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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

古代の不思議

2012年09月12日 | 研究-教育・育児

不思議ですよね~本当に 1800年前の世界がこうした物から見えてくる。

ジパング、黄金の国、西洋から見える日本は夢の国だったんです。

さらに織田信長の時代から世界に広まった 侍文化を基本とした、不思議の国 日本 というイメージ。

第二次大戦で特別攻撃隊がもたらした、家族を命がけで守る強き男達がいる国

 

そして時代は流れ、 ほめて育てられた世代の 引きこもり、ニート、生活保護に浸り、働こうともしないどころか

男女平等を建前に女性から守ってもらおうとする草食系の男?どもが あふれかえる国。

すでに”美しき国、日本”は失われ、ひたすら崩壊の道を歩みつつあるこの国。

 

このさき、どんなイメージと評価で世界から見られるであろうか?

最低最悪の、若者像そのものでなければよいと思う物の、何一つ誇れる物など無いではないか? この国は! 

そう思ってしまうんですね。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120912-00000473-yom-soci

出土のガラス玉、古代ローマ帝国製か…広島

 9月12日(水)12時1分配信

 広島県三次市東酒屋町の松ヶ迫矢谷遺跡(3世紀前半)から出土したガラス玉3点(直径約1センチ)が、古代ローマ帝国で作られたガラスを素材にしていた可能性の高いことがわかった。

 当時の交易や交流の姿を示す貴重な史料になりそうだ。

 県立歴史民俗資料館(三次市小田幸町)が発表した。ガラス玉は1977年、三次工業団地造成に伴って行われた発掘調査で、埋葬施設から出土。コバルト色で、長さ7・3~7・9ミリ、直径8・8~9・9ミリ。中央に穴が開けられ、装身具の一部に使われたと推測されている。

 3月、奈良文化財研究所(奈良市)が、蛍光エックス線などで分析。その結果、ローマ帝国産ガラスの特徴である、「ナトロン(蒸発塩)」が使われていることが確認された。ガラスの産地は地中海沿岸から中東にかけてのエリアと考えられるが、玉形に加工したり、色づけしたりした地域は不明だという。

 同資料館の下津間康夫学芸課長は「ローマ帝国産のガラスで造られたと推測されるガラス玉では、国内最古級。1800年前の物流が確認できる貴重な史料」としている。

 ガラス玉は14日から同資料館で開かれる秋の特別企画展「中国山地の原始・古代」で公開される。

最終更新:9月12日(水)12時1分


12ヶ月児 の成長

2012年09月07日 | 研究-教育・育児

めでたく1才になった孫。

「うんうん、人間ですね~」  当たり前の事ですが  と爆笑。

手づかみで食べることは大分前からやっていたのですが、このところフォークを使い始め、箸にも挑戦中。

フォークは握れば良いだけですが、箸はきちんと持たねばならない。

ところが、箸が大きすぎて指に挟めず(当たり前)フォーク同様に握り持ちでおかずとかを つまもう?と努力している。

笑ってしまうのが、自分が離乳食を食べた後で、大人が食事していると、すっ飛んできて皆の間に混ざりたがる。

無理矢理 間に割り込んでは、手当たり次第に掴もうとするので、味噌汁なんかがあるとヒヤヒヤ。

”危ないから” と引き離すと何度でもあきらめずにやってくる。

難しいのは、孫が自分で出来るとイメージしている事に次々挑戦するのは良いものの、特に自分が大人から何かを

やってもらうと同時に、すぐ折り返して自分もやろうとする事。

例えるなら ゆりかごに怪獣のぬいぐるみを入れて揺すったり、

コップで飲ませてもらうと、すぐ自分でやると言い始めて泣く、他にも部屋をクイックルワイパーで掃除しようとしたり、

掃除機をかけようとすること等々。

でも、能力的にまだそう簡単にはいかないので、不機嫌になったりする

叱れないしね、こういう姿は。

 

道具を使いこなす能力が更に高まり、絵を殴り書きし始めたりするので、誕生日プレゼントは何処の家でも買うことがあるこれ

 

喜怒哀楽の感情がほぼ明確となり、不明瞭な言葉で色々と伝えて要求するも、大人が答えられないと怒ったり泣いたり。

何かを表現しているらしいのですが、まだうまく伝えることが出来ませんから仕方ない。

 

反対に大人の言葉に対する理解は、すでに数えることが不可能なくらいまで広がり、大人同士が離していると

しっかりと聞き耳を立てていて、多分会話の中に混ざる自分の名前とかを元にしてちりばめられた単語を聞いているのだと

思うんですが、「こりゃ~下手なことを話せないな~」と思う

 

遊び方の変化やバラエティも格段に増え、何かと何かを組み合わせたり、積み木を重ねたり壊したりする姿を見ながら、。

家族内で最近よく話すのが もう一度 3ヶ月位の頃にもどらないかな?ということ。

すやすや寝て、お腹いっぱいミルクや母乳を飲んで、声をかけると笑顔で答えていたあの頃が懐かしい!

まあ いわゆる大人の身勝手というやつです (笑)

 

あはは!と、そんなのは置いておいて、 「人間てすごいですよね~!」 生まれてわずか一年で、 感情豊かな人へと 

進歩する。 成長とは素晴らしい物です。


モデルの道を選ぶのだろうか?

2012年09月03日 | 研究-教育・育児

娘の人生に口出しできるのはあとわずか。

18才になれば、よほどのことがない限りは余計なことが言えなくなる。

大学に進学するのか? 専門学校で公務員目指すのか? 普通のOL? それともモデル?

どんな人生にせよ、自らの道は自ら切り開く物。

どう生きていくんだろう・・・・・

と父親としては、ひたすら心配なわけです、

スッピンで清楚、純真、このままでいていてくれないかな~?

 子供の頃に娘が大好きだったアニメのエンディング。

当時も今も 鏡の前で同じようなことをしているな~ (笑)

明日のナージャ_ed


ほめて育てられるとなぜ駄目人間になるか

2012年07月17日 | 研究-教育・育児

プレジデントの記事をYahooが記載していましたので紹介します。

非常に良い記事です

 

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120531-00000001-president-bus_all

 

一部抜粋し、なぜ褒めて育てると駄目人間になるのか?を、これにからめて説明していきます。

結構いい記事ですので、とても参考になるかと思います。

この記事の冒頭にあるように、たいていの人は自分を平均より上と答えています。

そしてそれは小さな優越感となり自分を下支えしている。

こうした部分がないと、特に男の子には必ずこれが必要になるわけですが、この優越感の根拠は子供時代の友達遊びを基本とした数々の経験の中に裏打ちされながら出来上がってくる物。

男の子の遊びは基本的に勝負と競争が前提で、それぞれの子はそれぞれの面で、他の子より少しずつ秀でる面を持っていますので、そうした事を遊びを通して認識し、それが自分で分る事がさらに伸びる要素となり、喧嘩したり虐めたり、いじめられたり、挫折や敗北等を繰り返しつつ確固たる自信となっていく。

対人関係の中でもまれながら構築された優越感だからこそ、良いわけです。

ところがこれを、親のかってな思い込み

*他の子よりよい子にするのだ

*未来の幸福を語ってその実は自分の優越感の為の成績優秀な子にするのだ

で 褒めて育てるという教育を行なえば、それは本人が自ら築き上げたのではない、あくまでも親の評価によりつくりだされた 人工的自信でしかなく、 さらには不必要に 偉い 偉い スゴイ スゴイ と幼い頃から言われ続ける事によって、なんら根拠が無きプライドが出来上がってしまう。   

