富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

犬の幽霊・考えない人(『考えない人』3)

2010-12-31 22:30:07 | その他の小説

まだ続きます…

<犬の幽霊>

推理小説誌に発表されたもの。
確かに人は死ぬが、純文学の色合いが9割。

ラストの一行がよくわからなくてしばらく考え込んでしまった。
ん…思いつくのはただ一つ。

「深読みする読者」への富島氏のアイロニーか、はたまたそれこそが“ミステリー”なのか?

(ちなみに解説には「父性愛」と…)


<考えない人>

これが一番頭を抱えた作品。タイトルは「考えない人」なのに…。
こっちのほうが“ミステリー”なのではないか?

何が言いたいのかよくわからない。大友の冷酷さか、女のバカさかげんか…。

高原は自殺ではなく、大友が殺したのか?皆が共犯なのか?
そのあたりの伏線をもうすこしはっきりさせてほしかった。

一点注目したのは、高原の友人の山下が、高原が自殺した根拠を語るところ、

高原は七歳の時に母を失った。人は思想や倫理観のために死ねるものじゃありませんよ。
幼少に母を失った高原は、常に女性への憧憬のなかに生きてきた。(略)高原は次々に女の人と友達になった。これは永遠の女性を求めての虚しい彷徨だったのです。

これが読解のヒントになるかと思いきや…そんなこともなさそうだし。
まとめきれないうちに話が終わってしまった印象。

この作品の焼き直し?である『歪められた初夜』を読んでまた考えよう。


2010年12月31日読了

 

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さて…
今年もあと2時間足らずでおしまいです、

富島作品を1月に読み始め、すぐにこのブログをはじめて約1年。

いろいろな方との出会いがあり、思いがけない発展があり、
非常に充実した1年でした。

来年は、私個人のつまらぬ感想だけでなく、
もっと役に立つ情報も合わせて発信していきたいと思います。
やりたいことがいっぱいあります。

コメントやメールをくださった方、陰ながら見守ってくれている方、
みなさん、今年一年ありがとうございました。

どうぞ来年もお付き合いのほどお願いいたします。
まだまだ、ふみの実験は続きます。

よいお年を!

※富島健夫作品初出情報引き続き募集中です


鮮魚の匂い・唖(『考えない人』2)

2010-12-31 21:54:36 | その他の小説

<鮮魚の匂い>

『雪の記憶』の一年前に書かれ作品だが、同様のエピソードを用いつつ、違った運命を描き出している。
「初恋」と同じく、これもまたもう一つの『雪の記憶』といえるだろう。

ただ「初恋」が“夢から覚める”ような終わり方なのに対し、
『鮮魚の匂い』はふたりの歯車がかみ合わないにも関わらず、『雪の記憶』のようなファンタジー性をもっている。

それは、主人公の信吉が、ついにヒロイン佳子の姿を“観念的”なものに終わらせたことにあるだろう。
信吉は自らの頭の中で恋し、それを終わらせたのだ。

現実の世界で信吉を待っていた佳子。
最後のふたりの会話が切ない。でも、悲しみより美しさのほうが強い。


さて、これだけ「電車の中で見つめあう」というシーンが繰り返されるのはどうなのだろう。

「雪の記憶」「燃ゆる頬」「恋と少年」は「富島青春文学の原型」であり、「これ以降に書かれたものは、その九割近くがこの三作の亜流と言っても過言ではないと思う。
ほかに重要な作品はそれほどない」
(「はてしなく恋愛小説噺 その② 初恋の巻」関口苑生『本の雑誌』1982年7月号)※『富島健夫書誌』より

作者の“自己模倣”に嫌気がさすか?まあ、富島ファンでなければ「しつこい」と思うかもしれない。

でも、これも一つの、主人公の“可能性”なのだと思えるのだ。
「もしもあの時左に進んでいたら」…とでもいうような。

それは「喪家の狗」のところに引用した解説にある“主人公への愛情”ゆえのものだろう。
それはまた、すなわち作者への愛情に通じるのだが。


ちなみにこの作品は半年くらい前に、しょうさんから教えていただきました。やっと読めました!


