出版社/著者からの内容紹介
普通の人間にとって実践可能な人生の真の生き方とは何か.我々は後世に何を遺してゆけるのか.明治二十七年の夏期学校における講演『後世への最大遺物』は,人生最大のこの根本問題について熱っぽく語りかける,「何人にも遺し得る最大遺物――それは高尚なる生涯である」と.『デンマルク国の話』を併収. (解説 鈴木俊郎) --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
内容(「BOOK」データベースより)
普通の人間にとって実践可能な人生の真の生き方とは何か。我々は後世に何を遺してゆけるのか。明治27年夏期学校における講演「後世への最大遺物」はこの根本問題について熱っぽく語りかける。「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。…何人にも遺し得る最大遺物―それは高尚なる生涯である」。「デンマルク国の話」を併収。
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内村鑑三の「後世への最大遺物」を読みました。
先程知ったのですが、インターネット図書館 青空文庫に全文が掲載されています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_2967.html
後世へ遺していくものの第一は金、第二に事業、第三に思想。キリスト教徒である内村鑑三が語るこの優先順位は興味深いものでした。
ただし、以上の3つは誰もが後世へ遺していけるものではない。
誰もが遺し得る最大遺物―それは高尚なる勇ましい生涯と説く。
艱難と戦い、打ち勝ち、歓喜の世の中にしたいと考え行動する生涯。
これは今でも通用する考えだと私は思います。
『それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委(ゆだ)ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。』
『それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも残すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。』
普通の人間にとって実践可能な人生の真の生き方とは何か.我々は後世に何を遺してゆけるのか.明治二十七年の夏期学校における講演『後世への最大遺物』は,人生最大のこの根本問題について熱っぽく語りかける,「何人にも遺し得る最大遺物――それは高尚なる生涯である」と.『デンマルク国の話』を併収. (解説 鈴木俊郎) --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
内容(「BOOK」データベースより)
普通の人間にとって実践可能な人生の真の生き方とは何か。我々は後世に何を遺してゆけるのか。明治27年夏期学校における講演「後世への最大遺物」はこの根本問題について熱っぽく語りかける。「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。…何人にも遺し得る最大遺物―それは高尚なる生涯である」。「デンマルク国の話」を併収。
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内村鑑三の「後世への最大遺物」を読みました。
先程知ったのですが、インターネット図書館 青空文庫に全文が掲載されています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_2967.html
後世へ遺していくものの第一は金、第二に事業、第三に思想。キリスト教徒である内村鑑三が語るこの優先順位は興味深いものでした。
ただし、以上の3つは誰もが後世へ遺していけるものではない。
誰もが遺し得る最大遺物―それは高尚なる勇ましい生涯と説く。
艱難と戦い、打ち勝ち、歓喜の世の中にしたいと考え行動する生涯。
これは今でも通用する考えだと私は思います。
『それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委(ゆだ)ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。』
『それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも残すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。』