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富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

花と戦車 光と闇

2011-03-27 21:05:15 | 荒川佳洋さん

富島作品のタイトルではございません。

おなじみ、富島健夫研究家の荒川佳洋さんが、ブログを開設されました。

荒川さんは文章で表現したいことをいっぱいお持ちの方だと思います。
若いときから同人誌等でご活躍されておられましたが、ネットで誰でも情報発信が可能な今の時代、それを生かさないのはもったいないことだとずっと思っていました。
これから、ブログという手段をもって、文学について、70年代について、富島健夫について…いろいろなことを語っていただけるのではないかと楽しみです。

上の画像は、ブログヘッダーに使用したものですが、まったくの私の趣味でつくりました。
70年代という言葉には私も弱いのです。察しがつくと思いますが。
作成中、荒川さんの過ごした青春時代のイメージとともに、はっぴいえんどの「花いちもんめ」がずっと頭に流れていました。

松本隆の「風街」のモチーフが、線路と街で連想されたのでしょうか。宮谷一彦の描いたシングルレコードのジャケットも目に浮かびます。
ふと中学生の時、美術の授業でレコードジャケットを作るというのがあり、「微熱少年」というタイトルのジャケットを作ったことを思い出しました。
その時も路面電車と街と“微熱少年”を描いた。つまり、私の中の70年代は全然変わってないんだな、と。
(若いときの荒川さんは鈴木茂に似てると思うし)

結果、荒川さんからのリクエストに全然応えていないデザインになってしまいました。たまにデザインが変わったら、そっちが本意ということで。

…ムダ話が過ぎました。それでは、どうぞ、おたのしみくださいませ。
動き出した知の戦車に花束を!

「花と戦車 光と闇」


特別インタビュー:荒川佳洋さん、富島健夫を語る 第2弾

2011-03-09 21:08:12 | 荒川佳洋さん

※7日(月)第1回公開後、数回に分けて掲載する予定でしたが、間延びさせたくないので一挙公開することにしました!

富島健夫研究家、荒川佳洋さんへのインタビュー企画。ありがたくも第2弾が実現しました。
今回は富島氏の“官能小説”について。ジュニア小説で人気を博した作家が、なぜ官能小説で名をはせるに至ったか、かなり深い話をお聞きすることができました。
文学史を揺るがす?荒川さんの考察に注目です!

第1回(第1弾)はこちら
第2回(第1弾)はこちら

※文字が多いので、読みづらいときはブラウザー画面の幅をせばめてお読みください。
※インタビュー:2011年3月1日(都内近郊某県にて)
※本文中、荒川さんより提供していただいた写真を私の趣味で掲載しています(本人は恥ずかしがっておられますが…)。

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―では、今回は富島氏の“官能小説”についてお聞きしましょう。

どのあたりを富島の“官能”小説と言うかだよね。175条容疑を受けたころからと言えば、1回目は昭和38年の十代雑誌「若い人」(「若人」)に連載開始した「青春前夜祭」第一回が、初の発禁事件だから、そうとう初期のころからってなるでしょ。刑法175条っていうのは、わいせつとされる文書や図画を領布、制作、販売した者すべてに課せられるので、著者だけじゃなくて、「若い人」の編集者、出版者も取り調べを受ける。この雑誌は、この摘発でまあビビってしまい、次号の富島の小説を伏字だらけにして発売して、富島の抗議文を受けて、廃刊してしまいます。

―「青春前夜祭事件」については『書誌』にありましたね。そんな早い時期から発禁事件が起こったのですか。

この作品のテーマが“恋と性欲”だったんだから、それだけで当時としてはかなり挑発的なんだ。(笑)男の子たちが並んで飛ばしっこする場面から始まる十代雑誌の小説なんて、今だってありません。『燃ゆる頬』『白い一本の道』『夜の青葉』と「若人」に続けて人気小説を連載して、数年おいて最後がこの小説でした。「若人」はこの発禁事件がきっかけで、廃刊するんです。この連載の富島の反権力の意図はあきらかです。

―ここでも権力への反発が見られるのですね。

このとき富島は検察に呼ばれて事情聴取されますが、担当の検事が文学に理解の届く人であったらしく、その後富島が『おさな妻』でテレビに引っ張り出されて、作品自体を読んでいない評論家、作家たちから攻撃されたとき、「かつての検事のほうがはるかに理解力があった」ということを書いてる。(笑)

ふみさんの世代ではちょっと想像できないかもしれないけど、性表現をお上が厳しく管理している時代が、長く続きました。だから昭和50年代あたりまで、性を文学のテーマに扱う作家には権力への抵抗という面があったんです。富島が十代雑誌で果敢に“性欲”をテーマにして発禁になったのも、富島には意識的な権力への抵抗という面があった。「性」は人間性の発露であり、権力が法律で押さえつけておきたい大きなものであったんです。野坂昭如の『エロ事師たち』みたいな登場人物が、反権力的に見えたり、裏本の世界が妙に反体制ゲリラ的出版物に見えたりする時代でした。

