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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

自由?と平等?、そして叱らなくていい子育て&ほめて育てる

2012年01月17日 | 研究-教育・育児

子供を育てていく上で、兄弟の互いの信頼と絆を深めるように、親として両方のバランスを取りながら育てるというのは、とても難しいものです。

子供達はそれぞれ、自分が親の一番でありたいと思うし、でもライバル(兄弟)がいれば、それは容易にかなわぬこと。

 

親の思いとは別に、下の子は常に上の子と同等、対等、平等を求め、上の子はそれに不満を抱くのが普通でこれは本能。

恥ずかしい話ではありますが、僕の親は僕と弟を徹底して平等扱いにし、常に同じ条件で、ほぼ完璧といえるほど平等にして育てた。

親の考えからすれば、これで兄弟間になんら不満を残さず、将来は遺恨も何も無い、いうなれば、なんら揉める原因の無い事で手に手を取るような理想的兄弟が育つのだと思たのだろうけれど、

「その結果は?」というなら、兄弟間で決して埋める事の出来ない大きな亀裂を生じさせ、僕の記憶の中にある弟の存在はひたすら嫌な存在としての記憶しか残っていない。

当然、付き合等がある筈はなく、連絡などけしてしないし、する必要すら無いと思っている。 

何より、弟に決定的な人格破壊をもたらしたのが、この平等に育てるという理想教育の結果であった事は、どうにもならない事実であって、この実経験をもって同じ過ちを僕が我が子に犯すことは無かった。

 

我が子は上が男で、下が女。

当然、長男は常に長男として扱われ、妹は当然妹であり、明確な区別の元に育てた。

さらに、それに付け加えて男である長男は男らしく、女である妹は徹底して女の子らしく育て、

その基本は武士の時代の育て方に有って、当然に現世では適合しないものであろうが、できる限り再現を心がけてきた。

この先まだこの二人がどんな人生を歩んで行くかを見ない限りは、「私の子育ては旨くいきました!」等と、磔にされてもいえないものなのだが、幾分かこのブログを読んでいただいている方に容赦をいただきつつ、かつ親バカ交えながら言葉にさせてもらえるなら。

 

二人とも”一応”はそれなりの人間へと成長してくれている様には思えます。 

上司に可愛がられ、同僚にも好かれて職場が楽しくて仕方ない長男と、同じく先生や友達、後輩から好かれて生き生きと学生生活を送っている妹。

この二人がもっとも難しいといわれる人間関係で悩むことは一切無く、それゆえ常に心豊かであり、それは僕の家庭という空間が常に笑顔と笑いで満ち溢れている事実をもって一つの結果として捉えています。

 

このふたりの我が子ですが、極端に中が良く。

上の子は常に下を守り、必要と判断すると僕にさえ立ち向かってくることも有る、下の子はそんな上の子に対して常に尊敬の念を持つという関係。

妹はけして兄の前へ出張ることはなく、しゃしゃり出ることもないし、何時いかなるときも3歩下がって控えるわけで、これが現在では同居している息子の嫁さんとの難しいはずの関係を、いとも簡単にこなして解きほぐす力となっている。

娘がまだ幼児のころ、生まれてすぐの頃からであるが、息子には当然のように抱っこさせていた。

親としては落ち着きが無い年令の子供に乳児を抱っこさせるという事そのものが、どれだけ不安であるかは、子供を育てた経験のあるものなら誰にでも分ると思う。

僕と家内とてそれは全く同じで、しかしながら、ひたすら息子を信じ、息子が抱っこしたいというなら好きなだけやらせていた。 

時にはまだ首が据わらない月齢だった娘を抱っこして小走りすることさえあったが、どんなときも口を出さずに、ひたすら忍耐でその姿を見つめ続けてきたわけですが、

事故は心配ではないのか?と問われれば、それは何時いかなるときでも常に可能性は0ではなく、座って抱いても、立っていても、存在するし、逐一気にしていたら限はなく、ましてや我が息子が兄弟を抱いていることを心から信じねば、この先どうやって子を育てられるであろうか? そう思っていた。

 

「無責任」という言葉がすぐさま僕に浴びせられそうですが、基本的に人の持つ本能を中心として物事を考えるに、太古の昔より上の子が下の子を面倒見る本能が人には備わっているわけで、もしその始まりである新しい存在(新たに生まれた妹)を認識するべき重要な一時に、必要なだけの接触をさせねば、それをベースにした将来の兄弟関係、その先には社会に出ての上下関係をそつなくこなす事がはなはだ不安定になるからです。

その介あってか息子は本当によく妹の面倒を見てくれたし、現在もそれは続いてる。

とはいえ、この二人が育つ過程で、当然の様に起きてくることがあって、それは何処の家庭でも普通に存在するものなのですが、まあ、年令がそれなりに離れているので、年令が近い兄弟程ではないが、やはり「おにいちゃんばかり!」、「ずるい」と娘はよく口にした。

それに対する僕の答えは常に「当たり前だ、なぜ同じにしなければならないのだ?」というものでした。

平等は”可能性とチャンスが均等にあたえられる”という意味でしかなく、物質的に同じとか本来あるはずの差を無理にねじ曲げて同じ条件に置くことではありません。 それゆえ兄弟であっても年令も性別も違う二人には”差”と”区別”は有って当然の事だからです。

*注意   差別と区別は大きく異なります。 差別は上記の可能性とチャンスという二つの言葉を初めから消去した状態で相手に接し、思考を行う事をいいます。

 

娘は。何でもかんでも上の子のお下がりばかりで、半分壊れたものでも文句を言わせず使わせたし、何をするにも上の子が優遇され、

でありながら、女の子として必要なことに関しては当然の事ながら長男より特別扱いと優遇が存在し、当たり前の事だけれど、そうしたことに上の子は一言も文句を言ったり羨んだりという事はなかった。

普段長男として自分が特別に扱われているのを十分に分っていたからですね。

下の子には我慢、上の子には勇気と忍耐をと、まったく違ったものを要求しましたが、娘が中学校入学時に新品の通学かばんを買うことを拒み、上の子のお下がりを入学時から平然と使って3年間通学していたのは、こうした経緯の片鱗かは分りませんが、僕を驚かせる出来事であったのを覚えています。

 

こうして兄弟においては徹底した区別と、年齢や性別からくる違い、不平等を明確にしながら育ててきたわけですが、この二人が喧嘩したり揉め事を起こしているのを見た事は全くといって良いほど無く、冒頭に書いたような、極めて良好な兄弟関係は過去からいま現在も続いてます。

 

これが理想よろしく、平等に育てよう等とやっていたら、どんな二人になっていただろうか?、そう考えることが恐ろしいのですが、

本質的平等を良く理解しない、表面的平等で子供を育てた結果の恐ろしさは、今の若い世代をみていると明確にわかるわけですが、しごく簡単に耳へと入りやすい話は有り、それを考察すると色々見えてきます。

割とよくあるのが、上の子が非行行動を始めた家庭で、始めは上の子が、そして最後には妹、もしくは弟もほぼ同じような行動をして、兄弟そろって手におえなくなるという事が当たり前のように起きています。

理由は簡単だ、本質的平等ではない、きれいごとの平等をもって子供を育てるから。

 

荒れる上の子に苦労する母親や父親の姿をみて、下の子は始めこそ親に寄り添い、励ましたり上の子を批判したりと、色々気づかって良い子を演じるのですが、苦労する親の姿を見ているうちに、その苦労が実は上の子へ注がれる大量の愛情だということに気が付いた瞬間、下の子は上の子と全く同じ行動をとり始めることが当然の様に起きているという事実。

 

そのとき99%口にする言葉は、「お兄ちゃんばかり好きな事やってずるい」という言葉で、うろたえる親に投げつけてくる。

結局、何でもかんでもきれい事(表面的できれい事理想に基づく平等)の兄弟を平等に扱ってきた以上、それぞれ、個々の人間に注がれる愛情の違いに越えられない壁があるという至極簡単な事すら理解できずにいるわけで、

それも当然、”自分と他人は兄弟であっても全く違うのだ”という、”なにがどう違うのか?”、又それは”なぜなのか?”というそれぞれの差を勉強をするチャンスなく育つわけですから、問題を起こしている上の子に親が注ぐ愛情を、自分も同様な行動をすることで、これまた同じように注いでもらおうとするのも当然といってよいでしょう。

本能というのは常に他人より少しでも自分が多くのものを得たいというのが基本であり、それゆえ、それを適切にコントロール出来る人間性に育てねば、結局 妬みや嫉妬を常に抱え込んで社会生活を送るようになる。

   

子育ては常に現実です、

きれい事や表面的理想をもって子育てをしてはならず、本質的理想と現実をしっかりと認識させつつ育てねば、成長するに従い避けることができない、理想と現実のギャップに子供は苦しむことになる。

 

それに対し、そのような自由だ平等だという概念がまだなかった武士の時代から、大戦前までの日本人が非常に強くて優れた人間性を持っていた理由は、現実で子供を育てていたからに他ならず、しかしながらこの浮ついた二つの言葉が当たり前のように教育に取り入れられ、更にはそれを中心にして子供を育てるようになってから、この国がおかしくなったと思えるのは僕だけであろうか?

