富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

週刊ポスト9.21/28号「富島健夫リバイバル 女人追憶」!

2012-09-13 20:29:29 | 女人追憶

ここ数日、やけに『女人追憶』で来る人が多いと思ったら…。

ん…

あっ!

「富島健夫リバイバル」と題して16ページにわたり、『女人追憶』が挿絵入りで再録されていました。

妙子、路子、千鶴、小菊、美津、明美…もう忘れているのもいるなあ。
収録順はストーリーと関係ありません。
わたしの×××な神崎くんの言葉も載っていました。

Wikipedia&花戦を参考にしたとおぼしきプロフィール。代表作『高校三年生』なんて書かれたらえらいことだった。直しておいてよかった。

 

もしかしてこの「ポスト」の反応で、『女人追憶』が再版されるのでしょうか?!
豪華愛蔵版でも買います。抄録はだめですよ。神崎くんの解説も不要です(笑)。

でもこんな弱小ブログに一日40人くらいの方が「女人」検索でいらっしゃったことは、反響のひとつの表れかもしれません。

ブログにお越しのみなさん、ぜひP164のクロスワードを解いて、
③富島健夫リバイバルに「おもしろかった」の一票を!


女人追憶 第七部

2012-01-15 20:56:18 | 女人追憶

 

集英社文庫 「紅い園の巻」 初版:1995年2月 カバー:松田穣
※左 小学館版は 初版:平成元年5月 装丁:長友啓典

一年半ぐらいかかってやっと読了。ペーパーバック調の分厚い小学館版で7冊、集英社文庫で14冊。私が今まで読んだ小説で一番長かったのは『モンテクリスト伯』だが、その倍以上になるのかな。

 

真吾の帰郷に始まる七部は、妙子や安希子との再会の後、旧友江藤と出会い、おなじみの“他人の挿話”になって…という噂は聞いていた。ラストのあっけなさは予想以上で、覚悟していたものの思わず「は?」と声が出た。

しかし、今まで半ば義務のように読み、今回も読み始めは「もう富島ファンやめるかもしれない」というくらい気持ちがだらけていたのに、後半から一気に読み終えた。上巻にベタベタついている付箋が下巻にはほとんどない。つまり、おもしろかったのだ。ただそれは、真吾ではなく、虹子の物語。

真吾は五部で伏線のように出てきた教師、英子と再会し、入った料理屋の仲居である虹子の身の上話を聞くことになるのだが、この話が七部の半分以上を占めている。

旧家に子守り奉公に出された虹子は、その家の娘 律子の性体験に立ち会ったり、幼なじみの治郎兵の手ほどきを受けたりして性に目覚めていく。無知で素朴な疑問を持つ虹子のその過程が面白い。律子が寺の息子と初体験の最中に、お嬢様を守ろうとするあまり、それを邪魔するシーンもある。
14歳の虹子は今の14歳とは全く違う。カスリの着物にモンぺを着て、初潮もまだない。奉公先の娘に対し、忠誠心を持ってつかえる。そして、“治郎兵”という名前。2012年の今、「ひと昔前の話」とは言えない。もう、時代劇くらいに時間をさかのぼらないとイメージが追い付いていかないのだ。とはいっても時代劇ではないから、チョンマゲのおっちゃんではなく、がっしりとした好青年の“治郎兵”像を思い浮かべる作業をしていた。
ネットで「『十三歳の実験』を買ってだまされた。時代古いし」みたいな感想を見つけたが、その通りだと思う。どうして『女人』は復刊されないのかと疑問に思っていたけれど、もう官能小説としては売れないだろう。こんなに時代が古すぎては煽情されない。