泣くことなく、悔しい思いをすることなく、何の苦労もせず、にただ与えられただけの優越感。 

これが何を表すのか?というと、自発性と苦しみ無きところを原点としている事から、非常にもろくて弱いということ。

あまりにも簡単に壊れやすいが故、 ”このくだらないプライド”を他人から揺さぶられる事を極端に恐れるようになるわけです。

悔し涙と忍耐で構築されてきた物でない以上は、それが当然なのですね。

 

これが今の若者が仕事について簡単に病んでしまう大きな理由で、至極簡単な事で難しくも何ともない。

テレビゲーム中心で人との摩擦も殆ど無く育っていますから、ひどい場合は反抗期がないという極端なおまけまで付いてくる。

病むのが早期に起きれば 引きこもりという形になって現れ、ニート含め、こうした現代社会に起きる病の原因は、人の心の根底部分で全てつながっているもので、けして単発で発生する物ではないのです。

女の子に酒を飲まして多発する運動部男子達のレイプ、増殖する草食系男子、変態的ストーカーも根本は皆同じです。

 

>■自己礼賛は負のスパイラル

 わかりやすい話、勉強の成績や仕事のパフォーマンスがいまひとつ(客観評価)なのに、なぜかいつでも「俺ってグレート」状態(自己評価)では、周囲は「何様のつもりだ」と不快に感じるでしょう
> なぜ自分を過大評価し、「俺様」状態と化すのか。その心理を読み解くと……まず、パフォーマンスがいまひとつという厳しい現実は動かせないから本人は内心面白くありません。そしてそんな不振が続けば滅入ってしまい、果ては自我崩壊に陥る可能性もある。それを防ぐためには自分が秀でた点を探し出しては、ことさら自画自賛したり虚勢を張ったりして、自尊心を上げ底するしかありません。もしくは、自分を正当化するため、周囲をこき下ろすしかない。
> 極論してしまえば、頭の悪い人、能力のない人、嫌われる人ほど、平均以上効果のレベルをアップさせるのです(結果的に自己評価と客観評価の乖離が大きくなる)。

上にも書きましたが、ガリガリやってさえいれば点数がとれる勉強とは大きく違い、人間関係は心と心のぶつかり合いという非常に難しいものですから、相手との距離を適正に測りながら自分を表現したり思いを伝えたりする術を経験的に身につけてきていないと、おいそれ出来る物ではない。

だから面白くない。

刃物降りまわして無関係な人を大量に殺傷する人間が必ずもつ精神的構造はそのものずばりここから来ていますし、そうした人物の過去を調べると親の言うことをよく聞くよい子であることがほぼ100%です。

 

誰にもあるこうした心理的一面が、 褒めて育てられることによって簡単かつ極端に歪んで増長してしまうという恐ろしい事実が、ここを読んだだけでも分るわけです。

 

適正に、人と摩擦しながら幼年期を過ごしてきた、いわゆるまともな人間というのは、自分に対する評価が割と低めです。

それは他人の評価というものが容易に得られない物なのだという事を子供の頃より学び育くんできているからです。

 

ところが、何度も書いているように、ほめて育てられると 親の植え付けた根拠無きプライドの上に胡座(アグラ)かいての俺様状態が恒常なのですから、たちが悪い。

 

まずはその俺様意識が、上の人間、周りの同僚に継続的不快感を与える、もちろん学校生活でもこれは同じです。 

特に引きこもりは、知らない間に自分が周りに与えた不快が、精神的反撃の矢となって周りの人間関係から返ってきて刺さる事に恐れを抱き、それ故、自分が傷つかないようにと良い人間(自分)を演じ初める、やがてその演技に疲れ果てた結果の待避(心の)がそそのまま身体的行動として表れた物で、難しくもなんともありません。

脳の血流がどうだとか、周りの人間の理解が足らないだとか、そんな物は何の関係もなく、親が 病名をもらったりや周りの不理解とすることで自己正当化するための口実を探しているだけの事でしかなく、そうしてきたからこそ子供が引きこもりになる。 

社会に出るという事の第一条件は、周りにいるあらゆる人間達はすべて自分より経験が長く優れた者達のあつまりであるという認識が子供の心に必要なことで、普通は意識しなくても、経験的に分かっていれば基本的耐性が確立されている。

しかしながら 誉めて育てられていると、摩擦から来た強さを基本としていないため、ましてや対人関係問題の処理能力等、なんら確立されてはいませんから必ず精神的パニックになってしまう。

その結果として、自分がうまくいかないのは他人のせいだという思考へ段々と変化していく。

弱い精神はそれを素直に認めることが出来ませんから、他人を悪にすることで何とか持ちこたえようとするわけです。

 

 

> 最近勢力を増している彼らの共通点のひとつが、コミュニケーションの総量が不足しているということ。一人っ子や、パソコン・ゲームなどにどっぷり浸かる人が増え、人と接して話す時間が激減しているのです。他人こそ自分の鏡。「自分は人からこう思われているのか」という気づきを得たり、自己評価をより客観評価に近づけたりするためには、生身の人とのやりとりが不可欠です。ある意味、デジタル偏重で一人殻に閉じこもる傾向が、超過大評価人間を量産しているのかもしれません。

まさにこの記事で書かれている通りであり、子供の頃から習い事と塾通い、心を成長させる友達との遊び時間は無駄だとして削られ、英才教育だと知識を詰め込まれ、親の優越感のための勉強をさせられ。

それでいて更に 誉めて育てる教育によって最悪のプライドを繰り返し子供の心にすり込んでいく。

まともな人間が育つはずなどないのですね、これでは。

すぐれた能力は優れた人格と人間性を持って初めて生かすことが出来る、また生かす場所を与えられる。

社会における人の基本を育てることを忘れてしまっているのが、今の日本の姿。

徳育教育(人格教育)を辞めてしまった日本の姿とも言えます。

 

成功する、いや人生を生き生きと送れるタイプの人間は?というと、やはりこの記事に書かれているとおり、

>努力を惜しまない人とはどんな人か。思うに、いわゆる「成功者」の人はこういうタイプと言えるでしょう。彼らは総じて過度な平均以上効果を持つことなく、逆に平均以下効果であることさえもある。常に謙虚で、腰が低い。自分に欠けた部分を冷静に見極め、研鑽を積みます。


という人間です。

ちんけで不要なプライドなど一切無く、学ぶことに欲が強く、謙虚、そして人の話を良く聞く。

その基本はというなら、自分の自分に対する評価が低いからであり、それゆえ、自分を高めようと努力を惜しまない。

 

自分の行動における、自分の評価は他人が下す物ではなく、自分自身が目標を己の中に持って結果と目標との差違を冷静に見つめることが出来ることが肝心。

そしてそれが思った以上に出来たときの喜びが、その人間の自信と強さへとして蓄積されていく。

だから、人間的にも強く他人の無責任な評価を気にしないし、揺らがない。

 

ほめられて外部から頂く物では無いわけです。

 

男は、特にこうでなければならず、それが出来ているからこそ、家庭を安定させる事が出来るわけですが、よくドラマなどで頑固親父とかが家族相手に えばり散らすシーンがあります。

これは、弱いからそうなるわけで、弱ければ弱いほど自分の言うことを聞いてくれる人間に甘ったれる。

親の背中を見て育つとは、おやの人間性を見て育つこと。

父親の良い面、悪い面、その両方を学びながら子供は育つということです。

今の日本社会にある家庭の姿は 、父親不在という欠陥家庭に、どこぞの教育評論家がうえつけた 誉めて育てる教育、そして友達と遊べない子供達。

まともな子供の方が少なくなってきているのは当たり前の事なのですね。

 


