富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

2014年駆け込み読書!『青春劇場』『初恋の海』『鏡が夢をみてる』

2014-12-31 15:24:25 | コバルト

今年は何冊本を読んだだろうか。去年は手帳に記録していたのだが、今年はそれをしなかったのでよくわからない。ただし小さな本箱が一つ増えた。
5月に9年勤めていた会社を辞め、しばらくは健夫を読み健夫を読みブログをあげブログをあげ…するつもりであったが、のびのびどころかうつうつする病を発症してしまい、早々に転職してしまった。

夜の自由時間は減ったが給料とギターを弾く時間は増えた(朝)。
読書時間は通勤時に確保することにした。
幸いにして職場で若き読書のライヴァルを見つけたので、来年はちゃんと本を読むことになるだろう。勝手に張り合っているだけだが…(相当若いのでもう追い越せない)。

…で、健夫である。

たぶん今年の初めに『若葉の炎』と『生命の山河』を読んだ。それなのに感想書いてない!それは付箋をつけなかったから…。
『生命の山河』は重要な作品なので来年もう一回読む。『若葉の炎』はあまりおもしろくなかったことしか覚えていない。
ということでこの2冊は保留。

さて、仕事納めの最後の週に駆け込みで手元にあった文庫本を3冊読んだ。コバルト2冊に春陽1冊。

『青春劇場』:集英社コバルト文庫 1977(昭和52)年5月初版 カバー絵:増村達昭、装丁:三谷明広
『初恋の海』:集英社コバルト文庫 1976(昭和51)年12月初版(読んだのは1979年7月12刷) カバー絵:新井苑子、装丁:三谷明広
『鏡が夢をみてる』:春陽文庫 1975(昭和50)年5月初版(読んだのは1976年4月3刷) 装画:海津正道 

まず『青春劇場』。“3年3組の勇者たち”による日記や手記の形を取った“『サイン・ノート』形式”で話は進むのだが、あまりさわやかでない。接吻シーンからはじまり、セックスやらオナニーやらの単語(お目汚し失礼)が頻繁に登場。西郷竹虎の悩みはナニが大きすぎること、ときたときには「なんじゃこりゃ」である。ラストも竹虎くんがめでたし、めでたし…。
登場する女子たちは確かに富島ヒロインだが、話題が男性目線。「小説ジュニア」っぽくないと思ったが、初出は「ジュニア文芸」(S45~46)。意外と古い。
悪くはないが、たとえるなら「青春の野望」をライトにした感じかなあ(子供向け江戸川乱歩みたいな?)。これを読んだ当時の女子高生は「男って不潔!」と感じたか、そんな男心を受け入れてあげようと寛容さを養ったか、はてさてどっちであろうか。

そして『初恋の海』。こ…これは成人誌に掲載されてもおかしくないレベルでしょう。初出は「セブンティーン」(S47)。PTAに怒られても文句は言えません。今の時代でも怒られそう。
ヒロインの文子(ふみ子…)も、理知的な設定ながら吉田とのやりとりが感情的だったりして、富島ならではの心理描写の掘り下げがイマイチ。
ラストはすごくやらしい、ほんとやらしい。ティーン向けの小説で、嫌いな男相手に「あたらしい感覚」は芽生えなくていいです、と言いたくなる。
荒川さんに「ベアトリーチェ凌辱」を読むように勧められたが手元にない。

気を取り直して『鏡が夢をみてる』。ヒロインの香奈子は「かりそめの恋」の雪枝や「おとなは知らない」の洋子に引き継がれる悪女風。美容師見習い中という富島らしくない職業だが、「進んだ女の子」のイメージがあったのかな。キャラにあまり芯はない。
初出は「明星」(S40)。「あたし」の一人称で繰り広げられるナイショ話風の文体が大人の雑誌らしい(「微笑」みたいな感じ?)。
吉川先生との温泉旅行のシーンは好き。

「こだまは返ってくる」…安定した富島ワールドが楽しめる「雪の記憶」の変形。
「美しき上級生」…タイトルから察する通り「百合もの」。富島はアンチ同性愛論者ながら、じわじわ広がる肉体的な高揚(それこそ“あたらしい感覚”ですよ)を含めた心理描写がとてもうまい。池田理代子の「おにいさまへ」みたいな感じかなあ。「初恋の海」もこんなふうに丁寧に書いてくれたら許せたのに。

「再会」…炭鉱の町で暮らすしのぶと啓吉の恋物語。富島作品の王道!