日活に集まった若い映画監督たちが、ロマンポルノという分野で果敢に裸体表現ギリギリに映画を撮り、ぼくたちはそこに反権力の姿勢を見て、喝采を送った。その時代ならではのことだったよね。大江も石原のような純文学作家も、デビュー当時から書いてましたよ。ただ純文学雑誌なんて普通の市民層は読まないから、せいぜい障子破りが評判になるていどで、警察も気にしなかった。大江がノーベル賞を取って、はじめて本を手にした一般読者が、新妻の大事なところを突き破ってしまう話とか、授業中に破れたポケットから自慰をする高校生とか、こんなイヤらしいこと書いてたのか、と驚いたという。(笑)そういう記事を読んだことあります。

 ―そういえば中学生の時、(大江の)『セヴンティーン』の書き出しにびっくりしました。

 ノーベル賞作家がこんなこと書いていいの、って反応はいかにも文学が市民主義化した時代の反応だけどね。でもそれは、純文学の狭い読者層の中で書かれていたこと。大勢の読者を相手にする一般誌で、野坂昭如は一連の性風俗ものを、富島は濃厚な性描写のえんえんとつづく長篇を書くというのは…そうだな、まあ街頭でゲバルト部隊がジュラルミンの盾を持った機動隊と睨みあっているようなものかな。(笑)一触即発でね、スキあらば官許の一線を越えるぞ、という緊張の姿勢が作家にはありました。

―学生運動していた荒川さんみたいだ(笑)

(笑)野坂は戯作者風の文体にかなりきわどいことを紛らす工夫をしてたけど、富島はリアリズムの文体ですからね。富島も、摘発受けたらやり返せるくらいの緊密なりっぱな文章で書いてましたよ。今、いろんな作家たちがかなり奔放に毒にも薬にもならない官能小説やエロ小説を書けるのは、まちがいなく野坂や富島や川上のおかげだよ。彼らが苦労して切り拓いた土地で、後からやすやすと商売しているんです。安っぽい商品ひろげて。(笑)

 『詩とフォークの夕べコンサート』にて自作の詩を朗読する荒川さん(1976年10月)

―作家としての緊張感がないんでしょうね。

 そのうち、篠山紀信のような著名な写真家が、ヘアヌードと呼ばれる写真集を出してお上が規制していた性表現の壁に風穴を開けたあたりから、市民社会の中で性表現は急速に一般化して、もう強権に対する反体制的な意味はほとんどなくなっちゃいます。隠花植物のような小説を書いてた団鬼六さんが市民権を得ちゃったらおしまいだよ。(笑)文学では、富島の『初夜の海』上下巻に対する摘発が、作家への175条容疑最後となりました。やるんなら、連載中にやるだろと言いたいほど、あれも不思議な摘発でしたね。週刊ポストの第1回から、発禁を受けたって不思議じゃないほど、挑発的でしたよ。まあ、ああいう描写だもんね。警視庁としたら、著名な作家を槍玉にあげて、「性表現の検閲をゆるめたわけじゃないぞ」ってとこを見せたんでしょうけど、結局権力といえども時代の流れを止められない。
性をテーマとすることが反体制であったという時代は、ヘアヌードと呼ばれるものが公認されるまで続いたんで、富島健夫の本来持っていた反権力の姿勢が、官能文学に向かわせたともいえます。しかし、かなり大っぴらに性的なものが出て来て、市民権…といえるかどうかわかりませんが、認知されるようになると、次第に富島の官能文学も“反権力”的色彩を失うことになった。次第に自己模倣みたいなものになって行った。これは、野坂昭如なんかの文学だってそうです。

―荒川さんが「書き飛ばしてる」と評しているような。

もともと富島は性的な場面では“書き過ぎる”あるいは“書きたがる”きらいのある作家だったんです。発禁となった「青春前夜祭」とおなじ38年の『恋と少年』で、杉良吉の恋人多摩代が暴行を受けたことを告白しに上京する場面なんだけど。本来なら、多摩代の告白は杉良吉との対話の中で明らかになってしかるべきところ。それでも充分なんだよね。多摩代は、聡明で淑やかな処女なんだ。でも、多摩代から聞いた場面として、再現描写が入る。ぼくは、はじめて読んだときからとてもこの場面には違和感があった。この少女多摩代が、羞恥に満ちた出来事をここまで話すかというものがあります。この小説の大きな傷ですよ。

 富島は、喧嘩の描写と性描写、つまりどちらも動きのある(笑)描写に、とても自信があった。若いころから上手だったんです。文学修業を積んだ作家だから、文章力も、それから小説の美観を損なわないように均衡をとるということも訓練して鍛えていた。評論家の小松伸六が丹羽文雄より小説が上手いと言いましたが、わけても性描写は上手いと書いています。自信があるから、書きたがるんだ。(笑)
昭和38年の次に富島が摘発されるのは、“官能御三家”と呼ばれたころの昭和50年。「週刊プレイボーイ」の連載「愛と夢と現身と」(青春の野望)や連作「女の園」が摘発されました。「女の園」も富島が自信を持っていた短篇連作。「いんなあとりっぷ」の誌面で、今度青春小説が出ます、買ってください、と広告しているぐらい。この摘発は石川達三の「ふたつの自由発言」でペンクラブ騒動を起こしました。

―ペンクラブ騒動とは?