10ヶ月の乳児 追記

2012年07月07日 | 研究-教育・育児

昨日、少し面白い事があったそうです。

夕飯の後のことです、家内がお膳の上をかたづけて、布巾で拭いていたところを、じーっと孫が見ていたら。

「拭いてみたい?」と 家内が布巾を孫に渡すと、あれれ・・・ そのまま同じようにまねて拭き始めた。

この月齢だと、実際にまねてやろうとするものだけれど、実践そのものは無理だろうと思っていた家内はぶっ飛んだらしい(笑)。

 

そしてもう一つ、これは今日の出来事。

コンビニで200円くらいで売っているマカダミアナッツのチョコレートが入っている箱。

スライド式の引き出しみたいな構造となっているわけだが、たまたま息子が開けてチョコを食べているのをみた孫、

すこすこと近くに来ると、箱を開けようと試みはじめた。

ところが、上箱と中箱がきちんと閉じあわされてしまうと、スライド式であることから乳児ではどうやって箱を開けるべきか分らない。

いちどもこうした箱を開けた経験がない10ヶ月時には結構難しいものだ。

やはりというか、上手く開けられないので、だんだんとぐずり始めた。

そこで、すこしだけ中箱を引き出してあげると、上手く開ける事が出来た。

しかし全閉にしてわたすと、やはり開けられない。

また少し開けてあげると開けられる。

要は、全閉だとどこに指を入れて引けばよいか、もしくは反対側から押すというのが分らないわけで、そこで、外箱の一部を

ほんのわずかだけ切り取り。

全閉でも、そこに指をかければ開けられる様にしてみた。

半分泣きながら開けようとする孫、しかししばらく格闘しているうちに、切り取られた部分に気がついたようで、

そこに指をかけると、開けることができた。

家箱を少しずらしておいてあげたことで開けられたのと、切り取られた部分がずらしと同じである事が頭の中でリンクしたようだ。

その後しばらく見ていたのですが、開ける事を繰り返すごとに上手になって的確に、また素早く開けられる様になってくる。

 

そこで、実験的に切り欠きのない、反対側のほうを開けさせようと試みてみたが、外箱と中箱の間にある隙間に

指を入れて開ける事まではさすがに知恵が回らないようだ。

泣き出したので、その先を教えようかと思ったが、とりあえず中止。

 

経験を元に、積み重ねることで更に高度な事ができるようになる、人の持つ思考能力の素晴らしさを思い知らされた出来事でした。

10ヶ月児って素晴らしい。


10ヶ月の乳児

2012年07月03日 | 研究-教育・育児

写真は、僕のバイク用ライディングジャケットをかぶって遊ぶ孫。

 

 

めでたく、10ヶ月目に入った孫。

9ヶ月と10ヶ月ではこんなにも違うものか!? と思うほど成長している。 理論ではなく、何か一つ変化が有る度に、

人間というものは本当にすごい物だと認識させられてしまう。

 

まず驚くのが、理解している語彙の数、前月までは10数個程度だったのが、げんざいおよそ30個前後は理解

しているようで、まったく話すことも出来ず何にも理解できない状態から、わずか10ヶ月で人間らしい言葉という

物を使うことが出来るようになって来ている。

 

言葉の理解が進むにつれて、”話し言葉”として使えるようになっているのが、先月までの パパ、まま、まんま、バーバ、ねんね という、

もっとも使う言葉を初めとした物から、どうも、嫌、駄目、等々10個近くにまで増えてきた。

さらにまだ不安定(まだ言葉とその意味が上手くリンクせず?に間違った使い方をしている)なのを含めると大体15個くらいとなっている。

 

さらに、それぞれの言葉の意味と 自分の動作による親の表情変化を読み取り、同時に3元リングも少しずつ確立されている。

たとえるなら、フルネームで孫の名を呼ぶと、 「ハーイ!」と言って片腕を上にあげてニコニコ顔。

そこで少し意地悪して、呼ぶ名前を違う人の名で呼んでみると、じっとこちらを見てキャッキャ笑い、腕を上げようとはしない。

再びフルネームで名を呼ぶと、再び はーい! と腕をあげる。

人間らしい、言葉によるコミュニケーションの基礎が確立されてきているのが分る。

 

手先がとにかく器用になり、このところリモコンボタンを押しまくるので、設定がいつの間にか変わっていたりという事が多いので困る。

 

やっかいなのが、自己主張が強烈になってきたことで、嫌だと怒るし、声(言葉)で威嚇?する。 持っている物を取り上げられるのを嫌がるようになって、

「それ駄目よ!」という言葉を耳にした途端、取られないように体の後ろに物を隠したり、言葉にならない言葉でなにか言うようになってきた。

 

嫉妬の感情の明確になり、自分が今抱っこされている相手がお気に入り(何故か僕)で、その側に誰かが近づいてきて愛情を取られるのを嫌がる。

例えるなら、孫を抱っこして、甘えているときに、家内が側に来て僕にくっつこうものなら、怒って両腕で家内の顔を押したり、手を払いのけようとしたりする。

 

胡座(あぐら)で僕が座っていると、その上に座ってだらんとして くつろいだり?、オモチャ持って来て座ったりという事もする。

 

大人のしてることをみて真似をしているのは良く有ることだけれど、つい最近確立されつつあるのが、積み木などを積んだり叩いてクズしたり

何かと何かを組み合わせて遊ぶ事だ。 たとるなら、空の卵パック(相変わらずこんなのがオモチャです)を、手に持ったブラシで叩いてみたり、

といくつかの物を組み合わせて遊ぶようになってきた。

 

ざっと10ヶ月児の姿を書いてみたけど、人間の成長というのは本当にすばらしい。

どんな人間もこうして成長をしてくるのだろうけれど、目一杯の愛情をそそがれ、何不自由なく育ち、やがて反抗期を迎えて大人になる。

一時大変だった僕の息子も、僕が孫と接している姿を見て、自分が親に対して持っていた歪んだ気持ちというものに沢山の誤りがあった

ということを嫌と言うほど認識しているようだ。

 

”思いは、子ではなく孫に伝わる”という言葉を聞いたことあるけれど、僕は一体何を孫に伝えられるであろうか・・・・・

 

 

 

 


子供の自立と親

2012年06月20日 | 研究-教育・育児

数日前のこと、僕はもう出勤してしまった後の事らしいのですが、娘が家内からビンタされたそうな。

物腰穏やかで大人しく見える我が娘ですが、 「イヤ イヤ イヤ・・・」世界を相手に戦う様な子ですから、見かけ通りなはずがない。

表に出ない気の強さは半端じゃなくて、言い方が悪いですが、何かしらで全校生徒を敵に回しても平然としていられる様な子でして、

ただ、それが悪い方向には全く出ないので、親としては助かるわけです。

家内とは、やたらと仲の良いときもあるかと思えば、その一分後にはえらい喧嘩状態になっていることが多々ある。

第二次反抗期の終盤、終了のゴングが「カ~ン!」となるわずか前くらいの状態ですから、

普段平穏であっても一度始まると、結構すさまじい。

どうも女性というのは上下関係が曖昧で、横並び社会という本能的なものが基本的に有るので、

親子でも 個対個 という関係なのですね。

 

幼い頃から常に男の3歩後ろを歩け、必ず男を立てよ、例え自分が秀でていたとしても男の前では絶対に生意気であってはならない、と常々耳に染みこませながら育ててきたせいかどうかは知りませんが、すでに結婚している上のお兄ちゃんや僕ともめる事は一切ありません。