ただ、文学としてのニーズは別だろう。何とかイメージを作って読み進めていくと、実に不思議な感覚に襲われる。現代とは全く違う時代の話なのに、いとなみは変わらないということ。昔の生活のなかにも、性は当然あったわけだが、それがリアリティを持って伝わってくる。現代にはない素朴な生活のなかの性に、何か人間の生きる力まで感じてくるのである。
この物語の登場人物も、基本的にはドライに性を謳歌しようとしているのだが、虹子と治郎兵の間には、なにか愛情のようなものが感じられて、そこに感情移入することができる。登場人物が生き生きとしていて、ただの性遍歴の物語でなく、一つのドラマとなっている。
作者は軽い気持ちでこれを書いたのだろうか。思い入れが感じられ、虹子のモデルがいるのではないかと疑ってしまう。挿話とするにはもったいない。独立させた中編としてもいいくらいの傑作だとわたしは思うのだが…。

ところで、『女人追憶』に登場する女性たちはあまりにも男性に都合がいいと思ってきたのだが、この本を読んで、「なるほどなー」と思った。

『恋とセックスで幸せになる秘密』二村ヒトシ(2011.3 イースト・プレス)

下世話でなく、心理学的に女性の陥りやすい罠を的確に説明した名著なのだが、こんなことが書いてあった。

かつての一般的な女性は、自分からは恋をせず「自分に恋してくれた男たち」の中から、いちばん「愛せそうな男」を選んで結婚していました。
男から恋をされ、愛やセックスを求められることで、女としての受け身のナルシシズムを満足させることができました。
自分に恋をした男を愛し、子供を産んで育てることで、彼女自身も精神的に成長して自己肯定することができていたのです。


昔の女性の多くは、自分の方から恋をする機会や、恋で苦しむ必要が、なかったのです。
もちろん、「愛した男に浮気され、嫉妬に苦しむ」ことは、昔もあったでしょう。
しかし、当時の女性社会には「男は浮気をするもの」という共通の認識がありました。
それは文字どおり「浮気」であって、家庭が壊れてしまって妻が自分の存在意義を失ってしまう怖れまでは抱かずにすんでいたのです。


筆者は恋を「欲望」、愛を「相手を認める」ことと定義づけており、まず自分を愛することが(自己肯定)できないと、恋から愛には進めませんよ…というようなことをこの本では述べているのだが、なるほど、男女の恋愛はこんな風に成立していたのか。こう説明されると、女が「浮気」に寛容なのが納得できる。女は、ただじっと耐えているのではなかったのだ。
ちなみに現代は、まだ男の自己実現を支えるしくみの社会であるにも関わらず、女性も「恋」や「仕事」など男性的な役割を持つようになったがゆえに、女性がとても生きづらくなっているのだそうだ(その通りと思う。ぜひ読んでください!)。

相手が他の女性と寝たりしたら、今では大騒ぎするのが当然だろう。もしかして今の女性の方が、男性関係に情緒を求めているのかもしれない。または、二村風にいうと恋愛による「自己(自他)肯定」がうまくいっていないのか。いずれにしても、当時の女性についての認識をあらためなければいけない。
『女人追憶』の登場人物の女性は、あたらしい女性のように描かれているが、それは、受け身の恋しかできない女性の唯一の楽しみとして、性をとらえようとする一つの試みなのかもしれない。(ん、はたまた女性が「恋」をする始まりなのか?)

そう考えると、『女人追憶』は女性の性意識を探るうえで、ジェンダー研究のいい資料になるのではないだろうか。

 

七部の前半、江藤の女性経験の話も悪くなく(つまり、わたしは七部にしてはじめて『女人』を読んでもムラッとしたのだが)、挿話の印象だけで感想を「なかなか面白かった」とまとめることもできた。

しかし、上巻を読み直して気が変わった。確かに虹子は真吾より年上で、さらに若い時の話であるから、真吾とも時代が違う。けれども、真吾の物語にこの人間らしさが感じられないのは何故だろう。それは時代の違いのせいではない。

