小学館 初版:昭和60年8月
※集英社文庫版では 「深夜の花びらの巻」と副題あり
メリークリスマス!こんなときにこんなブログ書いてる自分がかなしいですが…。
クリスマスは先に済ませたの!と言い訳しておく。
読むのに2か月もかかってしまった。
とぎれとぎれなので何度か戻ったが、すっかり忘れてしまっているので総合的な感想を。
まず今回の書き出しにも驚いた。
満員電車の中で、雪子の母、ちえに扇情的な接触をされる真吾。
後半にも帰省中の車内で、隣り合った人妻、佳子とスリリングな体験をする。
電車の中というファンタジーの舞台が繰り返されたことに、
ただ単に「ありえないじゃーん」と思い、またそれが男性の妄想なのかと首をかしげただけだったのだが、
先日の荒川さんとの会話の中「でも、富島自身がそういう体験をしてるんだよね」という言葉にはっとした。
そうだ!電車の中で痴女にあったと書いてあった!
「すごいピチピチで女盛り、二十三歳くらいだったな。満員電車の中で、パッとお腹とお腹がくっついちゃった。
そしたら向こうの手がこうしのびよってきて、いきなりぼくのセックスをさわるんだ。こっちは東京に出てきたばかりの、しかも童貞ときたな(笑い)。もう、真っ赤になっちゃった。」(「富島健夫のすべて」『小説ジュニア』昭和49年9月号)
意味ない記述などない。荒川さんの洞察力には頭がさがる。
電車ともうひとつ、真吾対女ふたりというパターンもいくつか見られたが、さほど印象に残らず。
それよりも、四部では、やっぱりこの作品で一番ひっかかるのは“情緒”だということを再認識した。
真吾は女ごころがわからない…と前に書いたが、
それでも行為に際し情緒を重んじるところはきちんとわきまえていると思う。
まあ、真吾自身(行きずりの相手なのに…)とか疑問符を持ちながらの振る舞いなのだが、
情緒なくしてただ機械的に快楽を求めるだけでは、この作品が成り立たない。
それは女も同様で、割り切ったフリーセックス論者の女性に対比する、古風で情緒的な女性がムードを作り上げているのだ。
アメリカ人と関係するすみれに対する真吾のいくばくかの嫌悪感、
“民族的裏切り者”という言葉にも、作者の価値観が表れているように思う。
四部は特につまらないとも飽きたとも思わず読み進めてきたが、
最後に鈴子と関係するところでまたガツンとやられた気がした。
実験的初体験の相手、路子との別れと同じような切なさを感じたのだ。
客観的に見れば、真吾のいうように“淫蕩的”な女性の設定だし、作者も特に裏の心情まで意識していないと思うのだが、
私には「本当に真吾を愛してしまった」女に思えるのだ。
妙子のように心情的な愛から肉体的な愛に派生する愛もある。
でも、彼女たちのばあい、性そのものが愛になってしまったのではないか。
肉体のつながりがそのまま情緒的な愛になる…ということ。
一般的にはそういう関係は“真実の愛”とは認められないから、
でも、二番目の女でいいから愛されていたい(三番めは嫌だけど)みたいな。
それは「結婚できなくても仕方ない」という不倫関係に通じるのだが。
四部は婚約者のいる鈴子が不倫の約束をして終わっているが、からだが愛を知ってしまった…ちょっと違うな。何と表現すればいいのだろう。
不倫相手と正妻…の違いか、妙子との営みには安定感が感じられる。
ちょっとした好奇心も見せる妙子。
小技も身に着けてるし、ウグイスの谷渡りの話題が五部に発展するかどうかも気になる。
行為中に妙子の母が入ってくるシーンがあったが、それも何かの布石なのだろうか??
それから、ちょっとした情景描写
軒の低い古びた商店街を直角に曲がって海へと向かう。すぐに海は切れ、畠になり、国道に出た。国道をよぎると塩田があり、その向こうは防波堤が横へ伸びている。その端に小さな松林があった。
列車の信号の下がる音がした。遠いのに、風に乗ってはっきりと聞こえた。
「だから何」って思う?私は何だかこういうところにしびれてしまうのだ。
これも“情緒”のひとつと思う。「富島健夫のゴーストライターになれる」って言ってる文筆家?がいるけど、本当ですか。
男性はどうだかわからないが、私はこの作品を読んで性的興奮は覚えない。
それよりも、男性に対して寛容になりつつある。それは危険な「富島マジック」なのであるが。
わがままは 男の罪
それを許さないのは女の罪
そんなふざけた歌(失礼)があったが、まさにそんな感じだ。
「女は、ヒロインは自分じゃなきゃいけないの」
そう、その通り。
どんな女でもヒロインになりうる。
でもどうしても、自分と相手の理想のヒロイン像を重ねあわせようとしてしまう。
2010年12月25日読了
※富島健夫作品初出情報引き続き募集中です