まあ、裏を返せばそれだけ母親というのが甘えられる存在(ダイレクトな感情がはき出せる)ということですから、悪いことではありませんが、「よく喧嘩するよな~」 

そんな娘ですが、18歳という年齢がなぜ準大人と見なされるのか?という事が明確に解る思考がほぼ99%完成されつつあるのが、話しているとよく分かります。

本人も去年までは出来なかった様な物事への考え方とその変化について認識している様で、また、それが故に若者らしく良い方向で揺れ動いてもいるようです。

 

顕著に表れている変化の一部を切り取ってここへ書き出して見るなら、物事に対する理解を、それまでの自分の感情だけで推し量るという面から、

自分の感情を完全に切り離して第三者的視線で冷静な思考をする事が非常に安定してきたという事ですね。

具体的には、娘が論文の練習を際限なく繰り返している事は知っておりましたが、与えられた課題の、特に内容不明瞭な文章等を中心にして、その作者の言わんとしていることを読み取り、それを自分なりの意見と整合させつつ結論を出していく行程 というのが、娘と話していると、ほぼ90%位まで完成されて来ているのが分かる。

論文のおもしろさはそうした限定された範囲で、与えられた情報を使いながら体系的に論理をまとめ上げつつ、最後に自分の考えを入れた物へと仕上げる創造にあるわけですが、

これは自分の感情を殺して切り離さない限りはなしえない。

反対にこれが、最近の褒めて育てられている若者(反抗期が無い若者)だと、おしなべて問題にならないような文で非常に綺麗なのを造りあげるのは秀悦。 

ただしその論文には何ら”魂”というものが存在しておらず、よって面白くも何ともない文章となる。

100点なのに内容がゴミということです。 *これでは就職して働くことは不可能

なぜなら、二次反抗期がないという事は、自分と自分を切り離すことができない ということそのもので、当然、他人の中に存在する自己という物を、他人から容易に切り離せないことからそうした物になる。

第二次反抗期が無いことが及ぼす人間性の影響は、学校生活程度の事では別段支障が有るわけではなく、それどころかスムーズにさえ行く。

しかしながら、年齢が増すにつれてだんだんとその特徴が出始め、やがて精神的安静を欠くようになることで、異常行動が出やすい。

なぜなら、確立し切れていない人間性は常に誰かの影響下にあることを好むためだ。、学校という単純で安定した(自分の位置を確立しやすい場所)世界から、

社会という多様な世界で過ごすことは、自分の身を置く場所が常に変わることでもあり、月日の流れと共にそれが積み重なると、段々と思考が混乱するようになる。

 

ある線を境に、自分と他人という物をきっちり切り離し、いわゆる向こう側という視点で物事を見ることができないことからこうした混乱が発生するわけだが、

もちろん本人は解るはずもなく(反抗期による自立は化学反応のように目に見えるのではなく、知らない間に必要で重要な部分が欠落しているという恐ろしい物だからだ)、

ただ、それは当事者間ではなく、第三者として端から見るものが、いくつかの用件に絞って見ると明らかに認識できる。

 

一応参考  http://netallica.yahoo.co.jp/news/266469

*ただし、この記事を書いた者が嘘をついているかカウンセラーが嘘をついているのか、一部非常におかしい部分があるので注意。

 

上記の原因は、自分と他人とを切り離し、第三者視点でじぶんを冷徹に見られるかどうか?という点にあるのだけれど、問題意識を自分で自分に提起し、それぞれの立場からの対比と、強く自分の思いを通そうとする基本的自立要素が出来ていないからのことでしかない。

その極端な代表例は、オーム真理教で大きな事件を起こしていた当時の信者のほぼ全員と言える者達が第二次反抗期が無かったという絶対事実に現れています。

反抗期が無かった=強い自己という物が出来ていない。

ゆえに、ある事をきっかけに、混乱の結果として有る方向で強く自分を引っ張っていってくれる存在にもたれかかったり という事になります。

反抗期が無いという事は、他人にのめり込む自分を制御する機能も働かないということであり、他人の思考に汚染されるということが全く解らない人間性になる事

そのものでもあるわけです。

 

 

 

思考には男女で差がありますが、スイッチで入切するように自分の感情を切り替えられる男にとっては特段難しい物ではないのですが、そうした切り替えが苦手な女性は論文が作文になってしまう傾向がある。

作文と論文の違いは”魂”表に現れているか、隠されて見えない中に存在するかという違い。

もちろん隠されて見えないからこそ、強烈な魂がそこに無いと、読む者の心に何かをもたらすことは出来ない。

 

娘を見ていると、物事の考え方が僕に極めて近くて、幼い頃は家内の方に似ているのかと思っていたのだけれど、どうもそうではないように思える。

こうした自立と魂、人の心に関して面白い話が娘からあった、現在有志達が協力して自発的に作り上げているミュージカルの事で、全体がなかなかまとまらないという出来事が有ったらしい。

高校生くらいだと、まだ自分の果たす責務と、自分の出来る限界という物を解っておらず、

自分を誇大解釈したり、逆に過小評価したり、特に最近の子達に多いのは、褒めて育てられている事で自分を省みようとしない、いや”出来ない”という傾向がある。

本当は現実にある問題をわかっているのに、それを直視しようとせず、誰かがそれに触れようとすると、他のだれかがきれい事で適当にまとめ(払いのける)ようとする

結果、本心と本音をさらすことなく、いくら話合いをしても、”事の 根幹” になかなか近づかないので、決してまとまることがない。

褒めて育てられた事で出来上がった、根拠無きプライドと、叱らない教育でほんの僅かなりとも

自分が傷ついて苦しむことを避けたがる子達が大多数のとなった現在。

 

有る子が鋭利な刃物を押し当てるようにして切り込むのは、容易な事ではない。

娘は返り血を浴びる覚悟で突破口を切り開いて見たようですが、そこから全体が変化を起こし始めたらしいのだけれど、その事が正しいかったのかどうか?という事について、

先週末に僕のところに相談しに来た。

大体1時間くらいかかって詳細な話を聞き、人の心の流れと、何かをなす際に全体としてあらねばならない人の姿を、僕の経験的な物と織り交ぜて話をしたのだけれど、

ミュージカルは何を見せるものなのか?という事については特に強く話した。

ストーリーだろうか? 音楽だろうか? 綺麗な衣服や舞台セットだろうか?

これを一つ一つ娘に投げかけていく事と、娘なりに答えていく過程で、理解して行かねばならないのは、

それが、何ら覆い被されていない、むき出しのままの人間性、それぞれの魂を結合凝縮して形にした物がミュージカルなり演劇なのだということ。

見に来てくれる人は何を見に来るのであろうか?は、その舞台の中で演じられる人の苦悩の結果というものがそこにあるからで、劇の完成までに至るそれぞれの心の葛藤の結果としてそこにあるからこそ人を感動させられるのだと話した。

格好付けて本心をさらさない人間のした演技というものが、格好付けの上に成り立っている以上は所詮演技の枠を超える事は出来ない。 とうぜん見ている人を感動させることなどかなうはずがない。

格好付けを取っ払い、むき出されたそれぞれの人間性が、劇の完成までの苦悩という道を通るからこそ、その人間達の演じる ミュージカルになるのだと言うこと。

同じストーリーのミュージカルをやっても、それで見ている人を感動させられるかどうかと言うことは、そうした点から差違が出来るのだと、そう娘に説いたわけです。

まあ、高校生のレベルではまだまだ難しい問題、しかしながら、色々な経験を通して人間性というのがいかに大切な物なのかという事をこれからもたくさん勉強していってもらいたい。

