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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

二人でゴソゴソ

2012年05月01日 | 研究-教育・育児

孫とジジイ、二人でゴソゴソと床を這い回り~!

ハイハイでそこいら中を冒険しまくりの孫、ついでに僕も腹ばいになって匍匐(ほふく)しながらリビングとキッチンを二人で歩きまわってみました。

端から見るとへんな爺さんですよね~ (笑)

手当たり次第に、手に出来る物をいじったり動かしたりと、とにかく物に触れられるのが楽しくて仕方ないらしい孫と、幼児の目線に立ち戻って室内を散策するジジイ。

まったく同じ目線で上を見渡すと、「ほ~」と思うことがある、普段なら絶対見えない椅子の裏側の様子や、床の角に玉になった埃、冷蔵庫のでかさ、そびえ立つ食器棚等。

コンセントは目の前に不思議な穴を開けて存在しているし、普段似ている世界とは全く違った感覚である。

床より5cmから20cm位のところをみているわけで、その高さから見ると、大人はまるでガリバーのようにでかい。

小柄な我が娘でさえも、とんでもなく大きく見える。

二人でゴソゴソ歩き回るが、自分が幼い頃に見ていたこうした世界を、人は忘れてしまう。

三〇分くらい、二人で色々といじくり回したりしたけれど、あんな小さな体でどうしてこれだけ動き回れるのかと思うほどパワフルに行動する。

体重が軽い事もあるとは思うけれど、飽くなき好奇心と探求心の固まり。

子供ってすごいな~。

 


後もう少し?で歩くかな もうすぐ八ヶ月 

2012年04月30日 | 研究-教育・育児

後もう少しで八ヶ月になる孫、この一月の変化ですが、相変わらず昼寝の時間が極端に短い。

 

ここ数日でつかまり立ちし、こたつテーブルにつかまっている場合だと、そのままテーブルの上の欲しい物を取るために横へ移動していきます。

ハイハイはお手の物になってきていますので、広いリビングを自由に這い回っては手にする物全てに触れている。

 

他に絵本が大好きになり、特に音に関する単純なのが大好き。

もちろん絵本をさわったら音が出るような無機質な物ではなくて、僕が絵本の中に表現されている音を手と足、色々な小物をつかって再現するわけですが、

メチャメチャ喜びますので、何度でもやってしまう僕←バカじじい(笑)

 

僕が指で指す方向と物をすでに認識できており、それゆえ色々な物を指し示して名前をやたらメタラと教えますが、分かるはずもないだろう・・

なんて思いつつも、絵本もそうですが、分かろうが分かるまいがまったく関係なく、こっちが楽しいからやっているというか(笑)

 

そう言えば、だいぶ前から始まっていた人見知りは、相手を見て単なる泣くから、自分の仕草で相手がどんな顔をするかを見極めながらやっている段階に移行したようです。

*乳児ですから別に高度な目的を持ってやっているはず等ありません。

人の顔色から相手がどんな感情をもっているかという、人が社会生活を営んでいく上において絶対に欠かすことの出来ない読心訓練を本能がさせているという、

きちんとした(正常に育っている)証拠ですが、これが豊かな喜怒哀楽に結びつく。

 

親の顔色を常に見て育つことは何より大切で、特に叱られる際に向けられる親の顔に存在する心の中の怒り(怒り無く叱る事は、なんら読心訓練になりません)を通し、

何を考えているのか?感じているのか?を微細に読み取る訓練(教育)をきちんと受けて育たなかった子はかならず将来不幸になる。

六ヶ月から一〇ヶ月の間に必ず起こる人見知りはその為の基礎中の基礎をはぐくんでいく時期でもあるのですね。

 

ただ、この時期は自分に向けられる愛情だけしか学べません(当然です)ので、虐待を受けるような訳の分からない怒り(暴力)にさらされながらこの時期を過ぎると、

健全な精神はまったく育ちません。

 

人は、まずあたたかい心を含んだ笑顔とやさしさ、これが一番初めに学ぶべき事であり、その次に悲しみ、最後にもっとも難しい怒りを理解していくという段階を踏んで成長するわけです。

そのなかでももっとも大きな段が、まずは第一次反抗期、これにより怒りの存在という物を完全に認識し、以降さまざまな形のストレートな怒り表現に接しながら成長していく。

 

第二次反抗期は、一時反抗期との間で学んできた、人のもつ基本的な怒りの種類を総轄整理するために有る。

同時に、冷たい怒りや、隠された怒り、いわゆる面従腹背的怒りの様なさらに高度な怒りを学ぶために存在し、

これによって”人の持つ最も本能的”でありながらも大脳新皮質が織りなす非常に複雑になった感情 ”人間としての怒”を理解できるようになり、

またそれを上手にコントロール出来るようにもなる。

 

よく叱らない教育を推し進めているおかしな教育評論家や、学者、精神科医がいますが、

これは上記に書いた大切な心のトレーニング時間を奪うことそのものであり、こうして育てられてしまうと 人の心の中にある 怒りに際限ない恐怖を覚えるだけとなり。

初めは”すぐに切れる子”、そして結果としての 無気力や引きこもり となって現れる。

何ら難しくはなく、心の闇でも何でもなく、単に有るはずだったトレーニングを親がさせなかったというだけのことでしか有りません。

 

さて、余計な話は置いておいて、八ヶ月間近の子でも怒りの感情という物が存在しているんですよね。

ハイハイして自分の思う方向に行こうとするのを背中つかんで阻止すると泣いて怒る。

目の前におもちゃをおいて取りに行ってつかむ寸前にさっと取り上げる(意地悪なので一度限り)と、やはり泣いて怒る。

単純ながらも、泣きながら相手を叩いたりもする。

怒り=攻撃 ですから、これを上手にコントロール出来るように親は育てていくのですが、叩いたことを叩き返すような育て方は厳禁ですから、何度でも根気よく「駄目なんだよ」とさとしていくわけです。   

*上の例はこちらの悪戯でこちらが悪いよね 

でも、こうした教育は新米パパとママの仕事。

”僕は一切口を出しません”、というか、ジジイはどうも甘やかすだけになりそうでして、自分が子供達にやってきた当時の厳しさはどこえやら(爆笑)

 

 

 

 

 


キンピラゴボウ と 手造り料理

2012年04月20日 | 研究-教育・育児

だいぶ前の事ですが、娘がテレビを見ていて呆れていた。  ん???

 

「どうしたん?」と聞くと、なんでも番組に出ていた女の子(大体25歳位らしい)がキンピラゴボウを

造れず(作り方を知らない?)、スーパー等で惣菜を買ってくるとかなんとか? らしく、

それに対してピキピキ反応。    お~怖!

 

17歳の我が娘ですが、殆どの家庭料理はつくれ、最近ではもっと請った料理を研究したり、工夫したりするようになってます。

そういえば少し前に食べた、ほうれん草とホワイトソースをベースにしたパスタは「最高の味だっな~」 なんて思い返したりして(笑) 

 

娘は、どちらかというと料理の基本を僕の方から教わっています。

夫婦共働きの我が家であっても、”食事を作るのは女の仕事”という絶対に崩さない僕の基本姿勢のうえに家は成り立っておりますから、

普段僕がキッチンに立つことはありません。

ただ、家内が病気、旅行、仕事で遅くなる等、どうしても駄目な場合だけは僕が分担する。

 

女性というのは不思議なものでして、「なんで手伝わない?」と娘に文句を言うのに、やり出したらやり出したで面倒くさい?のと邪魔?なのかしれませんが、

不可解なことを結構やります    むむむ? (爆笑)

まあ、忙しいから手早く終わらせたいのもあるのでしょうが、手伝おうとするその姿勢だけで満足してしまうのか?は分りませんが、

どこの家庭でも話を聞くと似たようなものらしい・・・・

 

そんなわけで、僕が作る時は、割と時間に余裕をもってやっていた事もあって、娘を呼びつけては包丁を持たせつつ、調理の基礎を一つ一つ教えながら

一緒にやってましたね。 

と言っても、これはもちろん、親としての完全強制。

 

なぜなら、将来 子供と伴侶に旨い物を食べさせていなけばならない以上、幼い頃からこうして基礎を教え、

高校生になる頃には完全に出来るようになっていなければ、ただただ親として恥ずかしいからだ。   理由はそれ以外に無い。

 

その為に「女の仕事だと言って強制するのか?」と もしフェミニズム丸出しの男女同権団体なんぞから問われれば、「そのとおりです!」 ときっぱり答えます。

これはトイレ掃除、部屋の片付け、清掃、生活のすべてに共通するうちの子育てです。

 

娘に包丁を持たせ始めたのは小学校低学年の頃からですが、何度も指を切りつつも(僕は絆創膏貼らせてそのまま調理続行を強制します)次第に腕を上げていき、

今では家内がいないときの料理人?になってくれています。

 

故に娘は、男の料理&調理方から入り、そのあと(いっぱしに出来る様になってきた頃から)家内が細やかなことを教えるという、少し変わった方法で覚えている。 

高校生時代に飯場の飯炊きバイトをして基礎を叩き込まれて以降、さまざまな食事を子供たちに出していましたが、僕の造るのは材料がいちいちデカイし、

中身をガンガン入れて、見てくれより味とボリューム重視。

そんなわけで、娘は僕と家内の良いとこ取りという感じかな~。

 