「表現の自由は守られなければならないが、ポルノは規制されていい、譲れる自由ではないか」と晩年すっかり保守派になった石川さんは言ったわけです。『人間の壁』って傑作のあるリベラリズムの作家だったんだけどね。それに対して、ペンクラブの作家たちは対立するわけですが、どっちにせよ、擁護する側だって富島をポルノ作家とすることでは一致していて、自信を持って書き進めていた小説を同業者からポルノ小説扱いされたことは、富島には不愉快だったでしょうね。宗薫さんは、警察に呼ばれるのがイヤでしかたなかったと書いてますが、富島は反権力のヘルメットを被った確信犯だったので、摘発はむしろ勲章だったかもしれません。「おさな妻」で世間を騒がしたとき、飛んでくる矢をつぎつぎに薙ぎ倒すように反論エッセイや談話を発表してますが、じつに富島は活き活きしている。作家生活でもっとも輝いた時期でしょう。

―反発するのが好きなんですかね。

富島健夫は、論敵がいると、活き活きとする作家だったからね。喧嘩が強かったからね。昭和50年の摘発は警察から狙い撃ちのように受けたものでしたが、作者も反省していると書かれた不起訴状をそのまま掲載した新聞各紙に、自分は作品が猥褻であるとは一切認めていない、と抗議した「新聞の安易さに抗議する」ってエッセイがあります。でも、ペンクラブの二つの自由論争については黙殺している。同業者のエロ作家扱いが不愉快だったんでしょう。
ぼくは富島が本気で「官能小説」、つまり官能をテーマにしたのは、昭和48年、週刊ポストに連載開始した『初夜の海』からだろうと思います。一般読書界で低俗な興味に迎合する読物とみなされている官能小説に、緻密で緊張感のある文体と心理描写を持ちこんで、悠々と書き進めます。『初夜の海』は作者が執筆の前に“社会正義にも国家権力にも経済の消長にも背をむけて、ひたすら官能を追う男”を意識的に描くという宣言をしているんだよね。
実はこの連載の始まる前年の昭和47年、富島の中で大転換が起こりました。連合赤軍事件です。

―あさま山荘に立てこもった学生たちが、その前に同士たちを虐殺していたという有名な事件ですね。それがきっかけになったのですか。

そう。富島は60年代ジュニア雑誌の小説でもエッセイでも、アメリカのベトナム政策を批判しつづけ、70年安保闘争が盛り上がりをみせはじめると、十代雑誌の小説にそれを反映したものを書きはじめます。「自分が青春小説を書くのは、学生たちが敵としているものを、自分もまた敵とするためである」というエッセイもあります。富島は政治思想には、戦時中、軍国思想や愛国思想にだまされた少年として懐疑的でしたが、若者たちの潔癖感、純粋さまで疑いませんでした。不合理な規制の厳しい女子高の生徒にストライキさえけしかけているくらいです。(笑)

そんな富島に、連合赤軍の末路は衝撃でした。なにしろ、この事件が明るみに出だしたころ、高校雑誌の連載小説の中で「当局のデッチあげじゃないか」ということを書いてますし、「ひねくれ者」という高二時代の短篇では、赤軍派をかばって右翼から付け狙われる、“なんでも斜めに世界を見る”少年を描いて、連合赤軍を庇っていますからね。
同志虐殺が事実であることを知った作家は、衝撃を受けます。「誰が若者を非難できるのか」「無為の罪」という二つのエッセイを婦人公論などに寄せて、私も彼らを弁護しようとは思わないが、世の中の矛盾、政治の不正、資本の横暴を是正することもできず黙って見ているだけの我々もまた、無為の罪を犯しているのではないか、という趣旨の文を書いて、連合赤軍の若者たちを擁護します。
75年、富島が書いたジュニア雑誌の正月巻頭エッセイ「現世に正義はない」(註1)はタイトルからして悲惨なものでした。

【註1】「まず何よりも自分自身をたいせつにせよ、といいたい。積極的にいまの世をよりよくしようなどと考えてへたに動けば、きみ自身が大怪我をすることになる。きみ自身があっての『人類』であり『日本』であり『正義』なのだ。現代の悪はぼくたちの手に負えるものではないのである。思い上がった革命家気取りの連中の貧弱な想像力を、それははるかに越えて強大なのだ。自己を犠牲にして『善』に尽くすなど、美しくもおろかな行為だといえよう。自分が犠牲にならぬ限りの『善行』に止めようではないか。自分自身のために生きよと教えてくれているのは、その逆を唱える道徳家や政治家や組合幹部や文化人自身の実体そのものである。純粋でやさしくきれいな心を持つきみたちは、せめてそれぐらいのエゴイズムを持つ努力をしたほうがちょうど適正であろう」
(富島健夫「現世に正義はない」『小説ジュニア』昭和50年1月号)

日本の権力は絶大なもので、それを甘く見て革命家気どりで歯向かうと大怪我をするぞ、もう改革も革命も何も考えるな、自分のために生きよ、といったペシミスティックなもので、富島がどれだけこの連赤事件から衝撃を受けたかを物語るものでした。学生運動を支持した作家は、彼らの挫折を、作家もまた深いところで挫折として受け止めたのでしょうね。

