富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

新春特別インタビュー:荒川佳洋さん、富島健夫を語る 第2回

2011-02-19 21:09:20 | 荒川佳洋さん

お待たせしました。富島健夫研究家、荒川佳洋さんインタビュー 第2回です。
第1回はこちら

※文字が多いので、読みづらいときはブラウザー画面の幅をせばめてお読みください。

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―では、富島健夫氏と会ったときのことをお聞きしましょうか

ぼくが富島をむさぼるように読んだのは高校生の中ごろまで。学生運動に入って、富島は読まなくなった。つまらなくなったのではなく、当時のサブカルチャーの波を受けて、そっちの関心が強まった。部屋には「現代の眼」「朝日ジャーナル」に混じって、真崎守や永島慎二なんかのマンガがあって。デモのある日以外は仲間の部屋にいろんな連中がたむろして、深夜まで政治や文学の議論、たまにしか家に帰らない日々でした。左翼的な知識を詰め込むことにも忙しくて、富島から受けた呪縛からいつのまにか自由になっていましたね。

71年の5月ころ、富島健夫と池袋の喫茶店の2階で会いました。友人がセッティングしてくれてね。富島はまだ40前で、コバルトブックスの写真そのものだったな。若々しくて、精悍な顔つき。例のボサボサ髪でね。早稲田に通っていたその友人は、富島の後輩でもあり、きちんとしたスーツ姿。でも、ぼくはさっきまでデモ隊の中にいたような活動家スタイル。といっても、ふみさんにはピンとこないでしょうが。(笑)

―いえいえ(笑)。

まあ薄汚い、腰まである丈の長いジャケットにジーパン姿のような。『純愛一路』のような作品もあるように、富島さんは学生運動を支持してはいましたが、一方どこかの上部組織に操られている可能性も捨てきれないという懐疑派でもあったので、ぼくが活動家であることは言わなかったけど、時代が時代だったからね。ぼくの雰囲気から感じていたかもしれません。

その時はわずか4時間くらいしか話していないんだけど、二十歳にしちゃ書誌をつくるうえでけっこう重要なことを尋ねていて、のちに富島の書誌や評伝を書くことになるのを予知していたのかな。ちょうど週刊朝日に『すみません』の連載が始まり、『青春文学選集』の予告が出たころなんで、気になっていたことをあれこれ聞きました。これらは、今ちょうど書き上げて出版してくれる所を探している、富島健夫評伝に書きました。宣伝は政治に先行するという言葉があるので、宣伝しちゃいますが。(笑)

22歳のときの荒川さん。書棚には文学書や思想書がならぶ。

―実際会ってみての印象はどうでしたか。

ぼくたちみたいな学生にも気をつかってくれる人で、えらぶったところのない人なの。ヘビースモーカーでしたね、セブンスターだったと思いますが、簡易ライターでプカプカ。タバコの箱の上に必ずライターを戻すんで、几帳面な人かと観察してた。

「ジュニア小説誌の編集長とこのあと会う約束があって、その人はちょっと気難しいので誘えないが、なければ飲みに連れてゆくんだが」と社交辞令じゃなく残念がっていました。ぼくたちを作家志望だと思ったんでしょうね、『文学者』に参加して、勉強すればいいのにと何度か言われた。『文学者』はこの数年後に解散しましたが、当時の編集委員は、富島や吉村昭、新田次郎、津村節子、そうそうたる流行作家、著名作家。参加していたらもっと富島を知り得たでしょうね、今思うと残念でした。

いろんな作家たちの話をしていましたよ。誰とその弟子はホモの関係だとか、(笑)某女流作家はケチだとか。ぼくはそういう話をする富島さんを小さい男だと思わなかったな。文学青年の青臭さがむんむんしてましたよ。全身で他の著名作家たちに伍しているといった…。

その後、電話や手紙でほそぼそと。最初の電話はちょっと驚きました。富島家にはお手伝いさんがいなかったようなので、都夫人だったんでしょう。「今つなぎますので、お待ちになって」みたいに簡単に富島さんの仕事場につないでくれました。

―富島ヒロインの口調ですね。

美しい日本語を使う女性が富島さんは好きだったようですが、奥さんがそうだったんですね。電話では「そのうち富島論を書きますよ」と言いました。手紙では『青春の野望』の批判を書きまくって。(笑)怒ったでしょうね、富島は自負心が強烈でしたからね。