更には男が男でなくなり、女が女でなくなり、らしさの消滅と中性化が家庭をこわし、膨大な数の精神的弱者を育てた。

 

子供というのは常に自分の都合の良い方向でしか物事を考えず、自分が同じ兄弟より何がしか有利な恩恵を受けたとて、そんなことは当然でかつ当たり前の事だと思っており、

さらに差を常に測っていて、少しでも自分が損しているという損得勘定で人間関係を測るようになることから、親に対してすぐに埋め合わせを主張する。

理想は、あくまでも理想でしかなく、それをもって物事を判断する事しか出来ない人間に育てば、自分の置かれている環境、すなわち、衣食住とそれを取り巻く人間関係や社会的地位の全てにまで不満を覚える人間へ成長するのは当然。

その行き着く先は嫉妬と妬みを基本とした、忍耐と努力もせずに施しだけを得る事ばかり考える人間性。

たとえば、女の子であれば、決して越えることが出来ない性差と物理的力の差をおかしな理屈によりねじ曲げて私念を晴らそうとすることばかりに力を注ぎ、これまた平等という言葉に註偏して愛を考えるようになる。

たとえるなら、夫婦として一生を添い遂げるに、永久に取れるはずが無い自分と伴侶のバランスを経済的、時間的自由度等を表面的平等という名の天秤にかけて測り、

当然そのレベルにて相手に同じものを要求したあげくに、それが満たされぬと悟れば、代替えや見返りとして自分勝手な要求を常に突きつける。

そして、それがスムーズに満たされねばただただ不満として蓄積させ、最後には離婚という凶器を伴侶に突きつけて脅迫するような愚かなまねをしでかす。

”それがどれだけおかしなことか?”をろくに考えもせずに理想の名のものとに平等を要求するわけだ。

 

理想は現実ではない、お花畑をおかしな形で子供にもたらすことにおける結果は、常に不幸をもたらす。

 

先も書きましたが、人の本能を考えるに、そこには平等などという言葉はなんら存在しない、常に他者より少しでも自分を優位に、恵まれた立場に置こうとするように出来ている。

しかしながら現実は、なんらアクションも行動もせずに、平等という果実を得ることははなはだ不自然だし、不可能に近いわけで、平等というのは、あくまで理想というお題目の中に見える幻想でしかなく、何がしかのアクションを起こしたものにしか近づくことは出来ない物。

また、行動を起こしたとて、結果が思うように付いてこない場合は、「何故?自分は駄目なのか」を考えて明日のために自分を進歩させる能力を養わねばなりません。

 

残念なことに、特に25年ほど前から、教育そのものにおかしな現象がおき始め、いうなればお花畑思想に基づいた異様な平等が学校ははじめ家庭を蝕み始め。

運動会で一緒に手をつないでゴール等と言う、ついこの間まで鳥取県の学校で行われていて問題になったような、本能を歪める教育を平然とするようになってしまった。 (今は正しい競争がいささか見直されている)

 

何度も書いてすまないのですが、平等は、”どんな人間であっても均等に可能性とチャンスが与えられている”というのがこの言葉の持つ本当の意味であり、果実だけもをらえる、もしくは要求できるというものでもない。

故にどうしてもチャンスを生かすこと出来ない、得ることがかなわない物に対する正しい思考は、平等の持つ正しい行いそのものでもあり、そうした場合にのみ平等という言葉を口にすることができるわけです。

 

よく自由という言葉をこの平等という言葉と同等に使いたがる者が多いのですが、自由とは夢のような物では断じて無く、よく政治家が自由と平等を旗印にしているのを見るが、「本当にその意味が分っているのですか?」と問いたくなってしまう。

 

年令が若いほど、この自由という言葉を乱発するものですが、その現実は単に自分のわがままを押し通す為の建前として乱用しているに過ぎず、学校教育の中で先生方にその意味を説明してくれと詰め寄る生徒に明確答えを出せずにいる先生も多い。

 

当たり前のことですが、この言葉を多用して学校教育している者そのものが、自由と平等の意味をまったく知らない訳ですから、生徒が自分で答えを出すことが出来ないのも当たり前。

 

自由とはなんだろうか? 

答えは至極簡単かつ明快、 自由とは「たんなる選択幅の広狭」でしかなく、それ以外の何物でもありません。

幅の広がりである以上、常に条件や環境によって制限を受けるのが当たり前のものです。

 

 

理想も自由も、本質的な物を理解せずに究極を突き詰めていくことは、単に自分勝手のやりたい放題を広げるだけの事で、しかしながらそれが現実としてかなわないからこそ、できる良質な形で幅を広げ、理想を追求できるようにするわけです。

 

完全平等で自由なはずの理想そのものといえる共産主義、社会主義がなぜ必ず崩壊するのかは、この思想が目指すところのお花畑が、”人の持つ楽して果実を得ようとする”本能的怠慢によって”施しを受けることが中心”となってしまうからで、それによって生産活動の停滞と経済活動の衰退を招くからに過ぎません。

 

自由主義は、この日本の国における今の誤った自由解釈では存立が不可能で、それは誰しもがもつ「人より豊かになりたい」という人のもつ自然な本能を基にして、調和とバランスを保ちつつ競争させることでしか成り立たない。

昨今問題になっている働かない、働こうとしない、こうした若者に共通する特徴は、叱らない子育てや、褒めて育てるという教育法にあるある 心の訓練を一切させない育て方に原因があり、さらにこの基本的精神的虚弱に上記の誤った自由と平等意識を植え付けられると出来上がる。

 

自分の知るソフト関係会社の友人は嘆いていましたが、というのは、エリートといえるような大学を卒業した優秀な新入社員が毎年入ってくるものの、一月、3ヶ月、半年という単位で一人々と病んで会社を辞めていってしまう。

別段お客様と揉めた訳でもなく、会社内で自尊心をひどくひどく傷つけられるほど叱咤されたわけでもなく、自分で勝手に病んだあげくにさっていくわけです。

この理由は至極簡単なもので、人間関係から始まって、理想と現実のギャップを吸収することが出来ず、褒められてきたことから頭の中に出来上がった根拠無きプライドを守ろうと固守した挙句に、虚弱な精神が心を病ませてしまう。

仕事をするにも自分からアクションを取るわけでもないのがこうした者の特徴で、あまりに何にも自分から出来ないことから、上の人間が全てお膳立てして準備を行い、「さあこれでやってみてくれ。」としない限り何にも出来ず、

そしてその結果すら、心の虚弱が生産するもの故に、ろくな物にはならない。

 

叱らなくていい子育て等、すなわち親が何でも先回りし、理想の名の下に親のための子供操作教育をしていれば当然にこうなるわけだ。

 

そういえば、息子はよく、妹を叱りました。

何がしかの失敗をすると、それを僕が見つけてもすぐに叱ることはないですが、というのは、それは間違いを娘が見つけ、それを認めて勇気をもって親に話してくれるという、心の強さと成長と勇気をねがうからです。

しかしながら現実はそう簡単にはいかず、しかしながらその隙に、問題を息子が見つければ娘を注意したり叱ったりしていた。

当然、こうした行動に僕が口を挟む余地はありません。

 

上のものが下のものの面倒をみて、それを人として冷静に判断しつつ必要なアクションを取れないようであれば、その子は何が人として必要なのかを学ぶことなく育つことそのものであり、これは又将来、自分自身の非を自分で問いただすことが出来無い人間になる事を意味します。

 

実は、人の振り見て我が振りなおせは、まず人の持つ問題を明確かつ適切に認識することから初まり、それがやがて自分へ回帰し、精神的強さの成長と供に”人の過ちの認識と、しかしながら自分に対して出来ない過ちの認識、そしてそれをもって自己を否定出来る自分と、出来ない自分という”差異を認識することを始まりとします。

それをもって自分に対して厳しく出来る事を学習をしていくようになっていす。

また、こうした経験が、人を旨く叱る為の生きたトレーニングそのものであり、やがて人の上に立つことがあった際に上手に人を動かすことが出来るノウハウとして生きてくる。

人の心を読み取ることが容易に出来るからです。

 

子育ては理想で行うものではなく、現実を教えそれに適した思考力を養うことなのです。 

 

 

 

 

 


