富島健夫を「B級エロ小説家」と認識する人はすくなくない。わたしも以前付き合っていた異性に「なんで『おさな妻』みたいなポルノ書く作家に夢中になるんだよ」といわれたことがある(それが理由で別れたわけではないが)。
『おさな妻』は1969年8月から「ジュニア文芸」に4回にわたって連載され、翌年1970年3月に単行本化された。映画・ドラマにもなり、「富島健夫といえば『おさな妻』」とも言えるくらいの知名度を博した。
しかし、同時に多大なる“誤解”も世間に広めることになる。
先日、富島ファンの方より、スクラップブックに保存された当時の新聞記事を送っていただいた。毎日新聞紙上にて1970年2月から3月(関西版では4月)にわたってくりひろげられた「ジュニア文学論争」の記事だ。
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ことの起こりは「ジュニア小説は文学か」(1970/2/7)。富島氏が自分自身の青春を描き続けてきたこと、「ジュニア小説」といえども手を抜かず、“大人の”鑑賞にも耐えうるものをという信念があること、十七歳を描くうえで性は切り離せないものであること…。富島ファンにとっては周知のことばかりだ。
それに対し、文芸評論家の松原新一氏は「ジュニア小説への疑問」として、富島氏へ反論する(1970/3/9)。
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しかし、“ふしだら”という言葉や“性描写(の有無)”にただ反応しただけとしか思えない、富島作品を知らぬ者の意見である。このいきどおりは「ジュニア小説は文学か 再論 松原新一氏に答える」で富島氏自身が書いているとおりだ(1970/3/23)。
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「『ふしだら』とは性的ルーズのみを意味するのではない。自分の真実にしたがって思考し行動しない少女をさしたのである」
というのは決して「珍妙な議論(「再び富島健夫氏へ」参照)」ではない。「制服の胸のここには」にも「おとなは知らない」にも、松原氏のとらえたであろう“(一見だが)ふしだらな少女”は登場する。しかし、彼女たちにはとても“ふしだら”とは言えないまでの魅力がある。それは感動に通じ、読者を“ふしだら”どころか、まさに「自分の真実にしたがって思考し行動」したいと思わせるものだ。
それに、富島作品の“性描写”はけっして「むだな望み」でも「一日二十四時間」うんぬんのようにばからしくもなく、「グロテスク」でもない。富島作品に“性描写”があらわれるとき、そのいとなみは十七歳にとって大切なものであり、きちんとしたプロセスの結果である。それをはしたないと切り捨てるとき、同時に自分の「青春前期」までも切り捨てている、ということではないだろうか。「おさな妻」で玲子が初夜をむかえるとき、玲子にとって性はグロテスクなものだっただろうか。
松原氏の再反論「再び富島健夫氏へ」(1970/4/6)は、自分自身が狼狽しているのではないか、というくらい論旨に説得力がない。最後まで“性描写”という表面上の問題をとらえていても、富島氏への反論は成功するわけがないのである。
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さて、この論争を読んでわたしがいきどおり、愕然とするのは、富島氏への偏見が今だ残っていることだ。
最近発売された光文社文庫『桃源郷 ピンク・ユートピア』の解説でも、「おさな妻」はいかにもエロ小説であるかのような書き方がされている。自分も誤解していたが(過去の記事「映画 『おさな妻』」を読めばよくわかる!)、映画と原作では、印象がまったく違うのだ。それは“哲学”の有無ともいえる。
十七歳という特定の年齢層の読者の興味に迎合する小説を、長年書きつづけて、もはや「自分のもの」など書きようもなくなったひとの、にもかかわらずくすぶっている「文学」への郷愁を思わなければ、こういう矛盾の由来はわからない。
富島健夫は生涯にわたり、自分の青春を書き続けた。40年後の今、この文章をどう読むか。
最後に、
既存のジャンルにはいらない小説だから、文学における市民権の獲得まで、まだまだ道は遠いでしょうね。それにしても、ジュニア小説の半分以上が小づかいかせぎのために書かれていること、近ごろ性描写に傾斜したものが多くなってきた事実は残念。これではだめです。
わたしはこの記事を切り抜いていた当時の19歳にふたり出会いました。彼らは興味本位だったのでしょうか、傍観者としておもしろくこの論争を見守っていたのでしょうか。
富島健夫とはそういう作家だったのです。
いま、ジュニアを取り巻く文化で、そのようなものに出会うことはあるでしょうか。表現の名のもとに、それこそ“グロテスク”なものを垂れ流してはいないでしょうか。それとも、それが現代の作者の真実であり、ジュニアの真実なのでしょうか。
富島健夫を官能作家というのは間違ってはいない。でも、ただの“ふしだら小説”の作家ではない。その底辺に流れるものがあることを知っていただきたいとわたしは願います。
※スクラップは毎日新聞関西版です。関東版とは日付やリード文に多少の相違があります。提供してくれたしょうさん、貴重な資料をありがとうございました。