富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

星と地の日記

2010-03-28 12:51:41 | コバルト
集英社文庫 コバルトシリーズ 初版:昭和51年11月
カバー・カット:荒川喜美子

会社の飲み会。
若い子の話を聞く。軽率に男の言いなりになっているらしい。
「もっと人を愛する心をはぐくまなきゃだめだ!」と説教したら場がシーンとなってしまった。
だめでしたか。


<星と地の日記>

ああ~、またやられた!
この二人は今まで読んだ中で愛すべきカップルNO1だ。

話は結城星子と谷田平助の日記の形をとって進む。
(この形式でもうもだえているのだが)

同じ学校に通いながら、星子は平助の顔を見ないことを不思議に思う。
それもそのはず。平助は星子のことを避けているのだ。


「だからおれは、このごろまじめに転校を考えはじめている。結城星子のいない学校」


なんて、「制服の胸のここには」の京太もそんな感じだったな。

平助はカップルを仲たがいさせたり、かなしい映画の最中に笑い出したりして、「ぶちこわし屋」との異名をとる。

なぜ平助はそうなってしまったのか?星子や友達の加藤は不思議に思う。
その理由として大学に進学できないことや、平助の母が継母であることがほのめかされるのだが…そうではない。


どうやら平助は星子のことが好きなのだ。
しかし話は二人の独白で進むので、はっきりそうとは書かれない。


平助は星子と加藤が好きあっている、と思い込んでいる。もしくは思い込もうとしている。


中三の運動会で、アベック競争(借り物競争)にでた加藤が、星子の名が入った封筒を取ったとき


「星子は来賓の接待係であった。その前に加藤はまっすぐに突進した。

星子のいる場所を、加藤は知っていたのだ。ということは、運動会の間じゅう、彼が星子の姿を意識していたことになる」

「『あたし?』そう答えたその顔は、みるみる赤くなった。

星子のその顔に、星子の本心を知ったのだ。」




ふてくされだったり、やきもちだったり、ひがみだったり、照れだったり、自己防衛だったり、自己卑下だったり…。

それは心にめばえたはじめての感情に対するとまどいかもしれない。



ちなみに星子の友達の彼氏、野沢も、平助に仲をぶちこわされたとはいえ、
結局はひねくれて言い争いになり彼女と別れている。


対して星子は、好きでもない男の子から告白されたとき、ゆらぐことなく意思表示をする。
加藤に告白されたときもそうだ。

それでも、自分が本当に好きな人には言えない。つまり平助からその言葉を伝えてほしいと思っている。
それなのに平助は逃げ回るばかり。それをじれったがるところがかわいいのだ。


先にも書いたが、この話は星子と平助の視点から進んでいく。
そのため、第三者からの、いわば「説明」のような文章がない。
それを行うのは読者だ。


ふたりの心情をくみ取り共感できない人はこの作品を楽しめないだろう。
ふみさんはいくつになっても特に平助とおんなじパターンを繰り返している。
だから思いっきり感情移入してほほえましくなった。


ラスト、星子が平助をつきとばしながら


「わたしの好きな人を知りたくないのか」


とおいつめていくシーン。


電車の中で読んで涙ぐんだ。
そして会社の昼休みに読み返し、「うっ」と声をだして泣いた。


何だかふたりがとってもかわいくてしかたなかったのだ。



2010年3月27日読了


次は…>>「おとなは知らない」

女の夜の声

2010-03-23 16:41:10 | 中間小説

光文社文庫 初版:2002年3月
(初出は1984年有楽出版社刊)


遠い町の古本屋で店主にいぶかしがられながら購入。

新古書店で官能系の文庫をたまに見かけるが、
状態の良いものはぽちぽち買っていた(汚いのはきもちわるい…)。

ただ「密通」で懲りたので読むまでにはいたらない。
今回は道中電車待ちの時間が長かったのでしかたなしにページを開いてみた。

すると…あら、大胆なタイトルの割には青春小説のおもむき。
コバルトシリーズのおとな版か?


