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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

メモ :『若者が働くとき』

2006年04月02日 | 読書
 以下は、本書を批判的に読むための参考図書から引用(ただし、稲葉氏の意見に賛同しがたいとわたしは思っている)

 稲葉振一郎『経済学という教養』(2004年)

《労働組合は確かに、マクロ的な景気政策としてのケインズ政策の支持者である。しかしなぜケインズ政策が必要なのかといえば、そもそも労働市場が不完全だからである。そして労働組合は、まさに労働市場を不完全にしている当の責任者である。となれば労働組合のケインズ政策への支持は、自分でつけた火を消して回るマッチポンプであって、それくらいならいっそ労働組合を潰して、労働市場をもっと柔軟にしたほうがマシではないか? このような論法への反撃が、労働組合とそのシンパにはできなくなってしまったのだ。

 となれば労働市場への抵抗としての労働組合の存在理由としては、せいぜい消極的な意味でのセーフティーネットとしての役割しか残らないことになる。つまり、過酷な競争のストレスから弱者を守る緩衝帯、という。もちろん、消極的とは言っても馬鹿にはできない。それはひょっとしたら言葉の本来の意味での「保守主義」なのかもしれない。今日の日本では『リストラとワークシェアリング』(岩波新書)の熊沢誠がこの立場の代表的な体現者だと言ってよいだろう。労働組合とは社会の「前衛」ではなく「後衛」であり、変化から取り残される落ちこぼれを守るためにこそあるのだ、と。

 しかしながらこの立場には、ここではあえて厳しい評価をつけておきたい。それは経済理論的には、実物的ケインジアンの土俵に完全に乗っかってしまっている。「市場経済がスムーズに動かないから一部の弱者にそのしわ寄せが行く、それゆえに共同体的な連帯によってこうした弱者の痛みをシェアして支えるのだ」という議論だけでは、「それは根治療法ではなく対症療法にすぎない」というシバキ的構造改革主義者に、肝心のところで反論できない。》(p272-273)

中村屋のインドカリーを産み出した革命家『中村屋のボース』

2006年03月18日 | 読書
 これは評判通り面白い本だった。新宿の中村屋にカレーを教えたのが亡命インド人だったというのはどこかで読んだ覚えがあったが、その亡命革命家「ボース」が日本のナショナリストたちと太い人脈を培っていたことなど、まったく知らないことだらけで、興味深く読み終えた。

 インドで死刑の危機にあった危険人物ボースを匿っていた頭山満が、新たな隠れ家として新宿中村屋に目を付け、官憲の監視を巻いてボースを中村屋へと逃避行させたくだりなどは手に汗握る。これはそのまま映画になりそうな場面だ。
 
 ボースが亡命先から故国の革命を指導しようとしたことは、片山潜や野坂参三が海外から日本革命を指導しようとしたのと同じだ。そういう「革命運動」が果たして実際的な力を持ちえたのかどうか、はなはだ疑問だ。

 ボースには革命への情熱や気遣いのいい人柄とかいった魅力はあっても、思想がなかったという。だから、彼の書いたものを今読み返してもなにも深みがないようだ。だが、そんなボースのことを日本のナショナリスト頭山満や大川周明たちは大いに持ち上げた。彼らにとっては大東亜共栄圏の壮大な夢の一角にインドがあったし、だからボースと日本の右翼は手を繋いだ。

 この構図がおもしろい。右翼が海外の独立運動に自分たちの連帯先を見いだしたのと同じように、戦後、新左翼は連帯相手を第三世界に求めたことを想起させるではないか。どちらも、自分たちの「革命理論」にとって都合のいい「外部の革命運動」を「発見」しているわけだ。日本のアジア主義者(特に頭山満)にとってはボースの「理論」や「思想」はどうでもよかったようだ。その心意気さえあればよし、という感じだったそうな。

 ここに描かれる「人脈」というものになぜか強く惹かれてしまう。日本の右翼たちとのパイプ、さらには日本に亡命していた孫文との関係、などなど、こういった「歴史的大人物」との遭遇は偶然のなせるわざなのだろうか? なぜボースは日本共産党ではなく玄洋社と結んだのか? もっとも、日本共産党は非合法組織であり、おいそれと連絡がとれる相手ではなかったし、ボースはマルクス主義者でもなかったから、この線は最初から可能性ゼロかもしれない。(それに、ボースが亡命してきた1915年(大正4年)、日本共産党はまだ結成されていなかった)

 29歳で本書を執筆した著者の才能に脱帽。ただ、どうしても「インドの革命運動にとってボースは実際のところどのような影響力を持っていたのか」が漠としている。著者はおそらくこれからもこのテーマを掘り下げていくだろう。次が楽しみだ。

 ところで、バタイユ月間のほうはようやく『エロスの涙』を読み終えたので、続いて『文学と悪』を読んでいます。4月になってもバタイユ月間は続きそう(^_^;)。

<書誌情報>

中村屋のボース : インド独立運動と近代日本のアジア主義
/ 中島岳志著. 白水社, 2005

『M 世界の、憂鬱な先端』(2)、及び 『限界の思考』

2006年02月26日 | 読書
 1月23日に『M 世界の、憂鬱な先端』について短い紹介を書き、続きは今週中にと予告して既に一ヶ月以上経ってしまった(汗)。本書の後半部分について抜粋紹介します。

 『M 世界の、憂鬱な先端』のMはもちろん宮崎勤を指すが、本書は宮崎事件だけではなく、神戸の少年による連続殺人事件についても触れている。文庫本全646ページのうち、宮崎事件は484ページが割かれ、神戸の事件は138頁が、21頁が大澤真幸氏による解説だ。

 神戸の事件について著者吉岡忍は、犯人の父親の友人にインタビューしている。犯人A少年の両親は沖永良部島から神戸に出てきた「移民」だ。同じ島出身の父親の友人が、吉岡のインタビューに答えた言葉が印象的だ。

「家なんかどうだっていいじゃないですか。両親がしっかり生きていれば、いつかAが少年院から出てきたとき、身を寄せる場所があるっていうことだから。まあな、あの家にもどるのはむずかしいな、きっと。会社も辞めにゃいかんかもしれん。それで食うに困るっていうんなら、そのときは…おれたちがいるじゃないですか。友だちがいる。温かい血の流れている島の人間がいっぱいいるっていうことを、あいつには忘れてほしくない」

