わたしたちが長生郡市の合併協議を通して学んだものは?
あじすっか=どうしたらよいだろうか(地域の言葉も大切にしたい)
あじすっか(一宮町発) 地域・生活者を起点に地方分権型社会へ
上総の国 十二社祭り
毎年9月13日は、
玉前神社の秋の例大祭と
近隣の十二社祭りである。
玉前神社の幟(のぼり)は
加納久宜公の揮毫である。
明治三十九年九月十三日
正三位勲三等子爵加納久宜書
三島町
とあります。
十三日の午後は、十二社祭です。
白装束の氏子が神輿を担ぎ
海岸を疾走する。
そして、
一宮玉前神社の大宮、若宮の他
南宮神社の大宮、若宮、三之宮神社の大宮、若宮、
椎木(玉前)、綱田(玉前)、和泉(玉崎)、中原(玉崎)、
谷上神社の神輿が
釣ヶ崎祭場(志田下)に集結する。
外房のサーフィンの発祥地ともいえるポイント(志田下)が、
千二百年の歴史のある祭場であることは。
この海岸に、多くの人々を引き寄せる何かが
あるのです。
キッズエコフェスタは中止になりました。
志田下は世界大会も開かれるサーフィンのメッカ
地元では、このように皆が神輿を運び、
出会いと別れをする祭りをとても大切に守ってきている。
ところが、その発祥について、
多くが語られていない。
私は、
友愛の精神で
悲しい歴史を乗り越えようとする思いが
そこにあると考えています。
例えば、
『房総の秘められた話、奇々怪々な話』の中の
「村境いを決定する決死の騎馬ゲーム(岬町・一宮町)」に、
そのいきさつを発見しました。
詳しく知っている方があったら
お教えください。
『房総の秘められた話、奇々怪々な話』
大衆文学研究会千葉県支部編著(崙書房)
1983年7月10日発行
その悲劇的な結末と、その後については、本書をご覧ください。
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加納久宜公の揮毫である。
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海岸を疾走する。
そして、
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椎木(玉前)、綱田(玉前)、和泉(玉崎)、中原(玉崎)、
谷上神社の神輿が
釣ヶ崎祭場(志田下)に集結する。
外房のサーフィンの発祥地ともいえるポイント(志田下)が、
千二百年の歴史のある祭場であることは。
この海岸に、多くの人々を引き寄せる何かが
あるのです。
キッズエコフェスタは中止になりました。
志田下は世界大会も開かれるサーフィンのメッカ
地元では、このように皆が神輿を運び、
出会いと別れをする祭りをとても大切に守ってきている。
ところが、その発祥について、
多くが語られていない。
私は、
友愛の精神で
悲しい歴史を乗り越えようとする思いが
そこにあると考えています。
例えば、
『房総の秘められた話、奇々怪々な話』の中の
「村境いを決定する決死の騎馬ゲーム(岬町・一宮町)」に、
そのいきさつを発見しました。
詳しく知っている方があったら
お教えください。
『房総の秘められた話、奇々怪々な話』
大衆文学研究会千葉県支部編著(崙書房)
1983年7月10日発行
村境いを決定する決死の騎馬ゲーム(岬町・一宮町)
夷隅郡岬町と長生瓢一宮町の接するあたりは、むかし熾烈(しれつ)な村境争いのあったところである。村境争いは、中原村と束浪見村、中原村と椎木村、椎木村と綱田村と各地に発生したが、とくに、中原と東浪見、椎木と綱田の争いが烈しかったようだ。
村境争いは、かなりむかしからで、天正十三年(一五四四)六月、東浪見と中原の村境争いを、里見安房守と土岐大膳大夫が、仲裁に入って、きめたようで、そのときの両氏の裁許状が、いまも残っている。
東浪見、中原の村境争いの原因は、芝の港と南川にあったようだ。
芝の港は、中原村に属し、東浪見村が接していた。しかし、この地方の太平洋の怒涛による浸蝕はひどく、近くの太東岬(たいとうみさき)など、どんどん削りとられている。絵を措きにいくと、はっきり分かるが、去年描いた小さな島が、今年いくと、もう崩壊してなくなっていた、というケースもある。
筆者はこの地に絵を措きにいき、沖からうねりうねり寄せてきた大浪が、烈しく絶壁にぶつかったとき、大音響とともに、絶壁の一部が削り取られた現場を見ている。
太東岬の燈台は、昭和二十七年に建設され、三十万燭光の光度で、太平洋の海上を照らし続けてきたが、燈台の敷地は、年々削り取られていった。このため、燈台は昭和四十一年に、百メートル近く内陸部に移築された。
中原と東浪見の村境いの海岸も、年々浸蝕されていった。また、陸上の境界線となっていた南川も、暴風雨で増水するたびに流れる位置を変えた。
こんなわけで、村境争いは、むかしから絶えることがなかったのである。
天正年間(一五七三―九二)には、中原村は万木城主土岐氏の領地で、東浪見村は里見氏の領土だった。両氏は、この村民の争いが原因で、合戦にまで発展することをおそれ、互いに相談して、双方の名主の騎馬のゲームの勝負によって、村境いを決定した。
里見、土岐の両氏は名主たちが、騎馬で追いかけっこをし、追いついたところで、取り組ませ、落馬させた地点を村境とする、という、笑い話みたいな手段を考え出したのである。
その競技の日は、天正十三年(一五入五)六月のことであった。出発点は、両村の反対側の一宮本郷村の一角。
中原村名主の森内蔵之助と東浪見村名主の長谷川清兵衛が、ともに、馬の口取りを従えて、現われた。ともに悲壮な顔をしていたにちがいない。
(略)(府馬清)
その悲劇的な結末と、その後については、本書をご覧ください。
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