子供を育てていく上で、兄弟の互いの信頼と絆を深めるように、親として両方のバランスを取りながら育てるというのは、とても難しいものです。
子供達はそれぞれ、自分が親の一番でありたいと思うし、でもライバル(兄弟)がいれば、それは容易にかなわぬこと。
親の思いとは別に、下の子は常に上の子と同等、対等、平等を求め、上の子はそれに不満を抱くのが普通でこれは本能。
恥ずかしい話ではありますが、僕の親は僕と弟を徹底して平等扱いにし、常に同じ条件で、ほぼ完璧といえるほど平等にして育てた。
親の考えからすれば、これで兄弟間になんら不満を残さず、将来は遺恨も何も無い、いうなれば、なんら揉める原因の無い事で手に手を取るような理想的兄弟が育つのだと思たのだろうけれど、
「その結果は?」というなら、兄弟間で決して埋める事の出来ない大きな亀裂を生じさせ、僕の記憶の中にある弟の存在はひたすら嫌な存在としての記憶しか残っていない。
当然、付き合等がある筈はなく、連絡などけしてしないし、する必要すら無いと思っている。
何より、弟に決定的な人格破壊をもたらしたのが、この平等に育てるという理想教育の結果であった事は、どうにもならない事実であって、この実経験をもって同じ過ちを僕が我が子に犯すことは無かった。
我が子は上が男で、下が女。
当然、長男は常に長男として扱われ、妹は当然妹であり、明確な区別の元に育てた。
さらに、それに付け加えて男である長男は男らしく、女である妹は徹底して女の子らしく育て、
その基本は武士の時代の育て方に有って、当然に現世では適合しないものであろうが、できる限り再現を心がけてきた。
この先まだこの二人がどんな人生を歩んで行くかを見ない限りは、「私の子育ては旨くいきました!」等と、磔にされてもいえないものなのだが、幾分かこのブログを読んでいただいている方に容赦をいただきつつ、かつ親バカ交えながら言葉にさせてもらえるなら。
二人とも”一応”はそれなりの人間へと成長してくれている様には思えます。
上司に可愛がられ、同僚にも好かれて職場が楽しくて仕方ない長男と、同じく先生や友達、後輩から好かれて生き生きと学生生活を送っている妹。
この二人がもっとも難しいといわれる人間関係で悩むことは一切無く、それゆえ常に心豊かであり、それは僕の家庭という空間が常に笑顔と笑いで満ち溢れている事実をもって一つの結果として捉えています。
このふたりの我が子ですが、極端に中が良く。
上の子は常に下を守り、必要と判断すると僕にさえ立ち向かってくることも有る、下の子はそんな上の子に対して常に尊敬の念を持つという関係。
妹はけして兄の前へ出張ることはなく、しゃしゃり出ることもないし、何時いかなるときも3歩下がって控えるわけで、これが現在では同居している息子の嫁さんとの難しいはずの関係を、いとも簡単にこなして解きほぐす力となっている。
娘がまだ幼児のころ、生まれてすぐの頃からであるが、息子には当然のように抱っこさせていた。
親としては落ち着きが無い年令の子供に乳児を抱っこさせるという事そのものが、どれだけ不安であるかは、子供を育てた経験のあるものなら誰にでも分ると思う。
僕と家内とてそれは全く同じで、しかしながら、ひたすら息子を信じ、息子が抱っこしたいというなら好きなだけやらせていた。
時にはまだ首が据わらない月齢だった娘を抱っこして小走りすることさえあったが、どんなときも口を出さずに、ひたすら忍耐でその姿を見つめ続けてきたわけですが、
事故は心配ではないのか?と問われれば、それは何時いかなるときでも常に可能性は0ではなく、座って抱いても、立っていても、存在するし、逐一気にしていたら限はなく、ましてや我が息子が兄弟を抱いていることを心から信じねば、この先どうやって子を育てられるであろうか? そう思っていた。
「無責任」という言葉がすぐさま僕に浴びせられそうですが、基本的に人の持つ本能を中心として物事を考えるに、太古の昔より上の子が下の子を面倒見る本能が人には備わっているわけで、もしその始まりである新しい存在(新たに生まれた妹)を認識するべき重要な一時に、必要なだけの接触をさせねば、それをベースにした将来の兄弟関係、その先には社会に出ての上下関係をそつなくこなす事がはなはだ不安定になるからです。
その介あってか息子は本当によく妹の面倒を見てくれたし、現在もそれは続いてる。
とはいえ、この二人が育つ過程で、当然の様に起きてくることがあって、それは何処の家庭でも普通に存在するものなのですが、まあ、年令がそれなりに離れているので、年令が近い兄弟程ではないが、やはり「おにいちゃんばかり!」、「ずるい」と娘はよく口にした。
