昨日、久しぶりに座禅会へ参加しました。
私は座禅歴15年程度なのですが、曹洞宗の座禅をやってきました。
曹洞宗と言えば、道元の只管打座(しかんたざ)です。
曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場です。
私や僧侶など関係者のコンセンサスに、以下のようなものがあります。
・座禅に宗教色は希薄である(=誰でも参禅できる)
・眼を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念
・座禅から悟りを開く(お悟り体験)の経路は存在しない
・お悟り体験、見えないものが見えるようなったとか言いだすと、病気である
昨日の座禅会では、最近、上座仏教(いわゆる小乗仏教。日本では、日本テーラワーダ仏教協会などの)Meditation(瞑想)が流行しているお話を聞きました。
私見ですが、座禅は水泳やジョギングのような健康促進活動と同じで、日常生活、経済活動を補強するものであるのに対して、瞑想のために山に籠るような行為は一種の諦めのようなものが感じられ、アンチビジネスだと思います。
私は、こうした瞑想の流行は経済状態、景気がこれまで悪かったことが影響していると思います。
日本がデフレ脱却し、経済が正常化すれば、山に籠って瞑想などやっているよりも仕事をする方が合理的と認識され、瞑想をする人は少なくなると私は予想します。
一方、座禅をする人が増えるかについては、わかりません。
私は座禅歴15年程度なのですが、曹洞宗の座禅をやってきました。
曹洞宗と言えば、道元の只管打座(しかんたざ)です。
曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場です。
私や僧侶など関係者のコンセンサスに、以下のようなものがあります。
・座禅に宗教色は希薄である(=誰でも参禅できる)
・眼を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念
・座禅から悟りを開く(お悟り体験)の経路は存在しない
・お悟り体験、見えないものが見えるようなったとか言いだすと、病気である
昨日の座禅会では、最近、上座仏教(いわゆる小乗仏教。日本では、日本テーラワーダ仏教協会などの)Meditation(瞑想)が流行しているお話を聞きました。
私見ですが、座禅は水泳やジョギングのような健康促進活動と同じで、日常生活、経済活動を補強するものであるのに対して、瞑想のために山に籠るような行為は一種の諦めのようなものが感じられ、アンチビジネスだと思います。
私は、こうした瞑想の流行は経済状態、景気がこれまで悪かったことが影響していると思います。
日本がデフレ脱却し、経済が正常化すれば、山に籠って瞑想などやっているよりも仕事をする方が合理的と認識され、瞑想をする人は少なくなると私は予想します。
一方、座禅をする人が増えるかについては、わかりません。