 吉岡はこの言葉を聞いて、こう書いている。

《私はその言葉の向こうに、まだ息づいている神話を見たように思う。
 世界は浮島のように不安定で、壊れやすくできているが、そんな世の中で人と人は絆や愛のようなたよりなく、目に見えないものでつながることで、やっと生き、暮らし、世界を支えているのだということ。
 もう太陽の神様に相談するわけにはいかない。神様が当分出てきそうもないこともわかっている。
 そうだとすればますます、これ以外にやりようがない。友だち同士でやっていくしかないではないか。
 それが基本だ、と私も思う。私なりの言い方をすれば、親密圏となるだろうか。体験や課題の共有、なにかをいっしょにくぐり抜けてきたという感覚、趣味でも話題でもともに持ち合うことによってつながる親密な関係をもっと広げ、深めていくこと。それは<私>と<公>、<個人>と<世界>のあいだに、なんらかの絆でつながった親密な関係空間を作っていくということである》

 吉岡忍は、世界の憂鬱な先端に立ちながら、なおその憂鬱さと対峙し、そこから何かをつかもうとあがく。絶望しつつも、なお前向きに考えようとする。それは決して現実的具体的な処方箋ではないかもしれない。

 しかしわたしは、吉岡忍の物書きとしての誠実さに大きな共感と尊敬を覚える。あるOL殺人事件を取材した某ルポライターとは違って、吉岡忍の本には書き手の謙虚さが溢れているし、常に自省しつつ悩みつつ書いているその手に汗握るような葛藤が読者に伝わってくる。品のよさ、と一言で言ってしまえるのだろうか、「被害者には触らない」という自らに課した鉄則といい、丁寧に資料に当たる努力といい、物書きとして自らを律する凛とした精神に触れて、清々しい思いがする。

 ところで、宮崎事件死刑判決を受けて、大塚英志氏が『週刊金曜日』1月27日号にコメントを寄せているので、こちらも参照されたい。犯罪者から子どもを守るという発想で監視社会化を進めても、ことの解決にはならないだろうという意味のことを述べていた。



 最近、子どもが犠牲者になる事件が相次ぎ、動機がよくわからない犯行が続くと、「心の闇が」という論調に短絡してしまう。「心の闇」と言った途端に、わたしたちは犯行の動機や背景を文字通り闇に葬っているのではないか? そこでもう、「心の闇」に立ち入ろうとする努力を怠るのではなかろうか。

 例えば、年末京都の塾の殺人事件のように、コミュニケーションの破綻が即、殺人へと短絡するこの「底の抜けよう」はどうだ? これもまた「心の闇」ですませられることなのだろうか。
この事件が起きたとき思い出したのは宮台真司・北田暁大『限界の思考』(双風舎)だ。

 双風舎から出た宮台真司の対談本では『挑発する知』姜尚中, 宮台真司(2003年)
『日常・共同体・アイロニー』宮台真司, 仲正昌樹著(2004)の両方とも読んだが、今回の『限界の思考』が一番読みにくかった。

 それはたぶん、宮台氏への違和感が大きくなっているからだろう。宮台氏は何度も今の日本社会について「底の抜けた」という言葉で表現している。たとえばオウム真理教事件のあと、事件を受けて彼は処方箋を書いている。『終わりなき日常を生きろ』と。だが、最近の宮台は、「あえてするナショナリズム」の鼓舞へと方向転換している。彼はもはや自分のことを「真正右翼」と名乗ってはばからないし、若者達の日常への不平不満や「超越系」の人々のエネルギーの矛先を意図的に「ナショナリズム」へと向け、「アジア主義」へと収斂させようとしている。

 だが、宮台氏が「ピンポイント」照準を合わせている層が、必ずしも彼の主張を字義通りに受け取るとは限らないし、ましてやそのピンポイントがずれる可能性はかなり高い。彼が自分の言説の受け手として描いている層は若い世代の中上層インテリのようだが、実際はどうなのだろう? その影響力の及ぶ範囲は奈辺にありや?

 この本を読んで、「宮台の暴走」に危惧を表明してそれを止めようとしている北田暁大氏のへの好感度がかなりアップした。そこまで計算の上で宮台氏が北田さんの引き立て役になったのなら、彼の深慮遠謀も大したものだ。

<書誌情報>
 限界の思考 / 宮台真司著 : 北田暁大著. -- 双風舎, 2005

『図書館に訊け!』

2006年02月26日 | 読書
 本書では、図書館とはどういうところか、本屋とどう違うのか、なぜ図書館は必要なのか、といったことから始まって、資料の多様性の解説・評価、目録の見方、文献検索の方法等々、およそ図書館を使いこなすHow toはすべて指南されている。
 インターネット時代だからこそ、図書館の資料と合わせて調査しなければならない理由についても詳しく書かれていて、これは必読。ピンポイントで検索結果を出してくるインターネットの検索エンジンからはこぼれおちる情報がいくらでもあるのだ。
 それに、ロボット型検索エンジンを使っても、実はネット上の情報のわずか20パーセントも網羅できないという。どうすれば目的の情報にたどりつけるのか、各種データベースの特長を知り尽くした図書館員ならではのネット・スキルが頼りである。調べ物と言えばすぐに”Google”や”Yahoo!”に飛びついているようではダメなのだ。
 本書は図書館初心者向けに書かれているが、現役図書館員であるわたしが読んでもおもしろい。知っていることばかり書いてあると思いきや、軽妙な語り口や豊富な知識に基づく図書館の世界の解説には、改めて目を見開かされることが多々あり、この世界の広さと深さに感じ入った。また、ときどき話題が脱線するのも楽しい。
 さらに、図書館(特に大学図書館)にはどういう種類の本や雑誌があって、論文を書くにはどのようにそれらを区別識別して有効活用すればいいのか、どの資料が信頼に堪えうるものなのか、その評価方法、見分け方のヒントが丁寧に書かれているのは、図書館員にとっても改たな気づきがあり、大変お役立ちだ。
 そして、もっとも役に立つのは「レファレンス・ブック」(参考図書)の使い方だろう。レファレンス・ブックとは、調べ物をするのに役立つ資料のことで、百科事典類や文献目録がその典型だ。例えば百科事典の使い方一つとっても、いきなり当該項目を読みにいくのではなく、まず索引巻から当たるようにという。索引を調べることによって、相互関連のある項目が一覧できるのだ。索引を利用することによって、一つの項目だけを読んでいては気づかない裾野の広がりを知ることができる。レファレンスブックの使い方ひとつとってみても、図書館員の指導なしにはなかなか上達しない。とにかく、「モノを利用するのではなく、ヒトを利用」せよと井上さんは言う。司書であるよりも前に図書館のヘビーユーザーである著者でこそ書けた本だと言えよう。

