いまさらの書影
小学館 初版:平成元年5月
※集英社文庫版では 「午後の海の巻」と副題あり
4か月かかってやっと読み終えた。一部の感想書いてから1年。こんなに時間がかかるとは。
まあ、文庫だと14冊にもなる大長編だからよしとするか。
五部までは真吾の女性遍歴のほうが印象深く、随所に感じられる戦中戦後のにおいは作品の背後にうすく流れる背景のようなものだったのが、六部ではその背景がクローズアップされ、ちょっと新鮮な読後感をもった。
「昭和ヒトケタの学生」という章題もあるように、当時の学生事情、さらに後半登場するブローカーの土田の戦中体験などが興味ぶかい。
六畳に四人の学生が住めばプライバシーも自由もなにもない。女を連れ込めばドラマが起こる。富島作品を読んでいるとそんな古き時代の青春がうらやましくもなるが、それはひとつのファンタジーを見ているのにすぎず、まずしい時代ゆえの悲劇もともなっていたことを忘れてはならない。
土田と真吾の出会いはいつものように“帰省中の汽車”の中であり、土田は少女、春絵の人身売買の仲介者でもある。
人身売買は『のぶ子の悲しみ』や『制服の胸のここには』といったジュニア小説にも登場する話題だ。
土田が戦死したはずの先輩の許嫁と結婚し、子供を設けたあとその先輩が生きて戻ってきたという話も当時の悲劇のひとつだろう。作者は少々“外人嫌い”をにおわせる表現をするが、確かに知子が白人と関係を持ったことを告白するシーンもそんな感じだ。真吾も「アメリカ兵とパンパン」による日米交流が市民の情事に変化したことを考えている。
しかし、インドネシアのオランダ婦人収容所で女性の相手をした土田の発言は興味深い。
ほかの収容所は戦後いろんなことがあってたいへんだったらしいが、わしのいた収容所の女たちは、好色ではあっても悪い女たちではなかった。わしらが強引にベッドに引きずり込んだ、などというでたらめはだれも言い出さなかった。
「彼女たちの欲望に誠意を持って最大限に応じたおかげ」と続くのだが、他意の可能性もまた推測してしまう。
戦争には行ったが、人は殺しとらん。(略)な、学生さん、憶えといてくれよ。戦争へ行っても敵を殺さなかった兵隊は多いんだ。
この部分も。
「突撃一番」という商品名に春絵が首をかしげるところはおもしろい。天野祐吉の『嘘八百』で広告を見たかな。
重い話題だけではない。土田との出会いにより真吾と同級の岡田は春絵の故郷の島へ寄り道するのだが、この舞台が彼らにとってのユートピアとなる。また例によって多くの女性との交歓がおこなわれるが、“島”とはまた解放的な感じと非現実の世界を連想させる舞台ではないか。真吾が越してきた「昭和荘」もまた、『七つの部屋』のように多彩な住人を設定できて便利である。
見つつ見られつ、と発展することが多いこの作品だが、「昭和ヒトケタの学生」にあるように、当時の住宅事情など考えると仕方ないことなのかもしれない。ふすま一枚、薄い壁一枚へだてた中では、くしゃみしたわ、程度に考えないと神経が持たないだろう。今回も土田が母に最中を目撃され、お互いなんとなしに会話するシーンが登場する。
それにしても都合よく女性が登場しすぎだ。この島で真吾は一晩で四人の女を相手にするのだが、
「モテるんじゃありません。偶然がかさなっているだけです」
とはまあうまい言い訳だ。
挿話のなかで「二十四時間の間に何人の女に入ったか」という話題が出てくるが、真吾もその最高人数を経験したわけである。
男性というものはそんなことに興味があるのか…という感覚のすれちがいは毎度のことで、もう真吾が何人の女と経験しようが、どれだけ偶然がかさなろうがどうでもよくなってしまった。
とはいっても、自由な関係を約束しながら情緒的なやりとりをしたり、婚期を考えたりという真吾の矛盾には「矛盾ではなくてそれが自然なのではないか」と口をはさみたくなる。もちろん、後者を“正しい”とする前提なのだが。
