goo blog サービス終了のお知らせ 

帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

叱らない教育・叱らない子育てを僕が否定する理由、そのほんの一部分

2011年08月30日 | 研究-教育・育児

さて、二回ほど続けて叱らない子育てに関することを否定的に書きましたが、僕が叱らない教育とやらを眼の敵にするのは、きちんとした理由があります。

ブログ(以前の日記含む)を書き始めてから早8年、

約25程前から世の中に出てきた、  子供を叱らずに ほめて育てる教育(丁度今のひきこもりやニート達が育ってきた時代) とやらが、一大ブームとなって世に広がり、10年ほど前には最高の教育とまでに崇められたうえに、日本の標準教育?と言われてもおかしくないほど持てはやされる時代もありました。

特にマラソンの高橋選手の監督が口にしたことも影響。

 

爆発的に普及し始めたインターネットの世界では、大体1歳から小学高学年くらいまでの子供を持つ多くの親や教育関係者(保育士や教師、大学の教育学部教授等)が、同じくブログにて「こうやって実践していま~す!」と、口々に叱らないことの素晴らしさを讃え 「ほめて育てているのでこんなに良い子になった」、「学校の成績がこんなに上がりました?」と鼻高々にその効果の程について書きあげていた。

おりしも 「フィンランドを手本にしよう!」だ、イタリア式だ、 「スウェーデン式ほめて育てる教育」 なんていう まがい物教育から始まって次々出てくる書物は、 とにかく”叱る”ことを悪の権化のように扱い、怒りや体罰までも世の中を悪くする諸悪の根源として書きまくっていたわけです。

 

ところが? 

どう考えても人の本能に反しているこの教育が、 自然な心の成長を阻むどころか歪めてしまうわけで、最終的に芳しくない結果になるであることは確信していたものの、大きな結果集積データが無い。

子供の問題行動で悩む親等の個別的情報はぽつぽつ手に入るものの、それより大きくて絶対的、かつ全体にどんな影響を及ぼしているのかという絶対データが欲しかったのです。

そこで、僕と面識が無く、利害関係が全く生じないネット上の情報を利用することで、個別的に追跡と分析を試みました。、

対象としたのは、当時叱らないことを素晴らしいものとして喧伝していたホームページを手始めとして、そに当時に新しいスタイルとして出はじめたブログに至るまでの約300個近くをお気に入りに登録し、日々更新されていくブログの中に描かれている子供の姿をこの8年間追い続けてきました。

 

登録の基準としたのは純粋に親の立場として書いているものだけで、何故なら、教育評論家や教育学者、教育専門家等という看板掲げている人間達は、書籍の売り上げを始めとしてまずは自分達が食べて行くことが大切ですから、

そのためには事実を平然と捻じ曲げますし、隠したり嘘をつくだけにとどまらず、都合悪い事実はけして表にしないからですね。

普通の親たちが書くからこそ、そこに事実があるわけです。

 

すると、始めこそ「こんなに旨くいってます!」と、どれもが誇らしげに書いていたブログの更新がだんだん滞り、同時に子供の事が書かれなくなり、最後には更新が停止するかいつの間にやら閉鎖されてしまう。

優れた効果をあげているのなら、どんどんと更新されながら、ずっと周りの者達にその教育を進めているはずです。

小学校低学年までは子供も従順ですから、誰しも「自分の子育てはうまく言っていると思い込んではばからないもの」ですが、子供のころに受けた教育の問題点は思春期になって初めて表に出始めることから、そこを重点的に追跡をしていたのですが、残念な事に誰も旨くいかなくなった事等は書こうとしませんので情報が途絶えてしまう。

結局 ”旨くいかなくなったから、書けなくなった”という至極単純 かつ絶対的な現実がそこにあるわけです。

 

僕が一番欲しかったのは、 

叱らずにほめて育てたおかげで、一番難しい思春期(反抗期)をどう素晴らしく乗り越えたか

そしてその後に、その教育により優れた人間性になった?子供達が刻み続ける輝ける実績と事実なのですが、

たまたまなのか? 偶然なのか?は知りませんが、良質な結果を残しているな~ と僕が思えるものは一つも有りませんでした。

最高の教育ゆえに 最高の人間性が育つというのが 叱らない教育・褒めて育てる教育を進めている者達の言い分なのですが、普通にすらなっているのが半分あるかどうか?すら怪しいものです。

これが事実です。

 

しかし・・・

叱らない教育・ほめて育てる教育 が本当に素晴らしい教育だったのなら、その教育がブームとなって以降に育ってきた今の若者は、

僕らの若かりし時代なんかよりはるかに活発で意欲的で生産的であり。

当然、人間関係になんら悩むことなくて、攻撃性が無い上に、頭もよく、素晴らしい人間性で世の中を謳歌し、日本社会はどんどんと良くなっているはずなのですが、実際はどうでしょうか?

 

 

現実は、完全にその逆じゃ~ないですか?

引きこもりは200万(隠れひきこもり及び不登校ふくむ)、親に寄生しているニートがすでに130万(引きこもりと一部重なります)、そのうち働けるのに平然と生活保護もらっている若者がすでに50万人以上、「その理由は?」といえば、職場の人間関係を始めとして苦しい思いをしたくない、辛い思いは嫌だとかなんとか。 

上司に叱られただけで ふてくされた、病んだ、自信なくした、から延々と始まる言い訳のオンパレード。

彼らの口から出てくる言葉は 「働いたら負けで、如何に楽して生きていくか? が最大の目標」だとかなんとか。

 

犬をしつける理論をそのまま人間へ適用したこの 叱らない子育て、ほめて育てる理論とやら、そこにどれだけの大嘘が含まれているかということについて、多くの親達がほんの少しでも知って考える参考としてもらいたい、そう僕は思うわけです。

 

 

褒めて育てたことによる現実的な結果を研究したり、個人的に紹介しているのは、ネットで検索するとうんざりするほど出てきてしまいますので、

下はそのほんの一部だけを紹介します。

下のリンク先をご覧下さい 

 

 

https://mbp-japan.com/chiba/aquras/column/1206203/

https://toyokeizai.net/articles/-/275757

https://note.com/shizukayamasaki/n/n8bd913d5dc66

https://www.nhk.or.jp/sukusuku/p2016/646.html

https://note.com/yoheisuzuki04/n/ne95772f79b24

https://www.bookbang.jp/review/article/510804

http://spiral-up.jp/about/mistake.html

https://honz.jp/articles/-/42424

https://kodomo-manabi-labo.net/homerare-dependence

https://ure.pia.co.jp/articles/-/136072

https://president.jp/articles/-/24944

https://matome.naver.jp/odai/2152394652723382201

https://biz-journal.jp/2019/11/post_128226.html

https://note.com/ogitayasunaga/n/nf096ab406671

https://diamond.jp/articles/-/195233

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/01270510/?all=1

 

 


叱らなくていい子育て ってそもそも何の為にあるのだろうか?

2011年08月27日 | 研究-教育・育児

「叱らない子育て、叱らないくていい子育」てってよく言われているけど そもそも"何の為"にあるのだろうか? とそうした方向から疑問を持つ人は、余りいません。

叱らなくていい???? この言葉に僕は異様さを感じてならないわけですが、というのは、これに子育そのものに対して 苦労したくないという心の本音を基礎にした ”如何に自分が楽をするか” という、いうなれば親の利益(怠慢と堕落)がそのまま隠されているからなのですね。

子供が傷つくから? 単なる怠慢正当化のための言い訳です。 子供はそんなに柔じゃ~ない。

子供がつぶれる?  親の利益第一の言葉の暴力を浴びせられ続けばればそうなるが、正しい叱りは進歩しかもたらしません。

筋肉や骨のように 心もトレーニングするものだという概念がないと、こうしたきれいごとが口から出てきます。 

 

叱る事は、子供(叱られる側)にとって大変辛いことですが、叱るほうもそれは同じ。

小言は別として、特に厳しく叱る際には精神的にも、身体的にも大きなエネルギーを消費する事は、親としてそれをした経験のある方なら分るかと思います。

もし、それが感覚として無いのだとしたなら、自分の叱る行為は自分の利益の為に行っていた、言い換えると暴力を働いていたと思ったほうが正解です。

それほど、叱るという事はエネルギーを消費するもの(トレーニングですから)なのですね。

 

自分もそうですが、わが子を叱るときには、これで子供を駄目にしてしまうかもしれない、意味を理解してもらえず思わぬ方向へ進んでしまうかもしれない、将来これで子供が恨みを抱いたら等、

こうした心配を初めとした懸念は常にあるもので、それゆえに「出来る事ならこうした苦しみから逃れて楽したい」と思うのも、誰にでも共通するものだと思います。

ただ、自分が楽をするということは、その楽した分だけ子供が授からねばならない(おやが伝えねばならないもの)大切なものが減る事を意味し、それが将来、対人関係における苦しみとなって子供が背負って行かねばならないことになる。

 

日常生活のあらゆるところで「なんでこんなことが?」、「どうしてこんなことが?」という対人関係上の付き合いにおける些細なことが 

出来ない、わからない、理解できない、いや理解しようもとしないという、やがていさかいから争いへ発展する火種となって常に我が子降り注ぐ。

その大半はというなら幼き頃より親から正されて来れば問題ない程度のことばかりで、しかしながらそれを正されなかった以上は、友達・先生・同僚・上司・そして社会からずっと問われ続ける事になるわけだ。