それに対する僕の答えは常に「当たり前だ、なぜ同じにしなければならないのだ?」というものでした。
平等は”可能性とチャンスが均等にあたえられる”という意味でしかなく、物質的に同じとか本来あるはずの差を無理にねじ曲げて同じ条件に置くことではありません。 それゆえ兄弟であっても年令も性別も違う二人には”差”と”区別”は有って当然の事だからです。
*注意 差別と区別は大きく異なります。 差別は上記の可能性とチャンスという二つの言葉を初めから消去した状態で相手に接し、思考を行う事をいいます。
娘は。何でもかんでも上の子のお下がりばかりで、半分壊れたものでも文句を言わせず使わせたし、何をするにも上の子が優遇され、
でありながら、女の子として必要なことに関しては当然の事ながら長男より特別扱いと優遇が存在し、当たり前の事だけれど、そうしたことに上の子は一言も文句を言ったり羨んだりという事はなかった。
普段長男として自分が特別に扱われているのを十分に分っていたからですね。
下の子には我慢、上の子には勇気と忍耐をと、まったく違ったものを要求しましたが、娘が中学校入学時に新品の通学かばんを買うことを拒み、上の子のお下がりを入学時から平然と使って3年間通学していたのは、こうした経緯の片鱗かは分りませんが、僕を驚かせる出来事であったのを覚えています。
こうして兄弟においては徹底した区別と、年齢や性別からくる違い、不平等を明確にしながら育ててきたわけですが、この二人が喧嘩したり揉め事を起こしているのを見た事は全くといって良いほど無く、冒頭に書いたような、極めて良好な兄弟関係は過去からいま現在も続いてます。
これが理想よろしく、平等に育てよう等とやっていたら、どんな二人になっていただろうか?、そう考えることが恐ろしいのですが、
本質的平等を良く理解しない、表面的平等で子供を育てた結果の恐ろしさは、今の若い世代をみていると明確にわかるわけですが、しごく簡単に耳へと入りやすい話は有り、それを考察すると色々見えてきます。
割とよくあるのが、上の子が非行行動を始めた家庭で、始めは上の子が、そして最後には妹、もしくは弟もほぼ同じような行動をして、兄弟そろって手におえなくなるという事が当たり前のように起きています。
理由は簡単だ、本質的平等ではない、きれいごとの平等をもって子供を育てるから。
荒れる上の子に苦労する母親や父親の姿をみて、下の子は始めこそ親に寄り添い、励ましたり上の子を批判したりと、色々気づかって良い子を演じるのですが、苦労する親の姿を見ているうちに、その苦労が実は上の子へ注がれる大量の愛情だということに気が付いた瞬間、下の子は上の子と全く同じ行動をとり始めることが当然の様に起きているという事実。
そのとき99%口にする言葉は、「お兄ちゃんばかり好きな事やってずるい」という言葉で、うろたえる親に投げつけてくる。
結局、何でもかんでもきれい事(表面的できれい事理想に基づく平等)の兄弟を平等に扱ってきた以上、それぞれ、個々の人間に注がれる愛情の違いに越えられない壁があるという至極簡単な事すら理解できずにいるわけで、
それも当然、”自分と他人は兄弟であっても全く違うのだ”という、”なにがどう違うのか?”、又それは”なぜなのか?”というそれぞれの差を勉強をするチャンスなく育つわけですから、問題を起こしている上の子に親が注ぐ愛情を、自分も同様な行動をすることで、これまた同じように注いでもらおうとするのも当然といってよいでしょう。
本能というのは常に他人より少しでも自分が多くのものを得たいというのが基本であり、それゆえ、それを適切にコントロール出来る人間性に育てねば、結局 妬みや嫉妬を常に抱え込んで社会生活を送るようになる。
子育ては常に現実です、
きれい事や表面的理想をもって子育てをしてはならず、本質的理想と現実をしっかりと認識させつつ育てねば、成長するに従い避けることができない、理想と現実のギャップに子供は苦しむことになる。
それに対し、そのような自由だ平等だという概念がまだなかった武士の時代から、大戦前までの日本人が非常に強くて優れた人間性を持っていた理由は、現実で子供を育てていたからに他ならず、しかしながらこの浮ついた二つの言葉が当たり前のように教育に取り入れられ、更にはそれを中心にして子供を育てるようになってから、この国がおかしくなったと思えるのは僕だけであろうか?