こうした娘の姿をみて嬉しく思う時があります、それは外で(学校含む)なんらかの調理するようなことが事が有ったとき等ですが、

「同性の子が包丁をもっておたおた戸惑っている事が多いのに、自分は何の問題もなくスムーズにこなせる」、 という話。

友達から聞かれれば即座に教えるし、そうでなくて出来上がってしまった友達の料理を味見し、足らない部分が有れば即座に調整できる。

「そんな事が、そつなく出来てしまう」ということを話してくれた時など。

 

「でも、逆にそれで困ったことがあるだろう?」と聞くと、明らかに間違ったやり方をしていて、しかも、自分の話をなかなか聞いてくれずにやってしまった料理フォロー

というのが大変らしく、相手を傷つけない為に大変な神経を使うとも言っています。    女性は本当に面倒ですから・・・・

 

例えるなら、マッシュポテトを作る場合等ですが、これはまず先に皮をむき、出来るだけ細かく切って電子レンジ加熱するのが短時間で仕上げるコツなのですが、

友達はそのまま皮ごとお湯で茹でてしまったりして・・・・  「う~ん」

 

それだと茹で上がるのにやたらと時間がかかるのと、その後にあつあつ状態のジャガイモ皮を手で剥く事になってしまい、アッチチ!アッチチ!となり、

当然に少ない調理時間のなかでは間に合わない・・・

 

ジャガイモは皮をとるか残すかで風味が当然に変わって来るわけですが、オーブンなどで多少の焼き目をいれたポテトを肉料理などに添えて出す場合等には、

香ばしさとスパイスが重要なので皮は剥かない。

しかしながら、マッシュポテトの場合はそうしたことは全く不要なので、とにかく早く火を通し、熱々状態のまま適量なミルクをまぜつつ温度を落として行き、

同時に塩をベースに味付けしていく。

上にかけるソースの種類により、スパイスを変えるわけだが、友達はそうではなかった・・・・

 

でも一生懸命やっている友達の姿に、「間違っている!」と横槍をいれるのはいかがなものか?と

できるだけ、自然に悟ってもらえるように話を展開したりするらしいのですが、やっぱり難しいようでして・・・ 

 

他にも、後片付け等で、油物、それ以外の食器を全部混同して洗ってしまったり、二人作業でやる場合は片方が洗剤で汚れを落とし、

もう一人がすすいで、水を切っていくというのが出来ず、皆でゴチャゴチャになってやっていたり、と

 

そうした際には、途中からその仕事を自分で買って出て、友達が気が付くのをまってみたり(大抵は男の子のほうが効率のいい方法にすぐに気が付くそうです)。

「友達(とくに女の子)の持つ自尊心とプライドに触れることなく、分ってもらえるようにするのが本当に難しい」と、言ったりしています。

 

幼い頃より、人前にシャシャリ出るな、一歩下がったところから補佐しろ、偉ぶったり見せ付けるようなまねは厳禁。

そうしたポリシーで育ててきた娘は、相手にはっきり言うことを避けるために、ある面で大変なことが多いようです。

 

ただ、こうした事は、世の中に出て、見る人が見れば必ず分る。

 

能力の高い男性ほど、女性をよく見ていて、当然それに応じた相手を選ぶわけですから、最低限の気配りと出来ねばならないことが出来ないようでは、

その程度の男としか結ばれないわけです。

 

人間関係に理想という言葉は馴染まず、あるのは現実だけ。

父親として、”当たり前の事が、当たり前に出来るように強制し、社会という型にはめて子供を育てねばならない”、なぜならそれを基礎として型を破りつつ

さらには上手く利用しつつ、自分を伸ばすことができるようになるのですから。

 

「えっ?」、 「型にはめたり、強制してはいけません! だって?」、 バカを言うな、”何一つ出来ず、社会に適合できない非常識人間を育ててどうするというのだ!?” 

「そんなもの糞くらえだ!」

 

 

 

 

 

 

 


6ヶ月半 の 乳児

2012年03月29日 | 研究-教育・育児

ほぼ、お座りが出来るようになった孫。

以前から始まっていた人見知りは、更にはっきりし、夜鳴きらしきものも激しくは有りませんがポツポツ。

「このところの大きな変化は?」というなら、離乳食で好き嫌いが出始めてきた事や、感情変化が著しくなってきたこと。

自己主張が明確になり、例えるなら持っていたおもちゃを取り上げたりすると大泣きし、返すと喜ぶ。

少しでも親(母親)の姿が見えなくなると、大きな声で呼び、それでも来ないと泣きはじめる。

僕が現れると腕を伸ばして抱っこをせがんだり、家族の中でも遊んでくれる人と甘えられる人、楽しい人、等々を

明らかに見分けていて、自分の気持ちにそぐわないと嫌がるそぶりまで表れてきた。

「人間らしくなってきましたね~」

 

言葉の理解も進み、例えるなら、家族全員で夕飯を食べ、大抵は一番初めに僕が寝るために席を立つのですが、

その際に「おやすみ!」と言う言葉を口にしたとたんに、やおら泣き出す。

トイレに行く為に立ち上がっても、そうしたことは全く無いのですが、 「じゃ~ね、おやすみ」という言葉を出すと、ピクリと反応してそうなるわけで、

「は~ ジジイの心は乱れる」(笑)  で可愛くなりますから抱っこしてあげると、途端にニコニコ。

でもこちらは眠たいのでお母さんに渡すと、また泣き出す。

 

家族相互の関係と立場がどんなものなのかも解り始めているようで、例えるなら機嫌の悪い時に(滅多に有りませんが、家では一度僕が荒れ始めると大変なのではないか?と自分で思います、息子の方が遙かに穏健ですから 恥ずかしい・・・)言葉尻がすこしでもきつい方向へ変化したりすると。

驚いたように、じーっと僕の顔を不安げに見たりする。

 

こうして人間というのは成長してくるわけですが、自分が育てていた時とは全く違って、落ち着いて観察?できるのがおもしろい。

 

毎日が楽しみですが、少しずつ成長していく姿を見れる、と言うのは、本当にすばらしいものですね。

 

ひたすら息子夫婦に感謝!

 

 


プロダクション  又ですか・・・

2012年03月28日 | 研究-教育・育児

家内から話がありました。

また家の娘がプロダクションから誘われているとか・・・・

始終こうした事が有るのですが、訳のわからないところは、いかにもと言う感じですからすぐに排除?可能なものの、割と大きくて名の通ったところだと色々な面でややこしくなる。

正規の手順を踏んで、親にコンタクトを試みて来ようとするからだ。

以前も書きましたが、スカウトマンと言うのは現実に存在しており、一線で活躍している娘の殆どは、そうした専門家の目で発掘されるのが実情。

プロダクションでもそうでない方法、すなわち タレント募集、モデル募集と看板を掲げて始終募集をしているところはあれども、その実情はおいしい話をちらつかせてデビューの為のレッスン費用だとかぶったくる、いわゆる”反”詐欺(そうダイレクトには表現しませんが)と言ってよいところです。 とはそうした業界の人の話。

まともなところは、そうした手法を取らないのですぐに判別が付く。

当たり前だけれど、レッスン料、宣伝活動費等というのは、本来はむこうが持つものであって、こちらがお願いして出すものではないし、そもそもそれが変だし、請求=詐欺ですと自分で言っているようなものです。

あくまでも原石を磨いて商品(になってしまうんですよね・・・・)とする行為は、それにより収益をあげるところが行うのが前提だからです。

当たり前ですが、少しでもお金の話が出たら”一発でお断り!” それで娘を守ってきた。

逆に、娘がお世話になる様なことが万が一でもあるとするなら、普通のマクドナルドバイト程度時給以上はもらわせないのがこちらの考え。

まかり間違って、バカみたいなお金等を手にでもすれば(有るとは思えませんが)、娘自体の人生が100%破綻方向へ進んでいくのが目に見えてるからです。

 

そういえば、一般公募的に集めている中堅のところは毎日数百から多い時だと数千も売り込みがあり、募集を殆どしていないところでも数十から数百くらい、メールなどで勝手に売り込んできたりするそうだ。

しかしながら、プロダクションとしてはそうした自分で売りこんで来る子はほとんど門前払いらしく、募集しているところでも99.99%くらいは写真と書類でOUTで、殆ど鼻にもかけられないものらしい。

たまに書類が通っても面接で駄目、というのが現実。

 

やはりスカウトマンが足を棒にして、何かを持っている娘(オーラみたいなものらしいのですが)を歩いて捜してくるものらしい。

 

名刺をもらった話を聞くたびに(というか家内と一緒に出かけているところでいきなり出現したりもする)、「なんで家の娘なのだ?、そこいらじゅうに可愛い子はいるじゃないか!」と僕は言いたくなるし、ほって置いてもらいたいのだけれど、こちらの意思とは無関係の場所で、突然「すいません」と名刺を渡してくるので困る。