問題があるからこそ、人は他人から問われるわけで、それに対して適切に応じるには対人関係における問題に対する自分なりの回答を適切に導き出さなければならず、それは”自分に何が欠落しているのかを考える力(自分という人間そのものを一度分解して否定的に見ること)”がなければならない。

ところが人間という生き物は本来、自分自身を否定するように出来ておらず、常に自分中心に物事を考えるようになっている。

 

それを人らしい思考にしているのは、幼い頃からの教育がもたらす 考える力 だけれども、それは幼き頃より正しく叱られる事により積み重ねた経験(訓練)から来ているもの。

幼き思考は 何で? どうして? からはじまって、まずは我を通そうと試み、そこに問題あらば 心と考え方 に不快を覚えた親に叱られる。

その際に、自分は駄目なんだ、嫌だ、辛い、苦しい、ママなんて大嫌い、おとうさんなんて死んでしまえばいい!という感情で頭の中は満たされる。 これが当然。

親は最後に、「自分が何をしたのかもう一度良く考えて見なさい!」 といって終わる。

反抗と怒りで満たされ、その場では受け入れ難い親の言葉だが、時間の経過と供に、叱った親に対するなんともいえない、甘ったるい、溶け込むような思いが心のそこから沸いて来て(本能)、そこで初めて親の言葉を素直に受け入れる状態が訪れ、

落ち着いた状態で自分の思いと対比させつつ 理解をする為の思考 が働きはじめる。

故に、それが自分の感情を少しだけ抑える訓練となり、しかしながら又同じ事をして叱られ、更にその次はもっと自分を良く抑えて親の言葉を聞けるようになる。

これを成長に合わせて複雑化しつつ幾度も繰り返していくことが、自分の感情を適切にコントロールして理解するという人間らしい心のトレーニングそのものであり、優れた人格へと成長していくように出来ている。

いうなれば、人らしいもっとも優れた思考は、正しく叱る(教育)という心のトレーニングが有ったからこそなせる業であり、これを叱らない、叱らなくていい等という方法にて回避し続けていれば、訓練をまったく施されないままに子供は成長し、やがて社会に出ると適応できなくなる。

問題は早い子で小学校高学年あたりから、たいていは不登校や引きこもりとなって出始めるのですが、 これは当然至極、当たり前のことだ。

 

次に、幼い子は自分が何しているのか分からないのだから、分かるようになるまで叱らずにいて、その時になった話して聞かせれば良いという事を言う人間もいます。

しかし、人は常に成長する生き物であり、過去の自分の上に新しい自分を創り上げていく生き物であることを理解していないからこんな事をいっているわけで、分かる頃になって話して聞かせようにも、蓄積された物を一気に塗り替える事なんぞ出来るはずもなく、親もそんな力等有るわけ無いのが普通。 そのために明日は、明日こそはと躊躇しているうちに手遅れになる。

 

この叱られた後にやってくる 甘ったるい溶け込むような親への思い は小学校高学年辺りまでしかなく、二次性徴期の到来(反抗期による独立)の到来と供に消えて無くなります。 

さて、日本は、子供を叱ることが他の国々より多すぎる?という言葉を聞く事があります。 ところが家庭内で子供がどう振る舞うべきかという点においてはさほど厳しい物では無く、むしろ甘い。

簡単な参考資料 http://www.u-gakugei.ac.jp/~tam/research/culture/culture02.html

ただ、家庭外における対人的、対社会的 な面での躾においては逆に厳しく、これは当たり前の事なのですが、個人の利益を優先するヨーロッパ等と異なり、社会構造が調和を重要視する日本ではどうしてもそうなるわけです。

それだけ日本社会が成熟し、他者を意識して思いやる面が特段に優れていることを意味しているわけで、それが日本社会のあらゆる面に出ている。

例えるなら災害発生時の日本人を見れば分るように、本来パニックになるような事態が起きても他者を気遣う安定性にそれは表れ、それは幼い頃より子供に与えられている 型 が他の国に比べて厳しい事から来ている。

これを型にはまった教育だとか言い出し、個性を殺すだの、社会の硬直化だとすり替えて壊してしまえばどうなるか? この国が持つ世界が賞賛を送る優れた社会面が崩壊してしまう。

 

 

すこし話を変えますが。

よくお母さん方が口にする言葉を意識して聞いてると、駄目、早くしなさい、ちゃんとしなさい という3つの言葉が入ってきます。

これそのものは、しつけという面で絶対に必要なものですから、当然の言葉としてあるべきもので、これを口にしかたらと特に問題の有るものではありません。

ただ、この二つに否定の言葉を組み合わせているお母さんがいます。

極端な例で言うなら、

「駄目ったらだめ!なんどいったら分るんだ、頭悪いな!」。

「早く出来ないのかね~このノロマは!」

から始まって、

「駄目!何度言ったら分るんだこのバカ!」 、

「早くしろよ!愚図!」

「ちゃんと出来るでしょう?ボケ!」

等々、末尾に何らかの否定語をつけて各種言葉の暴力のオンパレードを乱打している親がいます。

これでまともな子が育つはずはありません。

 

子を育てるのは忍耐そのものであり、同時に理解させる努力の積み重ねが必要。

子は幼き頃より巣立ちのまでの長い期間を通し、親の姿をみて忍耐の基礎を学び、自分に対してしてどう接してきてくれたかという姿をみて努力という言葉を現実的な姿としてとらえて学ぶ様に出来ています。

 

しかしながら、面倒だから? イライラするから? こうした親の利益中心の理由と、あげの果てに付け加えられる言葉の暴力では、上記の重要な3つの言葉が心の中で良い方向に働くいわれは微塵も無く、親が言いたい放題した部分だけを子供は学び、蓄積され、将来他人に向かってその言葉を平然と放つようになりますし、当然親に対しても返してきます。

面度だからやらない、イライラするから他人に当り散らすという、親が子に接してきた姿そのままにですね。

 

イライラは、その背景として ”テキパキ動ける子になってもらいたい” という思いがあるわけですが、それは時間の概念が社会行動と気って切り離せない大人の世界で確立されたものであり、時間という概念をこの先長い年月を通して学んでいく子供に今すぐ出来るはずなど無い。

幼き子供は、全てがまず自分中心で動いているものであり、自分を外部の時刻という概念に適応させられるようになるのは、長年の教育の結果でしかないからです。

もしイライラするなら、それは単に自分の利益の為にそうなっているのだと思うべきで、早くしなさいと冷静に促す事までは教育の範疇にあれども、それを越えればそこには親の利益しかない暴力なのだと、そう考えるべきです。

 

しかしながら、駄目・早く・ちゃんと という言葉は、やがては子供をきちんと型にはめて世の中に適応できる最低の常識と人間性をもつ子に育てるには欠かせない言葉ですから(無しでどうやって育てられるのでしょうか?)、上記のように親の利益としてではなく、子の利益の為に使用されるのなら大いに使うべきです。

 

さて、叱らなくていい子育て関連の本などをみていると、叱らないようにする具体例が挙げられ、この場合はこうしたらよい、どうしたらよいと書いているものがありますが、

他の部分はともかくとしてこの部分に関しては内容がたいていは異常です。

”それが人の心の成長に必要なものだからこそ叱る”という思考はそこに全くなく、いかに 供を旨くリモートコントロールするか?という、自分勝手(親の利益のため)な考えにもとづいての事しか書かれていません。

 

そして、その手法として悪用されているのが、子供の親に対する基本的愛情、「お母さんだいすき~」という、素直で無垢な美しい感情です。  

幼い頃は、こうしたリモートコントロールの裏に隠れている親の怠慢等は見抜けませんから、これでコントロールされて良い子?になって、「良かった 良かった チャンチャン」となる。

しかし、子供はバカでは有りませんから、親が自分の純粋な感情を逆手にとって、自分をコントロールするための手段として使っていることにやがては気付きます。

恐ろしいのは、その際にそれまで心の中に築かれてきた、親の愛情という尊い物が一気に崩壊することです。

 

引きこもりはその主たる要因に 人の心を異常に怖がるという特徴があります、叱らない子育て、叱らなくて良い子育てという教育法が世の中に蔓延し、その広がりとピッタリ同期しつつこうした子の数が爆発的に増えました。

僕が教育研究させてもらっている施設には、その結果、親を含め他人の全てに深い猜疑心を持ち、それが引きこもりの原因として入校してくる子がいます。

自分の純粋な気持ちを親につたえ、その答えとして 澄んだ心を親から返してもらえなかった悲劇の結末です。

 

幼児期には、叱らなくていい子育ては確かに旨く作用してくれます。

しかしながらそれを小学校、中学校と続けて、親の愛情=リモートコントロール として育ち、さらにはそれに加えて叱られる経験をもらえなかった心は他人の感情(心)を理解する力が無く、いったいそれで子供は幸せになれるのか?