ジュニア小説だから全部いいわけではなく、やはり描写が丁寧かそうでないか、ということに尽きるのだなあ。今までだいたいの作品をほめてきたと思うけれど、正直ジュニア小説でここまでがっかりしたのは初めて。
“不易”に向き合って生まれた作品は時代が変わっても人の心を打ち、流行に乗ったものはそのまま流されてどこかにいってしまうということか。

まあ、なんだかんだいっても、わたしは来年も健夫を読み続けます!
今年はほとんど更新できませんでしたが、訪問してくださったみなさん、ありがとうございました。
富島サイトの更新もがんばります…。 

では、良いお年を!


純子の実験

2012-06-11 20:57:39 | コバルト


※カメラの調子が悪く、とりあえずiPhoneで撮影。

読んだのは左:集英社文庫 コバルトシリーズ 昭和53年9月16刷(初版:昭和51年8月) カバー・中沢潮
右:集英社コバルトブックス 昭和49年7月4版(初版:昭和48年2月) カバー・ユニフォトプレス 装丁・三谷明広
併録作品はともに「月曜日の眸」(春陽文庫『風車の歌』所収)

「ふみの実験記録」というのは、『純子の実験』からとったのですか、とよく聞かれる。

“実験”という言葉は子供のころから好きで、台所にある洗剤を片っ端から混ぜたり、コンセントを分解し、プラグに針金を差し込んで火花を散らしてみたり(危険)、科学者ごっこをよくしたものだ(おとなになったら理系はからきしダメだけど)。20代ではまったオカルトの魔術も一種の実験だし、パラケルススやら「錬金術」といった話題にも心ときめかせた。
富島作品を読む前から、いつか「ふみの実験室」というHPを立ち上げようと思っていた。

『純子の実験』は、そのタイトルだけでなく、あらすじを知っただけでわたしのこころは舞い上がってしまい、ストーリーを妄想し、読むのが惜しくてずっととっておいた。

実際読んでみると、わたしの妄想とはちょっと違っていた。主人公の純子と実験相手のジュニア小説家 永井は、最後の最後にそういうことになるのかと思ったら、ふたりは意外と早く性的な雰囲気になる。永井は気持ち(欲望?)をはぐらかすことなく純子に接触するし、「ん、これでいいのか?」と思わなくもないが、いいのである。共感できるのである。
書いてあることは言ってしまえば『女人追憶』とさほど変わらない。けれども『女人』を読んでいて腹が立ったり違和感があった内容が、この作品では共感とときめきを与えてくれる。主体が女子高生に変わっただけでこんなにも印象が違うのか。これが富島健夫のちから!

純子は“普通の高校生とは違う、あたらしい女”を永井に印象付けようとし、自分でもそういう少女だと思っている。しかし情の厚さだけが付け加えられた『女人』と違い、純子は家庭的で母性をも持つ“富島ヒロイン”。近所のおばさんと顔を合わせた時の機転の利いた受け答えも、純子がかしこい女性であることを表している。
相変わらず料理の描写が細かい。なぜエビのテンプラに尾っぽがついているのかとか…。富島作品を読むと「女の子は料理ができなきゃだめなのね」と思わせられることが多いが、当時の読者もきっと触発されただろう。

今まで読んだコバルト作品にも性的な描写はあったが、ここまで性が主体ではなかった。夜を迎えるまでの純子と永井の間に流れる雰囲気。体温と息遣いが自分の領域に徐々に入ってくる“あの”雰囲気。じんわりと生まれてくる、あたしはあの人の「もの」、あの人はあたしの「もの」、という意識。世界が二人だけのものになってしまった気分…読んでいるうちに、恋(愛)が生まれるとき特有の感覚がよみがえってくる。

(略)ふいに純子は永井から肩を抱かれた。
「いっしょに出て行っちゃだめだぞ」
低く強い声だった。
純子のからだを電流が走った。

わたしにも電流が走った。

書いてあることは『女人』と変わらない、と書いたように、当時の中高校生にとっては結構きわどい作品だと思う。でもそれは、機械による自慰のような単なる刺激ではない。生身をもった、まさに“女の子のエロス”なのだ。

あたらしい世界を知ってしまうと、自分が変わってしまうのではないかという純子。実際永井を好きになってしまったのだからその通りになったのだが、歓びを感じるのも早かっただけに、奈美やかすみに見た女のみにくさも早く感じてしまうだろう。

コバルトらしく夢のある終わり方。行為は大胆だが、「作品を通して永井に心の触れあいを感じているからだ」という、純子が永井と“実験”したかった理由に純粋さを感じたい。女のややこしい感情は中間小説で十分だ。

ところで永井は昭和ヒトケタ生まれの量産作家、杉島健一を敵対視しているが、その名前からして富島氏のことだろうか。
ストレートな欲望が愛情に昇華された純子がうらやましい。富島先生が生きていたら、わたしも「実験」しに行きたかった(何を?!)。当時の女学生も実践したに違いない。この作品を読んだらなおさら。その結果は、どうだったのだろう。