2月に連合赤軍の永田洋子さんが亡くなりました。65歳でした。政治改革を志した者はぼくもそうですが、たくさんいます。長く関わったのも瞬間的に関わったのもいますよ。でも、若いときに抜き差しならぬ形で関わり、それが殺人にまで及んで刑事犯となって牢獄に入れられた者は、若気の至りでした、とか御免なさいでは許してもらえない。自分たちが当時正しいと考え実行した結果に、ずっと責任を取らされることになります。言い換えれば、あの時期にもっとも尖鋭に行動した者が、50にも60にもなっても20代の時点の責任を問われて死んだということです。

連合赤軍の永田さんや自殺した森さんらを、田辺聖子さんは「夕ごはんたべた?」(註2)で社会への憤りをもって記しましたが、富島健夫も彼らをそのように擁護したことは言っておかないといけないと思います。ぼくの知るかぎり、社会から袋叩きされている彼らを擁護したのは、富島、田辺だけですよ。

【註2】ああ、永田洋子よ。ああ、森恒夫よ。
お前たちは見たか。あの振袖女子学生や、背広男子学生の欣々然とした卒業式の顔を見たか。お前たちの犠牲の上に築かれた、これは何だ。
「阿呆な奴らやなあ、永田洋子らは。首くくって死んでしもた森恒夫は」
と三太郎はいうが、この「阿呆」はむろん、罵声ではない。敵弾に射たれて倒れた戦友に駆け寄って「馬鹿。あんなへろへろ弾丸に当る馬鹿があるか!」とどなるときの「馬鹿」である。いたましさのあまりの「阿呆」である。
(田辺聖子『夕ごはんたべた?』新潮文庫)

富島が社会に背を向けて『初夜の海』を書き始めるのはその翌年からでした。もう政治改革も革命も考えるな、とエッセイに記している作家は、“考えない”主人公を設定して、官能世界へ向かわせます。並行して、自分の考えるユートピアをスポニチの『処女連盟』に描きだしました。

―そんな深い背景があったのですね。富島氏は政治には無関心と思っていましたが、そうではなかったと。

若いころから政治にとても関心の深い作家ですよ。石原、江藤淳らと芸術家の尖鋭な政治活動をした「若い日本の会」のメンバーでしたし、60年安保闘争にも関わったし。毛沢東の長征を描きたいと長く言っていましたしね。富島の中の、青年の純粋さの発露だったでしょうか。
でも、連赤のこのころから、次第に現実の日本の政治や資本の動向にイヤケがさしてきたようですね。それとともに、そういう政治に黙々と従う民衆や何もしないくせに連赤を責め立てた人々にも不信感をつのらせてゆきます。『青春の野望』は全5部ですが、巻を追うにしたがって、戦後の政治動向や社会の様子が描かれなくなり、最後の2巻くらいになると“現実社会に背を向け”て、ひたすら青春の燃焼と称する性行動の連続になります。(笑)
永井荷風が墨東という陋港に沈んで戯作者になってゆくきっかけが、明治の大逆事件だったことは有名です。権力のフレームアップで無実の罪で大勢の死刑者を出した事件ですが、富島にとっては70年の全共闘運動の衰退と連赤がそれでした。

―社会に対するある種の失望感のようなものが、大量生産的官能小説の執筆につながったのでしょうか。

以後は、富島は官能的傾向の作品を書きまくりますね。職業作家ですから、出来の悪いのも多い。いいものも多い。みんな平均以上の出来だといった評価をされる作家もいますが、まあほとんど嘘ですね。業界商法なんだ。(笑)なんにでも、傑作とつけたがるケッサク書評家もいますが、そんな毎年限りなく傑作が出るのか、と鼻白むことが多い。むかし出版が華やかなころ、生前に全集を出したがる作家がいましたが、死後にひどいやつを残したくないからでしょうね。できたら、書かなかったことにしておきたいというものを持つのが職業作家だよ。純文学の制作者はほとんどアマチュアですから、問題外。家を建てられるくらい原稿料を稼げて、作家と呼ぶという説があるくらいだもの。(笑)

―ところで、荒川さんは富島氏の“官能小説”をどう思いますか。

富島は一般の小説だと思って書いていたし、事実現在富島の“官能”小説は、その手の小説ファンには、文学の匂いがしすぎて、あきたらなく思われていますよ。上品過ぎるんでしょ。いまは官能と修飾するより、かつて裏本の世界で脈々と書かれていたものが毒を消されて出てきただけ。完全に消耗品でしょう。文章も汚い。文学修業なんてしたことのない人ばかりだから、文章の質も低いし、美意識もない。ま、そのおかげで、十年経ったら富島は「官能小説家」のイメージを払拭できるのではないかな。あるいは、谷沢永一先生みたいな評価がもっと出てきて、谷崎潤一郎の作品を官能小説と言うように、官能文学の先駆者の一人とされるかもしれない。
昭和41年から大阪スポーツに連載された『女の部屋』もいいもの。あとは『初夜の海』三部作、『処女連盟』かな。『女人追憶』は有名で愛読者も多いけど、あまり読まないな。読んでいる最中のふみさんに言うと、さしさわりがありそうだけど。(笑)でもあれだけ読まれているのに、なんで集英社は復刊しないんだろ、不思議です。小学館文庫でも出せばいいのにね。ポストに連載して絶筆となった、未完長編『女神の里』もどうして小学館は文庫にしないのかな、してほしいんだけどね。で、最終巻は20回分だから、他の作家、知人たちの追想記なんかを収録してくれたら最高ですね。