答えは考える必要も無いほど簡単にわかるかと思います。

 

叱る事は優れた親子のコミュニケーションである、それが分からなければ、そうした子供が育つのは当たり前なのですね。

 

子供は親との心のつながりを常に求めます、それに適するのは共感ですが、そこには親との人間的共同作業がなければなりません。 

なんでもいいのですが、親と風呂に入る、工作をする、ゲームをするから始まり 親と海に行って一緒に泳ぐ、キャンプする、山登りをする、というレジャー的なものや、有る程度の強制を行使して日曜大工を手伝わせる、家事の手伝いをさせるまで。 いくらでも共同作業は存在し、そこで常に親の姿を見せねばなりません。

親が怪我したり足すりむいて痛がる姿、山の天辺で景色をみて感動する姿、日曜大工で作られた本棚が機能する感動、包丁を魔法のように使って料理をこなしていく姿。

そうした共同で何かをなしたことから来る共感以外の、単なる言葉がけは子供に何の意味も有りません。

楽しい、嬉しい、悲しい、困った、綺麗、おいしい、痛い、などのような喜怒哀楽の感情はただ言葉で言うことに意味は無く、親と一緒に何かをなさねば正しく理解する事は出来ないわけです。

幼少教育だ何だと、子供に英語を習わせ、単語覚えた子に向かって楽しいね、嬉しいねといったところで、共感などあるはずもなく、当然親を理解すること等一切無い分、心も成長しない。

これは単に親の利益の為のリモートコントロール方法を見せているだけで、これでは楽しいこと、嬉しいこととは、他者が評価するものなのだとして学びながら子供は育ってしまう。

 

代表的な間違い例をあげてみたいと思います。 この場合、子供の年令に応じて対処がことなるのですが、とくに反抗期に入る2歳から3歳頃までがややこしい訳で、叱らない子育てではどうやってするのかというなら。

 

子供に自分の気持ちを伝える言葉を使うとかで、

「そんなところに乗ったら危ないから、お母さん困るな~」 と子供の目を見て言う。

「落ちて怪我したらお母さん悲しいな」 とか、

子供を信じ、眼をみつめてじ~と待つ

 

そして子供が降りてきたら、「ちゃんと降りてきて○○ちゃんえらいな~と誉める。

分ってくれてえらいね~大好きだよ」 という。 抱きしめてあげると尚効果的。

何度も繰り返すようなら、 「○○ちゃんのことは好きだけど、そうやって困ることばっかりする○○ちゃんは好きじゃないな~。

お母さんの気持ちが分る○○ちゃんが好き。」

と相手をしっかり見て伝える。

こうして何度か繰り返せば必ず伝わるとのこと。

 

これ全て大間違いです。

理由は簡単、子供の行動を停止させて手元に引き寄せる(実際このためにこうするのですから)根拠が、子供の為にあるのではなく、

すべて親の為(利益)になってしまっているから。  怪我したら面倒というのがその最大の根拠だからです。

 

これで全く言うこと聞かなかったらどうするのか? 母親以外の他人ならどうするべきなのか? こうした基本的疑問すら現実的に解決できませんし、

 

それどころか お母さんが お母さんが お母さんがとすり込まれ、上手く育てば立派なマザコン息子養育という、

将来”不幸”な家庭を築くためのオマケまで付いてきます。

 

高いところに乗って不利益を受ける可能性があるのは誰なのか? それは子ども自身です。

一見よさげに見えるこのやり方は、幼児期における子の持つ純真な心を逆手に取る方法で、本来子が知らねばならない危険性を

親が面倒だからとすりかえてごまかしているだけに過ぎず、これでは一番重要な考える能力は一切育ちません。

故に小学生になるころになっても以前危険性が理解出来ず、それゆえ親の知らないところでさらに危険な行為をして死に至ることも有る。

 

思春期に問題を起こす子の親達から話を聞くと、共通した子供の姿があります、「小さい頃から親の言うことを聞くよい子だった」と言います。

子供が よい子になる理由は二つ、親の愛情を欲してよい子になる(演じる)場合と、このようにリモートコントロールされていた子です。

それ以外のきちんとした愛情を受けて育っている子は 良い子と悪い子が常に混同しています。 

 

親が教えねばならないのは、何故危険なのか?であり、2歳から3歳くらいだと、高いところに乗れるといっても、せいぜい机かベットの上、大抵は何度もやりますから、実際に痛い思いをすれば自発的に”注意”するようになります。 

なぜ注意なのかは、対象物を見てやるかやらないかは子供の判断ですから。

乗っているのを見つけたら「何やっている?」と聞きます、そこに理由が有ればまずそれを聞く、なぜならその乗っている場所の上に目的物があることが多々ある。

こうした場合は取ってあげれば自分で勝手に降りてきます。

 

それで終わる時もありますが、そんなに都合良く行くはず無いのも子供。

反抗期はまず親の言うことに抵抗しますが、これは自発性の目覚めで、この時期は体も軽く、危険性もさほど無い状況下でのチャレンジですから、上まで乗ることがその目的なら 最後までやりとおす事が目的完遂の充実感の基礎になり、途中で落ちて痛い目にあうのも、結果というものを認識する重要な経験です。

 

この場合、親としては 痛い思いをしたら可哀想だから?と言うことを聞かせるのが目的なのか? 子供が本能的に自分の力を測って学ぶ(経験)が大切なのか? と大きく分かれるわけですが、幼い頃に得られた経験は、後の進歩の原動力になります。

成功すれば充実感をともなって生きる本能を刺激しますが、その経験が無かった子は、本能が正しい方向で働かず、充実感の概念が希薄で、後に何をやっても中途半端になる。

人の心の基礎というのは、極めて単純明快な行動と、かつ身体的な感覚の積み重ねが可能な幼い頃の経験を元に出来上がるわけですから。

 

話を戻します、親は登っている子に「落ちたら痛い思いをするよ!」と子供に言います。 

降りなさいと言っても「嫌だ」とたいていの子はまず言います、そこで「お母さんの言うこと聞かないと痛い目に合うから言っているの」という、やはり子供は言うこと聞きません。

そこで、「痛い思いしても泣くんじゃないのよ」、とそれで終わりです。 

後は余計なことをいう必要は無い。

ただその場を離れる事は禁物。

もしどうしても付き合っている時間がない場合は、黙って引きずり降ろし、子供がそれに腹立てて地団駄踏み始めたら放って置けばよし、

 

高いところに乗って現実に子供が落ちるか?というなら、余りそうしたことは無く、現実に机程度の高さなら頭にでかいコブ作ってしばらく泣けば終わります。

これを繰り返すことで親の言葉が持つ意味を理解していきますので、こぶの上からヨシヨシと優しく撫で、注意は聞くものだと諭し、黙って抱っこしてあげればそれでよいわけです。

子供が痛い思いをしてそのうえ重ねて叱る必要などありませんが、こうしたやり方を聞くと「なんてひどい!」 と思われる方も多々いるでしょう。

低いところでも落ちれば何らかの痛い思いを子供は経験します。

 

不思議なことに、子供というのは自分の成長を確かめる方法としてあえて危険なことをやるようにできています。

自分の持つ能力を時々そうやって試し、達成感をエネルギーとして本能が常に測っていることから起きる行動で、これを辞めさせることは容易なことではなく、

さらに、 唯一、危険性が自分にもたらすのは痛みなのだという事は実体験でしか得ることが出来ません。

子供のころに経験した痛みの蓄積が、将来の大きな危険性から身を守る能力になるわけで、その為には小さな経験をたくさん積ませることが大切なのです。

 

ただ、この場合に気を付けねばならないのは、落ちた子供が泣き出した時に「落ちた理由を自分以外に向けることがあります、人のせいにする事ですね。 ヘタするとお母さんが悪い等と口にし始めることがあり、

この場合は頭ごなしにガツンと叱らねばならない。

子供は予め親から先を見越して注意を受けています、しかしながら痛い思いをした子は自分の非を認めません、失敗の原因を自分からそらし、他者のせいにするのが楽だからです。

最もあってはならない、人として許されない行為ですから、この場合は容赦なく叱らねばならない。

時折、「お母さんがわるかったね~」と、失敗の理由を親が悪いのだとなびかせている姿をみますが、将来子供に殴られる理由を

子供に刻み込んでいる・・・

 

子供の持つ達成感と本能を大切にしながら自己責任の概念、失敗を他人のせいにしない人間性を少しずつ育てていくわけですが、子供は色々な経験をすることで成長します。

大事なのは失敗を成功のヒントにする事が出来る力で、それは自分を振り返って反省し、次の成功へ生かしていける力にある。

その為には人のせいではなく、目の前にある現実を自分の物としてとらえる事が出来る様に親が導かねばならない訳です。

 

このように同じ事を通しても、二つの方法には大きな差が有るはずです、どちらが良いのかは結局親が選択する物ですが、大学卒業して現在親方日の丸の下で公務についている息子も、世界でセイルに風を受けた娘も同じ方法にて育ちました。

もっとも、全く同じ様に育てても、息子のほうは一度は不良行動しておりましたが(笑)

 

人間性は叱らない教育(リモートコントロール)によってなしえる物ではなく、叱るという親子のコミュニケーションを通じて嘘偽りなき親の心を知り、子供自らの力で進歩させていくようにしなければならないものなのです。

 

 

 

 

 

 


叱らない子育て って これ虐待じゃないの? 