もし挿話なく、『女人追憶』全編から真吾の物語だけを抜き出したとして、虹子の物語のようになったのであろうか。

真吾には、『恋と少年』の良吉のような夢も情熱もない。「まじめで女好き」ということくらいしかわからない。つまり『女人追憶』では、主人公の人間性が切り捨てられ、青春時代の性の浪費だけが延々と描かれてしまったのではないか。
もし、性を主題にするのであれば、文庫のあとがきにあるように「カツオ君ワカメちゃん」に終わらせず、真吾の壮年まで描いたほうがよかっただろう。
あとがきにいろいろ書いているが、同じような場面なんて、ファンにとっては何を今さらって感じの承知のことで、それでも富島作品を愛するのは、そこに「青春時代のすばらしさ」が描かれているからなのだ。

題名通り主人公は「女人たち」であって、真吾は脇役なのかもしれない。でも、作者は変なところで青春時代にこだわってしまったと思う。

『女人追憶』は、ただ浪費された青春の集大成なのかもしれない。

2012年1月9日読了


女人追憶(第六部)

2011-08-18 20:25:00 | 女人追憶


いまさらの書影

小学館 初版:平成元年5月
※集英社文庫版では 「午後の海の巻」と副題あり

4か月かかってやっと読み終えた。一部の感想書いてから1年。こんなに時間がかかるとは。
まあ、文庫だと14冊にもなる大長編だからよしとするか。

五部までは真吾の女性遍歴のほうが印象深く、随所に感じられる戦中戦後のにおいは作品の背後にうすく流れる背景のようなものだったのが、六部ではその背景がクローズアップされ、ちょっと新鮮な読後感をもった。
「昭和ヒトケタの学生」という章題もあるように、当時の学生事情、さらに後半登場するブローカーの土田の戦中体験などが興味ぶかい。

六畳に四人の学生が住めばプライバシーも自由もなにもない。女を連れ込めばドラマが起こる。富島作品を読んでいるとそんな古き時代の青春がうらやましくもなるが、それはひとつのファンタジーを見ているのにすぎず、まずしい時代ゆえの悲劇もともなっていたことを忘れてはならない。
土田と真吾の出会いはいつものように“帰省中の汽車”の中であり、土田は少女、春絵の人身売買の仲介者でもある。
人身売買は『のぶ子の悲しみ』や『制服の胸のここには』といったジュニア小説にも登場する話題だ。

土田が戦死したはずの先輩の許嫁と結婚し、子供を設けたあとその先輩が生きて戻ってきたという話も当時の悲劇のひとつだろう。作者は少々“外人嫌い”をにおわせる表現をするが、確かに知子が白人と関係を持ったことを告白するシーンもそんな感じだ。真吾も「アメリカ兵とパンパン」による日米交流が市民の情事に変化したことを考えている。

しかし、インドネシアのオランダ婦人収容所で女性の相手をした土田の発言は興味深い。

ほかの収容所は戦後いろんなことがあってたいへんだったらしいが、わしのいた収容所の女たちは、好色ではあっても悪い女たちではなかった。わしらが強引にベッドに引きずり込んだ、などというでたらめはだれも言い出さなかった。

「彼女たちの欲望に誠意を持って最大限に応じたおかげ」と続くのだが、他意の可能性もまた推測してしまう。

戦争には行ったが、人は殺しとらん。(略)な、学生さん、憶えといてくれよ。戦争へ行っても敵を殺さなかった兵隊は多いんだ。

この部分も。

「突撃一番」という商品名に春絵が首をかしげるところはおもしろい。天野祐吉の『嘘八百』で広告を見たかな。


重い話題だけではない。土田との出会いにより真吾と同級の岡田は春絵の故郷の島へ寄り道するのだが、この舞台が彼らにとってのユートピアとなる。また例によって多くの女性との交歓がおこなわれるが、“島”とはまた解放的な感じと非現実の世界を連想させる舞台ではないか。真吾が越してきた「昭和荘」もまた、『七つの部屋』のように多彩な住人を設定できて便利である。

