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富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

容疑者たち

2013-06-12 20:17:19 | その他の小説


春陽文庫 1970年(昭和45年)6月3版 ※初版は1968年(昭和43年)12月 

※これは状態の悪いのをオークションで500円で買ったのだけど、その前に初版美品が出品されていて、500円スタート9000円で落ちてました。さすがに買えない…。春陽+推理の組み合わせがマニア受けしたのであって、富島だからということではないと思う…。

 

推理小説の形を取った作品。『富島健夫書誌』によれば、富島は『容疑者たち』以前にも『雪の中の信子』『若葉の炎』『二人が消えた夜』といった“推理小説”を手がけており、一つのジャンルとして作風を確立させていた。

本編はいきなり女性の絞殺シーンから始まる。富島健夫“らしくない”ためか、ぎこちない筆致を感じさせる。徐々に得意の“男女の情欲”が入り乱れて行き、物語はスムーズに進む。

登場人物は、殺されたさち子、さち子の夫順平、さち子の情夫で文学青年くずれの沖津、順平に捨てられた飲み屋の女節子、さち子の隣人で難病を抱える学生の新次郎、そして、順平の会社の専務の娘で、ミステリアスな雰囲気を持つ敬子。と、順繰りに関連した人物が登場する。『七つの部屋』のようにそれぞれの性格分けははっきりしており、殺されたさち子以外の全ての登場人物が加害者の可能性を持つ。

最初に「推理小説の形を取った」と書いたのは、緻密なアリバイやトリックが盛り込まれているわけでもなく、おそらく推理小説マニアには不満だと思うからだ。漠然と伏線らしきものはあるが、それが犯人探しの確証になるとはあまり思えない(って、わたしが読み取れていないからかもしれませんが!)。
荒川さんの調査によると、当時の書評では好意的なものと「邪道の極み」とするものに分かれていたようだ。

それぞれの登場人物がさち子を憎むようになるいきさつが描かれている第一部は、確かに「推理小説」らしい。しかし第二部、葬儀の最中、それぞれが自分以外の人物を疑い、ののしり合うシーンを読んだとき、「あー、これが富島健夫だよ!」と納得した。つまるところ、富島健夫は人間を描く作家なのだ。

敬子をのぞく4人の容疑者たちは、破滅するもの、新たな生活を営むもののそれぞれに分かれ、結局犯人が誰だったのかは明かされずに終わる。ところどころに「加害者」を主語にした心理描写があるのを頼りに、読者が想像するしかない。(わたしは最初敬子だと思ったのだが、最後の文を読むとやっぱり○○なのかな)

個人的には沖津の隣人の夢子が好き。

面白かったけどやっぱりぎこちない。傑作ではないなあというのが正直なところ。

2013年6月4日読了


黒い河

2013-01-05 22:07:19 | その他の小説

左:1957(昭和32)年11月再版 角川小説新書 カバー:エドヴァル・ムンク「天界での邂逅」 
読んだのは右:1956(昭和31)年10月初版 河出書房 装丁:大野隆也

※あとがきによると、角川小説新書版は若干手が加えられているらしい(どの箇所かは未検証)。

富島(冨島)健夫の描き下ろし初単行本。執筆時25歳。貧乏学生である「ぼく」の視点から、一軒のあばら家を間借りしている貧しい住人たちの姿や、やくざのジョーの情婦 静子との恋愛“らしき”様子が描かれている。

初期の富島作品は、作者自身の厭世的な人生観が現れた暗いものが多いが、この作品は特に作者の「自己主張」が強いように思える。例えば、舞台が似ている『七つの部屋』の登場人物に比べ、『黒い河』のそれはユーモラスに描かれていると言えるが、それは作品を面白くする手法ではなく、「ぼく」の冷ややかな目が見た皮肉のこもった姿のようだ。

静子に対しても同様である。小林正樹監督の映画を観たとき、「これは原作に忠実だろう」と思ったのだが、意外にもそうではなかった。映画では、静子は「操を奪われても心は清い」という、“読者が好感を持ちやすい”富島ヒロイン的なキャラクターだったが、原作では不良少女のひな形である「ヨウコ」ほどの魅力が感じられない「あばずれ」である。

冨島は、男女よりも“人間”を描くこと、自分の人生観を遠慮なしに打ち出すことを第一にした印象を受けた。「言いたいことは言わせてもらう」みたいな感じか。それが、読者には若干未熟に思えてしまう。

25歳の筆力もすごいが、この作品を冨島がその後描いたような男女の物語を予期したような作品に映像化した、小林正樹監督の手腕にも感心したのであった。

(2012年12月24日読了)

 

