片づけながら、とっておいた絵本をお蔵離れするのに、もう一度広げてみた。
☆ 10才のとき さりげなく私たちの歴史を子供に伝えられる。
年代の異なった大人が10才を回想し、時々の歴史を庶民の感覚から拾いあげている。戦争・民主主義 etc
秋田の小正月には綱引きもあったそうだ。
(そういえば、綱引きが復活した町もあったそうだと、思い出す。)子供に伝えながら、実は大人にも十分楽しめる。1991年出版
実際のところ、子供がこの本をどう楽しんだだろうか・・・
「つぎは、10才になる君の番だ」とは、「せいめいのれきし」の締めを思い起こす。
☆魔女に会った 1993年出版 写真が楽しめる。 ドイツの祭りからベルギーのイーペルの祭り、そしてルーマニアの魔女にまで著者は会いに出かけた。
何やら魔女お気に入りの植物名があり、名前に惹かれて調べてみると、なんと、それは「シ」で知ったマンドレイクらしい。
創作にも度々登場している。
反応をもたらす植物だったようで、人から生まれ変わるなんて、グロテスクでもある。
そういえば、日本にも「桜の木の下には・・」と文筆家が創造したのもあったと、思い出し、
美意識やら同じ人間として抱く恐れやらを垣間見ているようでもある。
現代はさっぱりしていて、爽快な心境にさせてくれる。
さて、近未来で創造される暮らしは?
☆ わたしが外人だったころ 鶴見輔 文
改めてページをめくる。ハーバードに留学した、戦争を挿んだ時期を描いていらっしゃる貴重な声です。
「わたしはアメリカにいた時、外人でした。自分の底にむかっておりてゆくと、今もわたしは日本人の中の外人です。地球上のさまざまな外人にとりかこまれている日本人の中の外人です。」
けれど、終いにはタイトルを著者は真っ向から否定し、「本の題から、わたしは、はみだしています。日本人本意に考えるのでは、地球上に
すみにくくなります。」と、すがすがしく元気になっています。 こうした感慨は、当時、 著者ひとりではなかったはずです。
(鬱の時に河合先生がマンガを薦めたように記憶しています。) 「たくさんのふしぎ」は、かなり高尚な要素があると、今更ながら、気づかされます。 1995年 124号
読者向けを意識した締めなのでしょう。すがすがしい締めにしなければ、大人向けの訴える声になりそうです。創作は出版側の意図や計画で益効果を生むために遂行されるのでしょう。