<唖>

これまたファンタジー性を感じさせる作品。
現状から逃げたい少女 八重と、逃げ続ける主人公 信吉(「鮮魚の…」と同じ名前。続けて収録、意味あるのか?)。

少女は家族の中で孤立し、心と口を閉ざす。主人公もまた、土方の仲間になりきれず宙ぶらりんな位置にいる。


と、私の愛するディランⅡの歌を思い出した。

 田舎者という言葉に口唇かむけど
 小さなヤクザにもなれやしない
 「子供たちの朝」詩:象狂象(西岡恭蔵)

そういえばこの歌「永山則夫に捧ぐ」という副題がついていたと思う。


しかし富島作品には、土方がよく出てくる。そして、流血さわぎになる。
信吉もその争いに加われば自分の居場所がみつかったはずだ。

作者が“集団意識”を嫌っていることはうかがえるが、土方の意味はなんだろう。

ふたりが逃避行するラストはまさにファンタジー。今回の文章はファンタジー連発だな。

ちなみに作品全体に明治大正の美意識を感じた。
こんな世界観の作家がその時代にいたのだろうか(教えて)。


まだつづく

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喪家の狗(『考えない人』1)

2010-12-31 20:43:11 | その他の小説

今紅白見ながら書いています。年末の忙しい時、ブログ見てる人、いるかな?

昨日の大掃除では、探していたこれが出てきました。


来年読もう。

父の遺品ですが、丹羽ファンだったわけでなく、この全集を集めていたということで。
好きだったのは大江、三島、太宰…残念ながら稀観本はなし。


さて、今年最後の読書はこの本。
薄い文庫だけど、中身は濃厚。
年末にふさわしい一冊でした。

『考えない人』
角川文庫
昭和53年3月4版(初版:昭和51年7月)

所収;
喪家の狗
鮮魚の匂い

犬の幽霊
考えない人

しょっぱなからこれだもの

<喪家の狗>

「うわっ、やめた!」と何度もページを閉じたけれど、もったいぶってはいられない。
ご存じ、芥川賞候補となった富島氏の処女作である。

二十一歳の時の作品で、宇野浩二には「もつと勉強しなさい」なんて評されているが、
稚拙さは感じられない、富島健夫そのままだ。

孤独と絶望、そして男と女の息遣い。
『七つの部屋』のように、陰鬱な空気がたちこめる。

でも、その絶望は底なしのものではない。

途中で読むのを断念したくなる、まったく救いようのない小説というのがあるが、
この作品…富島作品には特に希望もないが生きる力がある。

「そういう運命なら、ようし、はいつくばってでも生きてやろうじゃないか」とでもいうような。

それは小説の主人公でなくとも、生きてる人間ならみな同じなのではないだろうか。
だから読者は「主人公の絶望」にある種のカタルシスを覚えるのかもしれない。

…と、読後村松定孝氏の解説を読むと、同じような点に着目していた。

こんなにも深刻な題材の小説を、読みながら暗鬱な感情に陥らないのは何故だろうか。(略)作中人物に対する作者の温いまなざしを感ずるからである。
少しまぬけで、里子に劣等感を抱いている金秀承をあわれむ作者のまなざしは、金の内部を見すかしながら、金になりかわって、読者に、その心理を演じ、読者をして金への愛情をつのらせることに成功している。それが救いとなっている。

うむ。愛情か。私は“愛情”というより共犯者のような気分になるのだが。
「春の海」の密航船に乗り込んだ人々のように。


さて、金秀承という朝鮮人を主人公に据えた意味も無理やり考えてみた。
作者の引き揚げ体験が…うんぬんはよくわからない。
ただ、民族性というのは、逃れられない運命の一つだと思う。
戦争、敗戦、引き揚げ…作者も人生のなかで民族性を強く実感したことだろう。

金秀承は、運命に抗うわけでもなく、かといって受け入れるわけでもなく、
その中でいかに個人としての自分を確立していくか…という作者のテーマをより象徴化しているように思う。

さて、村松氏の解説には、続いて

この作者は小説の面白さを清純なヒューマニティによって支え、大人の世界をもメルヘンにしてしまう。
われわれが幼時に童話を読んだ時の愉しさに似たような快楽を、富島文学はわれわれに、少くともわたしに与えてくれる。

とあるが、これについてはのちほど。


つづく

※富島健夫作品初出情報引き続き募集中です


女人追憶 第四部

2010-12-25 21:40:21 | 女人追憶

小学館 初版:昭和60年8月
※集英社文庫版では 「深夜の花びらの巻」と副題あり

メリークリスマス!こんなときにこんなブログ書いてる自分がかなしいですが…。
クリスマスは先に済ませたの!と言い訳しておく。


読むのに2か月もかかってしまった。
とぎれとぎれなので何度か戻ったが、すっかり忘れてしまっているので総合的な感想を。

まず今回の書き出しにも驚いた。
満員電車の中で、雪子の母、ちえに扇情的な接触をされる真吾。
後半にも帰省中の車内で、隣り合った人妻、佳子とスリリングな体験をする。

電車の中というファンタジーの舞台が繰り返されたことに、
ただ単に「ありえないじゃーん」と思い、またそれが男性の妄想なのかと首をかしげただけだったのだが、
先日の荒川さんとの会話の中「でも、富島自身がそういう体験をしてるんだよね」という言葉にはっとした。

そうだ!電車の中で痴女にあったと書いてあった!