更には男が男でなくなり、女が女でなくなり、らしさの消滅と中性化が家庭をこわし、膨大な数の精神的弱者を育てた。
子供というのは常に自分の都合の良い方向でしか物事を考えず、自分が同じ兄弟より何がしか有利な恩恵を受けたとて、そんなことは当然でかつ当たり前の事だと思っており、
さらに差を常に測っていて、少しでも自分が損しているという損得勘定で人間関係を測るようになることから、親に対してすぐに埋め合わせを主張する。
理想は、あくまでも理想でしかなく、それをもって物事を判断する事しか出来ない人間に育てば、自分の置かれている環境、すなわち、衣食住とそれを取り巻く人間関係や社会的地位の全てにまで不満を覚える人間へ成長するのは当然。
その行き着く先は嫉妬と妬みを基本とした、忍耐と努力もせずに施しだけを得る事ばかり考える人間性。
たとえば、女の子であれば、決して越えることが出来ない性差と物理的力の差をおかしな理屈によりねじ曲げて私念を晴らそうとすることばかりに力を注ぎ、これまた平等という言葉に註偏して愛を考えるようになる。
たとえるなら、夫婦として一生を添い遂げるに、永久に取れるはずが無い自分と伴侶のバランスを経済的、時間的自由度等を表面的平等という名の天秤にかけて測り、
当然そのレベルにて相手に同じものを要求したあげくに、それが満たされぬと悟れば、代替えや見返りとして自分勝手な要求を常に突きつける。
そして、それがスムーズに満たされねばただただ不満として蓄積させ、最後には離婚という凶器を伴侶に突きつけて脅迫するような愚かなまねをしでかす。
”それがどれだけおかしなことか?”をろくに考えもせずに理想の名のものとに平等を要求するわけだ。
理想は現実ではない、お花畑をおかしな形で子供にもたらすことにおける結果は、常に不幸をもたらす。
先も書きましたが、人の本能を考えるに、そこには平等などという言葉はなんら存在しない、常に他者より少しでも自分を優位に、恵まれた立場に置こうとするように出来ている。
しかしながら現実は、なんらアクションも行動もせずに、平等という果実を得ることははなはだ不自然だし、不可能に近いわけで、平等というのは、あくまで理想というお題目の中に見える幻想でしかなく、何がしかのアクションを起こしたものにしか近づくことは出来ない物。
また、行動を起こしたとて、結果が思うように付いてこない場合は、「何故?自分は駄目なのか」を考えて明日のために自分を進歩させる能力を養わねばなりません。
残念なことに、特に25年ほど前から、教育そのものにおかしな現象がおき始め、いうなればお花畑思想に基づいた異様な平等が学校ははじめ家庭を蝕み始め。
運動会で一緒に手をつないでゴール等と言う、ついこの間まで鳥取県の学校で行われていて問題になったような、本能を歪める教育を平然とするようになってしまった。 (今は正しい競争がいささか見直されている)
何度も書いてすまないのですが、平等は、”どんな人間であっても均等に可能性とチャンスが与えられている”というのがこの言葉の持つ本当の意味であり、果実だけもをらえる、もしくは要求できるというものでもない。
故にどうしてもチャンスを生かすこと出来ない、得ることがかなわない物に対する正しい思考は、平等の持つ正しい行いそのものでもあり、そうした場合にのみ平等という言葉を口にすることができるわけです。
よく自由という言葉をこの平等という言葉と同等に使いたがる者が多いのですが、自由とは夢のような物では断じて無く、よく政治家が自由と平等を旗印にしているのを見るが、「本当にその意味が分っているのですか?」と問いたくなってしまう。
年令が若いほど、この自由という言葉を乱発するものですが、その現実は単に自分のわがままを押し通す為の建前として乱用しているに過ぎず、学校教育の中で先生方にその意味を説明してくれと詰め寄る生徒に明確答えを出せずにいる先生も多い。
当たり前のことですが、この言葉を多用して学校教育している者そのものが、自由と平等の意味をまったく知らない訳ですから、生徒が自分で答えを出すことが出来ないのも当たり前。
自由とはなんだろうか?