―『女人追憶』の検索でブログに来る人は多いですよ。

短編集では『同級生』『恋愛劇場』『聖処女』など中間小説初期の作品集の中にいいものがあります。桃園書房系の雑誌に書いたものは読まない方がいい。ほとんどいけません。
でも、もう桃園文庫や青樹社の文庫、新書みたいに下着姿や裸のケバケバしい装丁のカバーはやめにしてほしいなあ。富島のポルノイメージにあれがどれだけ寄与しているか計り知れないよ。(笑)中身と外見が違いすぎます。久々に光文社文庫から1冊出ましたね。細谷正充さんみたいな解説がもっと出てくれたら、再評価につながるんだけどな。

―富島氏の“官能小説”が単なる“エロ小説”でないことがよくわかりました。でも、まだ、後者のイメージは根強いので、この記事や出版準備中の『富島健夫評伝』(出版社募集中!)で少しでも払拭できることを願います。
ところで私は、コバルトシリーズのような「ジュニアもの」が好きなんですけど…そのあたりのお話を次回は伺いたいと思います。順序が逆だったかな。(笑) 今回も貴重なお話をありがとうございました。


新春特別インタビュー:荒川佳洋さん、富島健夫を語る 第2回

2011-02-19 21:09:20 | 荒川佳洋さん

お待たせしました。富島健夫研究家、荒川佳洋さんインタビュー 第2回です。
第1回はこちら

※文字が多いので、読みづらいときはブラウザー画面の幅をせばめてお読みください。

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―では、富島健夫氏と会ったときのことをお聞きしましょうか

ぼくが富島をむさぼるように読んだのは高校生の中ごろまで。学生運動に入って、富島は読まなくなった。つまらなくなったのではなく、当時のサブカルチャーの波を受けて、そっちの関心が強まった。部屋には「現代の眼」「朝日ジャーナル」に混じって、真崎守や永島慎二なんかのマンガがあって。デモのある日以外は仲間の部屋にいろんな連中がたむろして、深夜まで政治や文学の議論、たまにしか家に帰らない日々でした。左翼的な知識を詰め込むことにも忙しくて、富島から受けた呪縛からいつのまにか自由になっていましたね。

71年の5月ころ、富島健夫と池袋の喫茶店の2階で会いました。友人がセッティングしてくれてね。富島はまだ40前で、コバルトブックスの写真そのものだったな。若々しくて、精悍な顔つき。例のボサボサ髪でね。早稲田に通っていたその友人は、富島の後輩でもあり、きちんとしたスーツ姿。でも、ぼくはさっきまでデモ隊の中にいたような活動家スタイル。といっても、ふみさんにはピンとこないでしょうが。(笑)

―いえいえ(笑)。

まあ薄汚い、腰まである丈の長いジャケットにジーパン姿のような。『純愛一路』のような作品もあるように、富島さんは学生運動を支持してはいましたが、一方どこかの上部組織に操られている可能性も捨てきれないという懐疑派でもあったので、ぼくが活動家であることは言わなかったけど、時代が時代だったからね。ぼくの雰囲気から感じていたかもしれません。

その時はわずか4時間くらいしか話していないんだけど、二十歳にしちゃ書誌をつくるうえでけっこう重要なことを尋ねていて、のちに富島の書誌や評伝を書くことになるのを予知していたのかな。ちょうど週刊朝日に『すみません』の連載が始まり、『青春文学選集』の予告が出たころなんで、気になっていたことをあれこれ聞きました。これらは、今ちょうど書き上げて出版してくれる所を探している、富島健夫評伝に書きました。宣伝は政治に先行するという言葉があるので、宣伝しちゃいますが。(笑)

22歳のときの荒川さん。書棚には文学書や思想書がならぶ。

―実際会ってみての印象はどうでしたか。

ぼくたちみたいな学生にも気をつかってくれる人で、えらぶったところのない人なの。ヘビースモーカーでしたね、セブンスターだったと思いますが、簡易ライターでプカプカ。タバコの箱の上に必ずライターを戻すんで、几帳面な人かと観察してた。

「ジュニア小説誌の編集長とこのあと会う約束があって、その人はちょっと気難しいので誘えないが、なければ飲みに連れてゆくんだが」と社交辞令じゃなく残念がっていました。ぼくたちを作家志望だと思ったんでしょうね、『文学者』に参加して、勉強すればいいのにと何度か言われた。『文学者』はこの数年後に解散しましたが、当時の編集委員は、富島や吉村昭、新田次郎、津村節子、そうそうたる流行作家、著名作家。参加していたらもっと富島を知り得たでしょうね、今思うと残念でした。

いろんな作家たちの話をしていましたよ。誰とその弟子はホモの関係だとか、(笑)某女流作家はケチだとか。ぼくはそういう話をする富島さんを小さい男だと思わなかったな。文学青年の青臭さがむんむんしてましたよ。全身で他の著名作家たちに伍しているといった…。