…という読み取りと以下は全く違う内容。現代文の試験だったら0点でしょうか。まあ、ふみさんの感想は、ふみさんのもので…。

河出書房版のあとがき「私は靜子を『ぼく』のその願望が彩るにまかせた」
角川小説新書のあとがき「私はこの小説で、かくされた庶民の顔を主観の潤色を極度に押さえて、正面から描こうとした」「私がここでもっとも描きたかったのは、靜子という若い女性の像と『ぼく』の生活態度であった」

丹羽文雄の解説「これは風変わりな恋愛小説である。(略)暗い過酷な現実の中から、時には明るいユーモアがひき出される」


※カバーを取っても味がある(河出書房版)。


明日への握手

2012-12-17 21:03:07 | その他の小説


左:立風書房「富島健夫青春文庫3」1977年(S52年)9月初版
読んだのは 右:春陽文庫 1978年(S53年)8月初版 装画:水戸成幸
※水戸さんの装画はきちんと原作を読んで描いてくれているのがわかるのでうれしい。(黒く塗りつぶされませんよ…しつこい?)
当時としては斬新だったのだろうか、ワードアート風のタイポが気になるけれど…。

2013年1月7日追記:学研新書(1963年5月刊)の目次には章題がついているのを、研究会忘年会で発見!いい章題だなあ。ラストの「雪」に思わずじーん。

始まりは知子の姉が両親と口論となり家出するシーン。物騒だが、冒頭から主人公の知子が自分の意志をしっかり持つ(しかも心優しい)少女だということがうかがえて清々しい。

映画「高校三年生」を先に見てしまったのでまた比較になるが、原作も映画も両方いい。『明日への握手』では、重要な脇役として裕福な家庭に育つ小路がいるが(知子もいちおう由緒正しい家柄なのだが)、映画ではこの小路が第二の主人公になっている。浴衣姿をみて担任が目をみはるシーンや父親の失墜など、知子に使われていたエピソードが小路に応用されている部分も全く違和感がなく、うまく再構成したと思う。
(ちなみにわたしのイメージでは知子が高田美和で小路が姿美千子、なのだ)

他の違いは、映画で宏は(おそらく健康上問題ない)母と暮らしている設定なのに対し、原作では病弱な父とのふたり暮らしであるところ。『雪の記憶』のように富島の分身的である。
映画で知子が姉と恋人のキスに驚くシーンがあるが、原作ではもっとなまなましく描かれているし、不良の子供を妊娠し自暴自棄になるクラスメートが登場したり、家庭の事情で宏も知子も自立を迫られたりしたりと、単なるさわやかな青春小説にとどまっていない。まあ、映画も面白いのだけれど、やっぱり原作の方が富島らしさが表れている(当たり前だが)。

ちなみにこの作品は『美しい十代』に連載されていたのだが(1962/4~1962/3)、宏は左傾した少年だし(優秀なのにあえて工員になって改革を起こそうとしている)、知子はそっち系の本を読み宏についていこうとしているし…問題視されなかったのかどうかが気になる。
まあ、小路がそこで

主義だとか階層だとか言ったって、たいせつなのは自分自身だけよ。紀井さんの考え、今はとっても純粋だけど、やがて紀井さんを裏切るのは、同じ階級の人たちよ。

と語るそれが富島の考えに近いと思うのだが。 

でも応援団に対する反乱は『青春の野望』っぽいし、富島自身、宏のキャラクターに思い入れがあるのかもしれない。

ラストの雪の夜のシーンは実にうつくしい。富島健夫は九州人なのに、雪を非常に効果的に使う作家だと思う。

2012年12月8日読了

※今年も残り少なくなりましたが、今年中に『黒い河』、別室では今年観た映画、今年読んだ富島以外の本を上げるのが目標。できるかな…。


君たちがいて僕がいた

2012-12-04 20:19:00 | その他の小説

映画はつまらないと思った。原作を曲解しているのだろうと思い込んでいた。まるで「同期の桜」のような、舟木一夫が歌う主題歌だけにすっかり慣れ親しみ、カラオケの十八番になった。
今年見た映画の原作だけは、今年中に読んでおきたい。入手困難な秋元書房ジュニア・シリーズをわがまま言って愛知県のしょうさんにお借りした。

秋元書房ジュニア・シリーズ 1967年(S42年)8月初版 ※1964年(S39)12月発行の新装版
撮影:渋谷高弘 モデル:石橋照子(ザ・エコーモデルクラブ) 意匠:三浦勝治


※1964年発行の版はこれ(画像提供:tentokuさん)

挿絵は杉山卓。Gペンのタッチが力強い。この人は画家出身ではなくて漫画家かな?