見つつ見られつ、と発展することが多いこの作品だが、「昭和ヒトケタの学生」にあるように、当時の住宅事情など考えると仕方ないことなのかもしれない。ふすま一枚、薄い壁一枚へだてた中では、くしゃみしたわ、程度に考えないと神経が持たないだろう。今回も土田が母に最中を目撃され、お互いなんとなしに会話するシーンが登場する。

それにしても都合よく女性が登場しすぎだ。この島で真吾は一晩で四人の女を相手にするのだが、

「モテるんじゃありません。偶然がかさなっているだけです」

とはまあうまい言い訳だ。
挿話のなかで「二十四時間の間に何人の女に入ったか」という話題が出てくるが、真吾もその最高人数を経験したわけである。

男性というものはそんなことに興味があるのか…という感覚のすれちがいは毎度のことで、もう真吾が何人の女と経験しようが、どれだけ偶然がかさなろうがどうでもよくなってしまった。
とはいっても、自由な関係を約束しながら情緒的なやりとりをしたり、婚期を考えたりという真吾の矛盾には「矛盾ではなくてそれが自然なのではないか」と口をはさみたくなる。もちろん、後者を“正しい”とする前提なのだが。

真吾がフィアンセを邪険に扱う伊津子に怒り出す場面には、思わず「は?」と声が出た。

雪子の母のちえは「捨てないでね」といい、島のアバンチュール相手、伊津子は「あたしのこと、忘れないで」「潮の音も憶えていて」という。
それはムードを高めるための女の手法なのか、わたしは女の情緒と思いたい。

しかし

「あたし、その“愛”ということばはきらいなの。そのことばほど便利でインチキなことばはないわ。正体をごまかすときに使われることばよ。とにかく、どんな女だって、ほんとうは新鮮な男と寝たいのよ。」

という春絵のセリフには共感できない。それでも、「自分を基準にして」ものいう春絵の姿には富島哲学を見る。
富島的といえば、真吾は「“学生”の自分」「“社会人”の明美や知子」「“年上”のちえ」というように、自分の学生としての立ち位置からいつも関係を見ている。作者はほんとうに“青春時代”に特化した作家なのだ。

中途半端な女性も何人か出てくる。島の女性教師とは発展があるのか?確か五部の終わりにも女性教師が出てきたのだが…。

 

ともあれ“女性関係”における矛盾をうまくかわしている真吾だが、そうはいかないのが雪子との関係だ。

(今さら道徳や良識にこだわること自体が無理というものだろうか)

他の女性関係の時もそう考えてほしいものだが、さすがに雪子との関係は特別らしい。

(やはりおれとこの子がこんな奇妙な仲になったのは、おれ自身の邪悪で変態的な欲望のせいで、そうでなければこの子の心情は性的な戯れに結びつくことはなかった)

というように、真吾の中では猛烈な葛藤が起こっているのだが、結局、道徳をとなえながら真吾は雪子の中に中途半端に進む。

(雪子にせがまれるというかたちで、おれはおれ自身の欲望を進めている。ずるい。おれはこの子の純情さを利用している)

とあるが、逆に雪子は真吾を加害者に仕立てようとしているともいえる。雪子に後悔はなくとも、真吾は永遠に罪の意識にさいなまれるであろうから。

こんな読み方をするのはわたしだけかもしれないが、そういう意味でわたしは雪子が嫌いなのだ。少女でありながら、女のほんとうにみにくい部分をあらわしている。ちえが涙をながすのとは違うのだ。
年齢は関係ない。自分を振り返っても、本質的な中身は子どものときと変わっていないではないか。
雪子はからだだけ少女の妖女なのかもしれない。そのアンバランスさはエロティックであり、グロテスクでもあるのだ。


六部まで読み進めながら、自分の道徳観や価値観がくずれていく感じを幾度となくおぼえた。だからといって誰とでも寝る女になったわけではない(これからもない)。人生観が富島健夫に大きく影響されたことを漠然と感じながら、ただ、そういうこともあるのかもしれない、と若干の寛容さを学んだだけだ、それだけ、と自覚していた。

しかし六部を読み終えるまぎわに、はっと気づいたことがある。

男女関係には矛盾がある。平行線で相容れないものがある。だから悩む。真吾も悩む。
でも、それは解決できないのだ。
そういうものなのだ。
人生のすべてのことがそうなのだ。

だから…自分の真実にしたがって生きるしかない!!

