富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

かりそめの恋

2010-05-18 17:15:02 | コバルト
集英社文庫 コバルトシリーズ(初版:昭和52年3月)
※画像なき今、この部分どう書くか考え中…

<かりそめの恋>

だんだん大人の世界に入ってきてますね。

本能で男を「誘惑」する雪枝。
でも不思議といやらしさを感じないのは、
雪枝が純粋な少女だからだと思う。

それは性を恥ずかしがるということではなく、
人間の本能の部分にストレートにぶっつかっていうということ。

でも、雪枝がいくら直球を投げても、球は返ってこない。
だからひたすら投げ、わめき、ふてくされるのだ。

かえって、雪枝に誘惑されたことで、男の本能を刺激された静生のほうがなんとなくいやらしい。

静生にしろ、体育教師の浦島にしろ、雪枝の投じた球を真正面から受け止めることができなかったのだと思う。

対してもう一人の少女、容子と静生は静かに愛を深めていく。

『きみが心は』の作者のことば…AとBどちらが正しいということはない。
雪枝のしんどさも、容子のときめきも、どっちも女の子の心だ。

もしかしてさびしいラストになると思いきや、終わり方は前向きでさわやか。

大人になったら…もうみんな大事なたかがはずれてしまっているから、チクチクと本能を刺激しあう、いやらしいかけひきが始まるのだ。

雪枝は…さあ、どっちにいくかな。



<あしたへの道>

『おさな妻』はまだ未読だが、
少女が女になること…そして、まさに「愛の儀式」を感じさせる初夜のシーンは、ロマンチックで美しかった。

今でも、「結婚したいほど好きだから純潔を捧げたい」という気持ちが女の子に決断をさせると思うのだが、
一夫との秘密の旅行を「新婚旅行」とする映子の気持ちは本当に純粋だし、
「紙をまくらの下にしのばせる」なんて、とても女らしい気遣いだと思う。


さて、映子の両親はそんな二人を罵倒する。
それは彼らが、体裁を守ろうとしたり、「自分の青春を忘れてしまった」からだというが、
それだけではなく、“後悔”もあったからではないだろうか。


私も自分の子どもがそうなったら、怒鳴りはしないけど嘆き、諭すだろう。


 いつまで慎重になればいいのだ。
 そんなことではいつまでたっても人を愛することなんてできない。
 結婚なんてできない。

 今がすべてであり、真実の愛なのだ。決してふしだらではない。


あやまちか真実か…それは自分の物差しではかるもので、他人にとやかくいわれることではない。

それはわかる。

けれども、それをいつまでも繰り返す人間もいるのだ。



ここで描かれた初夜のシーンも、愛のよろこびも、世間という壁も、後悔も…

もしかして物差しがほしくて読み続けているのかもしれない。



2010年5月18日読了

>>次は…『二年二組の勇者たち』  


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