創価学会の没落

悲鳴をあげる学会員

独裁者

2011-11-06 18:36:05 | 池田大作とは

「先生がすべてを決める、すべてご存知」ということは会内の定説である。
だから私は学会員当時、「独裁者だ」と幹部に言ったことがあるが、「そんなことはない」
と否定していた。

では、創価大学の人事、給料、外郭会社の給料まで池田さんの一言で決められたいたことはどう否定するのか。
役員会で決めないこれらは法令違反ではないですか。
公明党幹部の人事も、池田さんの意のままであった。
これを独裁と言わずして何と言うのでありましょうか。
創価が言う民主主義とはこういうことなのでしょうか?


『懺悔の告発』(山崎正友 日新報道)によりますと
《創価学会本部に入って最初に手がけたのは、法人設立以来の書類の点検だった。
 昭和四十五年当時の創価学会の事務は、まるでドンブリ勘定のうえ、宗教法人として
の事務処理は全くなされていなかった。会社の取締役会にあたる責任役員会も開かれずに、役所への届出の必要に応じて議事録を適当に作っていたから、同じ日時に、違う場所で同じメンバーが三回も役員会を開いた、というような記録が残っていた。逆に、予算や決算等、必要な事項についての議事録が欠けていた。(中略) 
 私の仕事は、まず、法人設立以来の議事録を全部作り直し、会計帳簿を根本から作り
直すことから始まった。》
とあります。つまり、改ざんを行っていたわけです。この度、出版された『乱脈経理』(矢野
絢也 講談社)において、その真実性が裏づけられますのでお読みください。

では、池田さんはどのような鶴の一声で、この集団を左右していたのか。その一例はつぎの通り。(社長会からの発言記録↓)

●創大人事
「創価大学の人事を決めたい。一応、仮理事長に飛田君、主任理事岡安君、あと篠原、
宮林、秋谷、原島、上田、桐村、森田、小山内を決定して、どんどん進めていく。今迄の委員会はその儘で良いが、主体はこの執行部に移って、皆で飛田、岡安を応援して行き、思い切ってやらせる。」1968.11.21


●創大の給料
「大学教授の給料は今迄の1.5倍位にしよう。白亜の宮殿が大ゆれにゆれて、その後で
本当の白亜の殿堂ができるんだね。最高の教育をしましょう!最初は少人数で、核を固めながらいきましょう。」1970.1.27

 
●独断決裁
「本部の裏に200坪、7階のビルを作る」
「総坊にあと10軒つくる。一軒はラーメン屋(博文)と一軒は聖教直営店をつくる」昭和43年12月27日

「九州の林田温泉、霧島の麓に12万坪買う」
「68万坪に独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな」

●社長、社員の給料
「社長の給料を上げる。自宅を買え、但し成績があがればだ」昭和46年4月13日

「全社員に7月17日を記念して、特別賞与1カ月分を出して下さい」昭和43年7月8日 

●公明党選挙人選
「小島君は衆議院はやめだ。社長会のメンバーとして人間を磨き、立派に成長してゆけ」
昭和43年3月22日 

「三年先の参議院は北条、柏原でやろう。衆議院もそろそろまとめよう。大久保だな、大沢の代わりに。小島のところは山崎か秋谷だな」昭和43年7月8日 

「公明党の体質も変えなければいけない。大久保の使い方もまずい。竹入は使いこなせないし、矢野には統率力がない。(中略)中川、鳥居等も入れてゆけ」昭和45年5月5日 


最後に、独裁者の一言を
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散し
てもいい」(『現代』昭和45年7月号)