そう願う一人の父親でもあるわけです

 

 

 

 


9ヶ月半の乳児

2012年06月12日 | 研究-教育・育児

もう少しで9ヶ月半になる孫。 とにかく寝ないらしい。

昼寝は午前中に15分、午後も15分位、それ以外はほぼ一日中、部屋の中を歩き(ハイ)回っては何かしらの悪戯。

ママ(息子の嫁さん)が「何にも出来ない~」と、ぼやいていますね~(笑)。

ただ、夜は8時になると熟睡し、そのまま朝までぐっすり起きないので、楽と言えば楽。

 

このところの変化ですが、とにかく自己主張が強くなり、特にママを困らせています。

「だーれに似たんだろ?」

 

離乳食で椅子に座らせようとすると、全力で逃げ出すので、みんなあきれ顔。

不必要に拘束することなどもちろん出来ませんから、ほとんどお膳のすぐ横に座らせる(出来る限り正座?)か、立たせたまま離乳食を食べさせています。

 

そのつかまり立ちですが、時々手をはなして暫く立っていられる状態になりつつあり、でも、わりと早目に歩くかな?と思ったものの、思いのほか慎重でした。

食事中の立ち歩き食い、追い食わせは絶対させませんので、何度も、逃げ出す?孫を連れてきては座らせることを嫁さんは繰り返しをしていましたが、

これは大変な忍耐が必要で、でもこれを親が楽する為に怠ると 小学校に入って授業中に平然と立ち歩き回る子に成長します。

授業妨害そのものとなり、多動児の烙印を押されて発達障害だ等と言われることになるわけで、こういった親の怠慢が生み出した、誤解烙印 発達障害児が全国にごまんといる。

 

さすがに孫の方も食事の時は座るものなのだ、と段々分かってきている?らしく、立つことは多々有りますが、その場から離れることは殆ど無くなりました。   

ただし、相変わらず椅子に座って食べるのは駄目ですね~(笑)

 

他に、このところ大変になってきているのは、言うことを聴かなくなって来始めた事。

嫌だと明確に意思表示をし、思うようにいかなかったりするのが極まる?と怒り、手に持っている物を投げる事もある。

自分の気持ちを何らかの言葉で主張しているらしき?事が多々見受けられますが、殆ど何言ってるかわかりません(爆笑)。

当たり前ですが、パパ、バーバ他、数個の言葉しか話せませんから・・・・・

 

自分の気持ちと、今、直に接してる相手が合わないと、”泣き真似”をして他の人にだっこをせがんだりする知能犯的?なところが明確に出てきた。

たとえると、我が子が可愛くて仕方ない息子が抱っこをするのはいいのですが、結構べたべたしつこい。 

すると初めは良いのですが、すぐに嫌がって泣き真似を開始(涙出ていませんね~)、「何事だ~?」と僕が行くと、途端に腕を伸ばして抱っこをせがみ、 

抱っこされた途端、すぐに 振り返ってじーっと息子の顔をみる。

そうした時、 大抵はドヤ顔しているので、皆は 、大笑い 

こんな幼くても、息子が奪い返しに来ない存在、誰が家の中心であるか?ということが分かっている?のですね、本能とは本当に凄いですよね。

 

そういえば携帯電話が大好きで、僕が家内に電話しているとすっ飛んできて(ほぼハイハイはMAXスピードになっています)、話をしている僕のすぐ近くに来ては耳を寄せて聞いている。

相手が家内だと、電話機を孫に渡しますが、自分でそれを耳に当て、家内が名を呼んだり何か話す度に喜びながら声をだす。  「バーバ」とか言ったりしているが、

大抵は機嫌の良いときにだす 「うんぎー!」という言葉。

 

時折、顔から話して電話機をじーっと見つめたりを繰り返しているが、何となく電話機の意味と誰が話しているのか?というのは分かっているようです。

大人からかけられる言葉の種類と意味のリンクが結構出来てきているようで(僕のみているかぎりでは、大まかに10数種類程度の言葉)、その言葉によって笑ったり嫌がったり、怒ったり。

 

散在いじり倒していたテレビはじめデッキ(スピーカーのコーンつぶされました)等のAV機器の操作と結果関連性が更にリンクしたようで、家族全員がテレビ見ているときに

いきなり電源落とす等の悪戯をして慌てさせるが、その際のみんなの顔を見て喜ぶ、完全小悪魔状態。

ちなみに、この間は僕専用のノートパソコンのキーを一個引き抜かれました(笑)。

*修理済み

 

僕の足が下に見えています、失礼!(笑)

 

手先がますます器用になり、タマネギの外側をむいたりなんかして(好き放題やらせます)台所が皮だらけ、手足、口?が泥だらけになったり(笑)と、どんな物でもオモチャ(笑)。

先日、Blogに載せた孫の おもちゃカゴ 写真ですが、僕が幾つかの物を組み合わせて単純な物を造ったり(例えば筒と筒を組み合わせて望遠鏡といって目に当てる)と大喜び。

同様に、簡単な組み立てオモチャを造って手渡すと、それをいじったり、僕の動作を真似して喜んだりしています。

 

日々成長する孫を見ていると、人間て凄いな~と常々感心します。

 

そういえば、ママが乳腺炎で苦しんできた事もあり、早めに開始した断乳はあっさり完了。

現在離乳食と補助ミルクですが、食べるものによって嫌がったり喜んだりが明確に出てきて大変。

とりあえずは食べてくれているのですが、もう少しして嫌な物を はき出すことを覚えると大変になりそう・・・。

家族全員が揃って夕飯になると、自分も混ざりたいらしくて主張が大変、ただ加わるだけなら良いのですが、誰のおかずでも鷲掴みにしてしまうので・・・・・・、ゆえに家族の一人が必ず目を離さずに面倒を見ています。

 

 

以前書いたかと思いますが、色々なものに興味を示す時期ですから、ありとあらゆる方法で物を取ろうと試み(といっても乳児ですから)、それに成功して一度掴むと、結構な力で握りしめ、

大人が引っ張ってもなかなか離しません。

僕の部屋には工具類があるのですが、特にドリルやのこぎり等の危ない物に興味が強く、箱をあけているところを見つけるとすっ飛んできます。

 

危ない物、危ない事が好きなのは男の子として欠かせない素養ではあるのですが、ママは心配でたまんないだろうな~ 

 

現在9ヶ月半、後2ヶ月半で一歳になる、「早いよな~・・・・・・・・」  

 


全日本オープンカップ と フラダンスショー

2012年05月26日 | 研究-教育・育児

丁度、昨年の今頃は、世界大会を目指した娘と一緒に、神戸と埼玉を行ったり来たりしていました。

今年の全日本大会は大人の参加者も増え、高度に積み重ねられたトレーニングから、結構白熱したレースが展開されたようです。

 

日本での戦績によって世界大会へ行けるわけですが、今年はアメリカのフロリダらしく、

「今年は誰が日本代表になるのでしょうかね?」、僕の知っている子達も沢山参加しているので楽しみです。

ちなみにレース結果を見てみてると、上位に大人の名前があがっている。

 

これは小さいからとか、軽いからというのがレース結果とは無関係なことを証明している訳でもあるのです。

また、その日の体調、風、その子の技量に適したコンディションかどうか?、そうした常に変化する状況の中で、平均したポジションを得ているかどうか?という総合判断で本当の実力というのが分ります。

ちなみに、家の子は?と聞かれれば、親が判断すると私念が入りまくりますから、正常な判断が出来るはずが無い(笑)