 ではここで本書からレファレンス(調べ物についての質問と回答)の実例について挙げてみよう。「永井荷風が太平洋戦争の敗戦の前日、谷崎潤一郎と岡山で会って、翌8月15日昼前に別れている。そのときに荷風が乗った列車と時刻を調べたい」。これ、いったいどうすれば図書館で調べがつくのか、そんな古い時刻表を持っている図書館があるのだろうか。
 あるいはこういうのはいかが?「『金色夜叉』のお宮と寛一の歌が入ったCDがあるらしいが、どうやったら手に入るか」「行政文書をA4判に統一するに当たって作成されたマニュアルのようなものはあるのか」「昭和13年の5万円は今の貨幣価値に直すといくら」
 こういった質問に図書館員は答えてしまうのだ。もっとも、答を即座に示すのではなく、あくまでも調べ方について助言・教示するだけなのだが。それにしても図書館の膨大な資料の前で立ち尽くす利用者にとって、図書館員はなんと頼りになる水先案内人だろう。
 本書は既に4刷になっている。これからbk1で注文する人は誤植の少ない版を読めるわけで、ラッキーですね。ぜひ武田徹さんの『調べる、伝える、魅せる!』との併読をお勧めします。(bk1投稿書評)

バタイユ月間始まる

2006年02月20日 | 読書
 去年の夏にはバタイユ月間が既に終わっていないといけないはずだったのに、とうとう冬までずれこみ、下手をするともう春が来るのである。月日の経つのは早い、あせる。

 曽根朗さんにエールを頂戴してわざわざ卒論のバタイユ論のアップまでしていただいたのに今までのびのびになって申し訳ない思いでいっぱいだ。

 今のところ読み終わったのは『バタイユ入門』(酒井健著)と『マダム・エドワルダ バタイユ作品集』(「眼球譚」「マダム・エドワルダ」「死者」「エロティシズムに関する逆説」「エロティシズムと死の魅惑」収録)だけ。

 酒井健さんの『バタイユ入門』は読みやすく分かりやすくおもしろく、かなりお奨めの入門書だ。できれば久しぶりにbk1に書評投稿したいと思っている。

 これを読んでからバタイユの小説を読んだから、たいへん理解しやすかった。いえ、バタイユの小説じたいは決して難解なわけではなく、絶句するような猥褻な描写が続いて目が点になるのだが(特に「眼球譚」)、「なぜバタイユはこんな話を書いたのか?」という「謎」を解くヒントになるのだ。
 バタイユにとって眼球は、病床にあった父の姿を彷彿とさせるものだ。バタイユの父は梅毒によって全身が冒され、目が見えなくなって時々白目を剥いていたという。最後は発狂して亡くなったそうだが、その壮絶な病状がバタイユの作品に色濃く影を落としている。

連続幼女殺人事件のM被告に死刑判決

2006年01月23日 | 読書
 去年のベスト10に入れた本が『M/世界の、憂鬱な先端』(文庫版)だ。既に単行本の刊行から5年経っているし、文庫になってからも2年が過ぎているが、この本は今読んでこそ時宜に適っているような気がする。

 17日、最高裁はM被告に死刑判決を下した。今頃こんなことをアップするようでは遅いかもしれない。いま、世間はライブドア問題で大騒ぎだから。でもわたしにはIT企業の大儲けや大損よりもこっちの事件のほうがずっと関心がある。というより、この事件の悲惨さは堀江社長が破産することの比ではない(破産するかどうか知らないが)。

 この裁判は被告の責任能力をめぐって争われたが、判決は死刑。この判決が「妥当」なのかどうか、わたしにはわからない。そもそも「妥当な死刑判決」というものがあるのだろうか。
 いや、今日はこの量刑をめぐって何かを言いたかったわけではない。ルポライター吉岡忍の渾身のこの本のことを忘れないうちに(既にかなり忘れた)書いておきたかったのだ。

 これはメモに過ぎないので、近いうちにきちんと書き直したいと思うが、いつまでも下書きのままでおいておくとすっかり忘れ去ってしまうので、あえてアップすることにする。

 世間ではM被告が猥褻目的で幼女を誘拐し殺害したと思っているようだが、吉岡忍は、事実はそうではなく、Mが性的関心をまったく持っていなかったこと、彼はそもそも身体への嫌悪感が強く、幼女の性器やその周辺を「汚くて気持ち悪い」と証言していたことを指摘し、じっくりと「性犯罪」の実態を曝いていく。

 Mは集めた膨大なビデオに関心がなかった。彼はその中身を見てもいなかったのだ。ただ流行っているからという理由だけで彼はビデオを集めまくった。幼女の卑猥なビデオを撮影したのも、「それが流行っているから」だったのだ。

 手に生まれつきの障害があったMは、「ちょうだい」とおねだりをするように手のひらを上に向けることができなかった。幼児のころ、大人に甘えおもねるその仕草が彼にはできなかったのだ。そして手が不自由なために排泄の後始末もうまくできなかった。お尻をトイレットペーパーで拭こうとしてしばしば大便を手に付けてしまったという。そんな彼が、自分の身体を嫌悪し、他者の身体を嫌悪し、他者とのコミュニケーションに失敗したまま大人になっていく。