親としても、きちんと娘がこうしたことを報告してくれるのはいいが、やはり慌てふためく。

 

今は17歳と言う年令が守ってくれているけれど、18歳になると大人として、自らの意思で契約も可能になる。

何が心配かと言うと、プロダクションと言っても、下はAV系から始まり、正規のモデル系、芸能系もあるわけで、正攻法で親に連絡してくるようなところはほぼ大丈夫と思えるのだが、そうでないところも多く。

つまらんことで身の破滅を招くようなことにならねば良いと、親としてはひたすら願うわけです。

 

もう少しで高校3年生、ひたすら心配な僕です。

18歳という年令を過ぎれば、子供の行動に制限をかけられなくなるし、責任というものをもたせねばらなず、同時に自主性と、信頼を与えねば、何時までたっても独立した人間になることなど出来ないからだ。

 

自分の思いと、子供の成長との間に存在するジレンマ。

ますます悩みと心配は多くなりそうです。

 


言葉の理解

2012年03月03日 | 研究-教育・育児

今日はひな祭り、 といっても、孫は男の子で関係有りませんね~ (笑)、 

とりあえず二人の娘と家内のためにひな人形なんぞを出したかったのですが、

増築の完成が間に合わず、結局出せませんでした。

 

さて、めでたく6ヶ月に突入した孫ですが、本当に子供の成長というのは早い。

ここに来て言葉の意味をいくつか理解し始めたようで、その理解した言葉による簡単なコミュニケーション等も

出来ようになってきた。   見ていると面白い

 

代表的なのは ”ちょうだい” という言葉と”ネンネ”。

ちょうだいの方を書いてみますが、これは孫が”カミカミおしゃぶり”を持って遊んでいたときに、家内が横に来て「それちょうだい?」と言葉をかけた時に確信?したらしい。

しばらく じ~っと 家内の顔をみると、持っていたカミカミを手渡した。

受け取った家内が、今度はそれを「ありがとう!」と言って差し出すと、ニコニコ顔で腕を出して受け取る孫。

そしてその後で、今度は違う言葉で話しかけてみると(例えば おじいたん 何処?)と言うと、おしゃぶりを渡すのではなくて、頭を動かして僕を探すしぐさ。

そうしていくつか言葉をかけた後、ふたたび「それ、ちょうだい」というと、又カミカミおしゃぶりを手渡してくれる。

何度やっても同じで、こうしていくつかの言葉をすでに理解し始めているのですが、ほかに自分の存在を強くアピールする行動も出始めました。

例えるなら、息子が孫を抱っこしている時等に、誰かが来ると奪うように抱っこしたり、「げんき~!」等と必ず声をかけたり、頭撫でたり、頬をつねったりと必ず誰かが孫に触れていく。

そんなハードな扱いにもめげずに終始ニコニコ顔の孫ですが、このところ、まずはこういった自分を意識(存在を認める)してくれる行動を取ってもらえないと、自分で声を出してアピールする。

例の「あっ!」「あっ!」という呼びかけだけれど、急いでいたりなんかして、こちらがかまえない上に声かけを忘れ、なおかつ「あっ!」という声に反応しないでいると、それまでのニコニコが消えて「突然泣き出す」。

みんな驚いて、「ごめんごめん!」と抱っこし頬ずりしたりするのだけれど、そうすると泣き止んで機嫌の良いときに発する声を出しはじめる。

ったくね~ ・・・・(爆笑) 

 

子供は、家族全ての愛情を独占し、それを糧として知能を発達させていくが、本当にその通りなのだと実感する。

 

ネグレクト、虐待、言葉が分らないだろうと伴侶の悪口を乳児の前で口にして子育てする母親、家庭内でいつも争い合う夫婦の声等々。

これらは全て子供に聞かれており、それがむなしい物で有ればあるほど、自ら知能発達を子供が押さえ込んでしまうのは

、本能を元に成長を研究してきた僕には当たり前の様に分ること。

しかしながら、こうして24時間観察可能な孫を通し、知識の再確認することは、本当に多いのです。

 

番外編

僕は抱っこしていると、解ろうが解るまいが、孫相手に普通に会話をし(それゆえ結構一人でしゃべっていますが)、絵本なんぞも見せながらお話をしますが(解ろうが解るまいが関係なくやります)、目を見て話している時等に膝の上でピョンピョン跳ね回るので結構危ない。

まだお座り出来ないので、一度油断した瞬間に、バランス崩して頭をコタツテーブルにゴッチンコ。

盛んに謝るも大泣きで手に負えなくなったので、いそいそ嫁さんに渡してあやしてもらうが、「母親にはかなわんな~!」と実感する僕でもありました。

 

 

 

 

 

 

 


バカじじい(笑)

2012年02月26日 | 研究-教育・育児

今日は朝から一階のフローリング貼り。

途中で、天井のシーリングファンライトを取り付けたりなんかもしていたのですが、朝10時半頃になって息子夫婦が起きてきた。

昨晩夜泣きで大変だった(鳴き声が聞こえていました)ので、ノンビリというか、いつもと同じというか?(笑) 

まあ、昨日は偶々みんなが揃ってましたので、ずっと揉みくちゃにされてたので、その影響でしょうね~ やはり 

 

降りてきたのは、リビング横で作業しているのですぐに分るのですが、僕は孫を抱っこしたい気持ちを押さえてそのまま作業を続行。

しばらくして、家内が孫を抱いて現れたのですが、思えば孫は僕の作業している姿、もしくは酒のんで酔っぱらっている姿しかみたことないな~ 

な~んて思うのですが、時折チラ見をしながら手を振って見せたりなんかして、そのまま脚立の上での穴開けなんぞやっていたのですが、「あっ」!」、「あっ!」という声が・・・・・

これ、実はまだ言葉が喋れない孫が僕(家族の誰か)を呼ぶときに出す言葉なのですね。

 

当然声かけられれば無視は出来ませんので、孫の方を向いて「あいよ~」なんて」手を振ったりなんかして。

バッカじゃなかろうか 俺?

 

でも振り向いて、孫と眼があうと「ニコ~」っとしてくれるので、つい・・・・

手が離せない状態だと振り向けないので無視していると、何度も何度も「あっ!」を繰り返す。

根負けして「あいよ!」と返事するとまた ニコ~。

 

そうなると作業なんてやってられない。

脚立を降りて抱っこしに行くが、目一杯の笑顔ですから、こりゃ~ある意味 

悪魔だべ。

 

そういえば、この子は生まれてすぐの頃から寝ている時間がとにかく短い。

赤ん坊と言えば一日中寝ているのが普通なのですが、大丈夫かよ?と心配するほど起きている。

誰かしらが家にいて、始終バタバタしているうえに、てんで勝手に寝ているのを起こしたり、起きていると分ると皆で取り合い抱っこしては、お話したり、歌ったり、パソコンで映像見せたり音楽聞かせたりと、それぞれ勝手にやるので、そのせいも有るだろうけれど、逐一付き合わされている孫はさぞかし大変だろうな~ 

なんて思ったりするのです。

 

でも、いつもニコニコして、一切何も言わない嫁さんが一番、偉いよな~やはり   ウンウン


君が代の "君"は家族を表す。

2012年02月26日 | 研究-教育・育児

大阪の橋下知事、早速 君が代反対 の教員を処分してくれました。

大変に喜ばしいことです。

ちなみに僕は保守系ですが、右翼的・国粋主義的思想はまったく有りません。

 

さて、君が代と言えば(この国を惨劇に導いた悪の権化とばかりに)左側が攻撃する天皇陛下を、賛美する詩だ!

みたいな言われかたを事を言われていますが、

 

僕自身は、”君”は家族を表している と高校自体の恩師に詳しく教わって以降、それを解釈の中心に据えてこれまで来ました。

それについてあるSNSの中でこれについて具体的かつ詳細?な説明がされていたのを見つけましたので紹介します。

家族の意味が、尚いっそう詳しく説明されておりました。

 

勉強不足でいかんな~俺   知っていると思っていても、まだまだ未熟だったりすることが多々ありますね

 

以下、抜粋ですが

さて、タイトルに書いた「君」ですが、
これはそもそもの日本語(ヤマトコトバ)でいう「きみ」が
語源であることは間違いない。

そこに「君」という中国の文字である漢字を当て振ったことにより
この言葉の意味が分からなくなっている訳だ。

「きみ」というのは「き」と「み」をあわせて作られた物で、
あえて漢字を当てるならば、木と実なのです。

大昔の日本人の自然に対する哲学のなかに、
陽と陰や天と地といった対極する事柄とは別に、
東西南北や春夏秋冬という自然の摂理やサイクル等の事柄という
考え方がありました。

東から太陽が昇り、南でもっとも強くなり(栄えて)、
そして西で赤くなり、北にいる間は昇らない。

(古代日本では、大地は平らではなく「くにたま」と呼ばれる玉であるので、
北は裏に行っていると考えられていました…多少違いますが、
ようは地球の裏側にいるって事です)