2011年08月20日 | 研究-教育・育児

 

世の中には、叱るということに関して、とんでもない勘違いしてる人間が多くいます。

叱るは叱るであって暴力でははない、なぜなら過ちを正すことがその目的だからです。

しかしながら暴力は破壊であり虐待。   

ところが結構これが分らない人間が多く、困るのは家庭裁判所の相談員初め、こうした子供の問題で相談する看板を掲げている者達が全く分っていないというのも事実です。

たとえるなら、

問題を起こす子や手のかかる子がいると、その親の子に対する接し方のパターンがいくつかに分類されると彼らは言うのですが、

大まかに次の4種類に別かれるらしいです。

1、放任

2、服従

3、支配

4、虐待

さて、さてこの中で叱るに関し、このどれかに類するか? 関する物が有るだろうか?というなら支配に該当するらしく、その理由は支配を暴力的なものと見ているからですね。

*教育評論家等の専門家という言う人たちは、ほぼ間違いなく叱るを暴力一部としています。

 

しかしながら、支配を本能という点から考えるなら正なのですが、これは後で詳しく書きます。

 

ちなみに、一番分りやすい4の虐待における 叱る は、あくまでも暴力を遂行する為の名目として使われているだけに過ぎず、そこに正す意味などほんの少しも存在しませんし、単なる親の精神的未熟もしくは異常から来る暴力行為でしかありません。

とうぜん躾(しつけ)になんら関係する事もなく、躾名目の虐待に至っては、もってのほかです。

 

それ以外の3つに関しては、本能を大切にし、日本の古来からある武士道初め徳と礼を重んじる育て方からするなら、けして過ちばかりではないのですが(ただし放任と服従は極端に扱いが難しく、説明には膨大な分量が必要で、そのため放任と服従はここでは肯定しておりません)、西洋式精神論という、人の持つ本能を極端に軽視した現在の精神医学初め心理学の考えからすると全て過ちとなってしまうのが残念です。

 

1、放任について

まず、本能を軽視した現代精神学では、放任はあくまで放任でしかなく、このような状態に子供を置くと心が不安定になり、イライラして暴力を振るったりということになるとのことですが、

しかしながら、これをどの基準をもって問題があるかと考えるなら、子供がいるはずなのに居ないかのように扱われる家庭環境であるところにあり、およそ人が人を育てるという状態すらが存在しないことから、これは単純に暴力であり、虐待。

子に接しない、話もしないから初まり、食事、洗濯、睡眠等々、ありとあらゆることが親により遮断され、拒絶されている状態で、こうした家庭の子は、人の持つ正常な愛情というごく基礎的心の発育に影響をあたえ、基本的人間性に問題を抱えることが多い。

思春期になると無気力もしくは非行行動に似た行動を取ることが多いが、こうした育てられ方をした子は、精神の健全性がきちんと確立してる事を前提にして周囲が関わる事は出来ず、無気力や非行として考えることそのものも間違っています。

こうした子に叱るという行為は全くなじまず、叱られるということそのものが親の愛情を背景にしているという事を、理解する心そのものが育っていない為に、叱ることそのものが許されません。

全て暴力という解釈しか出来ない子に育つのですから。

 

2、服従について

我が子可愛さの為に、もしくは”どう接してよいか?”が分らず、なんでも言うとおりになる。

一見傍から見ると、豊富に愛情を注いでいる様に見えなくもないのですが、実情は子のペット化でしかなく、その背景には親が喜怒哀楽という人の感情と、これに絡む本能という心の基本構造を経験的に理解していない場合が多い。

当然、親そのものが苦悩と格闘して乗り越えられる精神的強さを持つ人間では無い事が多く、子が思春期になる年令に達する前に他の要因(金銭的生活苦等)、もしくは子の二次反抗期に耐えられずに伴侶へ矛先をむける等して家庭不和へと発展し離婚。

さらにその後の生活苦に心を病んで通院することになる、定型パターンが当たり前の様に発生します。

叱るという行為が必要不可欠なものであるのに、それを正しく考える認識や理解はほぼ無く、暴力と完全に混同している事から、叱ることに恐怖を覚え、叱ったとしても心が常に揺れ動き混乱していることから、結局子供になんら伝える事が出来ません。

当然、親としての叱るが ”暴力” として子に伝わる率が非常に高いので、その中身は実質的虐待。

心の弱さが背景にあるために、子の成長(特に小学校3年生より上)にともない返ってくる、思いもしない言葉や態度に逆上しやすく、一度切れ始めると叱るという名目で虐待を行う事も多く、しかもそれが虐待なのだと分らないタイプ。

常に逃げが親の心理的背景にあるため、ほめて育てる、叱らない子育て等の、労せず楽に実行可能な言葉に弱く、ペット化の自己弁解及び自己擁護のために受け入れている(さらなるペット化)事が本当に多い。

最終的に子供が思春期へ到達すると、親の弱さと不安定さをそのまま引きついでいるために極端な非行や引きこもりになりやすく、子も精神的不安定ゆえに暴力で発散する傾向が有り、親がペット化して育てた子供に、逆にペット化(奴隷化)されるという事になりやすい。

 

3、支配について

これがもっとも叱ることによく関係していると思われている育て方の典型ですが、なぜか同時に叩く(手を上げる)、怒鳴る(脅す)、暴言を吐く(威はく)を全て悪としてきっちり関連付けてしまっている人が結構多いのが困ったところです。

叩くと 怒鳴るは 叱る上で必要な時もあり正、しかし暴言は単なる言葉の暴力で虐待、これを全てごちゃ混ぜにして叱るという解釈をしているのですからあきれて物が言えない。

こんな風になってしまうのは、基本的に教育は支配であることを理解せず、本来有るべき自然な姿を無理やりねじまげて自由だ個性だ、開放だとやるからなのですが、

西洋式心理学を中心として教育を考えるとこうしたおかしなねじ曲げられ型をすることになる・・・・ 困った物です。

まず支配は叱ると同様、二種類あります。

一つは親の利益のための支配でこれは虐待、もう一つは子のための支配で、これは叱ると同様に健全な子供の成長のためにあるもの。

此処では健全な子供の成長のための支配に関してしか書きません、親のための支配は虐待でしかないからですが、糞味噌一緒で同じに考えて書くほど愚かでみっともないことは有りませんので。

 

本能を中心とした日本古来からの考え方に立つと、叱る事(親)と叱られる事(子)は互いに”礼”でありイクオール、叱るも、叱られるも供に人(心の)としての修練であり修行。

礼(相手を正しく評価するというのがこの言葉の本当の意味)から 親も成長し、子も成長し、そうして人の心が豊かになっていくからです。

 

”生物”は生まれ出た瞬間から親の支配をうけるのは当然のことで、成長につれ、必要性に応じて親が開放して独立させていくのも当然のこと。

およそ生物という名の付く生き物はその生態が高度化するほど子を支配する時間も長く、それによって親(社会)から授かる生きる力(学習)の量もふんだんとなり、故に親からの独立(解放)後はその能力を十分に生かして生きていくことができる。

支配が無いということは、卵を産んでそのままにしておく原始的爬虫類等、下等な生物世界のものでしかなく、一定の支配が出来る生き物ほど高度化出来たわけです。

 

支配は本来、保護と成長、教育の為のものであり、保護が無い、成長がない、教育が無い状態は完全なる虐待であり、その支配の中でもっとも強い支配状態が叱るということ。 故に正しさがそこに無ければ暴力でしかない。

人間ほど進んだ思考のできない生物は、叱る事に邪心を混在させられる程の能力も同時にありませんから、叱る事は全て正となるのですが、欲を初めとする怠惰を持つ人という生き物はどうしても正しさをうしないやすく、それゆえ叱ると暴力が混合した状態になりやすい。

頭の良い人間であると、すぐに分かってもらえるのですが、叩く、怒鳴るは、それを実行している親の為の利益追求が目的であるなら虐待ということです。 

ですから、本来の”子供の為に叱る”とはべつのものであり、これを混合して考えること事態が本来は間違いなのですね。

 

人は生まれながらに社会から自分を切り離して生きていくことは出来ません、生きて行くには生まれてきた子供を、社会に適応できる人間という最低の型にはまる様に育てねばなりません。

学校、会社、親子関係、友達関係、上司、部下、先生等々、およそ人がそこにあれば常識はじめとした社会の基本的ルールがあり、 それが型そのものであり、叱るは、我が子をその型に適応させる為にある。

問題は、型は型であり、窮屈にして動きがとれず、それにはめられるように育った子が、自分の力でそれに疑問を持ち、型を破るための正しい行動をとることで、あちらこちらにほころびが生じ、

そのほころびから時代の変化にあわせた新たな常識が出来ていく。

しかしながらさらにその次の世代にはその型はすでに通用せず、又新たに変化していく。

 

型にはめる親とそれを破る子の繰り返し、実はそれが発展であり、進歩なのですね。

問題はその型の破り方、自分かってにやりたい放題すれば単なる犯罪、自分の考えを相手に伝え、説得し、そうして現在有る型と融合させながら変化させていくのが正攻法。

これを生み出す基になるのが正しく叱られた経験です。

 

その為には、人の心をよく知らねばならず、特に最も難しいのが人の怒りであり、この怒りを理解している度合いが高いほど、その子は世に出て苦しむ事無く生きていける。

怒りの種類はたった二つ、正しい怒りと、間違いのある怒り。

正しい怒りは、人を進歩させることの出来るもの、間違いのある怒りは、単に暴力として破壊しかもたらさないもの。

叱るの”源”は怒りにあり、正しき怒りは正しい叱りを生み出す。

当然それによって育てられる子は、ただしく叱られる経験が有るからこそ(間違った叱られ経験も時には必要)正しい怒りを理解させるわけで、 あやまった叱りの経験ばかりを積まされると間違いのある怒りをその子自体が生みだしてしまう人間になる。