 Mは近代化が急速に進む都市近郊の町で生まれ育った。彼の育った町、彼の育った生育歴、祖父との異常といえるぐらいの親密さ、様々な要因が後々の連続幼女殺人犯を育ててしまった。吉岡忍はその過程を丹念に丹念に掘り起こしていく。

 なによりも本書に惹かれたのは吉岡の姿勢だ。「私は被害者にはさわらない」という吉岡は、被害者の幼女たちの実名を出さないのは当然として、仮名もつけない。A子B子と呼称するだけだ。そこには被害者の個別性や特殊性はない。被害者はたまたまそこを通りがかっただけなのだ。被害者の人物像をいたずらにクローズアップして読者の同情を集めさせる必要はない。
 吉岡はひたすらMを追う。悩みながら、あえぎながら、真摯にMを追う。膨大な3種類の精神鑑定書を読みこなし、専門家の書いたものを厳しく批判していく。

 文庫本巻末には社会学者大澤真幸さんの20頁にわたる解説が付されている。これがまた力作で、これじたいが一つの作品だと言えるぐらいなのだが、時間のない人はこの解説だけでも読んでほしい。本書の簡にして要を得たまとめとなっており、かつ、社会学的分析に瞠目する解説だ。

 流行っているから、という理由でビデオを集めまくった宮崎勤は、今ならライブドア株を買いあさっていたのだろうか。虚業に世間の耳目が集まり、金が集まり、憑かれたように人々が群れる、そんな情況だったライブドアの一連の動きとホリエモン人気。それこそが宮崎を殺人鬼へと追いやった構造ではなかったか?

 
 ※この項、続く。

<書誌情報>
 M/世界の、憂鬱な先端 / 吉岡忍著. -- 文藝春秋, 2003. -- (文春文庫)

日米関係について考える

2006年01月15日 | 読書
 年末年始にかけて、日米関係について言及した本を二冊読んだ。まずは「帝国アメリカと日本 武力依存の構造」。筆者はアメリカの政治学者で、本書は戦後の日米関係について述べたものだ。日米安全保障条約のもとにアメリカがいかに日本を軍事的に食い物にしてきたかについて縷々書いてあるのだが、事実関係を淡々と並べてあるだけでしかも知らないことがあまり書いていないので途中で退屈してしまった。
 米軍兵士たちが沖縄などの基地でどれだけ極悪非道なことを行ったか、それに対して沖縄の歴代知事はどのように対処したか、などを書いてあるくだりなどは、最近の話なので記憶に新しいところ。

 途中で退屈して、もう読むのやめようかなと思った頃に知らないことが書いてあって「おお、そうか」と目が覚める、また退屈する。また目が覚める。という繰り返しで、この本は新書173pなのに読了するのにえらく時間がかかってしまった。この人のいいたいこと(「米軍は家に帰れ」)にはまったく同感なので、わたしにはなんら異論はない。
 ただ、これを読んでもアメリカの外交戦略というか、軍事戦略についてはよくわからない。そしてなぜアメリカがそういう政策をとるのかもわからない。


 というわけで登場するのが内田センセイの「街場のアメリカ論」。え、内田さんってフランス文学者じゃなかったの? そうなんです、この本は素人による素人のためのアメリカ論。神戸女学院大学でのゼミ内容をテープ起こしし、全面改訂の上発行された。です・ます体の話言葉で書かれているからたいへん読みやすい。ちょっと歴史に強い中学生なら難なく読めるだろう。

《日本は[ペリー来訪]以来150年、アメリカを欲望してきた。
それはヘーゲル的に言えば「アメリカに欲望されることを欲望してきた」ということと同義である。
 日本の近代化、植民地主義的侵略、太平洋戦争、日米同盟という歴史に伏流しているのはこの欲望である》

という前書きを読んでもうすっかりこの本の虜。「私の仮説は、日米関係の本質は現実の水準ではなく、欲望の水準で展開しているというものである」という、アメリカ政治の門外漢による大胆な歴史考察がこれほどおもしろいとは。アメリカ政治の専門家は、アメリカが日本人の欲望であり続けるからこそアメリカ研究により経済的社会的利益を得ているのだ。これからもそうでなくてはアメリカ研究書が売れないではないか。したがって専門家は無意識に「これからもずっと日本人にアメリカを欲望しつづけておいてもらいたい」と思っているのだそうな。

《だから、日本のアメリカ専門家たちはそれ以外ならどのような論点についても際限なく語るけれど、「なぜ日本人はアメリカを欲望するのか?」という私たちにとってもっとも切実な問いだけは無意識的にニグレクトしてきたし、これからもおそらくそうし続けるだろう。》(p。17)

 日本が軍国主義になっていちばん困るのはアメリカだし、首相の靖国神社公式参拝にいちばん抗議すべきはアメリカ合衆国なのに、なぜそうしないのか。「それは靖国参拝がアメリカの国益にかなっているから」。靖国参拝によって日中韓が仲違いしてくれているのがアメリカにとって都合がいいからなのだ、と内田さんは看破する。

 とにかくこの前書きはものすごくおもしろい。これでもうすっかりこの本にはまって、あとはず~っとウホホホイと読んでしまった。

 アメリカという国がなぜあんなえらそーな振る舞いに出るのか、その理由を建国の理念にさかのぼって考察するところとか、アメリカがもっとも死者を出した戦争は南北戦争だとか、知っていそうで全然知らないことが次々出てくるので驚いてしまう。

 なにより驚いてしまったのは、この本には「歴史にifはある」というより、「歴史にifを持ち込もう」と訴えている点だ。「歴史にifはない」という歴史観に毒されているのは左右同じこと、ifと考えることによって多くの教訓が得られると内田さんはおっしゃる。「起きたことがなぜか」と考えるのではなく、「なぜ起きなかったのか」と考えるのだ。これはすごい。

 果たしてこの本はトンデモの部類なのか、比類無き名著なのか。とにかくおもしろくて目から鱗がベリベリと音を立てて剥がれること、うけあい。

 この2冊は併せて読むと理解が深まる。まずはジョンソン先生の本を読んで事実関係を確認し、そのうえで内田先生の本を読むと「なるほど! アメリカってそういう国だったのね」とよくわかるという仕組みになっております。
 