そして木は春に芽吹き、夏に生い茂り、秋に葉を赤くさせ実をつけ、
冬には枯れてしまう。

これらの事柄がすべて1つの事であると考えられていました。

つまり、生き物の一生も、太陽の一生(1日)も、自然のサイクルもすべて同じであると考えた訳です。

この成熟し「実」を付ける…という事から、女性は子供…つまり次世代を産むことから、「実」を女性にたとえ、その対になる物なので男性を「木」にたとえた訳です。

(ここで、天と地といった上下関係ではなく、東と西という水平な関係…であるという点も興味深いですね)

なので、「きみ」とは「男女」の事。

これは単に男女であるだけでなく、 「夫婦」である事です。

日本で最初に結婚した(結婚という制度を作った)とされる、モモヒナキ・モモヒナミのお話にも繋がりますが、(ひな祭りの元)上記の理由で、
それぞれのお名前が○○が男性、○○が女性な訳ですね。
ほかにも「イザナ・イザナ」も同じです。

ちなみに「ひな」についてなのですが…

人間は生まれて物心ついた時点から成熟するまでは、1から4まで出来上がったという意味で「ヒヨ」とよばれます。これは今でも「ヒヨっこ」とかの語源ですね。

そうして、心身ともに健全に成長した段階で、1から7まで出来上がったという意味で、「ヒナ」と呼ばれます。「ひなまつり」の「ひな」でもあります。これに「雛」という漢字を当て振ってしまったので意味が忘れ去られる原因にもなっていますね。

つまり、人間は心身ともに成熟したとしても、「ヒト」には成れません。

これは古事記で言えば、「なりなりて、なりあわざるところひとところあり」と同じな訳です。

男も女も、心身共健全に成熟したとしても、単独では「ヒナ」でしかなく、「ヒト」…1から10まで…つまり完成するには、結婚して男女それぞれの違いをあわせて初めて「完成」します。

夫婦になって初めて世の中に「ひと」として認められるという訳です。

漢字の説明で、二人の人間が寄り添っているから「人」なのだ…というのは、実は言葉と説明が先にあり、後から漢字が日本に入ってきて充てられたのだろうと考えます。

つまり「きみ」とは「男女」の事であり「夫婦」の事です。

そして、結婚し夫婦となって、子供を産み、繁栄してゆく。

だから、「君が代」という歌は、その営みが、この先ずーっと続いてほしい…そういう内容なのだと私は解釈しています。

もちろん、「君が代」の「君」が天皇陛下を表すという考えも間違いではありません。

しかし、この場合、「きみ」という言葉の語源を考えれば、天皇皇后両陛下と捕らえるべきでしょうね。

そして、昔の日本で、君が代を結婚式の時に歌ったというのもそのとおりでして、これが元で「君が代=プロポーズ説」ってのもありますが、大きく捕らえると間違いでは無いと思いますが、あくまでも「相手」ではなくて「ふたり」の未来を歌った事なのです。

「相手を思いやる」事も重要でありますが、「二人」であるという事を大切にしているのだと思うわけです。

そういえば、日教組の人たちは、「じぇんだーふりー」とか言う良くわからない事を言って、この夫婦関係にもなんか反対してたりしますね。

まぁ日本教職員組合の「日本」が、私達の知ってる「日本」で無い以上、私達の知っている「日本」が子々孫々まで栄えては困るって事なんでしょうね。

困った話です。

以上、抜粋でした。

 

 

 

君は夫婦、男も女も単体では命を伝承すること能わず、故に夫婦となって(愛すべき人がいて)一人前となる。

それが全ての始まり(代)であり、   

 

君が代の歌詞にある、

千代に八千代にさざれ 石の巌となりて 苔のむすまで

は、

夫婦が手を取り、互いを愛し、仲睦まじく歩みつづけていく事が人(家族(国))の姿であり、

それは最終的に、あらゆる困難を打ち砕く強き力となりて未来永劫、幸せを約束する。

 

という意味になるのですね。   大変に美しい詩です。

君=家族というのが分っていながらも今ひとつ引っかかっていたのですが、やっと違和感なく全文理解することが出来ました。


ぶぶぶぶ! と NO!

2012年02月25日 | 研究-教育・育児

あと一週間ほどで6ヶ月になる孫。

このところ急に意思表示が強くなり、二つほど変化が・・・・ 

 

まず一つはかみかみ用のオシャブリ等、自分でもっていたものを落としたりすると拾い上げるようになりました。

少し前だと、親が拾い上げて握らせていたのだけれど、このところ落ちた方向を目で追うようになり、拾おうとして体を曲げたりする行動が多発。

「ほ~」  と思って僕は見ているのですが、体をねじ曲げ、手を伸ばして、取れるとそのままシャブリ出しますが、取れないと結構大きな声を出す。

まあ、「拾ってくれ」という意志の様な物みたいなものですかね~?  

 

そして二つ目。

以前からベロを上唇と下唇ではさんで「ぶぶぶぶぶ!」とやる行動を見せていた孫。

最初は時と場所をわきまえずに「ぶぶぶぶぶー!」でして、一応は唾が飛んできます。

さすがに赤ん坊でありながらも、それを顔にやられたりすると、みんな「わっ!」っと言って、顔を背けてながら「嫌だ~!(娘の言葉)」なんて言って爆笑したりするのだけれど。

その使い方がこのところ変わってきた、面白いのは、父親である息子が抱っこしたときで、息子も我が子が可愛くて仕方ないので、始終頬ずりなんかしたりするのだけれど、無精ひげなんかで結構派手にゴリゴリやる。

しかも結構しつこくて、意図的に子供が泣き出すまでやったりするわけだが、これは生まれて数日後にはやり始めて、一時は孫の頬がかなり荒れたりして家内から怒られたりなんかしていたな~(奥さんは一切口を挟みません)。

まあ、運命というか? 生まれてすぐに始まって、今まで続いている親子の抗争?だ(爆笑)

やられている方もまったく無抵抗な訳ではなく、ある程度首が据わり始めた頃からゴゴリやられると顔を背けたり、泣き出したりして明確な拒否の意思表示する行動が現れはじめ、一月前位頃から大声出したり、足で蹴るような感じのうごきを見せていた。

 

ところがここに来て、急激に大きな変化を見せ、それを間近で見た皆は大爆笑。

というのは、息子がまごを抱っこして、遊んでいるうちに可愛くてしかたなくなり、例の行動が始まった。

「おいおい・・・」と思って皆が見ていたのだけれど、ゴリゴリの後、更に指で孫の鼻の穴をふさぐ様なからかいを始めた息子。

とうぜんに孫は全力で嫌がりますが、少し経って息子が孫の顔をのぞき込んだ瞬間、

れいの「ぶうぶぶぶっぶ!」が炸裂。

息子が驚いて顔を引き離し「なんだなんだ!」と笑いだした。 

とうぜんこれで済むはずもなく、また性懲りもなくゴリゴリやり始めたのですが、また顔を離した瞬間に「ぶぶぶぶ!」が炸裂。

この場に居合わせたみんなは、「うそでしょ・・・・・・・・」と唖然。

見ていた嫁さんが、「えええ~?????」と言いながら息子のまねをして孫の鼻を指でふさぐと、顔こそ背ける物の、ぶぶぶはない。

偶然だろう? と、再び息子がやり始めるとてきめんに嫌がり、そして手を止めた瞬間、「ぶぶぶぶぶ!」 それを見ていた家族全員、しばらくのあいだ無言。

 

まあ、偶々だとは思うのですが、子供というのは思わぬ行動をする物なのですね~(笑) 


鼻歌

2012年02月22日 | 研究-教育・育児

5ヶ月も半分を超え、コロコロ寝返りうって面白い孫。

結構笑わせてくれます。

 

たまたま嫁さんが実家へ遊びに行き、すれ違いに家内と僕が時間差でインフルエンザなんぞにかかってしまい、

約二週間ほど会えなかったわけですが、僕は忘れさられてました(爆笑)。

 

家内と娘はいいのですが、僕がだっこすると泣き出して駄目。

眼を会わせませんし、でも家内に渡すととたんに泣き止んでこちらを ジ~っと 顔見。

又抱くと泣き出して、やっぱだめだ! と渡すとまた 顔見。   その繰り返し(笑)

まだ抵抗の弱い月齢のため、インフルエンザが終わってから5日間様子を見てやっとこ抱っこしたというのに結構つらい洗礼を浴びせられました。

 

しかし・・・・、たった2週間だというのに、時間は子供を大きく成長させます。

ここに来て鼻歌なんぞをやるようになり、日中、盛んになんだか分からない曲(たぶん創作)をフンフンやっているとのこと。

嫁さんが子守歌等、わりと揺ったりしたメロディーの曲を歌うと、それに追従しながら鼻歌をあわせてきます。

まだ言葉が出せないのですが、音楽というものはなんとなく解っているらしい。

音程に関してはよく聞き分けているようで、声の低い男である僕は無視となりますが、女性(とくに母親)の声がよく聞こえるようで、赤ん坊ならではのことです。

もうすぐ春、  つくしんぼう 、タンポポ、 桜花 みんな見せて、触らせてあげたいです。

 


娘のPCを銃で破壊、Facebook Parenting: For the troubled teen.

2012年02月15日 | 研究-教育・育児

Facebook Parenting: For the troubled teen.