最も恐ろしいのが、叱られる経験が無い、もしくは乏しい事で、 これは人の持つ怒りの種類、すなわち正しいのか、間違いなのかという怒りの分別が出来ない人間にほぼ100成長する。   

当然正しい怒りを分別できる能力が無く育っていますから、全て自分へ向けた攻撃としてしてしか捕らえることが出来ないため、これが得たいの知れない恐怖を心に引き起こして引きこもりを生み、もしくは心を病ませる。

正しい怒りというものが理解できない人間は、怒り全てを自分への攻撃としてしかとらえられず、逆ギレし、逆恨みし、ともすると殺意まで抱く。

 

人は怒りに恐怖を覚えるように出来ており、出来れば触れたくない、引き起こしたくはない。 しかしながら生きていれば自分の思いや願いとは裏腹に現実は必ずやってきて、その際にそれを受け止めねばなりません。

正しい怒りなのか、間違いのある怒りなのかを判断させるには、それを受け止めて耐える忍耐力、逃げ出しそうになる心を抑えて正しい判断をさせる勇気、そしてその怒りの種類をきちんと把握して理解と判断を行い、

自分が取るべき行動を判断しながら冷静さを保てる能力が必要。

正しく叱られてきた子はそれが出来る様になります。

なにより、正しき怒りを自分の成長の糧にし、間違いのある怒りを暴力とだけとらえる事をせず、間違えの手本として自分の学習課題にする進歩能力にもなる。

 

これが無い子は間違いなく不幸になります、しかしながらこの能力はけして本で学ぶことは出来ず、大人になっては当然手遅れ。

唯一、幼き頃より親から正しく叱られてきた積み重ねのみがなせる技で、心の訓練により成り立つ物なのですね。

 

故に 叱らない子育て 等という、人の持つ一番難しい感情を処理する心の訓練が行われないで育った子が不幸になるのは、当たり前の事なのですね。

 

叱るは正、叱らない子育てはその場こそ親は楽が出来ても、その分の苦しみを将来子供が何倍にも膨らませて背負うことになる。

親が叱る事から逃げれば、子は一番大切な教育を受けずに育ってしまう。

叱ると言うことは、とても大切なことなのですね。

 

 

 

 

 


お疲れ様

2011年08月02日 | 研究-教育・育児

22時45分、関西国際空港を経由し、羽田に娘が帰ってきました。

お疲れ様でした。

 

 

 

船の形状を見てもらえれば解るのですが、ヨーロッパでは、娘が一緒に戦った子達は最終的にRS や 29er、 49er(次の動画に有る)へ移行していきます。

オリンピック艇が現在の(日本に有利な?)ものから、このような設計の高速ヨットへと、近いうちに全て変わるからです。

向こうには、そうした艇にのる新たな選手を育てる土壌と豊富なスポンサーがいくらでも有る。 なにより半分国策でやっているようなものですから、 うらやましい限りです・・・ 

まったく違った方向(時代遅れ?)のヨットで十分な成果を挙げている日本ヨット会では、このヨットへの興味は全く無く、そちらに進ませる訓練を積ませてくれるところも有りませんし、あえて困難な方向へ進もうとする子もいません。

女子に至っては新しい流れへに乗ろうとする子は、ほぼ皆無(笑) 

当然のことですが海に囲まれているのに、マリンスポーツへの理解が全く無いこの国では、一緒に乗ってくれるクルーは無く、スポンサリングしてくれるところも無く、どうにもやりようが無い、でも、これが現実なのですね。 

49er WORLDS 2009 - Final Day


ワールドカップ ファイナル

2011年08月01日 | 研究-教育・育児

娘の青春の1ページ、4日間にわたって連日繰り広げられた世界選手権レース、終了の連絡が入りました。

 

トップを争ってテクニカルマークでデッドヒートを展開する娘(一番左)

 

結果  ISAF(世界セーリング連盟)、 オープンビック級  

オープンデビジョン 世界第5位(男女混走の順位) 同クラス女子のカウントで世界第2位 ということでした。

*オープンビック級 ウインドサーフィン技術とヨット技術が合流する、小型のエクストリーム・ハイスピードヨット 

 

他 日本代表チームの結果  皆最高の子達です!  

 U12クラス  花田君 第3位      

 U15クラス  木内君 第2位     

          豊島君 第9位  

 

 

約140艇    参加国 イタリア、フランス、ドイツ、他ヨーロッパ全土、アメリカ、ブラジル等 十数カ国 

世界中のヨット会の、威信をかけたレース。

日本からこのレースに参加した女子は、家の子が初めてでした。

みんなOPという小型ヨットで、早い子だと3歳頃から始めて来た選手達、娘はたった二年で運良くここまで

来れた訳ですが、よく頑張ってくれました!

今後、ヨットに関してはファンライドにして、再びウインドサーフィンをメインに戻すようですが、

どうなるのでしょうね? 

 

約140艇が競う大会風景 の一枚です。

 

この曲を娘に贈ります。

Queen - I was born to love you lyrics

 


ワールドカップ 現在 世界第4位

2011年07月30日 | 研究-教育・育児

ヨーロッパで行われているワールドカップ(スポンサード By スイス国オリンピック協会他)に参戦中の我が娘。

現段階で世界第4位、という報告が送られて来ました。

まだ、第1戦(3レース)の成績、多分4戦まで行われますから、どこまでやれるかは分かりません。

世界という処がそんなに甘い訳は有りませんので・・・

ただ、一時なりでも此処まで登れた事は予想外でした。

親という物は非常にバカで、どんどんと欲が出てきて子供に手の届かない無理を願いがちです。

でも、結果うんうんではない、世界中のトップ選手とスポーツを通じて心を通わす。

正しい競争こそが、人間性を育てる事こそが、一番大切だと思っています。

事故なく、怪我無く、元気で、そして両腕に思い出一杯抱えながら帰って来てもらいたい。

 

送られてきた写真、 ライフジャケット着ているのでデブに見えるな~ (笑) 


星に願いを。    今朝、世界へ

2011年07月25日 | 研究-教育・育児

 

この曲を娘へ贈ります。

 

 

今朝早く、羽田から国際空港を経由し、ヨーロッパへ向けて旅立ちました。

日本チームの中の、唯一の女子、たった一人。

世界(ワールドカップ)でどこまで世界に通用するだろうか・・・・

 

小学校一年生のときに通学班の皆にいじめられ、毎朝泣きながら通学する娘の姿、

そしてその話を聞くたびに歯を食いしばっていた僕。

親の介入は簡単、しかしそれでは子供を駄目にしてしまう。

そう考えている僕と家内は一切助けることをしませんでした。

本来、いじめは人の成長の為にあるからです。

 

「悔しければ優れた人間へ成長し、誰も到達できないところまで行って見返してやれ!」、

頭をグシャグシャ撫でながらいつもそう娘に言っていた、どんな時も笑顔で接し、でも心で泣いていたことを思い出します。

 

結果の良し悪し等どうでもよい、事故や怪我の無く帰ってきてもらいたい。

よき思い出を我が娘に、それだけが僕と家内の願いなのです。

 


久しぶりにドカン!

2011年06月22日 | 研究-教育・育児

僕が生まれた時のこと-It was when I was born-安達充

 

久しぶりにドカンと娘を一喝!

そういえば、最後に叱ったのは何時の事だっけ・・・・・・

 

中学までは別として、高校生になると殆ど叱られるような事をしなくなるし、親へ迷惑をかけたり心配させたりというのが無くなる。

それが我が子の特徴なのか?  うん? 普通そういった物なのか? 正直なところ分からない。  上の子もそうだし、下の娘もほとんど同じである。

 

ただ、不思議なのは、「なんで?」と、あたかも叱られる原因を意図的に作っているのではないか? と思うような出来事だけは存在する。

これは上の子も同じだったので、非常におもしろい。

 

いや面白いなんて言っては良くないのだけれど、実際問題そうした行動を子供は取ることがある。

 

人の成長過程においての、不思議な心理的補完機能という点では当然知っている理論であれども、現実のものとして前の前に起きると

その不思議な一面が、益々持って不思議に感じてしまう。

 

ドカンとやったのは、娘が幼い頃より担当しているトイレ掃除の事。

これをこの処サボったことから、仕方なく一撃お見舞いしたわけだけど、僕の場合(皆そうだと思いますが)は何かしら叱るべき原因があってもすぐに叱ることは無くて、

まずは何度も言葉で諭す、説明する、意味を伝える、というように、人間という高度頭脳を持つ生物に適した方法で意志を伝達しているし、行動を促している。

 

幼い頃は型にはめて育てなければなりませんから、当然の事として強制していましたし、年齢的に未熟ですから、それへの反発やら、トイレが汚いだのという意識があるのは当然。

故に直接的に、時として体罰を行使しながら責任という視点で掃除をやらせてきた。

中学へ入ると、意味をしっかり理解出来るようになりますから、汚いという概念は消失し、じぶんから進んでやるようになっていた。

そうした面では何ら問題はなかったわけです。

 

ところが? ここに来て突然、何らかの理由をつけてサボろうとする努力をするようになった。  いまさらながら?