富島はやがて一般誌でも流行作家になり、そのころぼくは古書店の番頭をしていましたので、入って来る古雑誌で、短編を読んでは感心していました。富島のとくに73年ごろから数年書いた中間小説にはいいものがたくさんあります。まだ〝おとなの雑誌〟に書き始めたばかりなので、結構の整った、力の籠った短編を発表したんでしょう。

ぼくは40代に入って、学校図書館の司書さんたちの小雑誌にエッセイを連載させてもらいました。ぼくの高校の友人が編集をしていたので、「ぼくがアンソロジーを編むならこうだ」という読書遍歴を書かせてもらった。のっけから富島を取り上げたかったけど、何となく照れくさく、別の純文学作家たちや山崎豊子、五味川純平をとりあげていって廻り道してから、中盤になって、「ジュニアの森の戦後」というタイトルで、意表を突きました。「さて、アンソロジーには意外性が必要だと、誰かが言っていた。そこで、十代に向けてメッセージを送り続けた作家富島健夫である」という書き出しで、富島論のさわりを。

―意外性。

すると、これが反響ありました。次の号に何人もの司書さんがこのエッセイの感想を寄せてくれて、2頁にわたって掲載され、なんだ、こんなに隠れファンがいたのかと。ぼくが書き落としたことを、同年の男性司書さんが指摘してきたのも、おどろいたな。

その2年後ですか、富島さんが亡くなりました。そのときぼくは、たまたま仕事で中国に長いこと行ってて。帰国した日かその翌日、疲れ果ててまっ暗い部屋で転がっていたら、家人が「喪に服しているの?」と。うむ、ですよね。そこで富島さんが亡くなったことを知り、びっくりして新聞を見ました。テレビでも報道されたそうです。

―それで「富島論を書きます」っていう約束を思い出して、それが「富島健夫書誌」になったと、「書誌」の前書きにありましたね。

そうです。きっかけは、訃報記事。富島は有名作家らしく訃報記事もたくさん出たし、週刊誌、月刊誌にも追悼特集が出た。でも誤解されっぱなしで亡くなった、という印象が強い。数年後に自殺した作家の加堂秀三さんも富島追悼文「ただただ悲しい」で悔しそうに書いてる。代表作に「高校三年生」が挙がっていたりね。富島にそんなタイトルの小説はないよ。先ごろ出た『福岡県文学事典』なんか、そんな記事を鵜呑みにしてかデタラメを書いていて、これは抗議文を出しました。(笑)富島がいちばん本を出した出版社は、亡くなっても追悼文ひとつ掲載しない。どういう料簡だと思いました。

同じように思う編集者がいたんじゃないかな、その年に自伝小説が文庫になりました。あれは、担当編集者たちの追悼の意味が籠っていたとぼくは今も信じています。某社は富島の連載小説を週刊誌編集の柱にしていたのに、これも今週のニュースみたいな、目次にもない追悼記事を出しただけ。ほんとに怒りました。

―今ほとんどの作品が絶版なのもおかしいと思います。

だいたいこの出版社が『昭和文学全集』を出したとき、せめて富島の純文学短編ひとつでも収録すべきだった。横並びの文学全集なんてつまらないじゃない。全集の特色が出たのにね。芥川賞をとったばかりのまだ評価もさだまらない作家たちを収録したりして、編集方針サイアク。(笑)おおかたはとうの昔に消えてますよ。村上春樹は全集入りする身分じゃないとか言って断った。まあ石坂洋次郎を落として評判にはなった全集ですけど。

その別巻として、昭和文学史がありますが、あすこに富島の作品が4つ載っています。『女人追憶』も。気がとがめて載せたか、富島のご機嫌を取ったか、とぼくは想像しています。富島は「文学全集」の類に収録されたことがありません。今や埋もれた娯楽小説作家や推理作家なんかさえ、えっ、こんな作家がというのまで各社、文学全集流行りのころは収録されましたが、富島はどれからも漏れた。不幸なことでした。だから、簡単な年譜さえなかった。どんな三文作家だって文庫に作品リストがつきますよ。それさえないんだ。