『女人追憶』がわたしにとって、大きな人生論の教科書に化けた瞬間だった。


2011年8月12日読了


--------------------------------------------------------------------

さて、あとは七部を残すだけとなりました。
でも「主要作品を全然読んでいない!」というご指摘と自覚があったため、次回はこれにします(『女人』の知名度は高いですが…)。

…と撮影しようと思ったら、ない!どこにしまいこんだのだろう?!あのうすっぺらな本を。
さがさなきゃ…。


女人追憶 第五部

2011-04-03 23:50:07 | 女人追憶

小学館 初版:昭和62年5月
※集英社文庫版では 「自然の流れの巻」と副題あり


しばらく荒川さんネタに頼ってきて、まあ、そっちのほうが有意義だと思って読書をサボってきましたが、
四部を読み終えたのはいつだったかとブログを読み返してみたら、「メリークリスマス」だって!!
これではいけない。ちょっとペースアップして七部まで読まなくては。
荒川さんも発表の場を持ったことですし、しっかりやります。

 

さて、この巻でも真吾はいろいろな女性と交歓を繰り広げるわけだが、男と女と性に対する真吾の独り言はいつもと同じ。うるさすぎるほどだ。

そこで一つの疑問。『女人追憶』は、官能小説として知られているが、果たして本当に官能小説なのだろうか。
確かに話の大半は男女のそういう行為だ。でも、直接的・刺激的な表現のなさは、作者の単なる美意識なのだろうか。

雪子、ちえ、松美、明美、英子、鈴子、そして、妙子。
さまざまな女性が登場し、それぞれに人格的な特徴はいちおうあるが、結局は性的な“反応”と、真吾をどのような“女の目”で見ているか、が関心事であり、女性たちはテストパターンのサンプルのようなもの。

男は愛していない女と関係できる。男は愛している女がいても、ほかの女と関係できる。
でも、やっぱり一人の女に特別な感情を持つことがある。
男の生理と女の情感については結局は相容れない部分があり、だからこそ男女の悩みは尽きないのだろうが、
宮崎真吾の独り言は、その答えを必死で出そうとする、誰もが行っているであろう行為なのではないか。

つまり、「人はなぜ生きるのか」という命題のごとく、永遠に答えの出ない(おれは、なぜこんなことをしているのか)という問いに真吾は向き合っているようだ。

文中には真吾のカッコ書きの独り言のほかに、作者の価値観が現れた短文がぽろぽろ盛り込まれている。
作者は数々の恋愛論を発表しているが、
もしかして、『女人追憶』は、その延長で記された富島健夫の性愛論の集大成なのではないか、と今回読書していて感じた。


そして、芸者の松美が不能になった中年の「いいさん」に復讐する場面は、“官能小説”としてはどうなのだろうか。
「富島作品には中年の性を書いた官能小説はない」とは荒川さんの受け売りだが、確かに、いいさんには枯れた男の魅力もなにもない。みじめで哀れなだけだ。
このエピソードは松美を通じて、女の復讐心を表現したものかもしれないが、それだけではなくて、やはり性は「エネルギーの消費」であり、若さの特権なのだという作者の価値観も表れているように思える。

ところで真吾は、いいさんに「ウグイスの谷渡り」で傷つけられた様子を順序立てて説明する松美に対し、
「えらいなあ。よくそこまで自分を客観視することができるものだ」という。
これは女は情に溺れやすいという逆説なのだろうか。