 

世界大会は18歳になると行けませんから、国内大会でトップ取っても世界大会出場成績としては切られてしまい(表彰はあります)、その下の年齢の子で上位の者がトップとして選ばれる事になります。

 

ちなみに家の娘は今年参加していません。

高三で大学受験、年齢が今年18歳になるということ、親(僕)の経済的事情(大学の学費積立)

等々の理由があるわけですが、それ以上に娘自身がフラと学校活動で手一杯。

 

体育祭実行委員、ボランティア活動、校内ミュージカルの俳優、そしてフラの練習と、ほぼ毎日何かしらの予定が入っている。

そういえばその結果として、今日は某所のでっかい会館でおこなわれるフラのショーに娘は出演しました。

生バンドで、有料のショーですから、ミスは許されないのですが、どこまで観客を魅了できるかです。

 

僕は無料チケットをもらったので、ビデオ片手に見に行ってきます。

プロの生バンドをバックに最前列中央で踊ってる娘の写真です。

化粧すると雰囲気変わるな~(笑)

 

 

ちなみに、下の写真は昨年娘が戦った世界大会(スイス)の、レース写真です。


乳児(8ヶ月半)の行動

2012年05月22日 | 研究-教育・育児

8ヶ月半になると、さすがに活発になりますね~(笑)

このところの大きな変化は、大人の物まねを盛んにするようになった事、大人がしていることを自分でもやらないと気が済まなくなってきているようです。

 

子供というのは大人をよく見ていて、特に僕が家の外と中でやっている作業の一部始終をみてきた孫。

僕が何かしていると、すぐにすっ飛んできて、自分も同じ事をしようとする。

たとえるなら五月人形を片付ける際に、羽のついたハタキで兜をパタパタしていたら、ハイハイのままトコトコやってきて、床においてあったそれを手に持って全く同じ事をやろうとする。

携帯電話の機種変後にオモチャ として与えていた物を持つと、耳に当てて盛んに何かしゃべる。

音響機器やパソコン、リモコン、DVDデッキをよくさわっている僕の姿そのままに、ボタンを押しまくってみたり、しまいにはDVDをトレイから出す方法を覚えてしまい、パカパカやる(そのうち壊れるな~これ)。

テレビに接続されているPCの、画面にツールバーが出たり、音が出たりするのが楽しいらしくて、お膳の上に載っている無線キーボードをガシャガシャ バンバン!と叩きまくるし、マウスのボタンはめちゃくちゃ押す、気づくととんでもない設定が勝手にされていたりする(ので笑える)。

LANケーブル、USBケーブル、光サウンドケーブル等々を僕がよく持って歩いているせいか、その辺にある電線をつかんでは引っ張ったり、舐めたり?。

好奇心が旺盛で、あちらこちらの扉あけては、中の物を出してしまう。

 

大人と同じ行動を取ろうとすることが、成長には絶対欠かせないわけだけれど、特に携帯片手に持って何かをしゃべっている姿は微笑ましいし、面白い。

 

でもね~増築で結構大きくなったリビングでの移動は激しく、突然思いもしない処にいたりするので、大人達は常に床を見て歩いている状態で、それも又なんとも面白い光景ではある。

 

そういえばつかまり立ちからそのまま手を離して立っている時間がだいぶ長くなってきたが、

それに関して、このところ思わぬ成長が出ているのに気づいた。

 

以前は立ったり座ったり、何かにつかまった後に、そのままお尻からドスンと腰を落として、頭が重いのっでゴロっと転けることが多々あったが、最近は座る際にまがいなりにも下をみて、慎重に膝から先に付きながら腰を降ろす事が普通になった。

一度、思いっきり転倒して、額をどこかにぶつけて流血したという(嫁さん全く動じなかったな~)、おそらく”孫にとって”は痛い出来事があったので、

人間らしくきちんとその経験を元にして次の行動をする(まがいなりにも考える)事を学びながら育っているというのがよくわかる。

 

そういえば、ここ最近の孫のオモチャ達が面白い、どんな物かというなら。

 

コーヒーメーカの入っていた段ボール箱。

孫が潜って入ってしまうくらいの大きさで、これを押したり叩いたり、ひっくり返したりしている。

 

使い古しの携帯電話。

ディスプレイを回転させるとテレビが映るもの、手に持って耳に当てて何かしゃべっている。

 

床下の換気口に取り付けるステンレス製のカバー。

倒すとガシャンとでかい音がする為か、何度も立ててはひっくり返して音を楽しんでいた。

*これは現在換気口に僕が取り付けてしまいました

 

エアコンの配管カバー。

エアコン配管が室外に出た部分に取り付けるカバーでプラスチック製。

コロコロ転がって面白いのでお気に入りの様でしたが、やはり僕が工事に使ってしまいました(笑)。

 

ロールティッシュ

よせばいいのに、ちぎって口に入れたりして、お母さんに口の中をほじくられたりしています(爆笑)。

 

その他、僕の部屋の工具箱の中に入っている道具やら配線やら、どこにでもある物全てが孫のオモチャです。  

嫁さんの話だと、売っているオモチャは、与えると初めこそそれで遊ぶけれど、「すぐに飽きてしまう」らしく、反対に普通に家の中にあるもの、高度な機器類だと何度でもさわるし触れている。

そうなんですよね、子供にとって家の中がオモチャ、割れないお椀、お玉、紙皿、

リモコン、ティッシュ箱、ゴミ箱?、電子家電?

 

至る物が好奇心を満たす存在。

本来、おもちゃなんて特別子供には必要ない物なのだ、と孫の姿を見て思ったりもするわけです。

 

 

 


哲学と数学

2012年05月14日 | 研究-教育・育児

日曜日のこと、携帯電話をそれまでのソフトバンクからdocomoへ変えようとしたのですが。

結局、待ち時間があまりにも長く、無駄が嫌いな僕は夕飯を早く食って休みたい事もあったので、途中で帰ってきてしまいました。 

 くそ~

日中、取り付け予定だった4台目、最後のエアコンを息子家庭の部屋に工事したのですが、その際に室外機を屋根の上に担いで設置したので怖いのなんの。

やたら疲れていた事もあります。

 

「ビール飲みて~な~」なんて思いつつ車を運転、同時に暇でチョコチョコ僕について廻る娘と色々な話をしていたのですが、突然哲学と数学をからめた話に切り替わった。

 

「およよ・・」 と、多少驚き、確かに哲学の不完全さは数学の完全さと真っ向から相対する物で、本来はこの両者は混じるものではないのですが、哲学を数学によって解き明かそうという方向となると、話が変わって非常に面白い、ものなのですね。

 

娘が話しに取り上げたのは、1000個の黒玉の中に3つ(だったかな?)の白玉、それを箱に入れて外部から見えないようにして、玉を一つだけ取り出す。

二人の人を選び、一人はこれまでの人生で99.9%(だったよな~)嘘をついたことが無い人、もう一人は全くその逆で99.9%嘘をつくひと。

さて、こうした条件にて、とりだされた一つの玉が白なのか黒なのかを、更にその様子が見えない人が訪ねるというもので、

どちらの玉が出る確率が高いか?というものですが、この答えを導き出すのに、この二人の人間に対して答えを求める外部者がどう訪ねるかによって、答えが全く違ってきてしまうというものであった。

簡単にまとめると、確率という視点から伝達の不安定さや言葉の不安定差の中に必ず存在する真実という物が常に有り。

それを哲学として考えるというものです。

 

いきなりの話で 僕は 「は~?」という感じ。

話をしているうちに「この子はどこまで数学をやっているのだろうか?」と疑問が出てきた。

 