裏表紙には
「自分の気持ちと裏腹に猛り狂う欲望を、冷静に見つめつづけた著者の珠玉集」

とアオリがあるが、行為についてのハードな描写はそれほどありません。


というわけで電車の中でこそこそ読んでおりました。


20歳前後の男女が主人公の16の短編集で、
ストーリーは…

・童貞の大学生を手ほどきしようとする人妻
・いとなみを見学したい、または「半分体験したい」処女の女子高生
・プレイボーイに自ら抱かれに行く女の子
・乱交および夫婦交換

などなど。





ありえへん。


いつもノートを片手に、思ったことを書きながら読書しているのだが、
ノートには「ありえへん」の文字がいくつも…。
一編読み終わるたびにため息…。


都合のいい女の子。
快楽をおぼえ、フリーセックスに興じる女の子。
それを(もちろん)喜んで受け入れる男ども。


あのコバルト系の清純なカップルはどこにいってしまったのか。

ターゲットが男性にしぼられてるから、こうなるのだろうか。
これが男のロマンなのだろうか。


…わからん。
私の青春がまちがっていたのですか。


これはまさに娯楽作品だ。
コバルト系はヴィジュアルではなく文章を味わいたいものだけど、
これは、まんがでもいいかな…という感じ(趣味で描くか)。


そして、精神より肉体的な「好奇心」に重点が置かれているのも大きな違いだと思う。

そりゃあ、いつまでも清くはいられない。
そう、もういいかげん我慢しなくたっていいじゃないか!
そう、我慢しなくていいんだ!やっちまえ!


そこで発動するのが好奇心だ。
作品の女の子は、考え方によっては「純粋に」好奇心をあらわにしている、という言い方もできるだろう。


しかし、好奇心は実体験によって一気に消滅する。
期待は当たりか、はずれか、どっちかだ。



キスまでが恋愛の醍醐味とはよくいわれることだが、
その次のプロセスに対するドキドキ感は、多少あったとしても、
初めての「その時」にはおよばない。
それは、それがすなわち「完結」だったからかもしれない。





さて、「ありえへん」と何度も書いてきたが、最後に収録された「女の意地」は、
作者の学生時代「当時」の実話らしい(で、誰の?)。
いずれにせよ、私とは違う世界のお話だ。


富島ワールドからつまはじきされたような感じにさびしさを覚えつつ…。
まあ、こんな感想じたいが蛇足なのだ。


つみあがった「女人追憶」…まだ読んでないけど、
感想「ありえへん」だけかもな。

蛇足続けるのか?
いいじゃんか、「私的実験室」なんだからさ。


(ちなみに表題作はショートサスペンス?でした。)


2010年3月23日読了


ふたりだけの真珠

2010-03-21 00:16:12 | コバルト
集英社文庫 コバルトシリーズ 初版:昭和52年1月
カバー:・カット:毛利彰

<ふたりだけの真珠>

両親がいないという孤独を抱えたふたりがともに人生を歩みだそうとするまでのお話。


漁師の家に船子として働きながら定時制に通う一雄と、
「中将閣下」の孫として裕福な家に暮らす敬子が主人公なのだが、
ふたりの両親の物語もまた、重要なドラマとして描かれている。


ふたりの両親はともに、戦争、そして差別や迫害によりつらい人生を送っている。
戦争が家族や恋人をいやがおうにも引き裂き、その傷が癒えぬ間にまた、
追い討ちをかけるように封建的な差別に苦しめられるのである。


この部分はフィクションであれ、「戦争を知らない子供達」のまた子供である私の世代としては、
知っておかねばならないことだと思う。



さて、敬子は両親は死んだものと聞かされ、一見裕福で幸せな生活を送っていた。
しかし、母 佐江子が、原爆孤児であるがゆえ、夫の死後家から追い出され、
今なお生きているかもしれないことを知ると、当然ながら母への思慕がつのる。

対して両親の生き様を目の当たりにしてきた一雄は、社会の不条理を知り、
たくましく生きようとする確固とした意思をすでに持っている。


「考えたら、あなたのほうが気がらくかもしれない。
じぶんの孤独をはっきりと認めることができるんだから、じぶんに対しても人に対しても」



人間の価値は家柄でも学歴でもないことをふたりは知っている。
しかし、敬子はその価値を絶対とする世界で、
自らの孤独を隠して生きている。それがつらいのだ。


人間の幸せはどこにあるのかを探ろうとする二人の姿に読み手もまた考えさせられる。


さて、ストーリーは後半、「母探し」がメインになるが、
「また会う日に」のようになかなか会えなくてやきもきする。
(「わるいやつら」にも似た?展開があり、ちょっとダブった)