新品のスマートホン

2011年12月29日 | 研究-教育・育児

少しでも無駄を減らすためにと、いつも僕のお下がりかヤフオクで買った中古白ROM電話しか娘に与えなかった僕。

「子供に不要な贅沢はいらぬ、特に女の子を育てるには絶対の条件。」

 

それが僕の考え方で、何故か?というなら、この先社会に出て結婚すれば、当然に収入少ない旦那の給料で暮らしていかねばならない。

単に、それに耐えられる心を育てるという目的だけだ。

 

時折、我が子かわいさに湯水のごとくお金を注ぎ込み、物質的豊かさに包み込む親が居て、しかしながらそれは唯々、将来娘を不幸にするだけという結果が待ち受ける。

心が豊かである子を育てる事と違い、単に与えるだけで構成される擬似的幸福感というのは、特に思春期気に入る小学校高学年から中学校卒業するくらいまでは猛毒でしか無く、

そうした環境に浸してしまうと高校生になってもそれを親に求め続け、それを親が満たせないと子供が判断すれば体を商品として販売することを容易にする娘となる。

親がお金でわが子の心を見たそうとした姿を、そのまま真似て子供は行動するわけだ。

 

難しいことだが、一番肝心なのはどうやって自分の欲をおさえ、我慢し、それでも自分の気持ちを抑えきれないと判断したときにその子がその力をどうやって正しい方向へ転換することが出来るかだが、そうしたことの事初めは幼い頃からの手伝いによる雑巾絞りから始まる。

真冬の朝に、窓を全開にし、凍るような水で雑巾を洗って絞る、そしてかじかむ手を息で温めながら拭き掃除をする。

まずは親が自ら率先して姿をみせ、そしてそれを娘に強制して手伝わせる。

 自主性なんか関係ない、完全なる強制。 そして子供が可愛そうだからとお湯などを決して使わせてはならない。

 

精神的強さはつねに小さな我慢の繰り返しのさきにあるもので、筋肉と同じように心は鍛えることができるものだからだ。

 

そうした訓練をへて、高校生くらいになって物への感謝と、質素な考え方、しかしながら物質的ではない心を豊かにするノウハウを身につけたとき、初めて良い物を買い与えることができる。

笑い話だが、今も娘の部屋には暖房機は無い、寒ければリビングに来れば良いことであって、勉強するには寒い方が頭に入る。

 

とそんな風に僕は考え育ててきた。

 

話は戻るが、結婚すれば思うようにいかないことの連続だ、経済的な面は特に若い夫婦に重い影を造ることがよくある。

それを耐え抜き、別の面で心豊かに家庭を引っ張る力なければ、家庭は簡単に崩壊する。

 

特に女性に比重が偏りがちな、そうした面での葛藤は当たり前のように上手くこなすことが出来ねばならない。

 

と、そんなわけで今まで来たわけだが、ついにこれまで使っていた娘の携帯電話が壊れ、しばらくは僕のお下がりを使わせていたのだが、それすらおかしくなり始め、「どうするか?」と悩む事になった。

 

中古でも一度買えば最低は2年使わねばならず、しかしながら時代はスマートホンに移りつつあり、とはいえ、ヤフオクに出てくるスマホはまだ高くて悩む。

ところが、たまたま家内が息子のお下がりスマホに換えたところ、他社からの乗り換えだと大きな割引が有ることがわかり。

ここにきて初めて真新しい携帯を娘に買うことにきめた。 ただしこの先当分は買い換えなどしない、し大学卒業まで使って貰わねば困る。

 

さて、そんなこんなで、娘にとっては初めて自分の好きなデザインや性能の携帯電話かスマホが手に入れられるわけで ルンルン状態。

 

でも、約2時間半・・・・・・・

 

うんざりしながら家内と娘をつれてdocomoショップで過ごした僕、真新しいスマートホンを嬉しそうに持っている姿を見ると

僕も嬉しくはなるが、「若い頃の不要な贅沢は将来、不幸になるぞ」と忘れず言葉をかける僕もそこにいたのは間違いない。

 

余談

実はこの他社乗換えに関してだけれど、このところ僕はソフトバンク携帯から身を置き始めている。

理由は簡単で、孫社長のここ最近の行動に目に余る物が有りすぎるからだ。

 

いろいろと問題はあるのだが、例えるなら震災直後に100億寄付すると大嘘をついて、それが終われば商機到来とばかりに太陽光発電で管総理に接近し、しかもその発注先が日本ならまだしも中国とは・・・・

 

これでは儲かるのはソフトバンクと中国だけで、一番活性化せねばならない国内産業に何らメリット無い上に、なんら景気回復の役にも立たず、ただただ資産が海外に流れるだけのこと。

 

日本の事などどうでもよく、中国共産党と韓国だけに良い顔したい民主党の体質をよく知っての接近なのだけど、それ以上に問題なのは、

”自分はこんなに素晴らしい人間”だと虚偽行為で外部宣伝し、正義と環境保護を詠ってさも自分とソフトバンクが優れた会社のように見せている姿。

その実は単なる自分の利益追求だけが目的で、しかもこれが震災という不幸な出来事を逆手にとっての商売なのだから、そこまでして・・・・という気持ちにもなる。

 

現在一つだけ残っているソフトバンク携帯だけれど、今年の五月に二年縛りが消えるので、これもdocomoに換える予定だ。

 


叱るの 基本は 怒り

2011年12月23日 | 研究-教育・育児

子供を叱るということで多くの方達が悩まれています。

子供を叱る際に、冷静さを失った、感情的になってしまった等々。

そして後になってその時の自分の行動に嫌悪感を覚え、後悔し、「次は間違いがないようにしよう」そう心がけ、でも現実には又繰り返してしまう。

叱る事に自分の感情をこめてはいけないと、どこぞの誰かが言っていたから、偉い教育学者が言っていたから、教育評論家の先生がそういっていたから。

「だから自分は間違っているのだ」とですね。

 

しかしながら、これって甚だおかしな事で、人の原点、すなわち本能という数百万年厳しい自然界を生き抜いてきた力に問うなら、

叱るは怒りそのものであり、怒りない叱るは相手に心を届けられない、すなわち怒りを取り除こうとすればするほど、同じ叱るに対して伝わる物は少なくなる

ということです。

怒りを封殺し、冷静になって子を叱ろうとすればするほど、伝えるべき事は歪み、違った方向で伝わり、これでは何度でも同じ事を子供は繰り返す。

 

たいていの人達は、叱るということに対して自分の感情を封殺しようと試みます。

ところが、人がなぜ子を叱るのかという原点に回帰してみると、我が子の行動や言動に不快を覚えるからで。

何故不快を覚えるのかというなら、不快は怒りを引き起こすから。

怒り無ければ不快にならず、不快無ければ叱る事もなく、これが平穏

 

すなわち叱るに際し、怒りの感情を廃しようとすればするほど、根拠は薄れ、純粋な怒りを原点として伝えるべき事が薄まり、意味不明な親のストレスだけが

子供に伝達されていくということです。

 

親が我が子になにがしかを伝えんとする最大の感情表現が 怒り 故にコントロールが難しいわけですが、間違いを犯した我が子に向けて発せられる怒りは

ダイレクトに伝えねばならない物で、そこに不要なストレスがかかると、親はその怒りを自分に向けることになり、それによって自分に向けた怒りにまた自分が怒りを

感じて、最終的には親が自分自身で自分に怒りを向け、限度を超すとそれが子供に注がれていく。

 

生真面目で、一生懸命な母親ほど半虐待的な叱る になってしまうカラクリが此処にあるわけです。

 

行きすぎて叱ってしまうお母さん、ヒステリックになってしまうお母さん達に これを押さえる魔法の方法を教えます。

我が子を叱ることは、そこに問題が有るからで、 だから叱っているわけですから。

叱り始めたら、終わるまでの間、ずっとこの魔法の言葉を唱えて下さい。

とても簡単です、  「進歩しろ-!」と我が子の顔を見ながら、心の中で叫ぶ。

誰でも不思議な感覚を知る事が出来るかと思います、自分自身の本能を呼び起こす一つの方法だからです。


父親とは 男とは

2011年12月21日 | 研究-教育・育児

数日前のことだ。

少し疲れ気味だった僕は早々に就寝。

すると、リビングで大騒ぎが始まった。

「なんだ?なんだ?」と寝ぼけて起きたのだけれど、それが余にも続くので気になって部屋へ行ってみるなら、新米パパの息子が偉く動揺し、娘は孫の名を呼んで泣いている。 さらに家内が盛んに謝っている。

新米ママは、半泣き状態で行きつけの病院に電話しており、とにかく騒然としていて、わけが解らない。

当然、事は孫だろうとそちらを見ると、寝かされながら大泣きしており、 見た目元気だし ????? となるわけだが、そばで様子を見ていた娘に「どうした?」と聞くと、孫の左腕が動かなくなったと更に泣き出した。