 

 

 http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/it/2857671/8462549?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics

より

 

親父さんの話(聞き取って要約しました)

半日(6時間)費やして動かなくなった娘のノートパソコンを修理(アップグレードほか)した親父。

娘は見えないようにとスクリーンをかけていたのですが、アップグレードでそれが解除され、偶々? 娘がFacebookに書き込んでいた内容を眼にしてしまった・・・・

15、16歳の娘が書いた文句たらたら・・・・に爆怒り。

手に持っているコピー、そこに書かれていたのは、ボッシェ!(糞)はじめバカ野郎等々、4文字言葉の羅列と、やらされている?家事への不満。

娘の言い分は、

自分は高校生活でくたくた、疲れ切っているのにまだ家事の一部をやらせるなんて最低、あなたはどんなに高校生活が大変で苦労しているかわかっているの?

長い一日終わって10時寝て5時に起きている。 寝られるはずの週末には弟たちが来てたたき起こすし・・・・

庭の花は自分で刈れ! 後ろに座って私を見ないで! わたしが掃除した家の中をあるきまわるたびに金を払え!(親父はこの部分が一番好きだと怒りを堪えて言っています)

親父は、 

キッチンカウンターの片付け3分、掃除に数分、ゴミ捨て、皿洗いはディッシュウオッシャーでお前は皿とグラス空にするだけだ、それがどれだけ大変な事なんだ?

部屋の掃除、ベットシーツの整え等々、やりたくなければやらなくてもいい、しかし世の中を見ろ、お前が嫌がる数分の事を仕事として一日やって生活している人もいるのだ。

お前は、携帯電話、カメラ、iポッド、インターネット(パソコン)始め要求ばかりだ。

よーく分かった! 高校へ通いたいなら仕事を探せ、ボランティアをしろ、大学もじぶんで何とかしろ。 そして寝てトイレに行くだけの生活をしろ。

親がもたらしている全部を捨てろ、パソコンが欲しけりゃ大学に進学すればそこにある。

子供でいるのが苦痛なら、Facebookなんかに書くな! 全部捨てろ、そうすれば自分の身に何が起きているかよく分かるだろう。

そして、俺はお前と家族のために こうしたくだらない事を辞めさせねばならない。

 

そういって椅子を立つと・・・・・ ドカン ドカン!

 

 

好きですね~こうした親父。

ちなみにこれが僕の娘なら、僕は親父とまったく同じ事をします。

もっとも、銃など有りませんから、代わりに娘の目の前でパソコンを外にぶん投げます(笑) 

 

子供を育てて行く過程で、強制してやらせねばならないことは多々あります。

とくにそれが我が子の将来にとって欠かせない物であればあるほど、親の権限による強制は強くなる。 

極軽い例をあげるなら、箸の持ち方一つから始まる食事マナー等。

女の子であるなら背筋を伸ばし、茶碗をしっかり手に持ち、正座して礼儀正しく、そして品よく食べる。

「小さい頃から無理にやらせんでもいいだろう・・・・・」  というひともいるだろう。 

しかしながら、こんなどうでも良いような事が社会に出てその人間性を語る一つの姿になる。

食事などの姿はその子の体に染みこんで、けして後で直すことは出来ない。

そのときにやらねばあとで訂正など効かないわけで、こうした事は多々ある。 

子供が ”子供”であるうちはその意味など解るはずもなく、イヤだろうが何だろうが親の権力をもって強制する物だ。

そしてその意味は子供が大人になっていく過程で、突然気付く時がくる。

 

犬食いしているのを看過し、子供らしいと醜態を軽んじて直させず、自主性を大事に等と逐一言い訳をして育てようものなら、その子は大人になってそこいら中で、しかも本人が気づかぬうちに周りへ不快を放ち続けることになる。

どんなことでも、親がその権限を持って導かねばならない事は、至る所にあるのだ。

 

 

 


IQ

2012年02月04日 | 研究-教育・育児

世に命を受けて5ヶ月ちょっと、ピーギャーと毎日元気な孫ですが、先々日驚くようなことがありました。

オ~!()←ムンクの叫び      のつもり。

5ヶ月の幼児が、単純ながらもゲーム性のあることを理解できるのだろうか? と不思議でならないのですが・・・

 

それを見つけたのは家内と嫁さん。

孫を横抱きにして、ガーゼ持って口元のよだれを拭いていた時の事らしいのですが、家内が、いたずら心を起こして

広げたガーゼで孫の顔をくすぐるようにひらひらと撫でていたらしい。 

 

それが面白かったらしい孫は、満面の笑顔で笑い出し、やがて両腕のばしてつかもうと努力(まだ旨く手と腕が連動しませんから、この月齢では)。

掴めそうになると、当然というか、家内はさっとガーゼを顔から離しますので、孫はわずかの差で取れずにいる。 はは

 

すると例のごとく?口をとんがらかして、なおもガーゼをつかもうと背筋で逆エビ反りになりながら頑張っている孫。

すこしやって疲れて腕を降ろした瞬間、また家内がガーゼを顔近くまでもってくる。

すると、孫はまた腕を伸ばして手で掴もうと頑張る。  意地悪に見えなくもない・・・・

 

家内の方は何度も頑張るその姿がやたらと可愛かったらしく、そんなことを何回かやっているうちに少しだけガーゼを下げたの瞬間、偶然にガーゼを掴めた孫、するとそのガーゼの引っ張り合いが始まった。

結構力があるので適度な引っ張りっこになるのだけれど、やがて家内が手を離すと、これで孫の勝利?

 

するとそれまで真剣な顔で頑張っていたのがケラケラ声を出して満面の笑顔でウギャウギャなんか言っている。

孫はしばらく取ったガーゼを振り回していたのですが、やがてガーゼをおなかの上に置き(偶然?)、その後 じ~と家内の顔を見ている。

 

「でた!」と家内は思ったらしいのですが、盛んに顔をみて少しだけ口を尖らかしてなんごを発している状態は、たいてい遊んでくれという要求ですので(僕も家内も二人子供育てたのですぐわかる)、「ほ~」と思ったらしい家内は再び孫のおなかのハンカチを拾い上げると、また顔の上でひらひら。 

再び、孫が手をのばしてゲーム?らしき物の始まり、最後は必ずガーゼをおなかの上に置いて待つ。

これが何度も続いたらしい。

 

ただ、なんで孫にとってこれがゲームでなのか?と分かったかですが、途中で家内が嫁さんに孫を渡して立ったとき。

孫がぐずったらしく。

そこで家内がまた戻ると一発で泣き止み、ゲームを始めると、逆エビぞりで喜びまくり、そしてもう一度席を立つと泣くという繰り返し。 

その話を聞いて、5ヶ月に入ったばかりの子供がゲーム?感覚を理解する事が出来た???というのは、正直言って驚きなのですが、単純なものであれ、

一定の手順を踏むことで繰り返される引っ張り合いは、鬼ごっこ等に共通する本能がもたらす楽しさ。

 

ちなみにIQだけで言うなら以前も何度か書いたことがありますが、僕は140前後(様々なテスト方法があり必ずしも一様ではないのですが)有ります。

自分の子供の頃はこんな事が出来たのだろうか? と完全なバカじじいの妄想は巡るわけですが ( 笑 )

おそらくは受け継いでいるであろうはず?の息子は全く勉強せず、娘に至っては部屋に机すらないうえに高校に入って一度もそんな姿みたことすらない(爆笑)。

なんてったって「勉強なんかせんでもえ~!」と育ててしまいましたから、失敗か~! (爆笑) だ~はっはっはっ!

 

そういえば、バカだバカだと、みんなから言われ、やたらと嫌われて、虐められていた自分の子供時代を思い出したりなんかするのですが、これが子供の頃からほめて育てられていたら、自己肯定感のある人間に育っていたであろうか?

と異常な教育法を真逆に解釈し、違う自分の姿とやらを頭に描いてみるけれど、それがどんな結果であれ、学者なんちゅ~のには、ならんだろうな~。 

なんてったって、一分野に極端に偏る専門性等に全く興味なんか無いからですね。

「第一、つまんね~だろそれじゃ・・・・」    

と思うわけですが、「う~ん?」、「やっぱり僕は嫌な人間なのだろうか?」

 

最後に、なんでこれをブログに書いたかというなら、同じ事を家内と孫が僕の目の前で見せてくれたからなのですね、もっとも僕がいると

気が散りまくりでしたが。

孫が覚えているからこそ可能である再現性、故にゲームと記したわけです。

単なる偶然と確認できればここで書きません、笑われますからね。 と笑う僕でした えへへ

 

 


叱ること その2

2012年01月30日 | 研究-教育・育児

子供を叱ることは正しく、しかしながら叱る事、叩くことに制御が効かなくなる母親がいます。  

*その1の最後に出てきた癖になる親のことです。

なぜ、歯止めが効かなくなるのか?