そしてあれれ…??ちょっとあっけないラスト。
「ふたりだけの“真珠”」のメタファーがはっきりするかと期待したのだが。


ところでこの話は、ふたりの恋心についてはあまり触れられていない。

自然な形で近づいていったふたりだが、
ふたりに共通するものは、両親への思慕、そして「孤独」だろう。
「孤独」における結びつきは、大人では傷のなめあいになりかねない。
その「孤独」にはどこかに憎しみが潜んでいるからだ。

そんな心配を感じさせないのは、ふたりが若く、
そしてこれから自分の足で人生を歩もうとする意思があるからだ。


ラストで敬子は


もういや。好きな人とは別れない。母とは別れない。一雄さんとも別れない……


と思い、一雄は


おれは勝ったぞ。やっぱり勝ったぞ。人生が信じられてきたぞ。
これからこの人といっしょに、東京でがんばるぞ!



と決心する。


ふたりはもう孤独ではない。そこからは恋を超えて「愛」をはぐくんでいくのだろう。



<サイン・ノート>


加藤一晴と津田英子のサインノートの形式をとった、ふたりの恋のお話。

読み始めたとき、電車の中で「うわ!」と声を出してしまった。
なぜだろう、またしても胸がときめいてしまったのだ。

サインノート(私の時はサイン帳といっていたが)は、
青春の思い出の記録であるとともに、別れの象徴でもあるからちょっと心さびしくなる。

 (ちなみに私は小学生の時サイン帳に「人のいやがることをいわないでください」と書かれた)



さて、まず加藤一晴のサインノート。
友人達の書き込みは友情にあふれていたり、嫌いだと言われてみたり、さりげない愛の告白があったりといろいろだ。

中には

マリヤさまに祈りなさい。F子
あなたはあなたが思っているほど、えらくはありません。無署名


なんてものもあり、笑ってしまう。


一晴は「頭がよく、情に厚く、それでいて既成の枠にとらわれまいとする」少年なのだろう。
富島作品ではおなじみの少年像が浮かび上がる。


そして、一晴は津田英子という少女に振られたらしい。
友人達はそれを笑ったり、励ましたり、怒ったりする書き込みをするのだが、最後にノートは英子の手に渡る。


そこで英子は告白する。英子は一晴が好きなのだ。
でも自分の中に他人が侵食してくるような、そんな感情が怖いのだ。


このごろ、わたしはわたしの主人公ではなくなったような不安にまつわりつかれています。
あなたがわたしの心の奥深くはいりこんでしまったのです。

わたしはチェホフの『可愛い女』になりたくないのです。

もうすこしだけでも、わたしはひとりでわたし自身で歩いていきたい。



いくつか今まで読んだ作品と矛盾するようなことも書かれているが、それは矛盾ではない。


英子へのノートには

きみはこれまで、冒険をしなさすぎだ。人間、ときには飛躍せねばならぬ。


こんな言葉もあるように、
英子は模範生であり、「いい子ぶって」いて、「いつも武装している」少女なのだ。


そんな英子に、自分のノートへの返信として一晴は語りかける。


ぼくはきみを奪いたいのではない。
ほくをきみに奪われたいのでもない。
きみとともに存在したいのだ。
人と人は、その交際が深まるにつれて、たがいに影響し合う。
多くの友人に恵まれたぼくは、彼らのそれぞれの個性の投射を受けて、ぼく自身を形成しつつある。
きみもやはりそうではないだろうか。




「朝雲の序曲」で、えり子が日記で書いていたのと共通している。

自分を大切にし、自分の足で歩いていくことは大切だ。
ただそれだけでは得られないものがあるのだ。



恋心とはつかみどころがない、何とも漠然としたものだ。
だからつい、臆してしまったり、「好きだ!」と単刀直入になったりする。

確かに恋愛は、直感的・本能的なもので、理屈で説明できるものではない。
けれども、だからといって「好きだ!」「愛している!」「そばにいたい!」
…もしくは「やりたい!」だけでは、何かさびしくはないか?