その後、電話や手紙でほそぼそと。最初の電話はちょっと驚きました。富島家にはお手伝いさんがいなかったようなので、都夫人だったんでしょう。「今つなぎますので、お待ちになって」みたいに簡単に富島さんの仕事場につないでくれました。

―富島ヒロインの口調ですね。

美しい日本語を使う女性が富島さんは好きだったようですが、奥さんがそうだったんですね。電話では「そのうち富島論を書きますよ」と言いました。手紙では『青春の野望』の批判を書きまくって。(笑)怒ったでしょうね、富島は自負心が強烈でしたからね。

富島はやがて一般誌でも流行作家になり、そのころぼくは古書店の番頭をしていましたので、入って来る古雑誌で、短編を読んでは感心していました。富島のとくに73年ごろから数年書いた中間小説にはいいものがたくさんあります。まだ〝おとなの雑誌〟に書き始めたばかりなので、結構の整った、力の籠った短編を発表したんでしょう。

ぼくは40代に入って、学校図書館の司書さんたちの小雑誌にエッセイを連載させてもらいました。ぼくの高校の友人が編集をしていたので、「ぼくがアンソロジーを編むならこうだ」という読書遍歴を書かせてもらった。のっけから富島を取り上げたかったけど、何となく照れくさく、別の純文学作家たちや山崎豊子、五味川純平をとりあげていって廻り道してから、中盤になって、「ジュニアの森の戦後」というタイトルで、意表を突きました。「さて、アンソロジーには意外性が必要だと、誰かが言っていた。そこで、十代に向けてメッセージを送り続けた作家富島健夫である」という書き出しで、富島論のさわりを。

―意外性。

すると、これが反響ありました。次の号に何人もの司書さんがこのエッセイの感想を寄せてくれて、2頁にわたって掲載され、なんだ、こんなに隠れファンがいたのかと。ぼくが書き落としたことを、同年の男性司書さんが指摘してきたのも、おどろいたな。

その2年後ですか、富島さんが亡くなりました。そのときぼくは、たまたま仕事で中国に長いこと行ってて。帰国した日かその翌日、疲れ果ててまっ暗い部屋で転がっていたら、家人が「喪に服しているの?」と。うむ、ですよね。そこで富島さんが亡くなったことを知り、びっくりして新聞を見ました。テレビでも報道されたそうです。

―それで「富島論を書きます」っていう約束を思い出して、それが「富島健夫書誌」になったと、「書誌」の前書きにありましたね。

そうです。きっかけは、訃報記事。富島は有名作家らしく訃報記事もたくさん出たし、週刊誌、月刊誌にも追悼特集が出た。でも誤解されっぱなしで亡くなった、という印象が強い。数年後に自殺した作家の加堂秀三さんも富島追悼文「ただただ悲しい」で悔しそうに書いてる。代表作に「高校三年生」が挙がっていたりね。富島にそんなタイトルの小説はないよ。先ごろ出た『福岡県文学事典』なんか、そんな記事を鵜呑みにしてかデタラメを書いていて、これは抗議文を出しました。(笑)富島がいちばん本を出した出版社は、亡くなっても追悼文ひとつ掲載しない。どういう料簡だと思いました。

同じように思う編集者がいたんじゃないかな、その年に自伝小説が文庫になりました。あれは、担当編集者たちの追悼の意味が籠っていたとぼくは今も信じています。某社は富島の連載小説を週刊誌編集の柱にしていたのに、これも今週のニュースみたいな、目次にもない追悼記事を出しただけ。ほんとに怒りました。

―今ほとんどの作品が絶版なのもおかしいと思います。

だいたいこの出版社が『昭和文学全集』を出したとき、せめて富島の純文学短編ひとつでも収録すべきだった。横並びの文学全集なんてつまらないじゃない。全集の特色が出たのにね。芥川賞をとったばかりのまだ評価もさだまらない作家たちを収録したりして、編集方針サイアク。(笑)おおかたはとうの昔に消えてますよ。村上春樹は全集入りする身分じゃないとか言って断った。まあ石坂洋次郎を落として評判にはなった全集ですけど。

その別巻として、昭和文学史がありますが、あすこに富島の作品が4つ載っています。『女人追憶』も。気がとがめて載せたか、富島のご機嫌を取ったか、とぼくは想像しています。富島は「文学全集」の類に収録されたことがありません。今や埋もれた娯楽小説作家や推理作家なんかさえ、えっ、こんな作家がというのまで各社、文学全集流行りのころは収録されましたが、富島はどれからも漏れた。不幸なことでした。だから、簡単な年譜さえなかった。どんな三文作家だって文庫に作品リストがつきますよ。それさえないんだ。

まあそんなわけで、ある日、富島年譜がないなら、ぼくが編もうと思い立ちます。それが書誌に発展したのは結果的にで、最初は「年譜」でした。ぼくのそのとき頭にあった年譜のモデルは集英社版『漱石文学全集』かな、その別巻についた荒正人の労作「漱石年譜」です。(笑)「どんな作家でも持っていない年譜を作りたい」と考えたとき、頭にうかんだのが漱石の1日1日を詳細に調査して作ったような荒正人の年譜だった、というのはスゴイでしょ。(笑)