「腕が動かない?」 と余計に訳が解らなくなったので、おたおたしている家内に聞くと、

左肩の関節が脱臼したみいとのことで、その原因が首の据わり始めた孫を抱っこしている途中、突然動いた孫がずり落ちそうになったところを”ハッ!” と腕をつかんだ瞬間になったらしい。

急激に泣き始めて左腕がダラントなってしまい、こうした経験が始めての息子は動揺し、そのせいで新米ママもおたおた、その余波くらって娘が泣き出したということらしい。

新米パパとママにしてみれば、子供の怪我は始めての洗礼でもあり、まあ良くある半分パニック状態。

 

やっといきさつが分った僕は、こりゃ「落ち着け」と言葉にしたところで駄目なのは分っており、まずは孫の観察、まがいなりにも訓練で基礎医学を学ばされている自分には一応の手順が解っているので、

孫には多少かわいそうだけれど、まだ脱臼しているのか、それとも亜脱臼? それもと捻挫状態になっているのかを確かめさせてもらった。

まず両肩のバランスを見て、その次に寝かせたまま両腕を色々移動させて、間接状態を見る。

もし外れていたらを考え、寝かせたまま腕を上のほうへ移動させて最後に肩のほうへまで持っていく処置を取り、

その際に旨く戻ったのか?は余にも小さい体なのではっきりしないが、診察した感じではすでに脱臼そのものは収まったようだ。

というか、実際は”脱臼しかかった”というほうが正解だと思う。

しばらく自分で腕を動かせなかったのは痛みからで、大人でも痛ければ動かす人はいない。

まあ、当然の事ながら痛いので大無きするが、徐々に収まるのは解っているので、そばで泣きながら見ていた娘に

「大丈夫だ」、「すぐ直るから心配するな」と一言。

するとそれを境に娘は泣のを止めて、落ち着き始めた。  「このまま朝まで様子を見ろ」と息子夫婦に対して口から出かかったが、

彼らの気持ちと万が一を考えると一応病院で診てもらうのが正しいし、息子夫婦もそのほうが落ち付くのは物事の道理。

 

さて、思いつくいくつかの病院に電話してみた息子夫婦だが、乳児という事と、電話で症状を伝える(殆ど大丈夫と判断するので)

と受け入れてくれる病院が無い。  その間に孫は痛みが消えて来たらしく泣かなくなってきた(当たり前だが子供は本来強い生き物だ)。

 

病院への電話連絡でらちが付かないらしく、救急車を呼ぶと言い出し(本当は消防署に問い合わせれば輪番の病院を教えてくれるのだけれど)呼んでしまった。

ガタガタ騒ぐ家族の状態をみて、「な~にやってるんだ? 脱臼くらいで」と 笑ってしまいたくなるなるような、なんともいえない気持ちになる僕だけれど、そうも言えないので「大丈夫だ」とだけと皆に告げる。

全体が落ち着き始め、後は病院に行って先生の診断受け、大丈夫と笑顔で帰ってくるのが分るので、僕はそのまま寝室に戻って寝てしまった。

ここで僕が動揺して騒げば、更に皆が不安になるからだ。

 

 

翌朝、起きてきた息子に一番初めに言い放った言葉は、「男は簡単に動揺するな、父親が動揺すれば家族全員が際限なく不安になって動揺する」 この一言だ。

これはとても重要だ、子供を持ち家庭を育んでいると、その道筋には幾多の困難や問題が待ち受けている。

想像もしない出来事、問題、事故や病気等々、あらかじめ想定できれば対処の使用もあるだろうにそうする事のできないことが多々ある。

こうした時に父親である男が先頭切って動揺すれば家庭は一気に不安となり、落ち着きをなくす。

動揺が大きければ大きいほど安定性も失われていく。

 

故に、

何時いかなるときも父親は落ち付き、石のように座っていなければ家族は安心することができない。

状況をよく分析し、次に取るべき手、やらねばならぬことを考え、迅速実行できねば、事は揺らぐだけに収まらず、家族が崩壊していく要因にすらなりえる。

一見強固に思える家族の平穏というのは思っているより脆く、それを真ん中でしっかりつなぎとめるのは父親の役割なのだ。

 

結局のところ、一番重要なのは芯の通った強い心と忍耐力、刃を食いしばりながら長時間を耐えきる力で。

これは腕力とは全く無縁、当然の事ながら学歴も何も関係なく、純粋に人間性の問題となるわけだ。

 

とはいえ、新米なりたてのパパにそれを期待するのは到底無理で、親というのは、はじめから親なのではなく、子供を育てながら供に成長していくもの。

ただ、このとき父親への成長の基礎となるのは、子供の頃に受けたあらゆる経験、すなわち友達同士の遊びから始まり、最後は自分を育ててくれた親の姿を学び、それを心の奥底の記憶として留めておくからこそ、父親になっていけるわけだ。

故に母子家庭で育った男の子は、自分が親になるとき本当に大変だと僕は思う。

 

父親は無駄に優しくあってはならず、ましてやおかしな親子平等を唱えたりやら友達親子やらであってはならない、怖くて近寄りがたくて、でも時々オチャメな一面が見え、それでいていざというとき山のように不動で冷静、これが父親であり、本来この国の歴史が育んだ日本の男の姿だ。

ところがやさしい子に育てるのだと言って、現実的に虚弱な心を育ててしまい、褒めて育てる迎合教育で男としても父親としても的確性に欠くやからが今の日本の社会には当たり前となってしまった。

草食系などといわれるタイプはまさにそれそのもので、こうした腑抜けが増えたからこそ、離婚率は上昇し、それどころか結婚をしない若者が増えた。

もっとも、自分が女性の立場であるなら、そんなのと結婚して将来不幸になるのが目に見えている以上、しないほうが良いとなるのは至極当然の事で実によく理解できる。

 

昔、甲斐の国に武田信玄という男がいた、旗印は 風林火山。   とても有名だ。

かれが率いた 武田騎馬隊が実質戦国最強の軍であり、三河流兵法持って逃げ出されて慌てた徳川家康が新しく取り入れたのがこの武田流。 

以降彼は野戦で相次ぐ勝利をおさめ、惨めで敗残ばかりだった人生を転換している。

 

その最大の特徴は本陣が戦場で容易に退かないという特徴。   これが賤ヶ岳の戦いや関が原などでの勝敗の要因であり故に天下をとれたわけだ。

 

 

ところで、この”らしさ”を否定しようとする男連中がいるらしい。

「らしくなければいけないのか?」というところが疑問の出発点で有るらしいのだけれど、僕から言わせてもらうとするなら。

こうした男は結婚して家庭を持とう等とは、初めから考えないほうがよい。

家庭を持つということは父親になるということであり、同時にその基礎である男としての資質を常時問われ続けるものだからだ。

 

 

 


僕が子供に教えてきた事の片鱗   妬み

2011年12月11日 | 研究-教育・育児

生活をしていると、人は自分の持つあらゆる欲望に気がつくことがあります。

簡単な物なら買い物に行ってこんなカッコいい洋服があった、街を歩いていると最新型の車が止まっている。

僕だと 1400CC の 最新型Kawasaki 何て言うのがそうですね。 (笑) 

それ以外にも、高価でとてもではないが食べられない寿司や高級料理、 でかい土地に大きな家等々。

 

でも、別段そうした物は、そしてそれを持っている人を目にしても特段その人間に「いいな~」と思う程度の感情しかない。

その人間との距離があるからだ。

 

ところが・・・・・・、これが隣の家だったりすると、いきなり激しい嫉妬と妬みを生み出す人間というのがいる。

 

例を上げると、隣の家が真新しい車を買ったりしたとたんにこの行動を始める輩というのがいるわけだ。 

 

次のような事は割とどこでも当たり前のように有ることだと思うのだけど、相手が少しでも自分より良いと妬ましくて妬ましくて収まらないわけで。

新車買った隣人に対して素直に、「格好いい車だな~」と受け入れられず、そうした場合、たいてい妬む人間はその事とは全く関係ないことを引き合いに出しながら、

例えるなら、たまたま車の頭が駐車スペースから少しだけ道路に出ていたり、洗車のために車を多少出していたりしただけで。

公共の場を占拠しているだ、道路が汚れるだ、迷惑だと。   イチャモン付けてきたりする。

まあいうなれば自分は善人でお前は悪人だという、妬みの裏返しの、自分を相手より高い立場に置いて満足するという 擬せい行動を始めるわけで。

 

それでもって自分はどうかというなら、平然と道路に半分車だして洗車したり、供達の自転車がいく台も乱雑に駐めていてもほったらかし、

他にも自分の敷地に植えた木の枝が濛々と生い茂り隣家に伸び放題だろうがまったく気にしない。

 