もう一つ気になったのは、刺激を得る方法として、いつも第三者をからませている。
おなじみの3Pやスワップ。今回は行為を他人に見せるエピソードがいくつかあった。
ふたりで行う性の追求はあくまでノーマルであり、SMなどの変態行為には発展しない(「SMファン」掲載の「背徳の部屋」はどうなのだろう)。

“他の男”と関係を持った明美を真吾が“噛む”シーンがでてきたが、それも、明美への“嫉妬”という“サービス”であった。
そういうことにはあまり興味がないようだ。浴びたり、呑んだりするだけで十分だということか。
ただ、意外に妙子が一番性的な遊戯にめざめていくような気がする。真吾に露骨な言葉を言わせようとしたり。恥ずかしながらも、性に対する好奇心を見せつつある。
女の顔を覗かせ、二人の関係に少しずつ入り込んでいく、妙子の母のこれからも気になる。

また、五部はみな“よろこび”を知った女性ばかりのせいか(雪子すら!)、どの女性にも妖しさがあふれている。
そして、鈴子が痛々しい。

「ごめんなさい。あたしは今、わがままを言っているだけなの。だから、だまって聞いていて」
「うん」
「東京へ行って、あなたの近くに住んで、あなたの下着を洗濯して……」
「……」

こんな傷つけ方をしてはいけない。


さて、真吾が明美との関係を続けることを「貴重な適齢期を侵食している」と考えたり、「女にとって大切なのは結婚」という言葉があったりするのは、やはり作者が古い価値観を持っているからだろう。

他にも、詩を書く者へのちょっとした皮肉?や、「恋愛論」にもあった、女は「なぐる」ではなくて「たたく」という言葉を使うこと。「湯上りの女の匂いは、洗髪してはじめて効果がある」「宇野千代も山田五十鈴も、つぎつぎに男を変えて大きくなった」など、細かなところにおもしろさが見えた。

学生運動については、
「うちの大学の場合は、ほとんど無関係だわ。社会主義とか人民とかに無関心。自分のことだけ考えているの」
コバルトシリーズでは逆に関心を持った人物が登場しているが、この作品では、これで思う存分性に没頭することができるということか。

真吾が帰省した時の体操の先生の台詞には、こうある。
「学生が身を持ちくずすのは酒と女だと思っていたが、そうじゃないな。勉強も何もしないのはもちろんいかん。そのつぎが学生運動だ。きみも深入りはするなよ。いいか。田舎出のやつほど、純情だから過激になりやすい。大都会で育った連中はちゃっかりしていて、結局はかしこく振舞う。そんな連中に踊らされるんじゃないぞ」


第二部の「エピソード」で出てきた高瀬と道代夫婦とのやりとりは、富島作品特有の青春のにおいも感じる。
ラストの章は「二人の母」。思わずくすっと笑ってしまう終わり方だった。

しかし、“たたずまい”や“内部反応”ばかりが“追憶”されては、女もたまったものではないな。

2011年4月3日読了


女人追憶 第四部

2010-12-25 21:40:21 | 女人追憶

小学館 初版:昭和60年8月
※集英社文庫版では 「深夜の花びらの巻」と副題あり

メリークリスマス!こんなときにこんなブログ書いてる自分がかなしいですが…。
クリスマスは先に済ませたの!と言い訳しておく。


読むのに2か月もかかってしまった。
とぎれとぎれなので何度か戻ったが、すっかり忘れてしまっているので総合的な感想を。

まず今回の書き出しにも驚いた。
満員電車の中で、雪子の母、ちえに扇情的な接触をされる真吾。
後半にも帰省中の車内で、隣り合った人妻、佳子とスリリングな体験をする。

電車の中というファンタジーの舞台が繰り返されたことに、
ただ単に「ありえないじゃーん」と思い、またそれが男性の妄想なのかと首をかしげただけだったのだが、
先日の荒川さんとの会話の中「でも、富島自身がそういう体験をしてるんだよね」という言葉にはっとした。

そうだ!電車の中で痴女にあったと書いてあった!