 
<書誌情報>

 帝国アメリカと日本武力依存の構造 / チャルマーズ・ジョンソン著 ; 屋代通子訳. 集英社, 2004. (集英社新書)

 
 街場のアメリカ論 / 内田樹著.NTT出版, 2005 (NTT出版ライブラリーレゾナント)

2005年ベスト本

2006年01月04日 | 読書
 去年読んだ本の冊数はついに100冊を切ってしまった。もう、何冊読んだと数えて一喜一憂するのはやめようと開き直ることにした。何冊でもいいんだ、競争じゃなし。わたしはゆっくりと読みたい本だけを読むことにしよう。でもそれがたくさんあって、積ん読本だらけなのが困りもの。
 時間ができるとこまめに読めばいいけど、ついつい映画を見てしまう。やっぱり映画のほうが好きなんだとつくづく思う。それに去年の6月からフィットネスクラブに行くようになってますます時間がなくなってきた。

 さて、昨年の読書86冊(とみきちさんと同じ数だよ!偶然ですね)からベスト10を選んでみた。

「ラディカル・オーラル・ヒストリー」(保苅実著)
「博士の愛した数式」(小川洋子著)
「のだめカンタービレ」(漫画、二宮知子著)(全13巻続刊中)
「性の歴史 第1巻 知への意志)(ミシェル・フーコー著)
「嗤う日本の「ナショナリズム」」(北田暁大著)
「A2Z(エイ・トゥ・ズィ)」(山田詠美著)
「河岸忘日抄」(堀江敏幸著)
「戦後日本のジャズ文化」(マイク モラスキー著)
「バルバラ異界」(漫画、萩尾望都著)
「M 世界の憂鬱な先端」(吉岡忍著)(文庫版)

 新刊もあれば旧刊もある。この中でピカイチに光っているのが「ラディカル・オーラル・ヒストリー」だ。これはわたしの生涯のベスト10に入るだろう。

 「博士の愛した数式」はもうすぐ映画が上映されるので、それも楽しみにしている。こうして見ると、10件のうち、小説が3冊、漫画が2タイトル、評論が5冊。だいたいバランスよく配置されているかな? ふだんの読書もそんな割合だ。というか、漫画は圧倒的に少ない。

 去年読んだ本のうち、ブログにコメントを書こう書こうと思いながら書きそびれているのが『限界の思考』(宮台真司、北田暁大著)と『M 世界の憂鬱な先端』の2冊だ。その2冊について近いうちに書きたい。読み終わって日が経っているので印象が薄れてしまっているのだが……。

 さて、今は話題の『下流社会』を読んでいる。なんだかいやになってくるなあ、こういう話は。『希望格差社会』に感じたのと同じ種類の嫌な感じがする。でもなかなかおもしろい本だわ。

インド料理を食べながら『停電の夜に』を読む

2005年12月13日 | 読書
 職場の近くにお気に入りのインド料理の店がある。ここのランチは780円でカレー2種類、ナン、ライス、キャベツサラダ、タンドリーチキンがついていて、ナンは食べ放題。安くておいしくてボリュームたっぷりなので超人気で、いつも行列ができている。

 このインド料理店で食事しながら本を読むのがわたしの楽しみの一つだ。とりわけ、インド系の人々が主人公の短編集『停電の夜に』を読むと雰囲気はまさにインディ。

 作者のジュンパ・ラヒリは1967年生まれのインド系アメリカ人女性で、ブックカバーについている写真を見るとどらえい美人である。

 全9編の短編の中ではやはり標題になっている冒頭の「停電の夜に」が一番印象深い。全9編それぞれが切なくてやるせない話がほとんど。作品の通奏低音はディアスポラの人々の悲しみや違和感だ。異文化のなかでの軋轢ばかりではない。男と女のどうしようもないすれ違いは読者の心を痛くする。

 停電の夜に真っ暗ななかで蝋燭に灯をともし、互いの秘密を語り合う夫婦の話を描いた「停電の夜に」も、胸が痛くなる一篇だ。ラヒリの人間洞察は鋭い。淡々とした描写のなかに、冷たい隙間風が吹く寒々とした風景まで見えてくるようだ。

 「神の恵みの家」、これは新婚夫婦の物語。アメリカに住むインド人夫婦は新婚早々から心のすれ違いを経験する。それは一方的に夫の側だけの違和感かもしれない。なにしろ新婦は天真爛漫な無神経女で、童顔の美しい顔は無邪気に夫の神経を逆撫でし続ける。
 新婚2ヶ月で早くも「この結婚は失敗だったかも」という薄暗い予感が夫の背中をよぎる。
 この新婦のわがままぶりや子どもっぽさや夫への気遣いのなさは、寒心に堪えない。なんだかなぁ~。こんな女、いるよな……
 こういうのを読むと、「早く自分の無神経さに気づいて反省しなさい」と言いたくなる(はい、ごめんなさい)。

 「ビビ・ハルダーの治療」は不思議な物語だ。インドの貧しく小汚い29歳の女、ビビのお話。この話といい、「本物の門番」といい、ドストエフスキーが描くペテルスブルグの貧しい人々をなぜか思い出してしまった。

 まだ若いジュンパ・ラヒリ、これからが楽しみだ。


《収録作品》

停電の夜に 7-40
ピルザダさんが食事に来たころ 41-72
病気の通訳 73-114
本物の門番 115-136
セクシー 137-180
セン夫人の家 181-220
神の恵みの家 221-254
ビビ・ハルダーの治療 255-278
三度目で最後の大陸


<書誌情報>

 停電の夜に / ジュンパ・ラヒリ [著] ; 小川高義訳. 新潮社, 2003 (新潮文庫)  

「風の旅人」17号

2005年12月07日 | 読書
 木・金と出張で横浜まで行き、土曜は午後から1万人の第九のリハーサル、日曜は朝から家族の弁当・昼食・夕食を作って1万人の第九のゲネプロと本番、夜はいつものメンバー(に一人、新人のお姉さんを加えて)で楽しく忘年会。怒涛の4日間であった。ふー。