僕の高校時代は一年で数1、二年で数1と数2B、途中から数一が終わり数3だったと思う。

そこで娘に、数3でやる微分積分は始まったのか?と訊くと、 二年生の時にとっくに終わらせたとのこと。

終わらせた????  「誰が?」ときくと、「自分で」とのこと   「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」しーん  

なんでも、数3のメインともいえる微分積分等々は自分でとっくの昔に終わらせてしまい、今は哲学と数学の関係が面白のでをやっているとのこと。

 

「そんじゃ~ 数1の 3元連立法的式とかはどうだった?」と訊くと、全然面白くないし、行列式が分かれば構造が分かるから、特にやりもしなかった ←娘 とのことで、確かにそうなのだけれど・・・

、「だいたいにして数学と哲学を絡ませるようなことをするのは大学の数理学科でやるようなものじゃないか?」と心の中で思う僕。

 

その後も色々話をしたのだけれど、段々と「こりゃ~完全に僕の方が負けてしまっている」というのが分かってきた。

というか、家でまったく勉強しないくせに何で数学の構造が分かっているのか?   まったく理解できない。

 

だいたいにして娘の部屋には机すらないのだから。

 

僕の頭に残っているのは、中学一年の時に±の考え方を”方向”という概念で考えることを教えたこと、括弧の中の括弧と混ざった四則演算が長い数式で羅列された場合に、どこからどう計算していくのかということを徹底して教え込み、図形ふくめて数学は頭の中に空間を造り上げ、その中で図形などを回転させながら思考すること。

こうした一番の基礎だけを教えましたが、後はまったく干渉しませんし、勉強しろとは言わなかった!

当然以降は、一切教えた記憶がない。

なんで上記のことを中一で完全に教えたのかというと、計算がやたらと遅くて、算数がまったく出来なかったからなのですね。

 

息子の時もそうだけれど、子供が18歳前後になると、確実に親を超えていく。

このあたりから何をするにも親は負けっ放しの連続になってくるわけだ。

 

なんか・・・・、何時までずっと子供だとおもっていたのに、しかも高等数学理論で追い抜かれる等とは思ってもいなかった。

とすこしばかりショックを覚える僕。

 

まあそんな感じで、抜かれた嬉しさから笑顔の僕ですが、反面負けて悔しい僕は心の中で悶々。

 

でも、家に帰ってリビングに行くと、孫が小さな手でほ乳瓶を掴んでコクコクとミルクを飲んでいた。

「おお~ 癒される!」 

 

離乳食後にいつもほ乳瓶からミルクを飲むのだけれど、いつの間にやら他人(親)のペースで飲まされるのを嫌がって、

自分でほ乳瓶を掴んで飲むようになってしまっている。

 

もちろん半横抱っこされてる状態ではあるが、「ぐびぐびぐび・・・」 時折乳首を口からはなして「は~」と小さく息をつく仕草が

やたらと可愛い。

 

8ヶ月半、早く歩けるようになると、ジジイもさらに楽しいのだけれど(笑)

 

 


家の嫁さんは本当に偉いな~ 二世帯同居の考えかた

2012年05月13日 | 研究-教育・育児

一昨年の末に結婚した息子。

親方日の丸とはいえ、しがない公職ですから、結婚したとて突然裕福になるわけではない。

そんでもって、僕たち親との同居になっている訳だけれど、お嫁さんにとって何が一番辛いかというなら、この同居だろうと思う。

 

自分が立場を入れ替えてみれば、その大変さというのは想像に難くない。

でも、 文句一つ言わず、ずっと笑顔で接してくれている、これほど義理親として感謝すべき物はない。

 

そういえば、先週の土曜日(こどもの日)に嫁さんのご両親を家に招いた。

孫の初節句という事もあり、一緒にお祝いするためだ。

絶対勘違いしてならないのは、息子の処に嫁いだとはいえ、実親が本当の親であり、こちらはあくまでもう一つの家族としての親でしかないということ。

 

故に親子になったとて、絶対越えてはならないrない壁というのがあるわけだ。

 

そんなわけで、家内、娘、嫁さんの3人で料理を造って もてなしをしたわけですが、

嫁さんのお父さん、途中で酔っぱらってウトウト、少しだけ横になって休んでいってもらったのですが、

こうした崩した姿を見せてくれることは、僕や僕の家族にとってとても嬉しいことなのです。

 

互いの親が対立したり不平不満を言い合ったり、それがどれだけ悲しいことか・・・・

 

来れなかったお婆ちゃんと、お姉さんに見せるのだと言って、5月人形の横でぱちぱち家族写真を撮る姿。

嫁さんの家も本当に良い家庭なのだと思います。

 

そういえば、同居を初めてすぐの頃、家内が「どう接したら良いのかしら?」と僕に聞いてきた事が有った。

その時僕が答えたのは、「一緒に住んではいても、完全に別の家庭である、と考えることだ」と説明した。

 

例えるなら、近所の奥さんのしていることに口を出すだろうか? 近所の家庭のあり方に意見をするだろうか?

普通そういったことをする人はまずいない。

 

これと全く同じ事だ。

 

その理由はと言うならとても簡単で、隣近所という位置的関係があるだけで、あくまで互いが他人でしかないからだ。

 

これは家の様な二世帯同居家庭でも全く同じであり、結婚して家庭を持ったからには、完全に独立した家として尊重しなければならない。

 

その為、それが親としての思いやりや、心配から来る物であったとて、あくまで他人の家と考えて寸分の介入をしてはならないわけだ。

 

もちろん「どうしたら良いのでしょうか?」と嫁さんから聞かれれば、長く生きている人間としての経験則を話すが、それに従えとか、その通りにするべきだ、とかは一切言わない。

最終的には嫁さんの判断が最優先なのだ。

 

ましてや家のしきたり(有ればだが)なんぞをネジ込む様な真似は、嫁さんに針のムシロの上を歩けと命令するに等しい。

 

家族であって他人、そうした意識を持つことが、狭い家の中で二つの家庭のバランスを取るために必要なのだ、と僕は思っているわけです。

 

そういえば、昨年秋から4月頃までやっていた増築も、この切り離しを完全にするためにやっていた。  

これはまがいなりにも家長としての仕事である。

*基本的に僕の考え方は古典的で、維新で日本が世界にデビューし、大発展を遂げた明治の頃の家庭のあり方に極めて近いのです。

 

何故なら、娘の部屋が二階にあると、どうしても息子夫婦の空間近くに異物(当然僕を含め)?が入り込むことになる、これは絶対的に好ましくない。

完全に区切れていなければ息もつけないだろうし、なにより常に気を遣わなくてはならない。

 

故に、汗流して増築を行い、娘の部屋を新しい建物の方へ移動させたわけだ。

 

現在は、アパートの様に階段から上は完全な息子夫婦の世帯であり、上がる際には嫁さんの許可をきちんと取って上がっている。

 

トイレは二階にもあって重なることは無い、共用なのは風呂だが、共同浴場と同じで空いていれば誰が何時遣っても構わないので、問題生じていない。

 

キッチンは食器棚が二つに分かれ、シンクも別に使えるし、冷蔵庫も二つ置ける様に広さを取っており、必要ならガスレンジをもう一つ設置して完全

に切り離せるように工夫をリフォーム時にしてあるが、見ていると、嫁さんと家内で仲良く&得に分け隔てる事も無く使っている。

 

こうして二つの家族が出来る限り重ならないようにしているわけだけれど、唯一家(僕)のポリシーとして、家族としての基本的あり方そのものでもある

事から、夕飯だけは一同に会して食べる様にしている。

 