2012年6月11日読了


制服の胸のここには(コミック版)

2010-11-23 22:10:55 | コバルト

漫画:井上洋子

集英社漫画文庫
昭和55年7月2刷(初版:昭和51年12月)

もとはセブンティーンコミックス。
STコミックスは何世代か装丁変えているので、
初代の金枠?のと2代目のピンクの背表紙の2種類あると思われる。


富島作品を読んで幾度となく胸がふるえたが、
制服の胸のここには、なんでこんなタイトルが思いつくのだろう…。
タイトルだけでなんだかわからないけど涙が出てくる。一番好きな作品名。


さて、富島作品といえば美しい挿画だが、それといかにも40年代な少女マンガの絵柄とのギャップ。
あまりあてにしてなかったのだけど、意外にも原作に忠実で違和感なく読めた。

という意味ではこのマンガ化は成功と思う。

でも、私は会社によく古いマンガを持って行ってみんなに読ませているので、
(最近は楳図先生の『恐怖』。不評だったのは諸星大二郎『アダムの肋骨』)
これならどうかと思いながら、ちょっと躊躇してしまった。


原作に忠実すぎるというのか、少女マンガにしては台詞が多い(三原順みたい?)のでつまらないかも
…というのがわかりやすい理由のひとつなのだが、


逆にいうと、やっぱり「富島健夫の言葉の力はすごい!」と感嘆してしまったのだ。


京太の

おれの正体を知ったらおれをきらいになるきみでなきゃいかん


不良少女の由起子が京太の胸に耳を当て

これは竹中京太の生きている音
ときには希望に大きく高鳴り悲しみに震え


と涙するシーン。


美しい言葉の数々が、マンガだとさらっと流れてしまう。
それは作者の力量というより、マンガの特性だと思う。
また内容がはしょられることで魅力が半減しているのも惜しい。


もし、私が富島健夫のファンでもなく、原作も知らずにこれを読んだなら、
「ただの少女マンガ」とたかをくくり、セリフの一つひとつに気をくばることもなかったかもしれない。

(逆に一コマ一コマじーーーっくり読む作品もあるのでわからないが)


かなりエピソードを削っていながら(肝心な「一緒のクラスにしないでくれ」というのも抜けている)
駆け足に内容をぎっしり盛り込んだ印象がある。
まるまるマンガ化したら、この倍以上にはなるのではないか。
小説で読んだときは気づかなかったが、かなりサービス精神旺盛な作品だったのだ。
(ほかの作品も挿話が多いけど)


私は今までマンガの可能性に傾倒していて、あまり小説や文学を読まなかったが、
富島作品については「ああ、言葉の一つひとつをかみしめて読んでいたのだな」と改めて気づかされた。


このマンガは、原作を読んだ後に楽しむものだと思う。
これで満足してしまうのではもったいない!
言葉を味えればもっとおもしろいんだから!

立ち読みだけでいうのも何だが、原作を“アレンジした?”印象の『初体験』のマンガよりずっとよかった。
映画もアレンジしまくりで別物かな…。いつか見てみたいけど。


2010年11月22日読了

吹雪のなかの少年

2010-10-30 21:28:18 | コバルト

集英社文庫 コバルトシリーズ 昭和53年12月5版(初版:昭和52年3月)

雪国の過酷な環境のなかで生きる少年…ではなく、苦学生の話。

主人公の一秋は、東京の大学に進学するための資金を深夜労働で稼いでいる高校生。
ストイックに生きる姿はいつものごとく。
肉体的にも過酷な泥臭い世界が、ますます精神の強さを浮きだたせている。

そんな一秋の心の支えが、一つ年下の晴代。
言葉の美しさが際立つ晴代は、『雪の記憶』の雪子をほうふつとさせる。

厳しさと美しさと純粋さ…この世界のままいくのかと思いきや、
一秋がT大合格後、二人の仲は進展していき、
後半には『女人追憶』か?とでもいうようなかなりきわどい表現も。

当時の高校男子は大騒ぎしたのではないだろうか(逆に女の子は意味がわからなかったかも)。

ラストは『純愛一路』風。
メッセージ性ある前半に対し、後半はちょっと話がズレた印象。

でも、苦行のごとき自己目標を達成する主人公の姿は、
当時の学生読者に限らず、今の時代であっても、人生すぐにさじを投げがちな読者に希望と勇気を与えてくれるだろう。
(まあそれが「英会話」とか「ダイエット」とかつまらないことであっても!)
生徒目線の教師との交流もいい。


