以下は、本書を批判的に読むための参考図書から引用(ただし、稲葉氏の意見に賛同しがたいとわたしは思っている)
稲葉振一郎『経済学という教養』(2004年)
《労働組合は確かに、マクロ的な景気政策としてのケインズ政策の支持者である。しかしなぜケインズ政策が必要なのかといえば、そもそも労働市場が不完全だからである。そして労働組合は、まさに労働市場を不完全にしている当の責任者である。となれば労働組合のケインズ政策への支持は、自分でつけた火を消して回るマッチポンプであって、それくらいならいっそ労働組合を潰して、労働市場をもっと柔軟にしたほうがマシではないか? このような論法への反撃が、労働組合とそのシンパにはできなくなってしまったのだ。
となれば労働市場への抵抗としての労働組合の存在理由としては、せいぜい消極的な意味でのセーフティーネットとしての役割しか残らないことになる。つまり、過酷な競争のストレスから弱者を守る緩衝帯、という。もちろん、消極的とは言っても馬鹿にはできない。それはひょっとしたら言葉の本来の意味での「保守主義」なのかもしれない。今日の日本では『リストラとワークシェアリング』(岩波新書)の熊沢誠がこの立場の代表的な体現者だと言ってよいだろう。労働組合とは社会の「前衛」ではなく「後衛」であり、変化から取り残される落ちこぼれを守るためにこそあるのだ、と。
しかしながらこの立場には、ここではあえて厳しい評価をつけておきたい。それは経済理論的には、実物的ケインジアンの土俵に完全に乗っかってしまっている。「市場経済がスムーズに動かないから一部の弱者にそのしわ寄せが行く、それゆえに共同体的な連帯によってこうした弱者の痛みをシェアして支えるのだ」という議論だけでは、「それは根治療法ではなく対症療法にすぎない」というシバキ的構造改革主義者に、肝心のところで反論できない。》(p272-273)
稲葉振一郎『経済学という教養』(2004年)
《労働組合は確かに、マクロ的な景気政策としてのケインズ政策の支持者である。しかしなぜケインズ政策が必要なのかといえば、そもそも労働市場が不完全だからである。そして労働組合は、まさに労働市場を不完全にしている当の責任者である。となれば労働組合のケインズ政策への支持は、自分でつけた火を消して回るマッチポンプであって、それくらいならいっそ労働組合を潰して、労働市場をもっと柔軟にしたほうがマシではないか? このような論法への反撃が、労働組合とそのシンパにはできなくなってしまったのだ。
となれば労働市場への抵抗としての労働組合の存在理由としては、せいぜい消極的な意味でのセーフティーネットとしての役割しか残らないことになる。つまり、過酷な競争のストレスから弱者を守る緩衝帯、という。もちろん、消極的とは言っても馬鹿にはできない。それはひょっとしたら言葉の本来の意味での「保守主義」なのかもしれない。今日の日本では『リストラとワークシェアリング』(岩波新書)の熊沢誠がこの立場の代表的な体現者だと言ってよいだろう。労働組合とは社会の「前衛」ではなく「後衛」であり、変化から取り残される落ちこぼれを守るためにこそあるのだ、と。
しかしながらこの立場には、ここではあえて厳しい評価をつけておきたい。それは経済理論的には、実物的ケインジアンの土俵に完全に乗っかってしまっている。「市場経済がスムーズに動かないから一部の弱者にそのしわ寄せが行く、それゆえに共同体的な連帯によってこうした弱者の痛みをシェアして支えるのだ」という議論だけでは、「それは根治療法ではなく対症療法にすぎない」というシバキ的構造改革主義者に、肝心のところで反論できない。》(p272-273)