こういう事っていうのは、割とあるもめ事の発端でもあるある訳だけど。

この場合イチャモン付けられている側が大人であれば、素直にすいませんと対処し、 こうした事がしばらく続いたとしても妬み側はそれにより何度か

優越感を得ていうるうちにだんだんと収まってくる。

ところが、イチャモン付けられている側が大人でないと大変な事になって、感情的になって互いに応酬しはじめると、自体は最悪な方向に進む。 

 

まあ、大抵は妬まれる側は、相手が一度そうした性癖をもっていることが分かると、先回りしてそれに応じた謙虚な行動をして出来る限り穏便に回避する物なのだけれど、

妬む側は自分の愚かさを分からずに、唯々自分の感情のままやっているわけですから、こうした関係は隣人同士という関係が解消され無い以上、ほぼサドンデス状態で、

何か新しい変化があるためにぶり返す。

 

こまるんだよね~ 

 

本当に みっともない事 のなのだけれど、こうした人間は第三者からみても極力不快を感じるわけで、当事者でなくても、妬む人間に対して次第に距離を置くようになる。

次は自分だとハッキリ分かるからだ。

 

こうした人間は会社ではどうなのか? というならほとんど出世とは無縁で、上司から駄目人間扱いされ、同僚から嫌がられ、部下からは嫌われる。

当たり前の事だけれど、こうした人間性は普段の生活にある、あらゆる出来事にも同じ行動を取るわけですから、

同僚が自分より早く昇進した、同じ会社で自分はつらい部署、同僚は楽(に見える)部署だったりと、妬む為のネタならふんだんにあり

特に会社組織ともなればいくらでもある。

 

この”人を妬む”という、人として 最も愚かで醜い気持ち” というを僕はほとんど持ったことが無い。

もちろん僕も人間ですから、幼い頃は立派に有ったとは思うが・・・・・

 

これは僕の親が僕自身をそう育ててくれたおかげであるのですが、物事をどうとらえ、どう明日の自分に対する糧に出来るということだと思う。

 

例えると、友達がフェラーリを持っていたとする、他にも知り合いが大型キャンピングカーを持っていたりする。

当然自分の持っている軽自動車やBクラスキャンパーでは差が有りすぎ、話にならない。

 

でも、僕には妬みというのが全く沸かない、それどころが素直にその差を認め、なおかつ積極的に話をして、どうやったら同じ事が出来るのか

どう努力したらなしえるのかを笑顔と軽いトーク、そしてどんな人なのかを学ばせて貰いながら、今の自分に持っていない何かを気づかせて

もらうようにしてる。

 

なぜなら、結局今存在している差は、僕の生き方とその人の生きたかの差にあり、差が有るのならその人のどこに優れた面があり、

どうすれば自分もそうした人間に近くなれるかを勉強させてもわうわけだ。

 

他にもそうした何かを成すために自分と場合により家族をギセイにしているのが分かったりする事もある(*この場合、学ぶ物は無いが)

 

人は生まれながらにその持ち有る能力に大差はない、差が有るとするなら、その差の分だけ相手の何かが優れているわけで、その違いを

よく研究しその差分を埋める努力をすれば、時間はかかろうとも必ずその立場になれるわけだ。

 

自分の中にある足らない部分を、優れた人から学びつつ、欠点を次々埋めていく事で自分を進歩させる。   これが僕の考え方だ。

 

妬んでも、何の進歩はなく、ただひたすら惨めなだけだということ。

 

そうしてこれまで生きてきた僕だけれど、この考え方は息子と娘を育てていく過程でしつこいほど繰り返して教えて受け継がせている。

息子の方は一時期こうした自分を厳しく制御せねばならない考え方を親の価値観の押しつけとして捕えた時もあったけれど(反抗期)、

今はしっかり理解をしてくれているようだ。

 

娘はほとんど抵抗もなく素直なこともあって、ほぼダイレクトに受け継いでいるので、その結果が今年の夏のワールドカップの結果だと思う。

 

何にせよ、妬み性の性分が直らない親に育てられてしまった子供は可愛そうだ。  いくら優れた能力があろうとも、どんなに高学歴であろうとも

人としての学習がほとんど出来ない以上、人間性に向上はないからだ。

優れた進歩のノウハウを得られず、余計なことに余計なエネルギーを消費するだけでそこから先には歩めない。

 

社会に出て、人を妬む人間、差を進歩に生かせる人間、未来にどんな差が出てくるかは誰にでも分かる事だと僕は思う。

 

 


僕が子供に教えてきた事の片鱗  レジにて

2011年12月06日 | 研究-教育・育児

子供を育てるって? いったい何をして、何を施して、どう育てていくか?

現実的、かつ具体的な方法は存在しない。

 

学校の成績なんぞはどうでもよい僕にとって、子供には 人としてどう有るべきか? 人格こそが子供を豊かな未来へ導くと信じて子供を育ててきたけれど。

多々ある自分の何気ない行動は、知らず知らずのうちに子供の体に染み込んでいることが時々見える。

 

親の背中とは? 特に父親の姿は、子供にとっては社会を見通す窓のようなもので、

愛情は母親、社会性は父親から、それが現実的男と女、そして夫婦が自然に担う業だ。

 

そんな中で気が付いたことをいくつか紹介していきたい。

今日はそのひとつ

 

 

時折、日曜大工に返信する僕は、大量の材料をホームセンター等で買い込むことがある。

特に長さの異なる木材など各種取り混ぜて、台車に載せてレジへ足を運べば、バーコードの無いそうした品々は

商品のバーコードを記録したクリアファイルなどに集められたブックのバーコードをスキャンさせるか、同時にレジの人は材料の長さなどを確かめて値段をスキャンするかして直接打ち込む。

故に本数を数えることからはじまり、どうしても時間がかかる。

当たり前の事だけれど、長い材木になればレジでいちいちメジャーを使って長さをはかり幅などをそのファイルに照合し、とうぜん、後ろに人が並ぶ。

 

そうした人たちの手を見れば、防水テープ一本、 木工ボンド1本、 軽い工作用木材数本なんていうことが多々ある。

こうした時僕はどうするか?

 

答えはとても簡単だ。 レジの途中で区切りを入れさせ、後ろに並んだそうした人たちのレジを先に通す。

今のレジ機は利口で、清算途中の結果を一度退避させ、後ろの人の清算を当然の様にすることができる。

だからだ。

 

こうしたことは特段珍しいものではなく、気が付けばやっている行動の一つ。

先にレジを通った人たちはみな「有難うございます」といってくれる。

 

何も言わずに通る人もいる。  その両方に「こちらこそ」と心で呼びかけている。

 

なぜこうしたことをするか?というなら、人は生きいている限り、自分の時間は自分だけ物でありながら、同時にパブリックなものでも有るからだ。

どうしても時間が無い場合は、そもそも、大量に物は買わに、必要最低限のものだけで済ます。

それが早いからだ。

 

人は生きている以上、絶対に他人との関わりを絶やすことは出来ない、自分が存在しているのは、自分だけが存在できるからではなく、

知らない間に数多くの人たちが共有しあう時間というものが有るからこそのもので、

そうであるなら、レジを何度も中断して先に後の人を通すことで減る自分の時間は、いうなれば社会に還元しているわけで、

これが偉いわけではなく、美しい行為でもなく、知らない間に多くの人たちからもらっている時を返しているだけの事だ。

又、人として至極当たり前の事だと思っているから。

 

そんな当然の事に対して、「ありがとう!」といってくれる人、特にその言葉に感謝するけれど、

 

こうした姿勢を娘も息子も見ながら成長してきた、社会に貢献するとは、莫大な寄付をすることではなく、お金をばら撒くことではない。

日常のほんの些細な一時の中にある。

 

人と人は、ちいさな気持ちのふれあいの中に幸せを感じる、それが互いに積み重って日常に溢れかえれば幸せという事であり、なくすほど心がすさむ。

 

子供達は理解してくれているようだ。

 

 

 

 


じじい

2011年11月05日 | 研究-教育・育児

完全 ジジイ化してしまった僕。

いやいや、  ”コタツでお茶すすって” なんて~のはやるわけ有りませんが、抱っこすると完全に壊れるのが自分でも分かる。

娘や家内から「変なあやし声出さないでよ~!」 何て言われてますが、そうなってしまうのだから仕方ない。 

 

生まれて約二月、良く喋るし(何言っているかわからんが)とにかく良く笑う、キャッ!キャ!まで行かないがそれに近い表情と声を出す。

相変わらずバタバタとうるさい家の中で、誰も音に気を使おうなんてしない我が家では、上に行けば娘の部屋から音楽、息子夫婦の部屋に行くとテレビの音、下に来れば パソコンをテレビに繫いで家内が踊り練習したり、僕が音楽やビデオを見ているのでやかましい。

