鹿苑寺の建築群は、舎利殿の金閣、茶室の夕佳亭、北東高台の不動堂の3ヶ所をのぞいて普段は非公開になっています。本堂にあたる方丈とその付属建築である庫裏、大書院、小書院も然りですが、上図の大書院の北側の区画にも非公開の堂宇があります。これまでの発掘調査で北山殿当時の建物の遺構が3棟分検出されたエリアに建っており、額には「妙音堂」とあります。鹿苑寺の前身の西園寺の主要堂宇であった妙音堂の由緒を受け継いで近年に新築されたもののようです。
ですが、個人的にはそのエリアで検出された北山殿当時の3棟の建物の遺構が気になります。南北の2棟の建物と両者をつなぐ渡廊です。かつての金閣と二階廊下で結ばれていたという天鏡閣、その北の泉殿にあたる可能性は無いのでしょうか。
舎利殿つまり金閣の北側に回りました。一般見学路が最も金閣に近づく箇所です。最近の研究成果によれば、金閣そのものは原位置を動いていないようです。三層目は前述したように位置をずらして改造している可能性が指摘されますが、それよりも気になるのは、かつての金閣の周辺の状況がどうなっていたのか、という点です。
現在は御覧のように池の水面が南と西にまわっています。発掘調査および電気探査による地中解析の結果によれば、かつては東にも池が回っていたことが明らかになっています。つまり、金閣は池に北から突き出した舌状の陸地の上に建って三方を水面に囲まれていたわけです。
なので、天鏡閣との二階廊下を設けるとすれば、地形的にも北側からしか建てられないことが分かります。天鏡閣は金閣の北側にあったことが室町期の相国寺僧瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の「臥雲日件録抜尤」の文安五年(1448)八月十九日条に述べられており、原文を示すと「舎利殿北、有天鏡閣、複道与舎利殿相通・・・」となります。
しかし、金閣の北側に広がる上図の松林の下の平坦地においては、度々の発掘調査においても明確な建物の遺構が検出されていません。
創建当時の天鏡閣に入った公卿のひとり、権中納言山科教言(やましな のりとき)の日記「教言卿記」に「奥会所十五間(約30畳敷に相当)」と表現されるのが天鏡閣であるとすれば、その建築規模はかつてNHKが放送した復元CGでは九間五間となっていましたが、ほぼそれに近い大きな建物であったことになります。金閣の周囲に接する広い平坦面は北側にしか存在しませんから、そのような大きな建物を置くとすれば、上図の松林の範囲しか候補地が見出せません。
ですが、少し距離をとれば、先述の現妙音堂の建つエリアで検出された3棟の建物の遺構の存在が注目されます。そのいずれかが天鏡閣であると仮定すれば、金閣との二階廊下も50メートル以上の長さをもっていたことになりますが、それを示唆する遺構はまだ確認されていません。いまもなお、北山殿当時の建築群については不明の部分が多いです。
なので、いま見られる各所の見学スポットも、水流や井戸や湧水がほとんどで、かつての北山殿の遺跡とは無関係です。
こちらの巌下水も湧水の一つで、足利義満公お手洗いの水と言い伝えられているようですが、俗伝に過ぎないようです。
こちらの龍門の滝も然りです。いまの安民沢の池の水が下の鏡湖池へと流れ落ちる水流の一つですが、室町期からのものではないようです。
本来、龍門滝とは鹿苑寺の前身の西園寺の池庭に関連した滝の俗称で、これを実見した藤原定家の「明月記」に「四十五尺瀑布瀧」とあるのに相当する可能性が指摘されています。現在の不動堂の北側にある崖状の滝跡がその一部とされています。その西園寺当時の滝の流れは紙屋川を水源とし、明治期までは中島を有する大きな池であった、いま北山文庫の北に残る池に注いでいたようです。その流れに沿った地域にも、かつては北山殿の建物が幾つか並んでいたようですが、全ては歴史の彼方に消え去って不明になっています。
見学路を進んで北側の高台へと登る途中に、上図の石仏群が集められて祀られる場所があります。石仏が鎌倉期の遺品であるので、北山殿造営以前の西園寺に関連した遺物とみられます。
途中に上図の細い階段の通路がありました。かつての一般見学路として昭和50年代頃まで使われていたそうですが、観光客が激増してからは、現在の広い見学路に切り替えられたそうです。
個人的には、この階段の高低差がけっこうあるのが気になります。御覧の通りの急斜面を斜めに階段が通っていますので、そのルートがあまり屈折せずにほぼ直線状になっています。その長さからも斜面の規模がうかがえますが、それが自然の地形では有り得ない急傾斜になっているのが興味深いです。
足利義満は、北山殿造営にあたって山裾の傾斜地を切り崩して現在の鏡湖池エリアの広大な平坦面を確保したといわれます。それ以前の西園寺家の北山第の時期にもある程度の土木工事はなされていたと思われるのですが、北山殿の造営工事ではそれを上回る土木工事がなされたようです。
なので、現在見られる上図の階段が通る急斜面は、西園寺時代のものなのか、それとも北山殿造営にともなう新たな工事によるものか、が出来れば知りたいとこです。どちらに該当するかで、現在の鹿苑寺境内域の成立状況への歴史的解釈が左右されるからです。 (続く)