富島作品を読んでいて、いつかの恋心を思い出すとともに、いろいろなことについて考えさせられるのは、
その漠然とした部分を言葉で表現してくれているからではないかと思った。

それは自身の経験か、過去の名著によって導き出されたものかしらない。
ただ、「恋愛」とは何かを、若者は考え、学ばなければならないのではないだろうか。
それは恋愛を通して、深く人生や自分自身について考えることをも意味する。

富島作品を読んだ若者達は、小説のように魅力的な愛のことばを交わしたのだろうか。
それならばとてもうらやましく思う。


これからのぼくの人生はきみに大きく左右されるだろう。
そしてぼく自身もまた、きみに深く影を落としたいと思っている。



一晴のメッセージはこのように締めくくられている。
ふたりがどうなるか、それはわからない。
でも、こんなラブレターをもらったら、女の子はだまってはいられないだろう。


※ところでこの「サイン・ノート」の読後感はなんともいえない。まるで人間が死ぬときにふと思い出す記憶のような感じだ。「恋するまで」に入っていた「ぼくたちの彼女」も同じだった。これはなんだろう(まだ死にたくはないのだが)。



2010年3月20日読了


>>次は…「星と地の日記」

道は遙かなり

2010-03-17 20:16:28 | コバルト
集英社文庫 コバルトシリーズ 初版:昭和53年6月
カバー:山下秀男
カット:伊東玲

(OH!NOWでアメリカンなカバー!)


あんまり本を読みすぎると現実にもどってこれなくなるので
しばらく本断ちしようと思ったら、同僚が「わるいやつら」を持ってきた…。

長い話だったが清張ワールドと頭の中をちゃんぽんにしたくないので、
必死で読み終わらせた。ふう~。

本は断ってないけど、もういいわ。早く読みたい。
さあいざ行かん、富島ワールドへ!


<道は遙かなり>

前回の「朝雲の序曲」で、障害があるところにリアリティがあると書いたけど、
これはちがう意味でリアルな話。

恋心もしらない主人公の昭子の周りには、
恋のかけひきや女のみにくさ、ズルさがひしめいている。
これはもうオトナの恋愛だ。


昭子は姉である恵子の同級生、健児をめぐって、姉とライバルになるのだが、
この恵子がコケットリーな少女で、悩ましげなしぐさで健児を誘惑する。
健児はそれにどうも違和感を覚えてしかたない。


「いいか。問題はきみのそのジェスチュアなんだ。
きみ自身はきわめてふつうのしぐさと思っているにちがいない。意識していないかもしれない。
しかし、無意識のうちに。コケットリーになっている。
男の心をくすぐるような指の動きを自然にし、男をまどわすような目つきになっているんだ。」



ううううーーん!

「無意識」というのがポイントである。
女は多少なりとも本能的に男にそういうしぐさを取ってしまうだろう。


恵子のほかにも、健児の友達を翻弄する千枝子、昭子の友達の涼子といった
女の本能とズルさを発揮していく登場人物が多く出てくる。


好きでもない異性に言い寄られたら…まあまんざらでもないだろう。
そこでその異性に所有欲を抱くか否か?


健児は文芸部の顧問に

「先生。先生はじぶんがそう好きでもない女性に失恋したことがありますか?」

と問い、


昭子は恵子に

「おねえさん。女の子って、じぶんがそう好きでもない人についても、ヤキモチを感じることがあるの?」

と問う。


恵子は

「だれからも愛されたいと思うのが女心よ」

と答え、それに昭子は納得しないのであるが、
まあ、私は恵子に賛成だな。


うまいとこいいとこどりしたいし、ええ、そのために純情ぶっているのだ、「無意識」のうちに…。


嫉妬は女を豹変させる。
恵子はまたプレイボーイの安田をめぐって千枝子と殴りあったりするのだが、二人の姿はまさにズベ公だ。



健児は昭子に

「女のきょうだいがいないせいもあって、女の人を美化していたんだ。
純情でやさしくて美しい。あこがれを持っていた。

ところが、このごろ、女の人にもいろんなタイプがあることがわかった。
やはり、男と同じように、いくつもの欠点を持ち、みにくい面を持った人間だということを、つくづく実感するようになった」