真吾がフィアンセを邪険に扱う伊津子に怒り出す場面には、思わず「は?」と声が出た。
雪子の母のちえは「捨てないでね」といい、島のアバンチュール相手、伊津子は「あたしのこと、忘れないで」「潮の音も憶えていて」という。
それはムードを高めるための女の手法なのか、わたしは女の情緒と思いたい。
しかし
「あたし、その“愛”ということばはきらいなの。そのことばほど便利でインチキなことばはないわ。正体をごまかすときに使われることばよ。とにかく、どんな女だって、ほんとうは新鮮な男と寝たいのよ。」
という春絵のセリフには共感できない。それでも、「自分を基準にして」ものいう春絵の姿には富島哲学を見る。
富島的といえば、真吾は「“学生”の自分」「“社会人”の明美や知子」「“年上”のちえ」というように、自分の学生としての立ち位置からいつも関係を見ている。作者はほんとうに“青春時代”に特化した作家なのだ。
中途半端な女性も何人か出てくる。島の女性教師とは発展があるのか?確か五部の終わりにも女性教師が出てきたのだが…。
ともあれ“女性関係”における矛盾をうまくかわしている真吾だが、そうはいかないのが雪子との関係だ。
(今さら道徳や良識にこだわること自体が無理というものだろうか)
他の女性関係の時もそう考えてほしいものだが、さすがに雪子との関係は特別らしい。
(やはりおれとこの子がこんな奇妙な仲になったのは、おれ自身の邪悪で変態的な欲望のせいで、そうでなければこの子の心情は性的な戯れに結びつくことはなかった)
というように、真吾の中では猛烈な葛藤が起こっているのだが、結局、道徳をとなえながら真吾は雪子の中に中途半端に進む。
(雪子にせがまれるというかたちで、おれはおれ自身の欲望を進めている。ずるい。おれはこの子の純情さを利用している)
とあるが、逆に雪子は真吾を加害者に仕立てようとしているともいえる。雪子に後悔はなくとも、真吾は永遠に罪の意識にさいなまれるであろうから。
こんな読み方をするのはわたしだけかもしれないが、そういう意味でわたしは雪子が嫌いなのだ。少女でありながら、女のほんとうにみにくい部分をあらわしている。ちえが涙をながすのとは違うのだ。
年齢は関係ない。自分を振り返っても、本質的な中身は子どものときと変わっていないではないか。
雪子はからだだけ少女の妖女なのかもしれない。そのアンバランスさはエロティックであり、グロテスクでもあるのだ。
六部まで読み進めながら、自分の道徳観や価値観がくずれていく感じを幾度となくおぼえた。だからといって誰とでも寝る女になったわけではない(これからもない)。人生観が富島健夫に大きく影響されたことを漠然と感じながら、ただ、そういうこともあるのかもしれない、と若干の寛容さを学んだだけだ、それだけ、と自覚していた。
しかし六部を読み終えるまぎわに、はっと気づいたことがある。
男女関係には矛盾がある。平行線で相容れないものがある。だから悩む。真吾も悩む。
でも、それは解決できないのだ。
そういうものなのだ。
人生のすべてのことがそうなのだ。
だから…自分の真実にしたがって生きるしかない!!
『女人追憶』がわたしにとって、大きな人生論の教科書に化けた瞬間だった。
2011年8月12日読了
--------------------------------------------------------------------
さて、あとは七部を残すだけとなりました。
でも「主要作品を全然読んでいない!」というご指摘と自覚があったため、次回はこれにします(『女人』の知名度は高いですが…)。
…と撮影しようと思ったら、ない!どこにしまいこんだのだろう?!あのうすっぺらな本を。
さがさなきゃ…。