―スゴイです。恥ずかしながら、私も誰もやらないなら年譜や作品リストを作ろうと思っていましたが、「書誌」を見て、「ああ、私にこれは無理だ」と。

ぼくは富島がほんとうに心をこめて書いた十代雑誌の小説、エッセイ、人生相談の片々たるものまで全部調べて載せてやろうと思いました。もちろん初期の習作も、純文学も、中間小説もですが、年譜の中心は、十代雑誌の青春もの。富島が文壇から無視され冷笑されながら、いかに苦闘して青春前期の文学の創造に力を尽くしていたか、ということを年譜的に証明してやろうと思ったんですね。

書誌を取り上げてくださった直木賞研究家の川口則弘さんから、「研究というのはマニアックな心から生まれる」みたいなことを書いていただきましたが、年譜から派生的に「主要作品書誌」を作り、徐々に勢いがついて本格的な書誌作りとなりました。その間7年、もう富島オタクだよ。あらたに著書のほとんどを買って読みかえしました。『雪の記憶』のテレビ化年月日なんか、2時間ドラマを探すのに、新聞のテレビ欄を15年分見ました。(笑)

川口さんにはほんとに感謝しています。わずかな部数しか出さなかった書誌が、ふみさんはじめ何人かの熱心な読者を得たのは、川口則弘さんのおかげです。

―ネットの記事がなければ、書誌を知ることも、こうして荒川さんにお会いすることもなかったと思います。ありがたいですね。
次回のインタビューでは、なぜ富島健夫が「官能小説」を書き始めたかについてお聞きしましょう。これは疑問点のひとつでしたから。
貴重なお話をありがとうございました。

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この企画についてのご意見・ご要望などをお寄せいただければ幸いです。おまちしています。


新春特別インタビュー:荒川佳洋さん、富島健夫を語る 第1回

2011-02-06 17:06:51 | 荒川佳洋さん

新春…まあ、旧正月ってことでおゆるしを。

ようやく実現したこの企画。『富島健夫書誌』の存在を知ったその時から、私の頭の中にあったものです。

このブログの読者なら(きっと!)ご存じ、荒川佳洋さんは、十代のころから富島作品に接しておられる富島健夫研究家で、
2009年には富島作品や年譜を纏めた『富島健夫書誌』を発行されています。 

リアルタイムで作品に接してこられた荒川さんの、時代の空気あふれる臨場感、そして、作家 富島健夫に対する深い洞察と愛情に満ちたお話をお楽しみいただければと思います。

第1回目のインタビューは2011年1月25日(水) 都内某所にて行われました。その様子を数回に分けてお伝えします。
インタビューは今後とも継続する予定です。

では、どーぞ!

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―今日はよろしくお願いします。ずっとこれやりたかったんですよ。
まずは基本的なことから、荒川さんと富島健夫の出会いについて聞かせてください。

残念ながら覚えてないんだよね。当時ぼくは純文学を読んでた少年だったんですが、どういうきっかけだったか、富島健夫を読んですごく熱中した。

―青春文庫でしょうか?

だと思うんだよね。いきなり「小説ジュニア」とか読んだとは思えない(笑)。ただぼくが中学生の時に書いた小説のなかに、もしかしてこの当時富島を読んでたのかなっていうのはある。昭和41年、学研から青春文庫全5巻が刊行されるんですが、ぼくがそれを読んだのは42年になってから。これがはっきりしてるのは、朝日新聞に本探しのコーナーがあって、ぼくはそこに投書して、青春文庫から漏れた富島の初版本や、座談会の載っている「文学界」などを集めたことがあるんです。それが67年の朝日に載ってることを書誌の編集中に偶然に発見しているから。

一番初めに読んだのは多分「燃ゆる頬」だと思う。「燃ゆる頬」は青春文庫でね。強烈に印象に残っているのは、ぼくがすごい熱を出して、その熱が冷めたとき寝床の中で読んでたのを覚えてる。まさに「燃ゆる頬」だ、って思いながら(笑)。で、すごく感動したの。

―そして富島健夫に熱中した。

うん。その頃、大江健三郎とか遠藤周作、椎名麟三なんかを同じように熱中して読んでたんだけど、富島に対しても彼らと隔てを感じなかった。傾向は違うけど、これも文学だと思っていた。富島が石原慎太郎、小田実、有吉佐和子たちと座談会に出ていることなんか、富島自筆の略年譜にも出てこない。ぼくがそれをどうして知ったのか謎ですが、そういうことを調べあげるくらい1年たらずの間に夢中になったということですね。

これは富島健夫って小説家にどれだけ魅力があったかってことなんだけど、ほんとに好きで、熱中するだけじゃなくて、富島の小説に出てくる主人公の男の子のようになろうと自己確立をめざした。まあ失敗しましたが(笑)。自分の人生観まで影響を受けたんです。

―具体的はどんなところに?