と言う。


そう!その通りだ!
女はズルいのだ!
女はみんな女ギツネなのだ!(言いすぎか)


対して女に翻弄されてふぬけになる男の弱さも描かれているのだが…
これは男性のみなさんどうなのだろうか。


健児も昭子も、つまりは清純なのだな。


自分が高校生だったときのことを振り返ってみる。すでにみにくい恋愛をしていた。
純情と醜悪の境界は何だろう。


私は正直、この話を「みにくい恋愛をするな!」という教訓話としては読めない。
昭子が純情なのも、それは「恋心」が芽生えてないからであって、
健児の存在を意識してからは、ほら!恵子にいじわるなことをいったりしてるじゃないか。
表向きは清純なふたりが主人公だが、
その裏にある恋愛の現実の方が重要であるような気がする。


自分の心に潜むみにくさを知り、それを通過してこそ、真の愛情を知るのではないか。
それこそ、道は遙かだ。


作中にはその通過の「ヒント」と思われるものもいくつか落ちている。

野球部のエース中辻四郎が、昭子の友達である涼子と、健児の友達江頭が付き合っていることに動揺して、
昭子に言い寄ってくるのだが、昭子はこう突っぱねる。

「あなたはいま、涼子のことで悩んでいる。悩むときは、せいいっぱい悩むべきよ。逃避するなんて、ごまかしよ。
ほんとうはあたしを好きだったなんて、たとえほんとうでも、いまのあなたは言うべきじゃないわ。
ほんとうはほんとうではなくて、あなたの苦しみをまぎらわすための麻酔剤なんだから、よけいにいけないわ」



三角関係にもつれる友人達について健児の台詞

「ほんとうの敵はね、人の真実をもてあそぶ心さ。ふたりにとっては安田がほんとうの敵だとぼくは思うね」

「あのふたりの男、江頭と中辻君にしたって、ほんとうは敵同士ではないはずだよ。敵は、高川涼子のなかに巣くっているまちがった欲望なんだ。
そしてそれは、涼子自身の敵でもあるはずなのに、彼女は気づいていない」



おとなになってもこの敵は手ごわいものだ。



さて、最後に健児が昭子に

「好きだとはまだ言わないよ。考えてみたら、好きということばはたいへんなことばだと思う。
一般にみなは、このことばを簡単にむぞうさに使いすぎている。ぼくはもっとこのことばをたいせつにしたいし、あなたをたいせつにしたい」


と、暗に告白をする。


この年になるとこれは「愛」だな。
「愛してる」という言葉を男性はつかいすぎはしませんか?
私は男性に「愛してる」と言ったことがないかもしれない。
ではいつ言うのか…それは、そのときだ。



ともあれ、恋愛は熱病のように男女の中を通り過ぎる。
ラストの恵子は、まるで熱病からさめたかのようにさわやかですがすがしい。

熱病もたまにはいいではないか。


2010年3月17日読了


>>次は…「ふたりだけの真珠」

女人追憶

2010-03-10 16:17:27 | 女人追憶
昨日届きました。
ちょっと読んでみたが、これならなんとか読めそう。

「密通」の何がいやだったって、内容以前にえげつない言葉遣いだったのだな。

これはまあ、コバルト系のように言葉も上品なので、内容もそれだけで美化されて読みやすい。
(ざっと目を通したところ、とんでもない話であろうことは間違いないのだが)

あと、挿絵がすてきなんで…。これぞ富島小説のヒロインって感じ。
やっぱり単純だ。ビジュアル重視のふみさんであった。


何年にもわたって雑誌に連載された作品なので、一日二日でどうこうしようとする気はない。
気が向いたら読んで、思ったことがあったら少しずつ書いていこうと思う。

ギブアップするかもしれないけど…まあ、全部読めたとしても官能系はこれで十分かな。



※今週は本断ちすると決めたので次の更新は来週です(たぶん)。