 

そんな騒音の中で平然と寝ている孫。

しかも代わりばんこに誰かしら来ては手を触ったり足を触ったり、頬をなでたりするので、これで良く起きない物だ・・・・

と、変なところで感心するが、本人は生まれた瞬間からこの状態が普通になっているらしく、素晴らしい環境適応能力だ (爆笑)

 

「自分が子育てをしていた時はどんなんだったっけ?」 と思うことは多々有るが、その一つがテレビや音楽で、子供の声に明らかに反応する。 特に?娘が好んでみている リロ&スティッチ になると盛んにそちらを見ようと試みているのが分かる。

 

毎日でかくなるので、といってもさほどではないが、重いし、「あれこんなに重かったっけ?」 なんて思ったりもして・・・・

そういえば、生まれてすぐに病院から嫁さんの実家で一月、そして家で一月過ごしている訳だけれど、まだ一度も大声出して泣いている姿を見たことがない。

 

お腹が空くとぐずることはあるが、大声出して泣かない、ただぐずるだけでギャーギャーやらない。

おむつも同じで、気持ち悪くなるとぐずるが泣く事はない。

 

両方の要求が満たされると、寝ているか、起きてニコニコしているのだけれど、これじゃ育児ノイローゼなどとは全く無縁の世界である (笑)   うんうん

 

さらに、家の息子と娘もそうだったのだけれど、夜に一度か2度は目を覚ますらしいが、泣くこともなくほぼ朝まで寝ているとのことで、

それを少しだけ?(気にする子ではないが) 心配(といっても寝不足の)だけしていた隣部屋の娘は、毎日熟睡出来ているとのことで、どんだけ親孝行?の孫なのかと思ってしまう。

 

一応教育研究している僕には 「あれ?」 とこうした姿に対し、僅かなりとも脳の異常を疑わないでもないが、僕の知る簡単なテストを時々やっているが反射や五感にまったく問題なく、成長過程も普通で、ただ親が楽なだけのこと。 

 

でもね~、子供の頃に”よい子”というのは、抑圧に対する回避行動なのだけれど、これは思春期になると大変なんだよね~   

「れれれれ!?」 これは3才から保育園年長さんくらいまでの話でまだまだ先の話か(笑) 

 

そういえば、叱らない教育が心の成長にいかなる害悪をもたらすかという話はこのBLOGにて何度も書いていますが。

幼い頃の子供は、基本的に自己中心的で、自分の思うままに行動するのが基本。

故に泣きわめいたり、やらなくていい事して痛い目にあったり、地団駄踏んだりする訳だけど、これはそれが可能な親の愛情に包まれているからこそ可能というバックグラウンドがあるからのもので、

同時に親が見せる 困った顔や怒る顔、泣いたり笑ったりを子供は日々見つめながら育っていく。

子は常に親の顔色を見ながらかそ人の心を学んで成長していくように出来ている わけで、 

それはなんら歪むこともなき、隠された意図もない素直な人の心そのものであり、それを基にして成長と供に他人の事を考えられるようになっていく。

だからこそ大人になると、自分以外の他人と適切な距離を取りながら社会を生きていけるわけだ。

 

ところが、叱らない教育とやらは、親のための情操がその基本であり、我が子をいかに自分の都合良い子のするか というのが中心に有る。

故に 褒めて育てる、叱らない教育と言うものが存在するわけだ。

一例をあげるなら、子供が痛い思いをする行動をしそうなときに「お母さん悲しいな~」等と子供の気を引き(子の純粋な愛情を逆手にとって間接的行動抑制するいうなれば相手の思考の幼さを逆手にとった騙しテクニック)、自然に湧いてくる子供の好奇心と行動をそぐ方法に代表させるこの子育ては、幼き頃より少しずつ子供が積み重ねていかなければならない様々な経験、そして”自分で考える能力”が育つ力すら奪う。

さらに、この逆手教育においては、親名目で繰り返し 繰り返し すり込み経験を心に施していくことになり、実は子供に不要な抑圧とストレスをあたえているわけだが、そんな当たり前の危険性に関してどの書籍にも書かれていない。

結果、その年齢にそぐわない自制を親の都合のために求めるられる為に、そこには素直でまっすぐな親の喜怒哀楽など存在せず、すべて親の為の目的というフィルターを通した心だけしか受け取れないままに育っていくわけだ。

普通に育てることをせず、あえて 叱らない教育・褒めて育てる教育をやっているわけだから、どんなに言い訳しても、親の隠された意図はそのまま子供の心の中に入っていくわけだ。

これでは、人間としての心はすべて、何かしらの隠された意図を付け加えられた状態として存在し、いわゆる不要な添加物を加えられた心というものを前提にした他人の心としてしか人の心を解釈するしか出来ない人間になるわけで、

これが思春期になって人の心を素直に受け止められない結果を生む。

故にそれが恐怖となり 心音痴 を生み出すわけで、 引きこもりの至極簡単なかつ明瞭な原因である。

たったこれだけが引きこもりの原因だ、心の闇などと言うものは初めからそんざいしない。

 

有りもしない何かしらの意図を友達の言葉や行動に逐一感じてしまう恐怖心の様なものが朝から晩まで続けば、そしてそれが積層されていくことがさらに大きく漠然とした恐怖感を発生させ、人と接するのが恐くなり、やがて始める本来の自分ではない自分を演じる俳優生活。

やがてそうした自分に疲れ切り、最後にはつじつまが合わなくなり限界が来て部屋に閉じこもるようにして逃避する。

膨大な数のひきこもりとニート達は 叱らない教育のひろがりとピッタリ シンクロしていることを忘れてはならない。

 


文化祭と娘 その2

2011年10月30日 | 研究-教育・育児

朝起きると、昨日より体調が良い、でもなぜか体が鉛のように重い。

相変わらず熱は無く、脈は60に落ち、血圧79-126と平常より僅かに高めに落ち着いている、内心「よっしゃー!」と思うのだけれど、

なぜか、夕方に熱が出そうな感じがして仕方ない  

 

さて、今日は文化祭の二日目という事で、娘が出るのは午後の二つの演目だそうです。

 

しかし・・・・・さすがに数日に渡って体調のがおかしいのが続くと、さすがに慎重になって、午前中は家内と買い物に出かけただけでおとなしくしていた 

何しろ、なぜか全身の筋肉が何故かだるいし痛いのですから、どうにもならないのです。

 

それでも「基本的に元気だべ!」 () と、ばかりにバイクへまたがると家内と一緒に学校へビュン!。

 

昼は、文化祭でなんか食べようかと校内売店をウロウロしたのですが、あんまり旨そうなのが無い 

他に教室内展示等を見たいのも有って校内を歩いていたところ、娘達が自主的に運営している売店が窓から目に留まった。

しばらくその姿を窓越しに見ていたけれど、ひっきりなしに客が来て結構大忙し。

 

*一息ついてシャガンダところで、二階窓から撮影している僕に気が付いた娘をパチリ。

 

後で娘に聞いたのですが、机を数個並べただけの小さなお店なのに、フランクフルトはあっという間に売り切れ、

特に水あめは爆発的で、二日間にわたる売り上げは予想をはるかに超えたものだったとのことでした。

そういえば、「なんで売店やっているんだ?」と娘に聞いたのですが、なんでも売り上げを東北大震災の義捐金として寄付する為に立ち上げたらしく、娘と友達数人による共同企画。

ちなみに、6万円近い売り上げが有ったらしく、当然原価費除いて全額寄付だそうです。   ホウホウ 

 

娘が以前から小さなボランティア活動をやっていることは知っていましたが、どこまでやっているのかは僕も知りません。

大きなものは私立高校無償化運動の活動ですが、チョコチョコと小さいのはやっているみたいです。

そういえば、無償化運動の署名ブースも校内にあって、娘はそこも兼任していたんだよな~   

 

さて、適当な食べ物を腹に入れると、いよいよ午後のステージ。

昨日と同じアトラクションの一つですが、一回目のステージはヒップホップ系のダンスグループ(10人)の一員として参加。

これはジャズダンス等を習ってきた子達が中心になってやっているのですが、みんな上手い。 

マルモダンスなんていうコミカルなのも取り混ぜ、結構本格的な踊りを披露していきます。

娘が真ん中で踊る曲がファイナルに来たのですが、後で話し聞くと、この最後の踊りは娘が創りあげたものだそうです。

 

な~るほど 

 

それが終わると次は1時間後ですから、その間再び校内をフラフラ。

 