 すっごく疲れたけどほっとしたやら嬉しいやらまた来年も歌いたいやらといろいろ思うことはある。おととし初めて参加したときのことはHPの。「よしなしごと」に書いたのだが、やはり初めてと2回目では全然緊張感が違う(去年は落選したので観客席から聴いた)。とはいえ、やっぱり最後は背中に鳥肌が立ったし、森山良子の素晴らしい歌声には涙が出そうになったし、大満足の一日だった。
 一緒に歌った第九シスターズは4人。小学生のYちゃんまで含めてアルトで頑張ったのだ。来年はぜひもっと大勢の仲間と歌いたい。
  さて、お気に入りの雑誌『風の旅人』の最新号を買ったのだが、今度の号は写真が素晴らしい。いつも素晴らしいのだが、今回は特にわたしの気に入ってしまった。
 とりわけ表紙のモノクロの少女の写真。きりりとした意志的で理知を感じさせる表情、見事な三角錐に盛り上がった乳房。若さとエネルギーに溢れて、「生きているってこういうことだ」と思わせる。

 出張で泊まったホテルの部屋には『風の旅人』の14号だったかが置いてあった。去年泊まったパークハイアットホテルにもこの雑誌は置いてあったし、おしゃれなホテルには置いてあるのだろうか。

 中身はこれからゆっくり味わいながら読むつもり。読んだらまた気になる記事についてはコメントしたい。
http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/17/image1.html

他者の欲望

2005年11月30日 | 読書
<書誌情報>
 ラカンの精神分析 / 新宮一成著. 講談社, 1995. (講談社現代新書)

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 この本を読みながら、考えていたことは息子のことだった。パリ・フロイト派の創設者ジャック・ラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言った。

 いま思春期真っ只中の長男の中では嵐が吹き荒れている。別に非行に走ったわけでもなんでもないが、彼には毎日が欲求不満の連続なのだ。彼の不満はケータイを買ってもらえないこと、お小遣いが少ないこと、お年玉を取り上げられたこと、お気に入りの服が少ないこと、などなど、要は「友達はみんな持っているのに!」自分が持っていないことに対する不満だ。まさに彼は「他者の欲望を欲望」して欲求不満が爆発寸前。

ラカンのいう「他者の欲望」はそんな皮相なことではないかもしれないが、わたしが感じたのはそういうことだった。

 ラカンは死と他者のことを述べている。それは内田樹さんの『他者と死者』を読んでもそう書いてあるのだが、同じラカンについて書かれた本でも、哲学者と精神科医ではやはりアプローチが違うので、なかなか新鮮でおもしろかった。

 「私という他者」の項目から少し引用しよう。

《主体を示す言葉というものがあるとしても、主体がそれを用いて、「私は何々である」という真理の形で己れを示そうとするや否や、主体は己れ自身であることから疎外される。したがって、主体は己れ以外のもの、すなわち他者でなくてはならなくなる。ランボーの句(私はひとりの他者である――引用者註)は、自己言及の構造に基づくこの人間の脆弱性をよく言い当てている。精神病は、この脆弱性の部分を目がけて、人間を襲うのである。
 このように、人間は大文字の他者を介することによってしか、自分本来のありうべき姿に近づくことができず、したがって自己設立の過程で、主体は良かれ悪しかれ、他者であることを通過する。こういった他者になる旅程において、精神分析で問題になる
いわゆる同一化が幾重にも発生する。毎日の精神分析の経験の中で、ラカンは、人間が他者にならねばならぬ必然性について思いめぐらしながら、ランボーの句を反芻していたのであろう。》(p144ー145)

 ラカンを理解するためにはいくつかキーワードや基本用語があって、その一番大きなのが「対象a」だ。(いちばん大きいというのはわたしの理解)

《他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカンの用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。》(p88)

 この説明を読んで一読で意味がわかる人がいるのだろうか? いるかもしれないが、わたしはさっぱりわからない。それにしても「対象aは黄金数だ」というテーゼを述べるためにややこしい数式を引っ張り出してくる必要があったのだろうか? 『知の欺瞞』(ソーカル,ブリクモン著)でさんざんこきおろされたラカンの超絶数学、わたしの理解を超えているのでそこは読み飛ばしておいた(笑)。

 それから、本書は「ラカンの精神分析」といいながらそれがどういうものなのかは最後までわからなかった。実際にラカンがどのように患者に接していたのかその実践的な記録があればわかりやすいのに。ただし、ラカンの伝記的事実について知りたければ本書は参考になる。

 この本はさらっと一回読んだだけではよくわからない。再読してまた新たな理解があれば書きたい。わたしは何よりも「他者論」に惹かれる。わたしは生きている限り未来永劫他者によって苦しめられ、他者によって生かされ、他者によって自己を発見できるのだと思う。
 

老化の不思議に生きることの意味を考える

2005年11月29日 | 読書
久しぶりに萩尾望都の漫画を読んだ。先ごろ完結したのをうけて『バルバラ異界』全4巻読了。萩尾望都らしい心理描写の複雑な近未来SF漫画であり、多くの謎が見事に入り組んだ人間模様を描くすぐれたサスペンスだ。興奮しっぱなしで読み終えた。

 この漫画のテーマを一つに絞ることはできない。読者の側もさまざまなメッセージに感応するだろう。不老不死に興味を示すか、「マトリックス」のような現実世界と夢の世界との入れ子に目眩を感じるか、「一つになりたい」という悲鳴のような渇望に心惹かれて他者との熔解を求めるか、父になりたい男の無邪気ともいえる葛藤に暖かい目を注ぐか。

 とりわけ4巻は複雑に入り組んだ謎が次々と解けていき、人間模様のモザイクが見事に浮かび上がってくるのだが、それと同時に今度は読者を巻き込んで大混乱の展開となる。結局すべては夢の世界だったのか?