答えは至極簡単かつ明快、 自由とは「たんなる選択幅の広狭」でしかなく、それ以外の何物でもありません。
幅の広がりである以上、常に条件や環境によって制限を受けるのが当たり前のものです。
理想も自由も、本質的な物を理解せずに究極を突き詰めていくことは、単に自分勝手のやりたい放題を広げるだけの事で、しかしながらそれが現実としてかなわないからこそ、できる良質な形で幅を広げ、理想を追求できるようにするわけです。
完全平等で自由なはずの理想そのものといえる共産主義、社会主義がなぜ必ず崩壊するのかは、この思想が目指すところのお花畑が、”人の持つ楽して果実を得ようとする”本能的怠慢によって”施しを受けることが中心”となってしまうからで、それによって生産活動の停滞と経済活動の衰退を招くからに過ぎません。
自由主義は、この日本の国における今の誤った自由解釈では存立が不可能で、それは誰しもがもつ「人より豊かになりたい」という人のもつ自然な本能を基にして、調和とバランスを保ちつつ競争させることでしか成り立たない。
昨今問題になっている働かない、働こうとしない、こうした若者に共通する特徴は、叱らない子育てや、褒めて育てるという教育法にあるある 心の訓練を一切させない育て方に原因があり、さらにこの基本的精神的虚弱に上記の誤った自由と平等意識を植え付けられると出来上がる。
自分の知るソフト関係会社の友人は嘆いていましたが、というのは、エリートといえるような大学を卒業した優秀な新入社員が毎年入ってくるものの、一月、3ヶ月、半年という単位で一人々と病んで会社を辞めていってしまう。
別段お客様と揉めた訳でもなく、会社内で自尊心をひどくひどく傷つけられるほど叱咤されたわけでもなく、自分で勝手に病んだあげくにさっていくわけです。
この理由は至極簡単なもので、人間関係から始まって、理想と現実のギャップを吸収することが出来ず、褒められてきたことから頭の中に出来上がった根拠無きプライドを守ろうと固守した挙句に、虚弱な精神が心を病ませてしまう。
仕事をするにも自分からアクションを取るわけでもないのがこうした者の特徴で、あまりに何にも自分から出来ないことから、上の人間が全てお膳立てして準備を行い、「さあこれでやってみてくれ。」としない限り何にも出来ず、
そしてその結果すら、心の虚弱が生産するもの故に、ろくな物にはならない。
叱らなくていい子育て等、すなわち親が何でも先回りし、理想の名の下に親のための子供操作教育をしていれば当然にこうなるわけだ。
そういえば、息子はよく、妹を叱りました。
何がしかの失敗をすると、それを僕が見つけてもすぐに叱ることはないですが、というのは、それは間違いを娘が見つけ、それを認めて勇気をもって親に話してくれるという、心の強さと成長と勇気をねがうからです。
しかしながら現実はそう簡単にはいかず、しかしながらその隙に、問題を息子が見つければ娘を注意したり叱ったりしていた。
当然、こうした行動に僕が口を挟む余地はありません。
上のものが下のものの面倒をみて、それを人として冷静に判断しつつ必要なアクションを取れないようであれば、その子は何が人として必要なのかを学ぶことなく育つことそのものであり、これは又将来、自分自身の非を自分で問いただすことが出来無い人間になる事を意味します。
実は、人の振り見て我が振りなおせは、まず人の持つ問題を明確かつ適切に認識することから初まり、それがやがて自分へ回帰し、精神的強さの成長と供に”人の過ちの認識と、しかしながら自分に対して出来ない過ちの認識、そしてそれをもって自己を否定出来る自分と、出来ない自分という”差異を認識することを始まりとします。
それをもって自分に対して厳しく出来る事を学習をしていくようになっていす。
また、こうした経験が、人を旨く叱る為の生きたトレーニングそのものであり、やがて人の上に立つことがあった際に上手に人を動かすことが出来るノウハウとして生きてくる。
人の心を読み取ることが容易に出来るからです。
子育ては理想で行うものではなく、現実を教えそれに適した思考力を養うことなのです。