その理由は至極単純明快、単に心が弱く、そのうえ逃げ姿勢で親が子育てをすれば、当然にそうなるということだけで、

な~んにも難しくない。 

 

この世の中は様々な人間の集まりで、そうした人は統計的に必ず存在しますから、それも当たり前の事なのですが、それではなぜそうした精神的軟弱な人間が出来上がるのか?というなら、その者が育った家庭環境に始まりがある。

一番簡単な原因としては幼い頃から我慢、忍耐を出来るだけ排除した条件(箱入り娘・苦労知らず等)で育ってきた場合で、こうした者が世の中に出ると、わが身へ降り注ぐあらゆるストレスを旨く処理できず常にイライラを抱え、そこにきて子供を授かったりすると、そのはけ口(心でおかしな処理をする)にしてしまう。

心はというのは、生まれながらにその限界性能を定められてるものではなく、骨や筋肉と同じく鍛えることが可能なものであり、

本来は小さな我慢と、忍耐をたくさん積み重ねて育つことによって、精神的に安定した強い人間へと成長するようになっています。

ちなみに小言もその鍛えるの事の一つで、叱るはその一番上に立ちます。

 

故に、叱られる事無く、ほめて育てられた者というのは、これより更に悪質で、本能がもたらすもっとも強くて強大な感情(怒)に対してろくに晒されずに育ちますから、社会に巣立ってほんの些細なことで、あっという間に容量オーバーをする。

本来、親から繰り返し叱られる事によって、目の前にある”怒りの種類と方向”を正しく読み取れるように訓練(学習)されてくるはずの心は育たず、相手の心が読み取れないことが、全て自分を破壊する攻撃にみえてしまう事が精神的パニックを引き起こす。

さらに ほめて育てられた事で、根拠の無きプライドだけはやたらとでかいうえに、人の話を我慢して聞く訓練(学習)すらされていないのでどうにもならない。

続けて幾度か叱咤されたり、強く叱られたりすると、親と自分以外の人間は全て加害行為を加えてくる存在の様な思いに心が支配され、それが自信を失わせて自己否定(でもプライドだけは異常に高い)へと結びつきやすいことから、最終的にオーバーフロー(心の処理の限界超え)して精神を病む・引きこもる。という退避行動をとるか、反社会的行動をとりやすい。

両方とも叱られる事のもたらす恩恵(怒りの感情に対する心のトレーニング)を理解できないという至極単純な事が原因で、幼い頃から正しく叱られてこなかったことがもたらす悲劇ともいえるでしょう。

 

結局、人は本能を中心とした感情変化の中で生きているもので、心の受け入れられるストレス許容量には、それぞれが育ってきた環境による限界があって、それを越えると、大抵は自分への攻撃、退避、もしくは無抵抗なものへの攻撃というかたちを取って、そのはけ口を求めるわけです。

 

さて、そうしたはけ口行動の一つとしてよくあるのが、虐待という行為です。

特に叩くことが止らなくなる親は、単純に子供へ虐待をしているわけでして、当たり前ですが叩くことも叱るの延長にある以上は、当然存在すべき親の正しい行為であるものの、限度を簡単に越えて虐待化してしまうのは、本能(怒)を旨くコントロールできない誤った理性と、精神的虚弱がもたらすものです。

こうした行動のカラクリ(理由)は難しくもなんとも無く、とても簡単な事であり、一般的に言われているような心の闇等というような訳の解らないものではない。

 

本来叩くことは、心の訓練という方向から見ても正しいものと書きましたが、その正しいはずの叩くを単なる虐待にしてしまう親は大きく3種類。

一つは幼い頃からネグレクトや虐待をうけてきた、二つ目が生真面目で妥協をゆるさない、もう一つがほめて育てられたか叱らない子育てで育てられた。

大抵はこの3つのうちのどれかです。

以前はネグレクトや虐待を受けてきた子供が、親になって我が子にやるパターンというのが殆どで、これも彼らの理性が虐待を受けるのが当然という環境で育ってきたからで、彼らは虐待が虐待であるとわからない理性によって本能がコントロールされるから起こるわけですが、ただしこの場合は、子供を死にまで至らせるまでは行かないのも特徴。

自分が痛みを知っている分、そこまではやらないわけです。

 

そして、ここ15年位前からつい最近に至って爆発的に増えたのが ほめて育てる、叱らない教育で育った子が親となって我が子に虐待するというケース。

これは上記の虐待、ネグレクトを受けてきたケースとは異なり、痛みを知らない分、容易に我が子を死へ導いてしまう。

熱湯を頭からかけたり、真冬に裸で外に叩き出したり、餓死するまで食べ物を与えない等々の惨劇。

大抵は凄惨な結末になるわけですが、そうした残忍な姿が有りながら、普段はまったく違う顔を見せながら社会行動をしている事が多く、この場合は事件になると会社の同僚は信じられないと一同に口にしてメディアをにぎわしたりもしています。

 

さて、先ほどから書いている、子供を叱ると止まらなくなってしまう親ですが、泣いて誤る我が子をしつこく叱りまわした(というか虐待です)あげく、最後には必要も無い手を上げる、 それも何度もです。

さて、これを本能軽視で構成された西洋式心理学などを習っている先生や学者さんに聞くと、必ずこうした答えが返ってきます。

それは”ストレス解消行動として「叩く」という行動として現れるのです”、と。

さらに叩くことで快感を覚えるからとか、等ともいい、だから又無意識のうちに叩いてしまうともいいます。

これが叱ることを教育から排除するという彼らの大きな建て前(理由)になっているわけですが、 

はい! これ、とんでもなく大きな間違いです。

快感を覚える? ストレスが解消? 「は~?」と呆れると同時に、ひたすらため息が出てくるのですが、なんでこうした西洋式心理学は大間違いを教育界に教え込むのか?といささか怒りすら覚えます。

 

これはストレスの開放のためにそうした行動を取るのではなく、自分が子供を旨くコントロールできないことへの責務を過大に感じ、しかしながらそこから生じる自分への反省や自戒ができず、現実を受け入れる能力が乏しいことから、本来自分に対して厳しく律せねばならない行動を、方向違いの我が子に代行(攻撃を加える)してもらう行為そのものということです。

そしてその代行は、肉体的痛みというわかりやすい形にして現れることが多い。

これが本当の理由です。

本能を中心にして人の思考を考えると、こうしたことは至極簡単に解る訳で、上記の虐待3パターンは最終的にすべてこれに帰属しており、根本は皆同じ。

 

故に・・・・、ドンドンとエスカレートする。

本来は自分に対して冷静に向けねばなら無いはずの、間違った方向へ放っているのですから、親本人は一切痛みを感じること等ありませんし、しかしながら得られるはずも無いはずの痛みを本人は求めいるので酷くなる。

 

その心理的背景は泣いておびえる我が子の姿に、懲罰を受けている自分の姿を重ねる、完全な自虐行為のゆがんだ形態の一つ。

まとめると、自分の心の処理に限界を覚える→ 漫然たる不安と恐怖が心に沸き→しかしながら虚弱な心は現実を理解して処理することができない→ 表に出ない自分への失望→怒りを引き起こす。

そして、本来なら強い精神力が我慢と忍耐をもって自分を冷静に律し、何がどうで、どこが間違いか?等を自分自身に問いながら正しい方向へ自分を持っていく。

という、大人なら当然できねばならないはずの事が殆ど出来ない。 だからこそ問題が起きる。

*場合によっては、自分のしている行為を初めから否定しているので、自分が起こしていることの意味すら考えさせない心の処理をしている場合すらあります。

基本的に忍耐と我慢ができない人は、苦しさを受け入れられないと必ず逃げ行動をとり始めます。

逃げは

1.無視(無いことにする)

2.攻撃(逆切れ等必要以上の怒りを引きおこして相手を威嚇して黙らせようとする)

3.代行(自分にできるだけ近い、しかも無抵抗の存在へ攻撃を加えて自分への戒めをかわってもらう)

として出やすく、一応親としての自覚が有って適度な自制が効いていると、完全な無視と攻撃はありませんので、当然というか代行行動が一番出やすい。

家庭内暴力も基本的心の背景は同じで、よく夫が妻に、子供が親にと、よくあるパターンですが両方とも攻撃でそこには”逃げ”があるのです。

代行であると、母親が当事者なら、相手として自分と一体化している認識が強い、”弱くて無抵抗な我が子”に向くのは当たり前。

 

なぜ、叩くのが止らなくなるのか?ですが、子供が泣いて傷つく姿は、自分への制裁実行を代行してもらっているわけです。

母親は我が子を自分の一部と考えるように本能が出来ていますので、我が子への攻撃が自分への制裁と同一化しやすく、しかしながら

いくら叩いてもけして感じることのできない自分への痛みを求めてエスカレートし、しかしながらある段階まで来るとハッと気が付いて自制がかかる。

感情が収まれば正気に戻って叩いた子への罪の意識を強く感じ、それがまた自分への懲罰行動の原因として積み重なっていく。

そこには自分の”逃げ行動そのものを認めない”というこれまた逃げの心理的背景(自分を守って保護する)があるので、理由等が解るはずもなく(*理解しようともしない)かならず「なぜか叩いてしまうんです・・・・」といって何度も繰り返し、それによりまた自分の心に傷が付いて、それが更にまた虐待行動を招く。