やっぱり富島作品は優れた人生訓だと思う。


もう一編は異色作

<恋の海>

主人公はある国の少女、A女。他の登場人物もBだのKだのと記号化されている。

A女は海の向こうの恋人に会おうと、両親を捨て、国を捨て、密航船に乗りこむのだ。

激情をともなう、「死」と隣り合わせの「性」。そして、その激情の中に「生」がある。
そんなテーマが流れているような作品。

コバルト文庫だが、大人向けの話だろうと思いきや、初出は『ジュニア文芸』とのこと!(『富島健夫書誌』参照)


文中「強姦されても女は感じる」とでもいわんばかりの表現があり、ちょっと気になった
(『青春の海』にもそんなところが…)。
大人だったら、強姦と和姦の境があいまいな場合(それがかけひきだったりする)もあると思うが、高校生でそれってどうかと。
それも一つのリアリズムなのだろうか。

激情に突き動かされてA女は決心をしたわけだから。





…さて、胸ときめく読書は終わり。
そろそろ真吾の物語に戻るか…。



2010年10月29日読了

おさな妻

2010-06-14 16:22:59 | コバルト
映画・ドラマ化と、富島作品の中で一番有名なのではないだろうか。

17歳で孤児となった玲子が、妻を亡くした子持ちの吉川と知り合い、結婚する話。
映画もDVDで見たが、そのことは別に記すとして、
この原作は恋愛うんぬんではなく、「女の幸せ」とは何かを描いているものだと思った。

玲子は、死んだ母に恥じないよう、“強く正しく”生きようとする少女だ。
そして、『のぶ子の悲しみ』のように悲劇的でなく、玲子は幸せをつかむ。
その象徴が“結婚”であり、“愛する人との性の結びつき”なのだ。


さて、ここからだ。

「ぼくはきみをすぐれた芸術品にしようと思っている。
性は高度な芸術活動だし、きみは正常な自然なままの素材としてぼくの前にあらわれた。

男には多くの生きがいがある。(中略)
無垢な姿と心で嫁いできた妻をすばらしい女として完成させるのも、大きなよろこびなんだ」



玲子は高校生、妻、母の三役をこなすことを余儀なくされる。

玲子は吉川が酔って帰ってきた翌日の朝食に気を使い、服の染み抜きは怠らず、
同僚が遊びに来る日にはきちんと髪を結う。

それは“愛する人”に尽くしているということだけではない。
“妻として恥ずかしくないように”という思い、それは夫に対してだけではなく、世間に対してもだ。


そして、夫婦の絆を強めているのが“性”である。
玲子は吉川と幾夜をともにしながら性のよろこびを開花させられる。


「性は独立したものではないということよ。それはあたしのすべてに関係する行為なの。
文字どおり、あたしはあの人を愛し、あの人はあたしを愛してくれる。その象徴的な行為なのよ」



セックスは愛があれば当然の行為であり、そこに愛のすばらしさがある、
という作者のメッセージは何の疑いもなく受け止めてきた。
しかし、この作品を読みすすめるうちに、
それって、そのよろこび…それ“だけ”を指して女の幸せだといいたかったの?と思ってしまった。


物語の中でも、玲子は「封建的だ」「女は解放されるべきなのに」という批判を受けるが、


古いおんなでけっこうよ。もしそれがあたしのしあわせになるならば。
あたしの愛する人がそんなあたしでいいというなら、それでいいんだわ。

人間は究極はじぶんとじぶんが個人として愛し合っているひとたちだけでいきてゆくものだということを、あたしは知っている。

世界数十億の人の重みよりも、あたしにとって夫は重い。
その夫に尽くし、その夫のために気を配ることこそ、あたしの真実なのだ。



それはわかるんだ。
それは人を愛する心の根本だ。
でも“犠牲”が愛のすべてか?
玲子がまゆみの死んだ母(吉川の前妻)に似ているという設定も、なんだか男性の都合のような気がしてしまう。


女の幸せは男で決まる。
出産後も女性が社会で働く時代、みんなが“自己実現”にやっきになっている時代、
玲子の幸せは“不幸”ともとらえられよう。
逆に作品中では、30前にして独身の由起子が「婚期を逃す」と哀れまれている。
現代に不幸な女性がどれだけいることか(自分も含めて!)。


時代は変わる。幸せの定義も変わる。
男性上位に対する女性のマゾヒズムには理解があると思っていた(?)私だが、
意外にもこの作品にはアナクロニズムを感じてしまった。


今の若い子がこの作品を読んだらどう思うだろうか。
(自分も結婚したらまた読み直します)


映画『おさな妻』につづく


2010年6月11日読了
(集英社文庫 コバルトシリーズ 初版:昭和54年4月)