まあそんなわけで、ある日、富島年譜がないなら、ぼくが編もうと思い立ちます。それが書誌に発展したのは結果的にで、最初は「年譜」でした。ぼくのそのとき頭にあった年譜のモデルは集英社版『漱石文学全集』かな、その別巻についた荒正人の労作「漱石年譜」です。(笑)「どんな作家でも持っていない年譜を作りたい」と考えたとき、頭にうかんだのが漱石の1日1日を詳細に調査して作ったような荒正人の年譜だった、というのはスゴイでしょ。(笑)

―スゴイです。恥ずかしながら、私も誰もやらないなら年譜や作品リストを作ろうと思っていましたが、「書誌」を見て、「ああ、私にこれは無理だ」と。

ぼくは富島がほんとうに心をこめて書いた十代雑誌の小説、エッセイ、人生相談の片々たるものまで全部調べて載せてやろうと思いました。もちろん初期の習作も、純文学も、中間小説もですが、年譜の中心は、十代雑誌の青春もの。富島が文壇から無視され冷笑されながら、いかに苦闘して青春前期の文学の創造に力を尽くしていたか、ということを年譜的に証明してやろうと思ったんですね。

書誌を取り上げてくださった直木賞研究家の川口則弘さんから、「研究というのはマニアックな心から生まれる」みたいなことを書いていただきましたが、年譜から派生的に「主要作品書誌」を作り、徐々に勢いがついて本格的な書誌作りとなりました。その間7年、もう富島オタクだよ。あらたに著書のほとんどを買って読みかえしました。『雪の記憶』のテレビ化年月日なんか、2時間ドラマを探すのに、新聞のテレビ欄を15年分見ました。(笑)

川口さんにはほんとに感謝しています。わずかな部数しか出さなかった書誌が、ふみさんはじめ何人かの熱心な読者を得たのは、川口則弘さんのおかげです。

―ネットの記事がなければ、書誌を知ることも、こうして荒川さんにお会いすることもなかったと思います。ありがたいですね。
次回のインタビューでは、なぜ富島健夫が「官能小説」を書き始めたかについてお聞きしましょう。これは疑問点のひとつでしたから。
貴重なお話をありがとうございました。

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この企画についてのご意見・ご要望などをお寄せいただければ幸いです。おまちしています。


おふ会 などなど

2011-02-18 19:10:03 | その他

今日は話題をいくつか…

その1)

昨日都内某所にてオフ会(別名:富島健夫研究会 例会)を開催。
いつもお世話になっている荒川佳洋さんとちゃこさん&ふみ。3人初の顔合わせです。

 昼酒と大量の料理。3人だから大丈夫~!

混雑した某ファミレスの中、富島談義に花を咲かせます。ちょっと昼間からはまずいキーワードもあったかな? 

 今回は手だけ出演(笑)。

荒川さんの富島論にうなづきつつ、感心しつつ、恋愛論やスワップものに対する感想をあれこれと。賛成か、反対か?!作者の本心は?!
「書誌第2版」発行についての打ち合わせも…若干(笑)。

 ふみさんはお酒飲めません。

同じ作家を愛する仲間同士の会話は、とても楽しかった!あっという間の4時間でした。

 ちゃこさん、おみやげありがとうございました!

その2)

ブログタイトル変えました。

といっても前後を入れ替えただけですが…。
1年間ずっと、縁ある方に読んでいただければとひっそり続けてきましたが、今年からブログの内容に幅を持たせようと思っているので、SEO対策です(笑)。
ツイッターもぼちぼちと…。くだらないことばかりつぶやいてますが。ブログ左から入れます。

その3)

いちばん肝心なことかもしれません。
荒川さんインタビューの第2回ですが、インタビュアーの裁量のなさにより、メールにて追加インタビュー中です。
続きを楽しみにされておられるみなさん、申し訳ありません。
内容の濃さゆえです、もうしばらくお待ちください。


新春特別インタビュー:荒川佳洋さん、富島健夫を語る 第1回

2011-02-06 17:06:51 | 荒川佳洋さん

新春…まあ、旧正月ってことでおゆるしを。

ようやく実現したこの企画。『富島健夫書誌』の存在を知ったその時から、私の頭の中にあったものです。

このブログの読者なら(きっと!)ご存じ、荒川佳洋さんは、十代のころから富島作品に接しておられる富島健夫研究家で、
2009年には富島作品や年譜を纏めた『富島健夫書誌』を発行されています。 

リアルタイムで作品に接してこられた荒川さんの、時代の空気あふれる臨場感、そして、作家 富島健夫に対する深い洞察と愛情に満ちたお話をお楽しみいただければと思います。

第1回目のインタビューは2011年1月25日(水) 都内某所にて行われました。その様子を数回に分けてお伝えします。
インタビューは今後とも継続する予定です。

では、どーぞ!

