お待たせしました。富島健夫研究家、荒川佳洋さんインタビュー 第2回です。
第1回はこちら
※文字が多いので、読みづらいときはブラウザー画面の幅をせばめてお読みください。
----------------------------------------------------
―では、富島健夫氏と会ったときのことをお聞きしましょうか
ぼくが富島をむさぼるように読んだのは高校生の中ごろまで。学生運動に入って、富島は読まなくなった。つまらなくなったのではなく、当時のサブカルチャーの波を受けて、そっちの関心が強まった。部屋には「現代の眼」「朝日ジャーナル」に混じって、真崎守や永島慎二なんかのマンガがあって。デモのある日以外は仲間の部屋にいろんな連中がたむろして、深夜まで政治や文学の議論、たまにしか家に帰らない日々でした。左翼的な知識を詰め込むことにも忙しくて、富島から受けた呪縛からいつのまにか自由になっていましたね。
71年の5月ころ、富島健夫と池袋の喫茶店の2階で会いました。友人がセッティングしてくれてね。富島はまだ40前で、コバルトブックスの写真そのものだったな。若々しくて、精悍な顔つき。例のボサボサ髪でね。早稲田に通っていたその友人は、富島の後輩でもあり、きちんとしたスーツ姿。でも、ぼくはさっきまでデモ隊の中にいたような活動家スタイル。といっても、ふみさんにはピンとこないでしょうが。(笑)
―いえいえ(笑)。
まあ薄汚い、腰まである丈の長いジャケットにジーパン姿のような。『純愛一路』のような作品もあるように、富島さんは学生運動を支持してはいましたが、一方どこかの上部組織に操られている可能性も捨てきれないという懐疑派でもあったので、ぼくが活動家であることは言わなかったけど、時代が時代だったからね。ぼくの雰囲気から感じていたかもしれません。
その時はわずか4時間くらいしか話していないんだけど、二十歳にしちゃ書誌をつくるうえでけっこう重要なことを尋ねていて、のちに富島の書誌や評伝を書くことになるのを予知していたのかな。ちょうど週刊朝日に『すみません』の連載が始まり、『青春文学選集』の予告が出たころなんで、気になっていたことをあれこれ聞きました。これらは、今ちょうど書き上げて出版してくれる所を探している、富島健夫評伝に書きました。宣伝は政治に先行するという言葉があるので、宣伝しちゃいますが。(笑)
22歳のときの荒川さん。書棚には文学書や思想書がならぶ。
―実際会ってみての印象はどうでしたか。
ぼくたちみたいな学生にも気をつかってくれる人で、えらぶったところのない人なの。ヘビースモーカーでしたね、セブンスターだったと思いますが、簡易ライターでプカプカ。タバコの箱の上に必ずライターを戻すんで、几帳面な人かと観察してた。
「ジュニア小説誌の編集長とこのあと会う約束があって、その人はちょっと気難しいので誘えないが、なければ飲みに連れてゆくんだが」と社交辞令じゃなく残念がっていました。ぼくたちを作家志望だと思ったんでしょうね、『文学者』に参加して、勉強すればいいのにと何度か言われた。『文学者』はこの数年後に解散しましたが、当時の編集委員は、富島や吉村昭、新田次郎、津村節子、そうそうたる流行作家、著名作家。参加していたらもっと富島を知り得たでしょうね、今思うと残念でした。
いろんな作家たちの話をしていましたよ。誰とその弟子はホモの関係だとか、(笑)某女流作家はケチだとか。ぼくはそういう話をする富島さんを小さい男だと思わなかったな。文学青年の青臭さがむんむんしてましたよ。全身で他の著名作家たちに伍しているといった…。
その後、電話や手紙でほそぼそと。最初の電話はちょっと驚きました。富島家にはお手伝いさんがいなかったようなので、都夫人だったんでしょう。「今つなぎますので、お待ちになって」みたいに簡単に富島さんの仕事場につないでくれました。
―富島ヒロインの口調ですね。
美しい日本語を使う女性が富島さんは好きだったようですが、奥さんがそうだったんですね。電話では「そのうち富島論を書きますよ」と言いました。手紙では『青春の野望』の批判を書きまくって。(笑)怒ったでしょうね、富島は自負心が強烈でしたからね。
富島はやがて一般誌でも流行作家になり、そのころぼくは古書店の番頭をしていましたので、入って来る古雑誌で、短編を読んでは感心していました。富島のとくに73年ごろから数年書いた中間小説にはいいものがたくさんあります。まだ〝おとなの雑誌〟に書き始めたばかりなので、結構の整った、力の籠った短編を発表したんでしょう。
ぼくは40代に入って、学校図書館の司書さんたちの小雑誌にエッセイを連載させてもらいました。ぼくの高校の友人が編集をしていたので、「ぼくがアンソロジーを編むならこうだ」という読書遍歴を書かせてもらった。のっけから富島を取り上げたかったけど、何となく照れくさく、別の純文学作家たちや山崎豊子、五味川純平をとりあげていって廻り道してから、中盤になって、「ジュニアの森の戦後」というタイトルで、意表を突きました。「さて、アンソロジーには意外性が必要だと、誰かが言っていた。そこで、十代に向けてメッセージを送り続けた作家富島健夫である」という書き出しで、富島論のさわりを。