 萩尾望都の博識にはおそれいる。漫画の中に難解な精神分析用語や概念が出てくるわけではないが、彼女がかなりフロイトやユングを読んでいることは間違いなさそう。

 そして、重要な登場人物の一人が歳若くして老化してしまう一族の末裔という設定になっていて、「プロジェリア」という言葉も登場する。

 プロジェリアといえば、テレビのドキュメント番組でプロジェリアという難病に罹患した子どもたちの様子を見て、衝撃を受けたことを思い出す。そして最近、プロジェリアの娘を持った若い母親の手記を読んだ。



 なぜ人は必ず死ぬのに今を生きているのだろう。なぜ苦しみ多い死を迎えることを知っていながら生きていけるのだろう。死すべきものであるなら、なぜ生まれてきたのか? 古来、おそらく人間が人間としての知性を持ったその日からずっと人間を苦しめ続けてきた難問だろう。
 20年の人生なら不幸だが、200歳まで生きられれば幸せか? 人の幸せは人生の長さでは測れないだろうことは直感的にわかる。けれど、生後1年も経たずに老化が始まりやがて15歳ぐらいで死んでしまうという奇病「プロジェリア」に罹病した子ども達が「幸せ」だとはとうてい思えない。

だが、この本の著者の娘アシュリーはプロジェリアである自分の運命を明るく受け止めている。それが奇跡のように思えるのだ。

 本書はアシュリーの母ロリーの半生記であり、17歳で母親になった彼女がマリファナやドラッグ漬けになって夜遊びする女性であったことが綴られている。淡々とした簡潔な文体といい、「非行少女」時代から立ち直った話といい、大平光代の『だから、あなたも生きぬいて』とよく似ている。

 本書はあらかじめテレビのドキュメンタリーを見た読者を想定して書かれているようだ。内容のほとんどがロリーの半生記であって、アシュリーのことはあまり書かれていないため、プロジェリアという病気に関しての知識を得たいと思うなら、不十分だろう。

 テレビを先にみた人にとってはプロジェリアという奇病を抱えつつも決してあきらめず明るく生きる母娘という美談が刷り込まれてしまうのだが、本書を読む限りロリーは決して「いい母親」ではない。仕事はまったく長続きしないし、次々男ができては子どもを放擲する母、ドラッグづけ、パーティ三昧、という生活だ。それも仕方がない、彼女は17歳で出産してしまったのだから、子どもが子どもを育てているのだ。
 最後に彼女は宗教に出会うことによって救われ、生活を一新する。敬虔なクリスチャンに変貌したロリーはいま、心穏やかにアシュリーとともに生きる。

 初めてアシュリーの姿をテレビで見たときはほんとうに衝撃的だった。「異様な」容貌、普通の人の10倍の速さで年老いてしまうため、12歳ですでに髪や歯が抜け、しょっちゅう骨折する。さらに心臓病や高血圧などの成人病に罹患している。世界にわずかしか症例が見つかっていないプロジェリアの子ども達が集まってはしゃぐ場面などでは思わず涙がこぼれた。

 人にとって幸せとは何だろうか、なぜ人は死すべきものとして生まれたのだろうか、と考えずにはいられない。アシュリーほどの速さでなくとも、いずれわたしも老いて死ぬ。いかに死ぬか、ということに思いをめぐらせる年齢になりつつあると実感するこのごろだ。

<書誌情報>

バルバラ異界. 1-4 / 萩尾望都. 小学館, 2003-2005 (Flowers comics)

みじかい命を抱きしめて / ロリー・ヘギ著 ; [板倉克子訳].フジテレビ出版, 2004

憲法を変えて戦争へ行かないために

2005年11月20日 | 読書
 内田樹さんが17日のブログで「動物園の平和を嘉す」と題して憲法擁護論を書いておられる。http://blog.tatsuru.com/archives/001375.php


 まったく同感。平和ボケしているほうが、戦争で緊張するよりずっといいとおっしゃる内田さんの意見にわたしも賛成する。ただ、逆に言えば、自分たちさえ平和にボケていられればそれでいいという考えがもし内田さんにあるなら(そうは書いておられないが)、それもどうかなと思う。だいたいが、このグローバル化した世の中で、一国だけで平和にボケていられることなどないはずだ。


 内田さんのブログを読んで思い出したのが少し前に読んだこの本。
 岩波の本だから、いつもの護憲論かと思ったが、執筆者を見てその幅広い人選にびっくりした。

 井筒和幸, 井上ひさし, 香山リカ, 姜尚中, 木村裕一, 黒柳徹子, 猿谷要, 品川正治, 辛酸なめ子, 田島征三, 中村哲, 半藤一利, ピーコ, 松本侑子, 美輪明宏, 森永卓郎, 吉永小百合, 渡辺えり子

 この手の本だと、書くのはたいてい左翼リベラル派の人々なのだが、一見「反戦」とは無関係なような芸能人やら財界人やらも名前を連ねている。ほとんどの人々が「自分の言葉」で戦争に対する思いをつづっていることに共感した。安くて薄い本だから、手軽にすぐ読める。ぜひ大勢の人に買ってほしいと思う。

<書誌情報>
 憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言
 井筒和幸 [ほか著]. 岩波書店, 2005.(岩波ブックレット ; No.657)

寒い日は鍋がよろしいかと『風味絶佳』

2005年11月07日 | 読書
 通勤電車の中で『風味絶佳』を読みながら目が覚める思いがする。「なんておもしろいんだろう」いや、「なんておいしそうなんだろう」。

 山田詠美の最新作はおいしそうな短編集だ。第1話「間食」、ふむ、年上の女にかしずかれる若い鳶職の話ね。これはなかなか。

 第2話「夕餉」、これはなんだか身につまされる。人妻の話だからか。いや、わたしより遥かに若いまだ30歳にもならない人妻の不倫ものでは、あまりにも非現実的というもの。それよりも、この人妻が何不自由ない裕福な家を出て一緒に暮らす相手が清掃作業員というのがなんともまた新鮮だ。都庁の現業職員である男に毎日毎日手作りの料理を食べさせるヒロインの心持ちがいじらしい。その手料理たるや、半端なものではない。世界中の料理を次々と作る彼女はイタリア料理にはイタリアの塩を使うというこだわりようだ。

 夫との無味乾燥な生活を思いつつ、今の男との危うい関係に切なさを隠しつつ、彼女は毎日料理を作る。彼女が作る料理を目で追い堪能しつつ、わたしはこうしてわが身にありえないロマンスを物語で消費する。やっぱり恋は料理と同じ。