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―今日はよろしくお願いします。ずっとこれやりたかったんですよ。
まずは基本的なことから、荒川さんと富島健夫の出会いについて聞かせてください。

残念ながら覚えてないんだよね。当時ぼくは純文学を読んでた少年だったんですが、どういうきっかけだったか、富島健夫を読んですごく熱中した。

―青春文庫でしょうか?

だと思うんだよね。いきなり「小説ジュニア」とか読んだとは思えない(笑)。ただぼくが中学生の時に書いた小説のなかに、もしかしてこの当時富島を読んでたのかなっていうのはある。昭和41年、学研から青春文庫全5巻が刊行されるんですが、ぼくがそれを読んだのは42年になってから。これがはっきりしてるのは、朝日新聞に本探しのコーナーがあって、ぼくはそこに投書して、青春文庫から漏れた富島の初版本や、座談会の載っている「文学界」などを集めたことがあるんです。それが67年の朝日に載ってることを書誌の編集中に偶然に発見しているから。

一番初めに読んだのは多分「燃ゆる頬」だと思う。「燃ゆる頬」は青春文庫でね。強烈に印象に残っているのは、ぼくがすごい熱を出して、その熱が冷めたとき寝床の中で読んでたのを覚えてる。まさに「燃ゆる頬」だ、って思いながら(笑)。で、すごく感動したの。

―そして富島健夫に熱中した。

うん。その頃、大江健三郎とか遠藤周作、椎名麟三なんかを同じように熱中して読んでたんだけど、富島に対しても彼らと隔てを感じなかった。傾向は違うけど、これも文学だと思っていた。富島が石原慎太郎、小田実、有吉佐和子たちと座談会に出ていることなんか、富島自筆の略年譜にも出てこない。ぼくがそれをどうして知ったのか謎ですが、そういうことを調べあげるくらい1年たらずの間に夢中になったということですね。

これは富島健夫って小説家にどれだけ魅力があったかってことなんだけど、ほんとに好きで、熱中するだけじゃなくて、富島の小説に出てくる主人公の男の子のようになろうと自己確立をめざした。まあ失敗しましたが(笑)。自分の人生観まで影響を受けたんです。

―具体的はどんなところに?

一番強烈な体験だったのは、1968年くらいから、17~18歳の時に学生運動にすごく刺激を受けてね。その時に富島健夫を読んでる少年っていうのは、なんていうのか、富島ふう人生観にすごく支配されてるの。だから学生運動に刺激されていても、一直線に飛び込めない。

学生運動っていうのは、基本的には人民のため民衆のためにとか、正義のためでもいいんだけど、そういうカテゴリーの中で考えられる世界なのに、富島を読んでる少年は、自分のため、個人のためっていうふうに思ってしまう。小説世界がそうなの。ぼくはけっきょく18から学生運動にかかわってゆくんだけど、富島的な個人主義観をどう克服するかということでは葛藤がありました。富島健夫にそれほど心酔していたということだよね。

 荒川さんをチラみせ。

「恋と少年」だったかな、戦後、食料不足でヤミ米を食べないと飢え死にするような状況になって、それでもヤミ米を買うことを自分の職業として禁じた判事さんの話があるの。実話ですけどね。まあこの判事さんは偉い人だったんだけど、それで餓死するわけ。そのことが新聞に載った時、富島はニヒリズムっていうか、シニカルな反応をするんだよね。「彼は買うか買わないかを選べる立場で買わないことを選択した。それは彼の個人的な名誉欲や美学であり、そのために死んだんだ」って。その時富島一家は食うや食わずやの状況で、一日一日を生きるのが大変な時期を過ごしていたわけだから、「結局は選べたんじゃないか」って。飢え死にしたのも結局はその人の自己満足なんじゃないかって感じるような少年だったんです、富島少年は。