―意外性。
すると、これが反響ありました。次の号に何人もの司書さんがこのエッセイの感想を寄せてくれて、2頁にわたって掲載され、なんだ、こんなに隠れファンがいたのかと。ぼくが書き落としたことを、同年の男性司書さんが指摘してきたのも、おどろいたな。
その2年後ですか、富島さんが亡くなりました。そのときぼくは、たまたま仕事で中国に長いこと行ってて。帰国した日かその翌日、疲れ果ててまっ暗い部屋で転がっていたら、家人が「喪に服しているの?」と。うむ、ですよね。そこで富島さんが亡くなったことを知り、びっくりして新聞を見ました。テレビでも報道されたそうです。
―それで「富島論を書きます」っていう約束を思い出して、それが「富島健夫書誌」になったと、「書誌」の前書きにありましたね。
そうです。きっかけは、訃報記事。富島は有名作家らしく訃報記事もたくさん出たし、週刊誌、月刊誌にも追悼特集が出た。でも誤解されっぱなしで亡くなった、という印象が強い。数年後に自殺した作家の加堂秀三さんも富島追悼文「ただただ悲しい」で悔しそうに書いてる。代表作に「高校三年生」が挙がっていたりね。富島にそんなタイトルの小説はないよ。先ごろ出た『福岡県文学事典』なんか、そんな記事を鵜呑みにしてかデタラメを書いていて、これは抗議文を出しました。(笑)富島がいちばん本を出した出版社は、亡くなっても追悼文ひとつ掲載しない。どういう料簡だと思いました。
同じように思う編集者がいたんじゃないかな、その年に自伝小説が文庫になりました。あれは、担当編集者たちの追悼の意味が籠っていたとぼくは今も信じています。某社は富島の連載小説を週刊誌編集の柱にしていたのに、これも今週のニュースみたいな、目次にもない追悼記事を出しただけ。ほんとに怒りました。
―今ほとんどの作品が絶版なのもおかしいと思います。
だいたいこの出版社が『昭和文学全集』を出したとき、せめて富島の純文学短編ひとつでも収録すべきだった。横並びの文学全集なんてつまらないじゃない。全集の特色が出たのにね。芥川賞をとったばかりのまだ評価もさだまらない作家たちを収録したりして、編集方針サイアク。(笑)おおかたはとうの昔に消えてますよ。村上春樹は全集入りする身分じゃないとか言って断った。まあ石坂洋次郎を落として評判にはなった全集ですけど。
その別巻として、昭和文学史がありますが、あすこに富島の作品が4つ載っています。『女人追憶』も。気がとがめて載せたか、富島のご機嫌を取ったか、とぼくは想像しています。富島は「文学全集」の類に収録されたことがありません。今や埋もれた娯楽小説作家や推理作家なんかさえ、えっ、こんな作家がというのまで各社、文学全集流行りのころは収録されましたが、富島はどれからも漏れた。不幸なことでした。だから、簡単な年譜さえなかった。どんな三文作家だって文庫に作品リストがつきますよ。それさえないんだ。
まあそんなわけで、ある日、富島年譜がないなら、ぼくが編もうと思い立ちます。それが書誌に発展したのは結果的にで、最初は「年譜」でした。ぼくのそのとき頭にあった年譜のモデルは集英社版『漱石文学全集』かな、その別巻についた荒正人の労作「漱石年譜」です。(笑)「どんな作家でも持っていない年譜を作りたい」と考えたとき、頭にうかんだのが漱石の1日1日を詳細に調査して作ったような荒正人の年譜だった、というのはスゴイでしょ。(笑)
―スゴイです。恥ずかしながら、私も誰もやらないなら年譜や作品リストを作ろうと思っていましたが、「書誌」を見て、「ああ、私にこれは無理だ」と。
ぼくは富島がほんとうに心をこめて書いた十代雑誌の小説、エッセイ、人生相談の片々たるものまで全部調べて載せてやろうと思いました。もちろん初期の習作も、純文学も、中間小説もですが、年譜の中心は、十代雑誌の青春もの。富島が文壇から無視され冷笑されながら、いかに苦闘して青春前期の文学の創造に力を尽くしていたか、ということを年譜的に証明してやろうと思ったんですね。
書誌を取り上げてくださった直木賞研究家の川口則弘さんから、「研究というのはマニアックな心から生まれる」みたいなことを書いていただきましたが、年譜から派生的に「主要作品書誌」を作り、徐々に勢いがついて本格的な書誌作りとなりました。その間7年、もう富島オタクだよ。あらたに著書のほとんどを買って読みかえしました。『雪の記憶』のテレビ化年月日なんか、2時間ドラマを探すのに、新聞のテレビ欄を15年分見ました。(笑)
川口さんにはほんとに感謝しています。わずかな部数しか出さなかった書誌が、ふみさんはじめ何人かの熱心な読者を得たのは、川口則弘さんのおかげです。
―ネットの記事がなければ、書誌を知ることも、こうして荒川さんにお会いすることもなかったと思います。ありがたいですね。
次回のインタビューでは、なぜ富島健夫が「官能小説」を書き始めたかについてお聞きしましょう。これは疑問点のひとつでしたから。
貴重なお話をありがとうございました。
----------------------------------------------------
この企画についてのご意見・ご要望などをお寄せいただければ幸いです。おまちしています。