いつまでも続くサドンデス・・・・・・

こうした虐待をする母親の良くある行動のひとつに、自分のやっている行動を誰かに話して聞いてもらうことで、これは過ちを指摘してもらうのではなく肯定してもらおうとする事があります。

結局、これは自分への甘ったれた心を肯定してもらい、それが普通ですよと肯定してもらう為の口実探しをし、誰かが不完全ながらも同感したり恭順してくれると分ると、そちらに快感を覚えますから、又それを得る為の虐待をします。

 

すこし話は飛びますが、別の形態として、子供が成長して当り散らせなくなった場合等、その殆どが夫に矛先を向けるパターンが多く、完全な人間などいない世の中を考えもせず、見渡すこともなく、なにより自分自身の人間性を問うこともせずに、ひたすら「あーだこうだと」些細な伴侶の欠点を探し出しては不満を募らせる。

自分の伴侶は最低で、自分はこれだけ不幸なのだと、自分で自分に刷り込んで、そうして自分はこんな伴侶と結婚するはずではなかったなどと考え始める。

近い存在をさげすみ足蹴にすることで、自分はすぐれた人間なのだと自らを持ち上げる(自愛)ことで、自分を保とうとする愚かな行為で、

それもまた、やっている者は自分を振り返ることが出来ません。  逃げているわけですから。

 

これは丁度子供が思春期を迎える頃に一番盛んになりやすい行動で、我が子が反抗期に入りって全く言うことを全く聞かなくなると、それが本能のもたらす独立行動の一つであることなど全く考えもせずに(というか逃避して考えられない)、ひたすら伴侶に何とかしろとまくし立てる。

大抵は「あなたがだらしないから子供がこうなった」と攻撃し、そして離婚して子供と二人になれば、自立し始めた我が子が再び幼子の頃の可愛い姿に戻ってくれるかのような錯覚を抱いて離婚を宣言する。

子供を自分との閉鎖空間におくことで、再び昔を取り戻そうと試みるわけですが、そんなことで子供は幼児に戻ることなどない。

まあ、当の子供自体は、親の離婚など寝耳に水なことが多く、何でババアと二人で暮らさにゃならんのだ!と、捨て台詞はいて、親の愚かさまで背負わされて極端な非行報道に走ったりと、誰しにもある多少のわき道を遙かに抜け出てエスカレートして止らなくなることがある。

*親のすがりつきが、子供非行を激化していることが多いのですが、割とこれは知られていません

 

こうした一連の行動は、何度も書いているように厳しく自分を自戒できない精神的弱さが根本原因で、ただ、代行行為は冒頭の無視や攻撃と異なって、本来は自分へ向けて発せされるものを基本としてるために、虐待を我が子以外の他人に向けて発する事は殆どないのは当然の行動なのです。

 

*ちなみに一般的に言われる、指しゃぶり、チック、爪噛み等は、これと似た行動ですが、まったく別ものですので、同一に考えてはなりません。


結局、どんな人間であれ、子供を教育していく過程そのものは、自分が親として成長しているわけで、多くの事を子供と供に学んでいるわけですから、叱り過ぎたり、あるときは必要以上に叩いてしまったりという事は当然に有ること。

親は子供を持った瞬間に完全な親になっている訳ではなく、試行錯誤を繰り返しながら親へと成長していくものなのです。

しかしながら、そのためには、自分の行動をしっかり認識し、きちんと反省し、直さねばならないものは直し、反省すべきことは反省する。

けして逃げてはならず、忍耐強く、我慢強く自分を育てねばならない。

 

ほめて育てる教育、叱らない教育、これらの持つ最大の欠点は、叱られること、という怒りを原点とした複雑な人の心(感情)の種類を学ばせない事にあり、

叱られることで養われる自己反省力、すなわち叱られる際に当然求められる,忍耐と我慢で自分の感情を抑えながら自己を振り返り反省する力という物が一切養われない。

 

叱るは、本来本能がもたらすものであり。

人が持つ怒りには単なる破壊の怒りや、暖かき怒り等万の種類があり、それは幼少の頃に親からたくさん授けられることで初めて理解可能になるものであって、そうして深い心の学習をしながら成長することによって、

将来、対人関係をうまくこなして行く力そのものになる。

それが、本能軽視の 叱らない派や褒めて育てる派には解っていない

心のトレーニングを怠れば、KY、自分勝手、他人の心がわからないし読み取れもしない、それはアスペルガーの特徴でもあり、人工的に造られた精神病そのものになってしまう。

そうしたアスペルがーもどきの偽アスペルガーがそこいらじゅうを闊歩しているのも今の日本社会。

 

我が子を叱ることは本来つらいものです、痛みもなく、つらい事も無い子育てなど存在せず、つらくなるので叱ることを止めましょう等というのは言語道断。

叱ることで知る痛みやつらさがあるからこそ、行き過ぎた虐待はなくなり、親は本当の親へと成長できるわけですから。

故につらくなければ虐待しているかどうかも解らないということ。

叱る行為に落とし穴などなく、あるとすれば、逃げる自分のすがたこそが落とし穴そのものを作り上げるのだと学ばねばならないわけです。

 

最後に、叱ることは、怒りを原点とした、人の本能行動。

ゆえに的外れの怒りだったり、間違いのある怒りだったり、それで子供に接してしまうことは、必ず有る。

しかしながら何度も書いているように、親は子供を授かった瞬間から親としての成長をはじめ、子供はそうした親の不完全部分を含めてあらゆる面を学習しつつ成長する。

親として間違えたなら正せばよく、子供は親が自分を正している姿を見つめつつ、また成長していく。

これが、子どもが愛されていて安全だと感じられる親子関係ということです。

 

こうした親の姿があるからこそ、子供は豊かな感情と正しい心をもつ人間に成長できるわけですが、ミスを恐れる子育てをしていると子供もミスをおそれて、逃げの姿勢になります。

人は人なのだと、完全で無い自分に大きな自身を持つべきで、そうした親の前向きな心があれば、子供も自然と自己肯定感を持つ子になります。

褒めていても、叱らない子育てをしていても、けして自己肯定感を持つ子供に等、育ちはしないのです。

 もし自己肯定間をこうした教育で我が子が持っているなと思えたなら、それは将来、人間関係を悲劇に導く”根拠なきプライド”が我が子の心を蝕んでいるということです。

 

 

 


叱ること  その1

2012年01月27日 | 研究-教育・育児

人間性、そして徳を我が子に育てるに、一番大切なのは何か?というなら、叱ることです。

*注意、叱るは人間性を育てるに必要な際に行われる親子間の最大コミュニケ-ション、小言とはまったく違うので勘違いなきように。

*ご飯が遅いとか、忘れ物するとか、片付け出来ないとかで親が子供に何がしを言うのは単なる注意の連発=小言。

とはいえ、普段子供と接していて叱る事等、そうは無いはずで、”成長を見届けている時間”の中では1%にも満たない程度の時間すら消費しないものですが、それであるからこそ大切。

念のために小言を一応これに含めてみると10~30%(年令より変化)くらいでしょうか。

褒められているより、小言聞かされている時間の方が多く、多くの人(まともな教育を受けてきた人達)はそうした家庭環境で育ってきているのが普通です。

ちなみに褒めるは10%程度の時間。

あとは単に見届けている時間です。

子供の将来(精神)を破壊する極悪教育たる”ほめて育てる教育”では、この10%が60%から80%へと格段に増えるのですが。

その理由は、子供の人間性を育てる事ではなく、親にとって都合よい人間にする目的をもってなんら労せず(心の葛藤無しに)にリモートコントロール(操作で育てようとすることが本音(メイン)。

故に、干渉する時間が長く、膨大な時間を消費したうえに、親への依存人間に成長する。

 

まあ、ここまでいかないにしても、結構多くの人が、叱るという貴重な1%の時間すら削ろうと努力しており、その理由を問うなら、心が傷つくだとか、のびのび育たないとか、抑圧された子になるだとか、そして叱る事が親の権力を振りかざすことだからいけないとかなんとか、ここまで言い出すと完全に喜劇。

「その根拠はどこから来るのだ?」とも聞いてみると、これこれの偉い教育学者が言っているとか、教育評論化がどうとか、心理学を学んだからとか、自称教育関係者でその道のプロだからとか

不良、非行、引きこもり、無気力等の大きな問題を抱えた子達と直に接するわけでもなく、何が原因でそうなったのかを肌で知ることもなく、そうした子達を正しい方向へ導くために行われている緊迫した指導現場に身を浸してみることもせず、単なる普通の子達(しかも結果ではなく過程の一時)をみてきた経験と、紙から得られた知識が思考の基準。

そうした者達の共通する煽りかたとしては 叱ることがさも大きな落とし穴であるかような喧伝を繰り返す手法を多用し、同時に理想を振りかざすという、一見口ざわりの良く思えてしまうこうした者達の言葉に、実際、誰もが動揺させられてます。

しかしながら、”叱ること”が、歴史的にみてこの国の子育ての中心となって来た絶対事実というのは、それが健全に機能しているかどうか?プラス方向へ作用しているか?という方向で考えてみるなら、 もちろん答えはYES  叱ることで築かれた人間性はきちんと機能もしているし、健全に作用もしている。