同じ「恋と少年」に、おぼれた子供を助けようとして死んだ先生のことが書いてあるんだけど、それだって結局は自分の職業意識による自己満足だって。すごく極端なの。人間の中にある正義を信用しないのね。ぼくは今は、類的存在としての人間を信じていますが、つまり普段は卑小な存在であるんだけど、ある場面では、自分の命を捨てても他者を救おうとすることが人間の崇高さとしてはあって、それがなければ歴史の変革のなんてものはないんです。富島は中国革命の「長征」を賛美してるから、こういう人生観は次第に訂正されていっただろうと思いますが…。

―そのニヒリズムは敗戦の体験からでしょうか。

そう。戦争が終わった時に自分たちが教えられてきたことが全部嘘だったっていう感覚を富島は死ぬまで引きずってるから。判事の話も自己犠牲をした先生の話も、新聞などが書きたてるその種の美談というものに、戦時中の軍国美談にだまされた少年は、もう騙されないぞ、という反発心もあったんでしょうね。

軍国主義を叩き込まれてきた少年は、敗戦を境にして百八十度転換した民主主義教育にとまどい、かつての軍国教師たちが民主主義を口にしだしたその豹変ぶりに、大人のみにくさを見てしまう。いままで教えられてきたことはすべて嘘だった、だからこれから教えられることも嘘でないという保証はないんだという、その感覚っていうのは、今でいうと、小学校にナイフを持った少年が飛び込んできて殺人事件が起こるとか、その時に子供たちは心的外傷を受けるじゃない。今ではその傷をケアする人がいるけど、おそらく富島たちが受けた傷っていうのはそういうケアを必要とする種類のものだったんだろうね。小学校の殺人事件なんかの比ではない、大きな体験だったんだから。でもそんな時代じゃないし、そういう傷を負って大人になると、みんながみんなじゃないだろうけど、死ぬまでそれを持ち続ける。富島はこれを「内臓をやられる」というふうに表現しています。

 この料理を食べるのが私の仕事です。

富島は「文壇付き合いはしなかった」って書くんだけど、実際に深く付き合った友人はいない。生島治郎、画家の小林秀美とか仲が良かった友達はいないわけじゃないけど、ゴルフの友達とか同窓とかね。すごく友達って感覚が希薄なの。

富島の朝鮮時代にはいっぱい友達がいるんだけど、「生命の山河」の静ちゃんを含めてね。敗戦時にみんなバラバラになって、そこで友達って関係が破裂してなくなっちゃう。朝鮮からの命からがらの引揚げという体験は、国家でさえ一瞬にして壊れる。生まれ故郷が異国になってしまう。母校が廃校になり、みんな自力で引き上げなければならなくなる。その感覚は、友達は作っても壊れるもの、永続性がなく、結局はみんな散り散りになってしまうっていう一種のトラウマになったんじゃないかな。

ふみさんが書いてた「燃ゆる頬」の青春文庫の広告だけど、“青年の燃えるエネルギーを、愛に、友情に託してうたいあげる哀切のドラマ”ってありましたが、富島は基本的には友情をテーマにして小説は書いていない。青春小説の基本テーマはかつても今も異性愛と友情なのにね。それっぽい場面はあるけどね。親友って言葉を使ったことは一度もないし、友情に対する思い入れの浅さっていうか、淡泊な部分がある。だから作品でも友情問題についてはあまり書かない。「恋か友情か」など友情のついたタイトルの小説はふたつみっつあるけどね。でも、一過性のそのときどきの付き合いって感じでしょう。

唯一友情っぽいものを感じるのは、「錦が丘恋歌」の中に病身の少年が出てきて、主人公がお見舞いに行くんだけど、その少年に対しては確かに友情のようなものを感じる。実在の人物らしいんだけどね。
作品読んでると同人雑誌仲間とかいろいろ出てきて和気あいあいと宴を繰り広げたり、ケンカの仲裁に入ったりしてやってるんだけど、全編にわたって友情を感じる作品はないですね。多分敗戦時のトラウマなんじゃないかと思う。

つづく

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今、気づきましたが、ちょうど去年の今日、このブログを開設したんですね。
1周年企画ともいえます。みなさん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。