富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

制服の胸のここには

2010-02-11 12:44:10 | コバルト
集英社文庫コバルトシリーズ
初版:昭和51年6月
カバー・カット:牧野慶子

オークションでコバルト文庫がまとめて出品されていたので落札。
背ヤケで色が抜けているものもあるが、これで1冊80円以下の買い物とは上等上等。
足りない分については全部読んでから考えよう。
飽きるかもしれないし。

予測しながらだが時系列的に読み進めるつもり。


<制服の胸のここには>
医者の父を持つ優等生竹中京太は、勉学のライバルである森口芙佐子と親しくなる。
二人はお互いの恋心を認め合いつつ、周囲の目を気にしながら慎重に交際を続けていた。

しかし中三になって、京太に変化が起きる。
まるで優等生であることを放棄したかのごとく遊びほうけるようになったのだ。

それでも二人の交際は変わらず、優秀な二人は同じ高校に入学した。
しかし、京太は不良グループとの交際もはじめ、
ある日グループのボス、青木から若宮由起子を紹介される。
由起子は不良グループに似使わない、詩的な心と妖精のような魅力をもつ少女だった。
由起子は他の男たちに狙われないよう、京太に自分の恋人のふりをしてくれと頼みこんだ。

そしてある日、不良たちに囲まれた二人は、恋人の証拠を見せつけなければならなくなった。
由起子は強引に京太と唇を合わせた。それが芙佐子の耳に入り、言い争いとなった二人は絶交する。
そして二人は冷戦状態に入った。

心の中では相手を意識ながら、意地を張り合う二人。
そして芙佐子には卓球部のエース、坂井。
京太には由起子、そして評判の美少女紀子の影がちらつき、二人の心は大きく揺れ動く。

由起子の送別会が始まった。由起子は京太のクラスメート、新田の父の二号として犠牲になるのだ。
由起子を止めたいながらも、それ以上の気持ちを持てない京太は由起子と最後の会話を交わしながらついに心を決める。



学生時代とは輝かしく、青春を謳歌するものなのだろう。
すべてが許され、だからこそさまざまな経験を積むべきなのだ…という普遍のメッセージがそこにある。
学園もののドラマなどに古さを感じにくいのも、それがある種時代を超えた象徴となっているからかもしれない。
実際の学園生活と一致するかは別だが。

物語は不真面目な登場人物がいるものの、実に真面目な話だ。
二人は他の異性に言い寄られながらも、自分の気持ちは貫いている。
そして自分の心に芽生える戸惑える心を自制している。


京太が中三の時突然変わったのはなぜか、それははっきりとは書かれていない。
ただ

いつか京太が、 「おれの正体を知ったら、おれをきらいになるきみでなきゃいかん」
そう口走ったのは、その欲望を意識し、それに苦しみ、それを恥じていたからである。


とある。それが京太の行動をどう変えたのかは男性になら理解できるのかもしれない。

ラストでは
「ぼくたちの交際が、ぼくたちにプラスになってこそ」「はじめて、ほんとうのものなのね」

と示唆した上で、
「恋の一歩を踏み出した君たちよ、お互いを慈しみあい、そのときが来るのを待ちなさい」と言わんがごとくのメッセージがつづられている。
(その前に、「説教をじかにおりこんだ小説に、ろくなのはないぜ」という京太のせりふがあるのがおかしいのだが)


京太は不良になってしまったわけでもない。
学生の務めを果たしつつ、二人の愛をはぐくんでいこう。
そして愛が熟したとき、自然と大人の世界へと羽ばたいていけるだろうという
真面目なお話なのだ。


キスシーンはあるものの、性感の表現はない。
ただ、二人が心を許し合い、それを恥じることなく貫いていこうと決心したときの
甘くうっとりする気持ちが描かれているだけだ。

さて、これが時代とともにどう変化していくのか…それは読み進めるうちのお楽しみとしよう。

2010年2月10日読了


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2 コメント

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ジュニア小説の古典 (ペンギン)
2011-01-22 01:06:20
「制服の胸のここには」はジュニア小説の"古典"だと、作者みずから言っています(笑)
登場人物の父親が医者という設定は、富島作品には珍しいのですが、ここに描かれる赤ひげ先生のような医者には、モデルがいます。
戦後引き揚げた福岡で、炭鉱夫を相手に医院を開いていた友人の父親がそうで、富島少年はその姿にヒューマ二ズムを感じていたそうです。「生命の山河」に出ています。
この作品は原稿料ではなく、一本十万円で引き受け、一週間で書き上げたもので、これ以前の「のぶ子の悲しみ」「赤い一本の道」などに比べると、かなりラフというか、雑であるのに、今や名作とも代表作とも称されているのは、文学創造の不思議さです。
この作品が引き金になって、ジュニア小説ブームが起こりますが、当時16歳くらいの私は、富島が“接吻”シーンから、段階的に性の問題を持ち込もうと戦略的に考えていることを感じ取っていました。ませたガキでしたね。急激に持ち込まず、読者を増やし質の高い読者層を獲得してから、「純愛一路」的作品へと向かったことは、今では歴然としています。“接吻”シーンだって、この当時大騒ぎだったんです。
石坂洋次郎は直接描写を避けて、会話の中に性の問題を持ち込んでいた当時の先進的作家でしたが、富島は先輩作家を敬いつつもそれを一挙に乗り越えて、持ち前のリアリズムの筆で青春小説に性の描写を持ち込んでしまったわけです。これには功罪があると思いますが、富島青春文学の独自性はまさしくここにあると思います。
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ペンギンさん (ふみ)
2011-01-22 17:29:52
父親に存在感があること自体がめずらしいと思いました。いつも富島作品に出てくる父親は、病弱だったり姿を見せなかったりと影がうすい。モデルがいたとですか。

この作品は確か『小説ジュニア』の創刊号掲載でしたね。一週間で書きあげながら、その後のジュニア小説の流れを作ってしまった。それを16歳で感じていたというのもすごい。質の高い読者の一人ですね(笑)。

でも大事件である“接吻”以上に、当時の青少年たちの心をとらえたものがあるのではないかと思います。こうして今、ペンギンさんがコメントしてくれるのも、そのためですよね。きっと。
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