 と、小説の世界にひたりつつ地下鉄の階段を上がるとガラスケースの中に散らばる枯れた葉と花びら。すっと視線を上にやると、そこにはもとは美しく活けられた花が飾ってあったその残骸が高価な花瓶とともに寂しく頭をたれていた。かわいそうに、もうとっくに盛りを過ぎた花をそのように人目に晒すとは、なんと残酷な。わが身を見るような痛々しい気持ちになったおばさんであった。

 そして第3話「風味絶佳」、これはいい、とってもいい! 70歳を過ぎたハイカラなおばあちゃん、いくつになっても車の助手席には若い男をはべらせる。なんて素敵なグランマ。

 あんまり寒いから昼は温麺を食べようと、よく行く韓国料理屋へ。いつもは並を注文するけど今日は大盛にしてもらってよく温まった。勘定を支払う段になって、店員が悲しそうに「うちの店、来週の金曜で閉めるんです。今までありがとうございました」と言うではないか。若いお姉ちゃんがいつも「こちらのお席でよろしかったでしょうか」という妙な日本語を使うこの店の温麺が大好物だったのに!

 残念至極と思いながら昼休みは続けて第4話「海の庭」を読む。離婚して独り身になった女性が幼馴染の男と再会して、つかず離れずのじれったい交際を続ける話。物語の語り手は女性の娘、高校生。こういう、中年のほのかな純愛って、いいね。

 ああ、それにしてもうちの職場はほんとに寒い。あまりにも寒くて肩が凝り頭が痛くなってくるし、鼻水もたれてくる。指がかじかんでキーボードを打つのもいらつく。寒い日には鍋がいい。それもてっちり。てっちりとヒレ酒のことを考えながら寒さに耐えた一日だった。
 
 1万人の第九の練習を終えて帰りの通勤電車の中では第5話「アトリエ」。これはなかなか濃い。何が濃いかというと、肉体がすべての空虚を埋めていくような男の愛が濃いのだ。汚水漕の清掃を生業にする男が愛した暗くて悲しい不器用な女。夫婦になった男と女の肉の交歓がなまめかしくも妖しい。こんな愛もあるのかと不思議なまぶしさを感じる。

そして第6話「春眠」。密かに思いを寄せていた女を父親にとられてしまうという話。

 この短編集に登場する男達の職業がおもしろい。鳶職、東京都の清掃作業員、ガソリンスタンドの従業員、引っ越し会社の作業員、汚水槽の清掃員、斎場の焼却炉のメンテナンス員。皆が皆、肉体労働者ばかりだ。からだを使う男達の濃い愛の世界。わたしが知らない世界。

 静かに漂うエロスもあれば、汗の臭いが立ちこめそうなエロスもある。またしても山田詠美の世界に耽溺してしまった。
 これもまあ、とみきちさんのお奨め上手のせいね(笑)
 
とみきちさんがいつものように素晴らしい評を書いておられるので、そちらをぜひお読みあれ

 
<書誌情報>
 風味絶佳 / 山田詠美著. -- 文藝春秋, 2005

『現代の理論』特集性・エロス・家族の行方

2005年11月03日 | 読書
 この雑誌、今まであまりちゃんと読んだことがなかったのだが、今号はフェミニズム特集(ではなくて正確にはエロス・家族特集)だったので、興味を惹かれて読んでみた。

 特集記事の内容は以下のとおり(明石書店のHPより)

特集【性・エロス・家族の行方】
 フェミニズムをリアルに生きる(上野千鶴子 東京大学教授)
 「わたしたち」という形のせめぎ合い(池田 祥子 本誌編集委員)
 忘れられたワークシェアリング(竹信三恵子 ジャーナリスト)
 フェミを見切っているつもりのあなたへ(イダ ヒロユキ 日本女性学会幹事)
 フランスの家族と家族法改正(丸山 茂 神奈川大学教授)
 韓国家族制度の変容(大畑龍次 朝鮮問題研究者)
◎『オニババ化する女たち』をめぐって
 戦略としての骨盤底筋(大出春江 大妻女子大学教授)
 「フェミニンな身体性」理論とはなにか(河上睦子 相模女子大学教授)
◎座談会
 20代子犬(メス)の脱皮論(上)――筑波大学女子学生の語るセクシュアリティ
 フォーラム・シアターの実験(花崎 攝)
 身体を通じて考える性と私(松本 智)
 女性天皇論へのスタンス(加納実紀代 敬和学園大学教員)
 

 まずはイダヒロユキさんの「フェミを見切っているつもりはあなたへ」を読む。内田樹さんのフェミニズム批判に答えるものかなと思ったら全然違った。要するに、頭は左派でも身体がついてこんおじさんたちを啓蒙するものだった。これまでのイダさんのシングル論を手短にまとめたものだ。

 次に上野千鶴子さんのインタビュー「フェミニズムをリアルに生きる」。この編集部はインターネットを知らないのかな、「2ちゃんねる」を「2チャンネル」と表記している。この誤記は上野さんのせいじゃなくてテープを起こした人と編集部のせいだけど、こんなちょっとしたことで『現代の理論』編集部は「現代」を生きていないことがばれてしまう。

 この上野さんのインタビュー記事を読むと、やっぱり彼女は頭がいいなと感じる。様々な問題にたいする対応が理想主義/理論偏重に流れず、自らいうように「リアリスト」的なのだ。少子化を防ぎたかったら、子育て中の家庭に月35万円支給せよとか、おもしろいアイデアが次々飛び出す。

 また、内田樹さんのフェミニズム批判を想定にした反論なのか、「女も男なみに「強者」になりたいってフェミニズムが言ったことがあるでしょうか。少なくともわたしの理解するフェミニズムは、強者になってわたしも差別する側に入れてくれ、なんていう思想ではありません」と述べている。

 それに、フェミニズムのせいで家庭崩壊や離婚が起きるわけではない、そんな影響力はフェミニズムにはないと上野さんは笑う。思想で世の中が変るなんてことはありえない、とも。

 それにしてもやっと読む気の起こる特集を組んでくれたので、この雑誌を定期購読している者としては嬉しい。

<書誌情報>

『季刊現代の理論』vol.5 2005.10 言論NPO・現代の理論発行 明石書店発売