「何らかの落ち度でもあったろうか?」とまずは親としてのあり方はじめ問題点を自分で探して考えるも、はたと見あたらない。

 

ところがだ、このサボりらしき物が始まったのが、夏の世界大会への参加が正式に決まった頃からだというのに気がついた。

 

はは~と理由らしきものがおぼろげながらに解ってきて納得したわけだが、人というのは親の愛情を得るに二つの方法がある。

一つは、普段から注がれる何の変哲もない愛情で、99%がこれと言ってよく、それを受け取りながら成長する。

 

もう一つは叱られることを通じて得る愛情で、これはたった1%でありながら、それによって受け取る愛情はその子の人生を左右することもあるほど大きな影響をもたらす。

言うなれば、普段あり得ない形を通じて、自分への厳しさを成長させる為の原動力、助力として受け取るものだ。

叱るということは、親としてその内容に間違えがあってはならない。

激しい感情をぶつけるが故、その起点となるべき中心ぶれがあってはならないということだ、

 

故に「それが人として間違えていると思うからこそ叱る」、それゆえ子は正しく受け取るし、その場ではいくらひねくれようが、時間が必ずそれを理解させるように出来ている。

叱ると事は基本的に上の物が下の物にたいして施すもので、ダイレクトな感情を交えた行動であるからこそ親子という信頼が織りなす関係を基礎として成り立ち。

その受け取りを繰り替えしながら、人(他人)の感情の有りかたを正しく受け取り、理解できる人間へと成長していく。

幼い頃より正しくい叱られることは、一番難しい心の処理をする訓練をしているのと同じ事なのです。

 

故に、そこへ親の利益という側面での不埒な思いや、訳の分からない思い込みをこれっぽっちも混ぜてはいけない。

(例 自慢できる子、人より優れた子、勉強が出来る子、特別な能力を持つ子にするのだ等々、我が子の人間性を育てる為ではなく、親の見栄と自慢の種(自己利益目的)にするためという目的を持って叱る事) 

 

大人になるという事は、人の持つ激しい感情を冷静に正しく分析し、自分の成長に生かせるということそのもの。

自分へ向けられた激しい感情表現は、その処理の難しさ故に正しい処理の訓練が必要で、それは思春期が来てからでは時すでに遅く。

幼い頃より正しく叱られてくるという訓練の積み重ねによって初めて得ることができる。

きちんと処理できる人間は、 例え相手が自分より下の者であったとて、お叱りを受けているという正しい方向へ変換して思いを受け止める事が出来、それが容易に出来る能力を持つ物は多くの人に信頼され、愛されることになる。

 

叱らない教育、ほめて育てる教育が、なぜに恐怖の教育なのかというなら、これらの教育法は怒る、叱るという人の激し感情を教育から一切排斥するところにあり、それは冒頭に書いた99%の愛情をさらに拡充させた物でしかなく、1%の心の訓練を否定しているところにある。

当たり前の事ですが、親から叱られることを経験してこなかった子は、自分へ向けられた人の感情を処理できる力がありません(訓練してきていない)から、そうした場面に遭遇すると自分を肯定することですぐ手一杯になる。 ましてや相手が他人ならなおいっそう難しくなる。

簡単に言うと、”自分は正しく、うまくいかないのは全て人のせい”という逃げの姿勢だけを取り始める。     

更には、ほめて育てられているが故に 自分は偉いんだという根拠無き万能感を後ろ盾にしているから、最悪である。

冷静に感情を分析して処理等、当然に出来はしないために、すぐに切れる、暴れる、暴力的になるのだけれど、

それでもまだ自分の思いを素直に表へ出来る子はともかく、そうでない子は引きこもりや不登校、ニートなどに落ちていき。

仕事をなさず、生産活動もせず、それが”働いたら負けだ”という彼らの身勝手な論理に結びついているのは、全て自分以外の人間が持つ感情への畏怖と恐れを処理できない欠陥(親が作り出した)が心の背景にある。

 

まあ、叱らない教育、ほめて育てることがどれだけ子供達に不幸な未来をもたらすかなどを此処で書いてみたところで、華々しい経歴と肩書きを看板にした教育評論家が口にする先進的教育法?たる叱らない、ほめるという言葉の前では、

あっという間にかき消されて無くなってしまうものである。

でも、このブログを読んでくれた方の心の中に少しでも残ればと思って、素人研究家ながら書いている。

 

さて、話は元に戻るが、サボりの原因らしき物が解ってくれば、こちらも容赦しない、というか、明らかにそれが原因かなど明確に分かるものではないが、間違いなくあるのは さぼったという揺るぎない事実。

故に親としてやらねばならない事はただひとつ、ガツンと正しく叱ることだ。

 

と、朝から思いっきり叱られた娘、ぷうっと頬をふくらませたような、ふてくされた態度を取りながら、こちらの眼を見ることもせず、僕はこれにほぼ5分程度の時間を割いた。

 

後は娘がそれをどう処理するかの問題であり、ふてくされてやらず、明後日の方向をみているなら、僕の育て方に問題があったということ。

当然、再度 雷を落とすし、逆にきちんと処理できるなら何にも言わない。

はて? いかがなものか?と、その後の行動をみていたが、程なくして掃除をやり始めた、一階と二階をやり終え、後は何事も無かったように普通にしている。

その後、家族間におかしな空気もなく、午後にはいつもと同じ家庭の状態へ完全に戻っていた。

ついでにこのところ何となくよそよそしかった態度まですっかり消失した。 

子供は今自分がいる足場より一段高いところに登ろうとするときに、不安を覚える、幼いき頃なら素直に駆け寄って親へ助けを求めることも出来るだろうが、高校生にもなればそんな事は出来ない。

約一月後に自分が戦うべき相手は世界中から集まった選手達だ。

規模が違うし、まったくこれまでのレースとはスケールが違う、未知の世界でもあろうし、自分の力がまったく及ばなかったらという

形の無い不安もあるだろう。

 

自分では意識などしていないように思えても、心の底では不安を覚える物だし、何かの支えをもとめることもある。

先も書いたが、幼子なら抱っこを求めて満たされるそれも、思春期ではかなわず、又それが成長というもので仕方ない。

ではどうしてそれを得るのかというなら、親が常に自分のそばにいてくれることを確認することでなしえる。

あえてやっていたことを、やらないという、サボり行動はかならず親の叱る行為を引き出す事を知っている。 

殆ど100%の確信犯でもあり、それは叱られることが愛情を基本としていることを経験的に知っているからこそのものであるが、

 

親が叱る行為が、その裏に立脚する純粋無垢な揺るぎない愛情をもとにしており、それが常に自分を支え、守っていてくれるのだと。

こうした行為を通して受け取り、確認して安心できること、これが人という生き物の持つ不思議な行動であり、心理でもある。

 

 

 

 

 


必要な言葉

2011年06月17日 | 研究-教育・育児

職場環境の変化で多少忙しくなったカミサン、しばらくは夕飯作りに余裕を持てない状況。

これを見ていた僕、「こりゃ~いかんな~・・・・」  と思っていたわけですが、

こうしたときに信頼している息子夫婦へ相談を持ちかけるのは当然で、久しぶりに一家の役割分担へ変更をかける事にしました。

 

「あいよ!」っというべきか?、「待ってました」というべきか? 快く応じてくれた息子夫婦、

嫁さんには、食材の買い出し(重い物以外)と食事作り、特に夕飯の分担をこれまでより多く担って貰いました。 

 

よって現在は木曜と土、日の3日間を家内が作り、それ以外は息子の嫁さんが主力となっています。

家内はこれまでの負担から解放されて休めるし、僕含めて3人はこれまでとは違う味(夕飯)もたべられるわけでして、

しかもこの嫁さん、料理が上手で、つくる物全てが美味しい。

 

家内は娘から「ママのよりおいしくない?!」なんて結構ハッキリ言われて、「なによ~」なんて言い返しておりますが、まあ、いたって平和な光景です。 

 

嫁と姑、小姑との問題って本当に有るのだろうか?と家の女3人を見て思うのですが、

嫁さんが台所へ入っていると、家内か娘のどちらかが(いれば)必ず「手伝おうか?」といってますし、それで一緒にキッチン作業したり、かとおもえば「大丈夫です」という嫁さんの言葉で気を悪くすることもなく、テレビを見始めたり、そのまま側で駄弁りながら笑っていたり。

 

まあ、家庭が安定しているのは良いことですが、こうした事は、どちらかというと嫁さんの頭の能力で70%決まる。

控えめで有るのは当然として、頭が良ければ問題は起きず、自己主張が強く人の心が読めないバカであれば、始終いざこざが起きるというのが現実。 

 

人というのは、特に日本人は良好な人間関係を成立させる基本的条件として 控える事 を好み、

なぜならこうした姿勢を貫いていると、相手の方から気を遣って「これはどうだ?」と自己主張を求めてところに利点があり、事を荒立てず

に融和するに適している。

そうした関係から少しずつ自分の思いや希望などを述べることで、溶け込みながら思いを通じさせることが出来るわけですが、

難しいのはその際の主張量と希望や意志の方向で、微妙であるが故にいざこざの発端部分が隠れているわけでもあるのですが、

ただし、こうした物は男女関係なく、誰にも大なり小なり有って、完全に消し去れるものではないですから、いくら頭が良くとも100%になり得ませんし、結局何らかの引き金になる。 

