運んでくる人が西アフリカ出身の長い足の持ち主というのも素敵だ。
 そして最後に主人公「彼」の友人、枕木という男。枕木が日本からフランスの動かない船宛にファクスをたびたび送ってくる。メールでやりとりすればいいものを、彼らはファクス通信で繋がっているのだ。その枕木さんからのファクスがまた会社勤め人間のやるせなさを感じさせてどこか切ない。
 本書にはさまざまな古い本——ミステリーであったり寓話であったり——がふんだんに引用されていて、それがまた興味をそそる。引用される物語じたいがおもしろいと同時に、何度も「彼」のなかで反芻されてこの小説の大きなモチーフの一織をなす。
 異国に暮らす孤独な「ためらいの人」の主人公は作家が生んだ、現代社会へのアンチテーゼだ。このような知性のありかたを好ましく思ういっぽう、その「踏み出せない」彼岸への一歩を「彼」はどのように運ぶのだろう、と不安を感じもする。何の起伏もなく淡々と綴られるかのような小説だけれど、きちんと起承転結、いや、起と結はある。
その「結」に一風の爽やかさを感じるのはわたしだけではあるまい。
 とぎれのない上品で知的な文体は全編アフォリズムにあふれていて、どこからでも引用可能なほど、深い人間洞察に満ちている。
 作家とともにゆったりとした思考の時間を分かち合いたいなら、この小説はお奨め。ぜひ熱い珈琲を飲みながらどうぞ。クレープも添えて。