ただ、息子夫婦が上の部屋で食べたい、外食したいと要望があれば、家は一切口を出さない。 

別の食事を嫁さんが造って息子夫婦が別に食べても、何ら問題はない。

 

こちらはあくまで、一緒にいてもらえるだけでも感謝しなければならない立場でもあるからだ。

 

正直「このままいつまで平穏で行くことができるだろうか?」と不安になることもあるけれど、やがて家を持ち、家から出ることが有っても、それは喜ばしいことであり、

互いに不快な思いや喧嘩して別になるような事だけはしたくない。

 

「しかしな~」 とにかく一番偉いのは 息子の嫁さんである という事実だけは間違いないだろう。

 

 

 

 

 


パーパ

2012年05月08日 | 研究-教育・育児

8ヶ月に入ったばかりの孫。

ここ1週間くらいの間に、???という事が多発していたのですが。

昨日初めて明確にパーパという言葉を使いました。

時々、「ママ」というたまたま口から出た言葉を”ママ”と言ったと勘違いしている親も見受けられますが、「ママはどこにいる?」と訊いて、その姿を探すして呼ぶ事等が出来ない限りは、単なる無意味な発声が偶然重なっただけのこと。

言葉と対象がきちんと関連付けられて、行使という行動で示されない限りは、言ったことになりません。

ママという言葉だけなら、4ヶ月の時から言葉にしていますので・・・・・

 

そんでもって盛んに口にしていたバーバとパーパ? なのですが、どっちなの? という感じでして、

孫がおばあちゃん(僕の家内)大好きっこなのも有り、みんなで首をかしげていたのですが、どうやら本人(孫)も混同?していたようで やっと? 昨日まともにパーパという言葉になりました。

初めて明確に言葉な言葉として出たのは、お風呂から上がった湯上がりの時。

その前、三〇分近くもお風呂場でパパと大騒ぎして遊んでいた孫。

 

ママとパパではどちらが先か?な~んて思っていたところ、やはり?というかパーパでした。

多分次はバーバ、

 

どうやらママとジージは少し先のようで、たいていはママが先、そしてジージ、最後に発音の

難しいオネータン(実娘)という順番となりそうです。 

 

 

 

孫に代わりに、縫いぐるみの恐竜が乗せられています。

え? 側にある巻き尺がオモチャでは危ないって?

「怪我すりゃ~いいじゃないですか」、痛い目に遭う度に、どうしたら危ないか?どうあつかうと怪我するか?

幼い頃から少しずつ痛い思いをすることが、どれだけ将来役に立つか、そして身を守ってくれるか。

基礎的危険性を知ることが、走り回る年齢になる頃に基本的危険性から身を守る術に繋がるのですね。

痛ければ、考えます(知能を爆発的に伸ばします)から・・・


気性の強さ、そして難しさ

2012年05月03日 | 研究-教育・育児

このところ、孫の気性の強さというのが段々分ってきた。 

そうしたものはだいたいこの月齢あたりから明確になって来るのですが、例えば離乳食の時間等、

自分の気になるものを見つけると、お座り椅子からそちらに向かおうと結構激しく動いて抜け出てしまうらしい。

親が後追いして食べさせるような真似をしていると、小学生になる頃は授業中に座ってられない子になってしまうので、

何度でも根気よく座らせて食べさせねばならない。

ところが、これがなかなか言うこと聞かないし、椅子から無理やり立ち上がった挙げ句に後ろにひっくり返って、思いっきり頭をぶつけたり。

ても全く泣かず、お母さんに抱っこされるのを嫌がりながら、それでいて足元に突っ伏して痛みが引くまでじっと耐えている。

娘が一連の様子を見て、なんて気性が激しい子だろうと呆れていた。

「お前も同じだったろう(笑)」と、僕は思うのですが、孫は娘より遙かに上をいっているのでして・・・・

 

他にも父親がハイハイしていた孫を抱き上げたときに、やはり頭をコツンとぶつけた時等、普通ならそこでギャーギャー泣くのが当たり前なのですが、降ろせとばかりに動き、仕方なしに床へ降ろしたとたんに親の胡座(あぐら)かいたところに来て、やはり突っ伏して耐えている。

生まれたときから驚くほど泣いている時間の少ない子でもあるのだけれど、訳の分からないことで泣かないのは気性という面から来ていたのが分かってきた。

いつも大きな声をだして相手を呼ぶのだけれど(名前は当然に無理なので「あー!とか あ!!」というでかい声)、それが母親、父親、僕や家内、娘等に向けられ、自分の方を注目してもらうまで明確にやる。

返事すると「ニコ~」っとするから憎めないのだけれど、自分が触りたいもの、触れたい物を見つけるとそちらに向けと声を出して要求するようになってきた。

この声にこちらが気づいて孫の顔をみると、その首の向いている方向に希望の物がある。

そんでもって、そちらに行くと喜ぶし、無視すると再び声を出す。 

何度か声をだして、こちらが行かないと、今度はこちらを振り向き、「じ~」と抱っこしている者の顔をみるが、こうしたときの表情は心なしか怒っている様にも思えるのは気のせいだろうか?

当然外に出かけているとこうしたことが多々あり、要求によって声を出し、自分の思うようにならないときにも結構大きな声をだす。

それはいいのだれど、公園や病院等で自分より大きな月齢の子にも同じ事をやらかすので、その大声に相手の子が驚いてしまい、仲良くなったり、遊ぶどころが殆ど泣かせてしまう。

初対面の一度くらいなら相手の親も好意的なのですが、泣き止んだ相手に向かってすぐ大声をだして相手の子を泣かせてしまう事が多く。

これを何度か繰り返せば相手の親が困って連れて行ってしまうこと、多々あり。

喜怒哀楽の表情が明確に出て、笑顔の時は良いが気に入らないと相手を叩くし、意志が明確なのはいいけれど、余りに激しい気性の子は育てていくのが難しい。

人は愛情を注いでさえいれば健全な子に育つ約束などされている事などあり得ず、その子を取り巻く環境、すなわち親や学校の先生、友達、その他多くの要因が作用しながらその子の人生が決まっていく。

男女の差という事だけ明確にして育てた以外は全く同様に育てているうちの子も、

一人は何の問題もなく? もう一人は一時激しい不良行動をしていた。

上の子は大学卒業し親方日の丸の下で働き、すでに結婚し子供がいる、下の子は今年大学受験?

 

子供を育てるというのは、親の思うとおりにいかないことそのものであり、本当に大変な事なのだと、二人めの子がほぼ巣立つ直前を迎えつつある今でも、強烈に思うわけだ。

 

 


ボランティア

2012年05月03日 | 研究-教育・育児

ゴールデンウィークに入る少し前、娘が自主的にボランティア活動をしていたらしい。

なんでも今年卒業した高校の先輩達と供に、老人ホームへのふれあい活動とかで、

フラの踊りを披露したり、世話したりと色々な活動をしていたようです。

 

そんな事などまったく知らない無頓着な僕、「帰宅が遅いな~?!」と、少しばかりご機嫌斜め、

「なにやってんだ~?」と家内に聞いて初めて分りました。

 

「あ~あ」、「又やってしまった・・・・・」

息子の時もそうだったのですが、だんだん年齢を重ねてくると物事の判断が固着してくるようで、

「こうなら こうではないか?」という様に考えてしまう。

 

”子の心、親知らず”(普通と逆です)が増え、後で「バカな事をやったな~」と反省することが増える一方なのですね。