 

そうした問題を解決する「有効的解決方法などあるのだろうか?」ということになるのですが、それは人により様々であるとしても、家の場合は「ありがとう!」、という至極単純な一言で解決している。

そしてそれを完全にするための補完方法として「ごめん」を重要視している。 

物事は出来る限り単純でなければならず、単純であることはカバーできる範囲が最大限に広いからだ。 

 

Thank you! ありがとう! どちらでも良いのだが、僕はこれを家で多用しており、

これはふたりの子供が小さいときから常用してきた言葉ですが、僕が子育てしていた時に流行っていた”友達親子”等というくだらない関係が存在したが、それを完全否定し、きっちりと上下関係、親子の立場を確立させて育ててきた中においてもよく使ってました。

平等概念を廃した(本来親子とはそうしたものだ)関係というのは、一時的に何かをきっかけとして立場がひっくりかえる事が多いわけですが、それは親とて間違えはするし、子に迷惑をかけることも有るわけで、

ただし、それが人間として当たり前であるなら、親だろうが何だろうが当然の物としてこの言葉を使う。

同時に「ごめんね」、「ごめん」も存在し、これは本来捨てきれない強弱の関係を中和し、心のあり方を隠さずに見せることが、子供の人間性を育て、学ばせる最高の方法だからだ。 

 

あたりまえの事を、それが本当に当たり前なのか? 当然の事、それが本当に当然なのか?という、その原点に視点を移して考えるならば、こうした言葉が自然に出てくる物だと思うのだけど、これは単に僕のおごりだろうか・・・・?

 

*そうであっても、思春期には曲がることも有るし、ただし必ず元に戻って来て正しい道を歩み始めるのも事実で、僕はこれを経験しています。

 

ただ、上記の難しいところは、こうした言葉に親の思いを、しかも親の目的や愛情をすりこむ目的を持って成されてはならないところにあり。

たとえるなら、子供が思春期に問題行動を起こし始めたときにカウンセラー等がよく勧める、「生まれてきてくれてありがとう」と子供に言うとか、「あなたが居てくれるだけでありがとう」と伝えるとか。

こうした物は、それを言われた子供に不快を与えて不信感を増長させるだけ、というおかしな効果は抜群だが、親の素直な思いを伝える事は、残念ながら一切出来ない。

 

理由は簡単で、本来有るべき素直な心の果実としての「ありがとう」ではなく、どんな理由や目的が有るにせよ、そこに伝える側の下心(ましてやすがる心など御法度)が有るわけで、そうである以上は、「ありがとうで」は「ありがとう」でなく、単に「こうしなさいよ!」という強制(親の欲、目的、我儘、あまえ)もしくは命令をはらんでいることが簡単に分かってしまうからです。

子供はそこまでバカではない。   

 

似たような物に、ほめて育てるがある。

我が家では子供を褒めることが殆ど無い、有ったとしても、親である自分の予想を遙かに上回る自発的行動や思考を見せたとき、見えたときだけ、それも至極限定的範囲に留まる物だ。

これは親の利益のための誘導方たる、教育法(”ほめて育てる”)とは全く異質なもので、なぜなら心理学者や教育評論家がとなえる犬を教育すると同じ理論で構成されている「誉めて育てる教育法」が、人の健全な精神成長に害悪しかもたらさないことがわかっているからだ。 

子供は親のオモチャではなく、ペットでもない。

よって、親の思った通りの人間に成長させるのではなく、一人の自立した思考を持つ人格に育てねばならない。

特に男の子は、男として育つように意識しない限り、本能が健全性を保って成長出来ずに歪むことから、なよついて嫌なことから逃げ回る可愛い男、いうなれば母性本能をくすぐる母親のペットにしかならない。

 

だいぶ話が飛んでしまったが、人はその毎日の生活における活動の中で必ず「ありがとう」と「ごめん」という場面が出てくる、

幼き頃より親が手本をみせ、それが自然な言葉として表現できるように育てられたなら、後に社会へ巣立った子供に素晴らしき恩恵をもたらし、

親が変なプライドや恥ずかしさ、不要な上限関係や立場関係を前提にして素直な心をおろそかに育てれば、子供は親の姿勢そのままに他人と接する様になる。

簡単に言うと、社会性における不幸を繰り返し学びながら育つということだ。 

 

正しき方向の、正しき言葉には、冒頭で書いた70%を、受け手側の持つ30%を補完させたうえで相乗作用にて100%にする力がある。

往々にしてお嫁さんというのは嫁いだ家の中で微妙な立場になりやすい、孤立しやすいし、辛いことも多だろうし、ストレスもある。

こうした不要な物を壊して中和するのも、「ありがとう」、「ごめん」という二つの言葉に存在し、またこの言葉から派生してくる穏やかな会話は、

お嫁さんを家族の一人としてこの先も溶け込ませ続けて行くに最善の方法なのだ、 と思うわけです。 

 

 

 

 


どこからこの味が?

2011年05月19日 | 研究-教育・育児

今日は家内が泊まりでいない、 こうした場合、自分で食べたいものが有った場合は僕自身で夕飯を造りますが、

息子の嫁さん来て以降は嫁さんが支度してくれるので出番が余り無い。

その嫁さんも昨日から息子と実家へ行ってるので、当然娘が支度する事になるわけです。

多少工夫を凝らした物と張り切っている様ですが、どんなのが出てくるんだべか~ とやんわり思う。

楽しみにしていたのですが、まさか横着してカレーなんかじゃ無いだろうな?(笑) と思いきや、出てきた物は 「ほ~」 という二皿。

 

一つは挽肉を炒め、甘めのタレと絡め合わせながら厚揚げへ合えたもの、もう一つはベーコンを炒め、そこへ山菜を加えてさっと炒めたもので、

みりんや醤油それ以外に隠し味が有るらしい。

 

両方ともオリジナル?らしいが、食べ始めていると 「美味い!」 の一言。

特に二つめのが不思議な味を造り出していて、簡単に説明すると あのツクシンボ の味なのだ。

 

ツクシンボは見さんもご存じの通りヘタを取って、頭が開いていない場合(開いていると酷くまずく食べられない)は

そのまま取らずに佃煮みたいな甘辛い味付けにして食べる。

茎の部分は細くてへなへなになり、頭の部分には独特の歯ごたえと、之また独特の苦みがあってそれが口の中に広がる感覚が何とも言えない味。

実はこの何とも言えない苦みがツクシ独特の味として頭中に刻みつけられているんだけれど、

この味が娘の料理の中に再現されている。

 

昔、娘をつれて春の道を散歩した懐かしい記憶でもある。

 

「どうやって造り出したのだろう?」 そうおもってその隠し味を聞くと、なんとココアが使われていた。

 

ココアは飲むもの、もしくはお菓子などに使うもの、そうしたイメージしかない僕には驚きでもあるが、「こんな使い方も

あるのか・・・・・・」と正直我が娘ながら感心させられてしまった。

 

褒めて育てる教育をきっぱりと否定する僕ですが、さすがに褒め言葉が出そうになった瞬間に口をつぐんだ。

理由は簡単、山菜を炒める際の火力が多少強すぎ、水分が飛んで多少なりとも筋っぽいのがあったのを自分で気がついて

反省している娘の姿がそこにあったからだ。

 

ここで親が褒めたら一巻の終わり、娘の成長は停止してしまう。

人間とは常に甘えを求める生き物であって、それゆえ簡単に満たされると、それでよしと処理して進歩を留めてしまいやすい生き物だからだ。

こうしたときは何も言わず、大きな声で「ごちそうさまでした!」と一言、そして頭をぐしゃぐしゃして終わり、ただそれだけだ。

 

「言葉の力」が云々とのたまわるバカども、言葉無き会話こそが最も優れた心の伝達なのだと、又それが本来の日本人たる姿のだと・・・ 

 


仲良きことは,良きこと・・・・ なんだよね!

2011年05月19日 | 研究-教育・育児

シフトの関係で日曜と 木曜が休みとなった息子。 

嫁さん(同じウインドサーファー)つれて昨晩から海へ行っています。

 

しかし、本当に仲がいいな~この二人。   ニコニコ

一度も喧嘩(口げんか含め)したのを見たことがない。

 

現在僕ら(親)と同居しているので一度くらいはそんなシーンが有るだろうと思っていたのだけれど、全く無い。

もっとも喧嘩になれば息子が99%悪いのが解っている僕と家内は必ず嫁さん側へにつく、それが分かっていることもあるだろうけど、

まあ、嫁さんが美人で良くできた人ですから、おき様がないというか・・・

 

海の見える浜に車(キャンパー)を駐め、自分はウインドを楽しみ、嫁さんは読書と旦那さんのために飲み物や食事を用意。

さわやかな風の吹くこの季節、こうした幸せな時間が末永く続くようにと願うのは、本人達のみならず、親も同じなのですね。

 

仕事に就けず、つけても朝から晩まで休み無く働かされて薄給、それゆえ恋愛時間もなく結婚すら望めない、

そうした現実に苦しむ若者が多い中、本当に恵まれていると思う。

 

中学時代にひどく荒れ、激怒した僕は息子をぶちのめしたあげく、更なる追い打ちを(徹底して突き落とすために)かけてひどい苦労をさせた。

やがて学ぶことの大切さに気がついて高校、そして大学へと進学、そして就職氷河期という現実に打ちのめされて散々と苦しんだ末の就職。

 