一番強烈な体験だったのは、1968年くらいから、17~18歳の時に学生運動にすごく刺激を受けてね。その時に富島健夫を読んでる少年っていうのは、なんていうのか、富島ふう人生観にすごく支配されてるの。だから学生運動に刺激されていても、一直線に飛び込めない。

学生運動っていうのは、基本的には人民のため民衆のためにとか、正義のためでもいいんだけど、そういうカテゴリーの中で考えられる世界なのに、富島を読んでる少年は、自分のため、個人のためっていうふうに思ってしまう。小説世界がそうなの。ぼくはけっきょく18から学生運動にかかわってゆくんだけど、富島的な個人主義観をどう克服するかということでは葛藤がありました。富島健夫にそれほど心酔していたということだよね。

 荒川さんをチラみせ。

「恋と少年」だったかな、戦後、食料不足でヤミ米を食べないと飢え死にするような状況になって、それでもヤミ米を買うことを自分の職業として禁じた判事さんの話があるの。実話ですけどね。まあこの判事さんは偉い人だったんだけど、それで餓死するわけ。そのことが新聞に載った時、富島はニヒリズムっていうか、シニカルな反応をするんだよね。「彼は買うか買わないかを選べる立場で買わないことを選択した。それは彼の個人的な名誉欲や美学であり、そのために死んだんだ」って。その時富島一家は食うや食わずやの状況で、一日一日を生きるのが大変な時期を過ごしていたわけだから、「結局は選べたんじゃないか」って。飢え死にしたのも結局はその人の自己満足なんじゃないかって感じるような少年だったんです、富島少年は。

同じ「恋と少年」に、おぼれた子供を助けようとして死んだ先生のことが書いてあるんだけど、それだって結局は自分の職業意識による自己満足だって。すごく極端なの。人間の中にある正義を信用しないのね。ぼくは今は、類的存在としての人間を信じていますが、つまり普段は卑小な存在であるんだけど、ある場面では、自分の命を捨てても他者を救おうとすることが人間の崇高さとしてはあって、それがなければ歴史の変革のなんてものはないんです。富島は中国革命の「長征」を賛美してるから、こういう人生観は次第に訂正されていっただろうと思いますが…。

―そのニヒリズムは敗戦の体験からでしょうか。

そう。戦争が終わった時に自分たちが教えられてきたことが全部嘘だったっていう感覚を富島は死ぬまで引きずってるから。判事の話も自己犠牲をした先生の話も、新聞などが書きたてるその種の美談というものに、戦時中の軍国美談にだまされた少年は、もう騙されないぞ、という反発心もあったんでしょうね。

軍国主義を叩き込まれてきた少年は、敗戦を境にして百八十度転換した民主主義教育にとまどい、かつての軍国教師たちが民主主義を口にしだしたその豹変ぶりに、大人のみにくさを見てしまう。いままで教えられてきたことはすべて嘘だった、だからこれから教えられることも嘘でないという保証はないんだという、その感覚っていうのは、今でいうと、小学校にナイフを持った少年が飛び込んできて殺人事件が起こるとか、その時に子供たちは心的外傷を受けるじゃない。今ではその傷をケアする人がいるけど、おそらく富島たちが受けた傷っていうのはそういうケアを必要とする種類のものだったんだろうね。小学校の殺人事件なんかの比ではない、大きな体験だったんだから。でもそんな時代じゃないし、そういう傷を負って大人になると、みんながみんなじゃないだろうけど、死ぬまでそれを持ち続ける。富島はこれを「内臓をやられる」というふうに表現しています。

 この料理を食べるのが私の仕事です。

富島は「文壇付き合いはしなかった」って書くんだけど、実際に深く付き合った友人はいない。生島治郎、画家の小林秀美とか仲が良かった友達はいないわけじゃないけど、ゴルフの友達とか同窓とかね。すごく友達って感覚が希薄なの。

富島の朝鮮時代にはいっぱい友達がいるんだけど、「生命の山河」の静ちゃんを含めてね。敗戦時にみんなバラバラになって、そこで友達って関係が破裂してなくなっちゃう。朝鮮からの命からがらの引揚げという体験は、国家でさえ一瞬にして壊れる。生まれ故郷が異国になってしまう。母校が廃校になり、みんな自力で引き上げなければならなくなる。その感覚は、友達は作っても壊れるもの、永続性がなく、結局はみんな散り散りになってしまうっていう一種のトラウマになったんじゃないかな。

ふみさんが書いてた「燃ゆる頬」の青春文庫の広告だけど、“青年の燃えるエネルギーを、愛に、友情に託してうたいあげる哀切のドラマ”ってありましたが、富島は基本的には友情をテーマにして小説は書いていない。青春小説の基本テーマはかつても今も異性愛と友情なのにね。それっぽい場面はあるけどね。親友って言葉を使ったことは一度もないし、友情に対する思い入れの浅さっていうか、淡泊な部分がある。だから作品でも友情問題についてはあまり書かない。「恋か友情か」など友情のついたタイトルの小説はふたつみっつあるけどね。でも、一過性のそのときどきの付き合いって感じでしょう。

唯一友情っぽいものを感じるのは、「錦が丘恋歌」の中に病身の少年が出てきて、主人公がお見舞いに行くんだけど、その少年に対しては確かに友情のようなものを感じる。実在の人物らしいんだけどね。
作品読んでると同人雑誌仲間とかいろいろ出てきて和気あいあいと宴を繰り広げたり、ケンカの仲裁に入ったりしてやってるんだけど、全編にわたって友情を感じる作品はないですね。多分敗戦時のトラウマなんじゃないかと思う。

つづく

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今、気づきましたが、ちょうど去年の今日、このブログを開設したんですね。
1周年企画ともいえます。みなさん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。