「すごいピチピチで女盛り、二十三歳くらいだったな。満員電車の中で、パッとお腹とお腹がくっついちゃった。
そしたら向こうの手がこうしのびよってきて、いきなりぼくのセックスをさわるんだ。こっちは東京に出てきたばかりの、しかも童貞ときたな(笑い)。もう、真っ赤になっちゃった。」
(「富島健夫のすべて」『小説ジュニア』昭和49年9月号)

意味ない記述などない。荒川さんの洞察力には頭がさがる。

電車ともうひとつ、真吾対女ふたりというパターンもいくつか見られたが、さほど印象に残らず。
それよりも、四部では、やっぱりこの作品で一番ひっかかるのは“情緒”だということを再認識した。

真吾は女ごころがわからない…と前に書いたが、
それでも行為に際し情緒を重んじるところはきちんとわきまえていると思う。
まあ、真吾自身(行きずりの相手なのに…)とか疑問符を持ちながらの振る舞いなのだが、
情緒なくしてただ機械的に快楽を求めるだけでは、この作品が成り立たない。
それは女も同様で、割り切ったフリーセックス論者の女性に対比する、古風で情緒的な女性がムードを作り上げているのだ。

アメリカ人と関係するすみれに対する真吾のいくばくかの嫌悪感、
“民族的裏切り者”という言葉にも、作者の価値観が表れているように思う。

四部は特につまらないとも飽きたとも思わず読み進めてきたが、
最後に鈴子と関係するところでまたガツンとやられた気がした。
実験的初体験の相手、路子との別れと同じような切なさを感じたのだ。

客観的に見れば、真吾のいうように“淫蕩的”な女性の設定だし、作者も特に裏の心情まで意識していないと思うのだが、
私には「本当に真吾を愛してしまった」女に思えるのだ。

妙子のように心情的な愛から肉体的な愛に派生する愛もある。
でも、彼女たちのばあい、性そのものが愛になってしまったのではないか。

肉体のつながりがそのまま情緒的な愛になる…ということ。
一般的にはそういう関係は“真実の愛”とは認められないから、
でも、二番目の女でいいから愛されていたい(三番めは嫌だけど)みたいな。
それは「結婚できなくても仕方ない」という不倫関係に通じるのだが。

四部は婚約者のいる鈴子が不倫の約束をして終わっているが、からだが愛を知ってしまった…ちょっと違うな。何と表現すればいいのだろう。

不倫相手と正妻…の違いか、妙子との営みには安定感が感じられる。
ちょっとした好奇心も見せる妙子。
小技も身に着けてるし、ウグイスの谷渡りの話題が五部に発展するかどうかも気になる。

行為中に妙子の母が入ってくるシーンがあったが、それも何かの布石なのだろうか??


それから、ちょっとした情景描写

軒の低い古びた商店街を直角に曲がって海へと向かう。すぐに海は切れ、畠になり、国道に出た。国道をよぎると塩田があり、その向こうは防波堤が横へ伸びている。その端に小さな松林があった。

列車の信号の下がる音がした。遠いのに、風に乗ってはっきりと聞こえた。

「だから何」って思う?私は何だかこういうところにしびれてしまうのだ。
これも“情緒”のひとつと思う。「富島健夫のゴーストライターになれる」って言ってる文筆家?がいるけど、本当ですか。


男性はどうだかわからないが、私はこの作品を読んで性的興奮は覚えない。
それよりも、男性に対して寛容になりつつある。それは危険な「富島マジック」なのであるが。

 わがままは 男の罪
 それを許さないのは女の罪

そんなふざけた歌(失礼)があったが、まさにそんな感じだ。

「女は、ヒロインは自分じゃなきゃいけないの」

そう、その通り。
どんな女でもヒロインになりうる。
でもどうしても、自分と相手の理想のヒロイン像を重ねあわせようとしてしまう。

2010年12月25日読了

※富島健夫作品初出情報引き続き募集中です


続々と判明!

2010-12-21 19:30:28 | つぶやき

「求む!初出情報」の記事掲載以来、短期間に情報が集まって
驚くやらうれしいやら忙しいやら…。

まだまだ不詳作品は多いので、もし気が付くことがあればご連絡お待ちしています。

さて、いつもコメントや情報をくださるちゃこさんが、自身のブログ「こぶとり主婦」にこの記事へのリンクを貼ってくださいました。ありがとうございます!
見ればわかる圧巻のブログです。私とはまた違う富島作品のレビューをお楽しみいただけますよ。
リンク記事も更新しました。

もうすぐ読み終わります、あれ。話を忘れて何度か戻りましたが(笑)。