楽で、楽しく、思うとおりなんてのは、本人の努力無しに得ることは絶対不可能。

それがあるからこそ未来は開け、そしてまた苦労をして次の未来に向かう。

それが人生だと教えてきたけれど、生まれてくる孫に息子夫婦はそれを伝えるのでしょうかね

 

 

 

 

 

 

 


世界への挑戦

2011年03月28日 | 研究-教育・育児

こんなときに不謹慎と思われると嫌なのですが、週末から昨日までは関西で行われた某イベント(氏名が分ってしまうので何かは伏せさせてください)に参加してきました。 

といっても僕は唯の送り迎えタクシーみたいなものですが(笑)

 

3歳くらいからずっとその道で練習してきた子達を相手に、別方面から殴りこみ参戦をしているわが娘。

世界大会へは参加資格(16歳上限)の関係で今年が最後のチャンスとなります。

そんなわけですが、一応今回はファイナル参加資格を得ることは出来ましたが、娘にとって内容的にはたいそう不満足だったようです。

もっとも、条件がひどくなるほど強くなる、”悪条件命!”みたいなところが娘に有るのも逆災いしているのですが(笑)

 

さてその大会ですが、一番最後はアメリカ、フランス、イギリス、フィンランド他全ヨーロッパを中心として(日本とは180度異なって、とんでもなく盛んなスポーツ)選抜された子達が一同に集って世界一を決めるという世界的イベント。

今年はスイスにて何日間にもわたる戦いとなります。

 

ここへ参加すべく日本でも予選が行われているわけですが、実のところトップの一団というのは殆ど決まっておりまして、

時折順位は入れ替わるものの、トップ集団は毎度同じ面々。

 

そんなこともあるのか、運営選考側も、当初は一人だけ世界大会へ参加ということになっていたのですが、実力的に僅差なこともあるのでしょうが、

トップの子達をまとめて日本選手団を構成したら? という方向にだんだんと傾きつつありまして、そうであるなら娘が女子唯一の代表として世界で戦えるチャンスが大いに有る。

 

現在、男子しかいないといってもよい選手の中で唯一人女の子として挑んでいる我が娘、でも父親の目から見ると、やはり男の子の底力というのは凄く、伸びと成長にどうしても違いが出てくる。

黙ってみていますが、残すは後3戦。      

どうなるのでしょうかね。     ニコニコ

 

 

 


ぞっとする

2011年03月11日 | 研究-教育・育児

間一髪だったんだけれど・・・・ こんなことしている。

 

東北で大地震。

しかもM9.0というとんでもないもの。

間一髪でした・・・・・

 

春休みに入っていた我が子、本当なら練習のために、ヨットに乗るはずでした。

たまたま熱出して休ませたから良かったのですが、もし行っていたらと考えると、今更ながら背筋が凍る思いがします。

 

ヨットは基本的に沖へ沖へと出て行きます。

ウインドサーフィンだと比較的浜の近くを走るのでよいのですが、船である以上はどうしてもそうなる。

ショップの方から後で電話をもらいましたが、やはり津波は到来し、店の有る大きな湾は陸の形の関係から浜全面を洗い流したもの、堤防のおかげで街中への侵入は何とかブロックされたとの事でしたが、

沖では全く関係有りませんから・・・・ との話。

 

人の生き死には常に自分の身近に有るとは分ってますが、運というものはどうにもならない物だと、再度思わされた瞬間でした。

 

 


娘のその後

2011年03月10日 | 研究-教育・育児

 

プロダクションからその道へすぐに踏み出していくのかと思っていた僕。

ところが、最終段階で、”活動は一年後から”と明確に相手方へ伝えた上で、許可をいただいて帰宅してきました。

 

「へ~・・・・・、ふ~ん・・・・」と思うわけですが、娘いわく「今年はやらねばならないことが多く、半端に放り出せないから」だそうで、でもそれが全部片付くのが来年、そこから新たに踏み出したいとのことでした。

 

余裕が有るというか、なんというべきか・・・・ 笑 

普通の娘なら喜び勇んで飛びつくか、しがみつくのが多いのに、何となく不思議な気持ちです。

 

プロダクションの担当者が娘に芸能界はじめモデル、タレントの話をいろいろ聞かせてくれ、その世界観を僕は又聞きしているわけですが、なかなか厳しい世界のようです。

まずは、プロダクションそのものに眼を付けてもらえる(まともなところはホンの一握り)事がまず難しく、こうした処に自分から売り込んでくる子は写真つきメールだけで一日何百通は普通らしく、何か有ればその数は4桁にも登るようで、

ただ、専門家としてはこうした子から拾い上げるのは余程ではない限り無いとのことです。

言い換えると自分から売り込んで来る子は基本的に相手にしない、故にその中で目に留まる事は宝くじに当たるくらいの確立でしかないそうです。

それではどうやって商品(新人)を探すのかというなら、スカウトマンやマネージャーが自分の足でテクテク歩き、素質を持つ子を探し出していくのだそうです。

「うちの娘はそんな玉じゃないだろ・・・」と僕は思っているわけですが、登録まで行くにはこれだけではなく、ほかにも難しい条件があるらしい・・・・。

*ちなみに、いい加減なところはどんどん登録させ、後は写真代やらレッスン料などを取りまくる、言うなれば女の子の気持ちを逆手にとるスカウト商売をしているところが非常に多いと言うことです。

容姿の良い子はいくらでもいるだろと思うわけですが、実は可愛い、美人、そうした言葉が当てはまる女の子というのは掃いて捨てるほどいるらしく、渋谷や原宿等、人の集まるところに行けば普通にいるし当たり前のように歩いている。

ところが、この可愛い、美人というのが素人の感覚とは異なってまったく駄目らしく、こうした子はその世界では何の役にも立たないのだそうです。

そんじゃ~どんな子なら良いのか?という事になるわけですが、容姿以外に全身からにじみ出る雰囲気や現実的な感覚、言い換えるとオーラみたいな物が絶対必要条件だそうで、それがない限りは商品(プロダクションとしての売り物)にはならないそうです。

我が娘みて「そんな物有るかよ?」と僕は思うわけですが、とくに家の娘を持ち上げることなく、謙遜もせずにそのままここに書くと現実はこういったものだそうです。

それじゃ、そうした条件にとりあえずマッチした家の娘はその世界でどういった方向に適しているのか?という話になるわけですが、モデルはほぼ×、 CMはじめタレント(特にアイドル系)が主になるだろうとのこと。

モデルは性格が歪みますからお勧めしませんとのことで、これも素人の考えることとは大きくかけ離れていて、その理由はモデルという存在そのものが、その子のスタイル意外には魅力等は何ら不要であり、あくまでも商品(衣類など)が引き立たつのに適した存在としての役割でしかない。 言い換えると影が薄くないとダメということで、、さらには特に綺麗で有る必要等無く、単に商品が引き立つ存在であれば誰でも出来るものだそうです。

そうとう冷たい様に感じられますが、現実の世界というのは、一般で思われている認識とはこういった一面をみても乖離しているのですね。

当然、撮影時にはカメラマンから支持されただけのポーズをとるだけで、笑顔に至っては「なんでまともに笑えないかな?」とか、結構平然と冷たく言い放たれるのが当たり前だそうで、ゆえにモデルをしているのだという本人

のプライドが極力必要で、そうした冷徹な指示に応じるだけの忍耐力も要求される。

ゆえにみんな性格がきつくなり、だんだんと表情が冷たくなっていくのだそうです(ただしアイドルモデル除く)。

「なるほどー」と思うわけですが、そんならタレントはどう違うのか? というと、これはこれで又難しいらしく、どこでも可愛いと言われ、愛されることから、自然に顔も容姿も良いほうへ変化していく。

ただし、よほど人間的にしっかりしていないと、いつのまにか謙虚さを忘れてひたすら嫌な人間へ変化していく。

ゆえにその時点でタレントとしての寿命は終了となり、その期間は活動始めてから、たいてい2年から3年というのが相場だそうです。

 

まあ、親である僕としては「謙虚であることこそが女性としてもっとも大切である」と幼いころより言い聞かせて来ているわけですが、これが娘にとってこの先、何がしかの役に立ってくれるだろうか? と思ってしまう。

 

一応、来年から活動と娘は考えている様ですが、一番問題なのは平日学校を休んで動き回ることは親として許すつもりは無く、しかしながらこれに関しては特に珍しくも無い前例があるようでして、というかそこはそれに対応

してくれているようですが、学業重視の子は基本的には土日だけ仕事をいれ、平日にやらねばならないときは学校終わってから、そして帰宅は遅くならないように配慮するそうです(当然売れる可能性も低くなる)、

このあたりはマネージャーとの調整でやっていくとの事でした。

とはいえ、今年2年生になり、来年は高校3年生、国大を狙っていこうとする中で、勉学とタレント活動の両立等、はたして可能なのだろうか?

 

世の中そんな甘いとは思ってない僕、実際にやり始めてひとつも仕事もらえずに、苦い思いだけして世の中の厳しさ知る経験をしてくれれば娘には大きなプラス要素になると、正直なところ思ってます。

なにより性格ブスな女になったら嫌だしな~

かといって、万が一売れたりなんかしたら、それはそれで、なんといって良いか分からない気持ちになると思うのですが。

 

は~