どんな歴史書見ても、遥か昔から現代に至るまで YESという答えしか見つからない。

わけの分らない子育て論等がなかった、いわゆる体罰まで含めた厳しい家庭教育が当然として有った時代巨大な落とし穴で、それにより心がゆがんでひねくれた人間達で世が満たされた暗黒の時代というのが現実に有ったのなら、

人々は叱ることが癖になって、さらには当然の様に行われる叩く(虐待)と共に人々は育ち、それによる おどろおどろしい精神構造で社会は全て支配され、悲劇と悲しみの中にすべての日本人が埋没して苦しむ世の中が有ったに違いない訳だが、そんな歴史的事実など聞いたこと誰があるでしょうか? あらゆる日本の歴史にそうした事実が有った等とは誰も聞いたことすら無い。

それどころか、今この瞬間の方が、社会が精神を蝕まれた人間に日本が覆われ始めた、初めての歴史として刻まれつつある、という方がよほど正解だ。

*ちなみに源氏物語の中に「最近の若者は言葉が乱れていかん」なんていう記述は残っている(笑)

さらに、叱る事が当たり前であった時代が、ろくでもない人間性にあふれた人々で溢れかえっていたという、叱らなくていい子育て、ほめて育てる信者達の言うとおりだったのなら、この国は類まれなる世界一ゆがんだ国家と国民であったはずだが、西洋人が僅かなりとも日本に訪れ、その記録が紙面としてのこるようになった時代から明治の頃までに残された記録は、一様に日本人の素晴らしさに賛美を送っていた。

これは、もともとあった日本の教育が、本能を大切にした教育に他ならなかったからで、だからこそ、開国後に信じられないくらいの短い時間で世界トップクラスの知能と教養を持ち、同じく世界有数の経済力を持つにまで至った。

なぜ、本能を大切にしてきたのかと言えるのだ? の根拠ですが、実のところ、皆が知らないうちにそうした本能を大切にする事がこの国の子育ての礎として存立してきたことは全くと言って良いほど知られていない。

 

少し時代は飛ぶのだけれど、仏教がこの国に伝来した理由はなんであるか?を皆さんはご存知であろうか? 500年頃の飛鳥時代に聖徳大使を初めとして当時のトップ達が積極的に取り入れたわけだが、これが日本古来からある神道と対立することなく融和しながらここまできたことに、不思議さを全く感じえないであろうか?

この不思議な両立の理由は至極簡単なもので、仏教の教えそのものが、宗教なのではなくて学であるということ、それは本能と理性の調和にあったからだ。

時の飛鳥時代は、曽我氏などの大きな豪族が力を持ち、繰り返される戦乱とそれにより、すさんだ世になりつつ有った。

なぜそうした世の中になるのかというなら、それは理性に大きな問題があるからで、故に”理性は間違っているので、本能を良く学び、道を開かれよ”という仏教の持つ本来の教え がこの時代にマッチしたからだ。

故に神道と融和しつつ、互いに侵食しあう事もなく現代まで来た。

*参考までに僕は無宗教者ですので、先入観など全くなく仏教にたいする分析を冷静にすることが出来ていると思っています。

 

 

この、理性は間違っている というのは、一般的常識からすれば「は~?????」と疑問を抱かれると思うのだが、これは自分の持つ喜怒哀楽は精神状態が冷静であれば正しいはずだ、思う常識?(実は思い込み)からきている。

なぜ間違っているか?ですが、それをこれからお話しますが、退屈かもしれませんが、ぜひ話を聞いていただきたい。

当然ですが、人間の思考は常に本能の上に理性が築かれることで成り立ちます、それはその時代の社会的背景を中心とした教育によって出来るもので、、本能は基本プログラムであり人間の性、故に生まれて死ぬまで普遍で、しかしながら生きていく環境に旨く適合できるように理性が本能にプラスされることでその時代の生活環境にうまく適合するようになっている。 

理性はその時代と供に様々な価値観をもって人間の行動を引き起こすわけで、故に本能の使い方を間違った教育、もしくは軽視した教育は理性に必ず間違いを起こさせるわけです。

これに絡んでの事ですが、有名な般若心経の中に出てくる””と言う文字があり、それは理性そのものを指し示し、常に間違いを犯す可能性があるのだという意味のという文字に接続されている。

先も書きましたがが、飛鳥時代は豪族勢力の争いあう荒れた時代であり、聖徳太子は当時の人たちが持っていた理性の間違いに気が付き、その過ちを正す為に、本能との正しい調和を解き明かす学たる仏教を取り入れ。

その力で多くの民を導くことで、その争いの元が自分達のもつ誤った理性そのものあることを悟らせ、同時にそれが本能のどこから発せられているのかと考えさせることで、煩悩すなわち争いの基となる欲を排除することが可能になると考えたわけだ。

本能は正しく、理性は間違いだからもう一度見直すことを薦めることで、荒れた世を間接的に落ち着かせようと試みたのですね。

 

そして、本能学の一つの形態である仏教は、そのあまりの解りやすさから当時の人々に浸透し、あっというまにひろがっていく事ができたのです。

 

以上の話は、私が独自の教育研究(本能論に基づく分野)を行うに際し、師と仰いでいる方が教えたくれたもので、師は、仏教の発祥地に残る仏教原文(殆ど言語として失われている言葉で書かれた経典)をパーリー語等、4つの辞書によって現代語へ翻訳し、それによって本来の意味を知ることができたと語っています。

残念ながら、現在の仏教はその本来の目的を完全に失っただけではなく、意図的に難解化され、何代にも続く時の権力者の都合よい解釈を大量に付け加えられた事で、まったく違った教えになってしまっています。

ちなみに仏教で悟りを得るとは、自分の持つ理性(その時代の人間がもつ常識)をすて、本能を素直に認めて物事を考えることが出来ることを意味しますが、悟りを得るとは本来そうした誰にでもできることで、訳のわからない修行をしたものだけに認められるものではない。

ごく庶民的なもの(学)ということです。

 

まあそんな話は別として、そろそろ話を戻しますが、

本来有った、本能を正しく捕らえる教育を失ったこの国が現在抱えている社会問題、すなわち叱られずにほめて育てられた子達の姿はとんでもなくひん曲がった理性そのものというわけです。

一例を挙げれば、働きもせずに生活保護をもらい、幼女の裸体みて夜昼逆転生活というのも、彼らがもっている(正しいと考えている)理性のもたらす結論なのですから

 

さて、叱ることでよく問題になるのは、叱ることが癖になるという言い草ですが、本当に癖になるのか?  という事について、答えははっきりNOと僕は言い切ります。

もし叱ることが誰でも癖になるものなら、あえて癖になるという言い方をする必要は全く無いわけで、何故ならそれが普通の人間の、当たり前の行動なのであれば、それは癖ではなくて常識になってしまうわけです。

故に、癖になるという言い方自体がそもそもおかしいわけで、そこに論理的破綻がある。

はて?、それではあえて癖になるという言い方をするのは、なぜか?

それは単にその対象たる相手が他とは少し異なるからで、いうなればそこに癖になるという言葉を使える対象物たる事実や相手がいなければ成り立たないわけです。

それ以外は問題なく叱ることが出来ているわけで、しかしながら普通の子育てが出来る人間ではなく、普通が出来ない者を対象にして叱らない教育だ叱らなくていい子育てだと、それがあたかも世の中の全ての親たちがそうなのだという自分勝手な決め付けで考えて煽動するから、無関係な者たちまでもが巻き込まれて全体がおかしくなる。

子供を叱る行為は、本来全ての生き物に備わる本能であり、それは又その生き物が高度化するほど”叱る”は顕著な行動となって現れます。

いうなれば、生物は高度化するほど叱る行動が多くなり、それが自然や外的から身を守り、子孫繁栄のために備わる当然の行為で、これはまた本能であるが故に、けして心の成長と切り離すことはできないということです。

人で考えるなら、人類として生物界に存在を置くようになった数百万年昔から現代にまで受け継がれているもので、本能が正しかったからこそ、生き延びて繁栄できたわけで、本能が間違っていたら、とっくに絶滅している。

本能は、いわゆる基本プログラムにあたるもので、叱るはその一部であり、しかしながらその叱る行為そのものは時代を生き抜くために常に変化しながら必要に応じて実行されるのが正常であり、それを拒否することそのものが誤りだということです。

この本能行動は、大脳基底部にある脳幹がその発信源ですが、脳幹そのものは怒りの感情を掌っています。

いうなれば本能=怒りが人間のもつ感情の基礎であり、その上に哀楽が成り立ち、最後に喜の感情があって、脳幹(基礎)を中心として大脳新皮質でコントロールされている

まとめると、叱る=自然界を生き抜いてきた基本プログラム(OS)=大脳の一番底の生命維持活動のよりどころである脳幹=怒りの感情の源=本能の一番重要な部分。

となるわけです。

叱るは癖になるのではなく、癖になってしまう人間は、その人間に備わった理性に問題がある為に癖になわけです。

ちなみに、叱ると怒るはその根本が同じところから発せられており、これも、至極単純かつ簡単な人間の心理構造の基本なのです。

 

その2(来週)へ続く