goo

一宮町での加納家(一宮藩藩主)の足跡(3)

昨年の第1回探訪会『加納さんの足跡を訪ねて』
の資料の裏面です。


 本日は第1回探訪会にご参加いただきありがとうございます。コースの見どころを拾ってみました。みなさんで意見交換をしながら、楽しく回りましょう。

(1)渡辺脩三翁頌徳碑(昭和29年建立)
 郷土の開発と産業の振興に生涯を捧げる。「・・殊に一宮町耕地整理組合長としては、加納公の遺志を継ぎ、・・・。為に粗田変じて美田と化し・・・」(碑文 『ふるさと今昔』より) 一宮町信用組合・一宮町農業会(農業協同組合の前身)会長、第19代町長、県議会議員他 

(2)実本寺
・駐車場より、城山の『加納久宜公の墓』を見上げます。
「日本ではじめて産業組合をつくったのは、東京府荏原郡駒込村でそれをつくりその組合長となったのは、後に一宮町信用組合長になった加納久宜子爵である」「農業協同組合の前身は、有限会社一宮街信用組合で、その事務所は一宮町2960(現在の実本寺であった)(一宮町史)

・追手の坂の途中に城山へ登る階段があります。

(3)加納別邸跡
・追手に加納久宜・久朗(元千葉県知事)の別邸跡地があります。  トーマス・ベティはここで「国際法のあけぼの」を書き上げました(昭和29年)

(4)薬師坊付近
・城山公園への分かれ道です。自然の要害に守られています。

(5)内宿・玉蔵寺
・内宿は、城内の家来の宿舎に由来する地名
・玉蔵寺で明治43年に第1回婦人会が開かれた、会長は加納公夫人。

(6)東漸寺 『皇女和宮の駕籠』(WC 14:30頃)
・ 加納久徴第六代一宮藩藩主は文久元年(1861年)若年寄に任命され、皇女和宮の関東降嫁の折、幕府の責任者としてその大任を果たす。その労をねぎらい、和宮より豊後国長盛の名刀一振り、鞍鎧一具、打掛などとともに、道中乗用の駕籠を下されたという。


(8)城山公園 「一宮城址」
・16世紀前半の白磁、染付瀬戸・美濃産陶磁器、大量の鉄砲玉などが出土。礎石建物とそれに伴う園池が発見されている。(未発掘部分も)

(9)加納久宜公紀徳碑 (存命中の大正7年(1918年)に建立)
・徳川家辰篆額、後藤新平撰、野邸素介書
・昭和63年に、旧一宮町役場跡から振武館より移転

(10)加納久宜公の墓
・大正8年(1919年)2月26日静養中の別府で亡くなる。
・大正11年(1922年)分骨を納めた墓を建立(本墓は谷中霊園)
(振武館前に集合 WC)

(11)私立一宮女学校碑(一宮小学校内)
・一宮を中心とするこの地方の女子教育の振興のため、大正2年、私立一宮女学校を設立。実用の知識技能を授けるとともに、徳育を涵養することを目的とする。(昭和  年廃校、扁額は一宮商業高校校長室に)

(12)観明寺四脚門 
・江戸時代初期(町内最古)の木造建築といわれる

(13)加納会館(旧一宮町役場)跡地
・大正時代の町役場の跡地、農業会も同居していた。その後、加納会館と呼ばれ、保育園、学童保育、剣道などで活用されていた。紀徳碑のあったところは、消防小屋になっている。

(14)玉前神社(解散) (案内見学は次回以降に)
・例大祭の幟(明治39年久宜書)
・(久徴奉納品) 色々威腹巻(筋兜付) 打毬目録 紅葉散射篭手 
・(久通奉納品)書状 (久宜奉納品)大礼服

電車時刻
上り:16:10 21(総快) 31(特) 17:01

下り:16:12 17:00

にほんブログ村
にほんブログ村 地方自治 にほんブログ村 教育ブログ にほんブログ村 偉人・歴史上の人物
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一宮町での加... 一宮町での加... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。