ファイナルは、本日二度目のステージという事で、服を着替えて昨日と同じフラダンスショーです。

昨日と少し違うのは、一緒に企画してきた上手な子一人が、用があって抜けてしまっていること、この子は上手ですから残念。

あと、時間が3時近くとなり多少寒くなってきていること、夜祭準備の為の切り替え片付け時間が押していること、さらには来賓の方達が結構帰ってしまっており、「どれくらい集まってくれるのだろうか?」と娘も最後まで心配していた。

ところが・・・・・・・     始まってみれば、昨日同様、本当に多くの人が観に来てくれました。

 

まあ、こうして文化祭は無事に終了。

 

やっと肩の荷が下りた娘には「なんだかんだと苦労しただけの事は有ったんじゃないですか?」と声をかけたくなりますが、

人と協調し、人を動かし、企画から構成までをの全てを手造りでなしていくのは結構大変なこと、良い経験だったと思うのです。

もちろん素晴らしい友達がいなければどうにもならないことですが、 親として娘の友達には大変感謝です 

 

最後に、「本当に充実した二日間だった」と娘は家内に言っていたようですが、一度しかない青春、ボーとしても、何かをなしても時は平等に刻まれていく。

同じ時間を過ごすなら、「素晴らしき時間を・・・・」   と、常々僕は思うわけです。

 

 

 

 


文化祭と娘 その1

2011年10月29日 | 研究-教育・育児

昨日は夕方から寝てしまい、起きたのは6時近く。

 

なんとなく体調が良いので、よせばいいのに朝からガシガシ運動をやってしまった。

思えばこれがまずかった。 

 

今日は娘の通う学校の文化祭初日。

 

「見に来てね!」 と言われましたので、いそいそ出かけますが、その実態は撮影しろ!という命令の遂行 笑 

カメラもって早速バイクにまたがり学校へ向かいます。

 

場所は正面玄関前のアトラクションスペース。

娘が出る始めの演目は、普段、土曜日の特別授業でやっている日本の民族舞踊のお披露目。

授業の一環としてやっている成果のお披露目みたいな物ですから、ジャージみたいなの着てやっていますし、派手さも無くてどうしても地味。

正直なところ、半分飽きつつ見てしまった、 あ~! いかん いかん 

 

後は午後なので、一度家に帰ると飯を食い、午前中いなかった家内も合流して再び学校へ。

 

午後は一番良い時間がステージ時間に割かれていますが、開始時間には華やかな服を着た女の子がスタンバイ。

家の娘含めてフラダンスやポリネシアンダンスを習っている子達が集まって企画した、フラダンス&ポリネシアンダンスショーです。

高校生という事も有りますが、みんな可愛い・・・・ 

 

さて、準備も整い、いざ開始! ところが 「 あれ????」  シーン・・・・・・・ 、れれれ・・・・・・、なんとトラブルが発生らしい。

スタンバイしているのに全く音楽が鳴らない。

後で聞いた話ですが、何でも音響担当がデッキを落としたらしく、それで不調になってしまって音楽が再生できなかったとの事でした。

 

スタンバイしているのに踊れない、「へたすりゃ このまま中止?」、なんともいえない不安と重い空気が漂う中、

直るまでの時間に即効で行われたのが、フラダンスやポリネシアンダンスという踊りがもつ意味の解説。

 

この二つは源流が同じらしく、本来は神様にささげるメッセージなどを踊りにしたもので、いわゆる手話のようなものらしく、その意味を

娘が説明していました。

 

まあ、そんなこんな10分近くやっている間に音が出て、やっとダンスが開始されました。

だいぶ予定より遅れたのですが、災い転じて福となすではありませんが、この焦らされた時間のおかげでドンドン人が集まり。

さらに大きな人垣が出来て結構にぎやかになりました。

 

しかし・・・・

暖かい風、汗ばむくらいの太陽、とても10月末とは思えない陽気の中、11人の娘さん達による踊りが披露され、見ている人たちの目を釘付けにします。

計5曲ほど披露されましたが、皆で踊る陽気なのを挟んでポリネシアンダンスの上手な子と、家の娘による単身の踊りが一曲ずつ

入ります。

話によると、この二つを除き、3曲のダンスはみんなの構想と創造によるものだそうで、曲の選定から演出、披露までかなりのレベルの

高度なものでした。

派手さのある現代フラを余り好まない家の娘は、基本的に古代フラを基本に踊りを創造しますから。今回のステージもその動きが基本でした。

 

 

 

 

 

 


ほーら、 言わんこっちゃ無い

2011年10月24日 | 研究-教育・育児

文化祭で実行員としてまた展示や出展を色々と掛け持ちしている娘。

昨年はこの時期に熱を出して寝込みましたが、今年も又無理しまくりで、ダウンの心配をしていたら、案の定です。 

家内が仕事を休めなかったので、今回は僕が休暇取って娘を病院へ連れて行きました。

 

熱が出て、内臓関係全体が不調になるわけですから油断ならず、一応でかい総合病院に連れて行き、二つの科で診察や検査等を受けたのですが、

「おそらく・・・」 と思っていたとおりに身体的問題となる原因は何も無く、 医者いわく「疲労とストレス」でしょうとの診断。

 

待合所で待っている間に色々と話をしたのですが、「5つ掛け持ちだったのを7つまで広げた~!」とあっけらかんに笑っている。

「はい~?」 

 

高校の文化祭とはいえ、当日まで牽引していく実行委員含め中心となって動く子供達は真剣で、ただ、中にはだらしない子もいるし、口ばっかりで全くやらない子、参加申し込みしていて来ない子、必要なものをそろえてくれるといって全く持ってきてくれない子。

そうした子含めてあらゆる部署と調整、連絡をとりながら、さらに自分達の出展準備や練習などをこなして行かなければならない。

 

最後まで友達を信じて不平不満、ましてや悪口等を口にしない娘も、さすがにこのところ限界に来ていたのか、多少なりとも旨くいかないことを口にしていた。 

親はこうした子供の姿に何も言えるはずはなく、黙っているしかありません。 

 

そんな訳で帰宅したのは丁度お昼。

家に帰り着くなり 出展の一つである ダンスの詳細構成にとりかかり、 その後学校まで送ってほしいというので、

熱の有る娘を車に乗せてそのまま学校へ送り届けました。 

 

よき青春を 


取材

2011年09月17日 | 研究-教育・育児

ワールドカップに関しての事だけれど、ごく小さな地方新聞の取材を娘がうけ、それが記事となった。 

ただ、「やはりね~」と思うような書き方がされている。

よく、取材を受けてそれが新聞やテレビ番組になると、その内容が取材を受けていた

人物の言葉と全く違うニュアンスで書かれていたり、思いを無視して勝手に内容を

書き立てたりするのだけれど、案の定、もらってきた新聞の記事にはそうしたねつ造?が加えられていた。

 

「だから嫌なんだよね~」と、変に名が出たりせずに 常にアウトサイダーで目立たないほうが

良いのだという事が、こうした出来事からはっきり認識させられる。

娘は何も言わないが、僕と同じ事を思っているのはすぐに分かる  いい勉強だ。

 

文面を読んでみると、そこには書いた人間の思考が現れており、それではどんな気持ちで記事に

しているのかと? 僕や家内が読んで感じとれる印象を簡単に書き表すとしたら、

”嫉妬らしきものと同時に小馬鹿にしている”という事がすぐに読み取れる。

どれだけ話をきちんと聞いていたのか? と錯誤と間違い、勘違いだらけの文章にあきれもするが、

他人を通して表現されるということは、こうしたものなのだと思うわけです。 ちなみに取材したのは

女性記者でした。

 

この先、いくつかのメディアにて、ちいさな記事で紹介される様ですが、まともな内容を期待したい、なんて思う僕です。 

 

 

 

 


謙虚であること

2011年09月09日 | 研究-教育・育児

夏のワールドカップが終了し、帰ってきて以降あちらこちらで、さらに夏休み明けの全校集会で称賛されることになってしまった我が娘。

* ヨットの世界は他のスポーツより日陰なので、正直助かります。

 

これによって謙虚であらねばならない重要性を再び教えることになった僕ですが、心配は尽きない・・・

 

というのは、誰でもそうですが、何がしかである程度の成績を出し、それが多くの友達の耳へ情報として入るようになると、かならず難しい問題が次々と出てきます。

女の子であるがゆえの問題もあり、それが結構ややこしい。

 

例えるなら、 廊下を歩いても、道を歩いても、同じ学校のこれまで知らなかった先輩や後輩生徒から声をかけられたりすることが多くなり、

それが男の子だとほぼダイレクトに ちょっかい となるわけで、といっても恋愛感情云々が根底にあるわけではなくて、このくらいの年令の男の子は親近感から からかってみたくなるのですね。

 