「すごいピチピチで女盛り、二十三歳くらいだったな。満員電車の中で、パッとお腹とお腹がくっついちゃった。
そしたら向こうの手がこうしのびよってきて、いきなりぼくのセックスをさわるんだ。こっちは東京に出てきたばかりの、しかも童貞ときたな(笑い)。もう、真っ赤になっちゃった。」
(「富島健夫のすべて」『小説ジュニア』昭和49年9月号)

意味ない記述などない。荒川さんの洞察力には頭がさがる。

電車ともうひとつ、真吾対女ふたりというパターンもいくつか見られたが、さほど印象に残らず。
それよりも、四部では、やっぱりこの作品で一番ひっかかるのは“情緒”だということを再認識した。

真吾は女ごころがわからない…と前に書いたが、
それでも行為に際し情緒を重んじるところはきちんとわきまえていると思う。
まあ、真吾自身(行きずりの相手なのに…)とか疑問符を持ちながらの振る舞いなのだが、
情緒なくしてただ機械的に快楽を求めるだけでは、この作品が成り立たない。
それは女も同様で、割り切ったフリーセックス論者の女性に対比する、古風で情緒的な女性がムードを作り上げているのだ。

アメリカ人と関係するすみれに対する真吾のいくばくかの嫌悪感、
“民族的裏切り者”という言葉にも、作者の価値観が表れているように思う。

四部は特につまらないとも飽きたとも思わず読み進めてきたが、
最後に鈴子と関係するところでまたガツンとやられた気がした。
実験的初体験の相手、路子との別れと同じような切なさを感じたのだ。

客観的に見れば、真吾のいうように“淫蕩的”な女性の設定だし、作者も特に裏の心情まで意識していないと思うのだが、
私には「本当に真吾を愛してしまった」女に思えるのだ。

妙子のように心情的な愛から肉体的な愛に派生する愛もある。
でも、彼女たちのばあい、性そのものが愛になってしまったのではないか。

肉体のつながりがそのまま情緒的な愛になる…ということ。
一般的にはそういう関係は“真実の愛”とは認められないから、
でも、二番目の女でいいから愛されていたい(三番めは嫌だけど)みたいな。
それは「結婚できなくても仕方ない」という不倫関係に通じるのだが。

四部は婚約者のいる鈴子が不倫の約束をして終わっているが、からだが愛を知ってしまった…ちょっと違うな。何と表現すればいいのだろう。

不倫相手と正妻…の違いか、妙子との営みには安定感が感じられる。
ちょっとした好奇心も見せる妙子。
小技も身に着けてるし、ウグイスの谷渡りの話題が五部に発展するかどうかも気になる。

行為中に妙子の母が入ってくるシーンがあったが、それも何かの布石なのだろうか??


それから、ちょっとした情景描写

軒の低い古びた商店街を直角に曲がって海へと向かう。すぐに海は切れ、畠になり、国道に出た。国道をよぎると塩田があり、その向こうは防波堤が横へ伸びている。その端に小さな松林があった。

列車の信号の下がる音がした。遠いのに、風に乗ってはっきりと聞こえた。

「だから何」って思う?私は何だかこういうところにしびれてしまうのだ。
これも“情緒”のひとつと思う。「富島健夫のゴーストライターになれる」って言ってる文筆家?がいるけど、本当ですか。


男性はどうだかわからないが、私はこの作品を読んで性的興奮は覚えない。
それよりも、男性に対して寛容になりつつある。それは危険な「富島マジック」なのであるが。

 わがままは 男の罪
 それを許さないのは女の罪

そんなふざけた歌(失礼)があったが、まさにそんな感じだ。

「女は、ヒロインは自分じゃなきゃいけないの」

そう、その通り。
どんな女でもヒロインになりうる。
でもどうしても、自分と相手の理想のヒロイン像を重ねあわせようとしてしまう。

2010年12月25日読了

※富島健夫作品初出情報引き続き募集中です