ただ、これが数回ならともかく、人数が多いから数も増えるし、するとだんだん相手をするのが大変になってくるのは、誰にわかることだと思うのですが、結構大変らしい。

まあ、これだけのことなら、いついかなるときでも礼儀正しく、品を保って笑顔を絶やさず、絶対に嫌がってはならない。

そうされている自分におかしな優越感等はけして心に持ってはならず、「常に感謝と謙虚な姿勢でいなさい」 と、人としての基本手な心構えを守って入れば済む話なのですが・・・

まあ、実際のところ、スポーツで多少活躍したからとて、それが人間性に優れる証明にも自慢にも一切ならないわけで、そんなものより常日ごろの生活姿勢と行動のほうが人にとっては遥かに重要なわけです。

 

さて、男の子に対しては上記の姿勢で良いものの、問題は女の子。

”ややこしい?”というのは、女の子はこうしたチヤホヤされる(決してもてている訳ではないのですが)同性に対する視線が男の子なんぞより大変に厳しく、特に自分が好きな男の子がやっていようものなら、湧き上がる嫉妬心と切っても切り離せないから話しがややこしくなる。 

娘もそうした同性の目を変に意識し ちょっかい出しの男の子達をヘタに無視してしまうと「なんだあいつ?、お高くとまって」とか、「偉そうにしやがって」と男の子達のマイナス評価につながっていく、

かといって適度に応じるのは良いが、それがイチャついている様に見えてしまえば、今度はそれをみた女の子達から「なにあいつ~?、調子こんでない?!」となる。

 

本当にくだらない・・・・・・    と思うのですが、 現実に中高生くらいの精神年齢の世界では笑えない問題。

 

別にムービースターでもなく、有名人でもない娘が、芸能人にたいする いじめ よろしく同姓から凄惨な嫌がらせを受けることまでは無いでしょうが、話を聞いているとこれまで本当に仲の良かった友達がなんとなくよそよそしくしたり、とかは有る様です。

そのために、それに対してどうするべきか? どう有るべきか? という事について娘に話をしなければならなくなった。

 

こうしたことは夏前までは想定外の事であったのですが、これまでスポーツでそれなりの成績を出していろいろ持ち上げられた後に、スランプになって散々突き落とされたり、陰口叩かれたり、その結果として精神的な面で色々とつらい思いをしたことで、その優れた才能を自分でつぶしてしまった子達を何人も見てきた僕には、けして見てみぬふりはできない問題。

「常にアウトサイダーで有り続けろ」、と娘には常々諭しているのですが、女の子であるが故に人前に自分から進み出るような生意気な姿勢や考えを持つ事を僕は一切許してはいません。 そうした教育もしていません。

なぜなら自分が表現できるフィールドにて全力を尽くせばそれで十分に輝けるからで、自分が自分がと表に出ても、この日本では良いことなど一つもないからです。 

 

しかし・・・・・・   色々な意味で、気心をすり減らす事の多い秋となりそうです。

 

 

 

 


新米の パパ&ママに 泣きまくるという洗礼

2011年09月09日 | 研究-教育・育児

病院を健康そのもので退院した孫 息子は赤ちゃんを連れて嫁さんの実家へ車で移動。 

移動した日に休みで、翌日定休の息子はそのまま向こうに泊まったのですが、その晩に早くも赤ちゃんからの洗礼を受けたようです(笑)

なんでも、夜に泣き出しはじめてから止らず、ほぼ数時間泣き喚く我が子相手に嫁さんと二人で格闘。

何をしても泣きやまない我が子に相当困惑したようです。

 

家に帰宅してきた息子はそれなりに大変だったようで、家内とそのときの話をしていましたが、子供を育てるというのは本当に簡単なことではない(笑)

息子の話を横で聞きながら 「ほ~らほら! この先大変だぞ~」思わず苦笑してしまう僕ですが、とにかく生まれて一月も経たない子の泣きじゃくりは何がなんだか解らない。

何故泣いているんだ? 理由は?もしかして病気?と次々頭に浮かぶものの、相手は言葉を話せるわけではないのでどうにもならない。

「熱は有ったのか?」と聞くと、7度5分とのことで、 ところが体温が高めの赤ちゃんが全力で泣き叫べば大人がフルに運動しているのと同じでそのくらいまですぐに体温が上がる。

基本的に寝ているときや安静にしている時でないと正確に測れないし、風呂上りであまり厚着させたりしても泣くし・・・

 

我が子の事で悩み苦しむからこそ子育て、そうして親も子供と一緒に成長する。

「だからそこ心通わすことが出来るようになるのだと」、そう言おうとしてやめました。

え? 何故かって?  自分で気づくものだからですね。  

 

 


赤ちゃんの不思議

2011年09月04日 | 研究-教育・育児

まだ世に生まれ出て僅か、でも不思議な事というか、「それが人間なんだな~」と思うことがある。

理屈云々ではなく、実感として得られるものだ。

自分の子が生まれた時は、とにかく浮ついて記憶もさだかではないのだけれど、こうして孫だと落ち着いていられるのがとても不思議だ。

 

対面したのは、生まれてわずか30分足らず後の事。 

母親はまだ分娩室で処置中、ゆえに息子、家内、娘、嫁さんのお母さんに次々と抱かれ、皆からすでに決まっていた名前で盛んに呼ばれるのだけれど、まだピントが合わないはずの眼をまっすぐ開けて抱いている人を見ている。

特に反応するのは息子の声で、他の人に抱かれている状態で声をかけると、殆ど動かない頭と眼を動かして声の方向を探すような反応をしている。

 

すでに親以外の人たちを区別しているように思えるのだけれど・・・

しばらく変わりばんこに抱いているとやがて泣き始め、そこで息子が抱いて声をかけると、ぴたりと泣きやんでじっと顔をみている。

 

「はれ?」と僕は思うのだが、まぐれだろうなんて思って、又他の人が次々抱いていると泣き始め、又息子が抱くと泣き止む。

お腹の中にいるときに、常に聞いていた声が生まれたばかりの子供に安心感をもたらしているのがこんなところから分るから面白い。

 

しかし、予想もしなかったのが、我が息子の可愛がり様。

午前中から門限の8時まで、ずっと子供の傍を離れずに抱っこし続け、常に指に触ったり、ほおを撫でたりを繰り返している。

 

生まれて間もない赤ちゃんはほぼ一日寝ているので、まず起きている時間は短いのだけれど、寝ていようが起きていようがお構い無しに

やっているので、「孫にしてみゃ迷惑だろうな~」 なんて冗談半分に僕は思う。

 

この、まだ眼も見えない一時は、匂いと肌をとおしてつぎつぎと入ってくる感覚が大脳を発達させ、特に誰が親なのかという認識を作り上げるもっとも重要な時であり、

この生まれて間もない時期に得られる感覚や声等という情報というのはとても大事なのですね。

これが無音、もしくはヒステリックな騒音(特に人の言い争う声)、冷たい、無感覚等という状況が続くと、親というものを認識するべき一番大事な部分の発達が遅れるわけで、

一見なんでもなく育っているように見える子供が反抗期(第二次性徴期)を迎える頃に人格の一部として表に出てくる。

 

こんな事をしてはいないでしょうか?

 

「いやーバッチイ!」と父親を汚いもの扱いして我が子の指や頬を触らせない

「寝ているからうるさい! しー!」と異常に神経質になって無音状態をつくる

生まれたばかりの我が子のすぐ傍で父親と母親がいい争いをする

生まれて間もない子をどこかに放置(捨てる)する

子供をほとんど抱かず、泣いても関心が薄い

 

こうした状況下で、生まれた後の一週間をすごしてしまうと、自分と密着すべき存在(安心感)の認識が確立不十分のまま育っていくことになる。

一番初めのやつは、父親が出張等で会えなかった場合も往々にしてあり、もちろん影響は出るもののさほどではないが、母親(夫婦)が上記のような体たらくだと後に致命的な問題となる。

 

同じ撫でるでも、父親のごつごつとした感覚、母親の柔らかい感覚、両方が子供にとって親を認識する為に必要なもので、欠かすことは出来ないものなのですね。

豊かな感覚と愛情をもつ子供、その始まりはこのわずかな時間にあると言い切っても良い。

 

ある親がいる、うまれた我が子との最初の一週間を両親がどう過ごしたか?が その子がやがて親となり生まれてきた子供に接する姿そのものにもなるわけで、

 

人というのは生まれた瞬間から人格の形成が始まるわけだ。

 

 

 

 


ハリケーンと供に・・・

2011年09月03日 | 研究-教育・育児

僕の孫だから、平穏な状態で来るはず無いと思っていたけど、やっぱりというべきか(笑)

予定より早く、ハリケーンと供に我が家へやってきた男の子。

40代前半でじいちゃんてか?  苦笑 

ちなみに息子は、 孫に 鷲(その中でもWhite Sea Eagle) が空へ飛翔していく姿にちなんだ名前をつけました。