なんだかワクワクするでしょ!

収録作品は5編

君たちがいて僕がいた
予想に反して読み進むにつれて映画がよく出来ていたことに気づく。原作は意外にも“恋愛”に重きが置かれていた。しかも二人の少年がひとりの子を取り合うというパターン。佐藤は芸妓の姉を持ち(映画で生かされているのはこっち)、竜一はかまぼこ屋の息子。ヒロイン知恵子を勝ち取るのは竜一で、最後にキスまでしてしまう。
体育教師ガソリンや田中PTA会長も登場するのだが、あくまで挿話という印象。映画はこのエピソードをうまく発展させ、クラス全体の友情、団結をテーマにした物語に仕上げていたのだ。
「ぼくたちの彼女(『恋するまで』所収)」のように、恋愛を通して友情を描き、成功している作品もあるのだが、この作品はいろいろな要素が盛り込まれすぎて全体的にぼやけた印象。テーマを絞った映画のほうが良い。「北国の街」とは逆に、主役をひとりに絞ることで成功したと思う。

というわけで、映画に対する評価はアップしました。
富島健夫は「真の友情なんてない」って言っているから、この映画も気に入らなかったかもしれないけれど。

揺れる早春
通学途中のイチョウの並木道で道彦は少女と出会う。『初恋宣言』を思い出すような物語の始まりだけれど、物語は意外な方向に進んでいく。
少女の名は池田葉子。富島のジュニア作品をいくつか読んでいると、“ヨウコ”という不良少女に幾度か遭遇する。葉子も不良であった。
けれども“ヨウコ”たちは、奔放ながらどこか憂いを秘めていた。だから、葉子もきっとそうであるはずだ。そうでなければ、葉子が道彦に告げた「さよなら」に、せつなさを感じることはない…。
その予感の通り、哀しい葉子の姿が印象づけられる結末であった。

若い日の悔恨
登場人物の名が「良平」!『青春の野望』の若杉良平ではあるまいか。男女共学となって恋愛の花咲く文芸部という舞台も、『恋と少年』や『青春の野望』同様、富島の自伝であるかの錯覚を読者に起こさせる。
しかし内容は、川津栄二の小沢徳夫に対する復讐の物語だ。川津は小沢を心理的にじわじわ追い詰め、死に至らしめる。そして、川津もまた…。
好きな少女のために病を押して小説を書き、死んでしまった少年のエピソードは『恋と少年』にも「びっこの大野」のものとして登場する。大野の片思いはややユーモアも含みながら、主人公(良吉)にとって思い出深いように描かれていた。

病める花びら
もまた一つの復讐の物語。働きながら定時制高校に通う千香と誠実な和彦、一見結ばれるかに見えるふたりの恋だが、和彦が選んだのは不良の冴子だった。不良と言っても「揺れる早春」の葉子とは違い、最後まで嫌な印象だけを残す“ズベ公”。
「揺れる早春」「若い日の悔恨」そして「病める花びら」と揃って、親に優秀なご近所さんと比較され、萎縮する学生たちが描かれている。3作品とも結末は“死”なのだが、劣等感が憎しみに転換した者たちの悲劇を描いたのが「若い日の悔恨」と「病める花びら」の2作品である。
自殺や心中、特に心中は『雪の記憶』などでも挿話としてよく出てくるので、富島の学生時代に実際にあったことかもしれない。
富島の描く高校生たちの「死」は、決して“お涙ちょうだい”ではない。残酷だったり、同情の余地がなかったりするところに富島の人生観が現れている気がする。

後姿
暗い話が続いたあとは、花屋の娘ふみ子と浪人生 哲夫の恋物語。このタイトルだけでもう十分胸いっぱいなのだ。ふみ子…。

この本は意外にも暗い話が多かった。けれども、富島健夫独特の青春のせつなさも十分味わえて、本当にいい本でした(表題作が一番ダメだった…)。しょうさん、ありがとうございました!

さて、今月中に『明日への握手』と『黒い河』を読むぞ!

2012年11月22日読了


青春の門/夜の青葉

2012-07-16 13:03:28 | その他の小説

立風書房版『富島健夫青春文庫5』 昭和52年9月初版 装丁:多田進、挿絵:谷俊彦

青春の門

学研レモンブックス 1966年2月2版(1965年8月初版) 装幀:和泉不二 写真:丸山勇 さしえ:谷俊彦
※きったない本だと思うかもしれませんが…この本、取り壊し前の冨島家から譲っていただいたものです。
 ボールペンの落書きが先生かお嬢さまのものかと思うといとおしくなります。

若手小説家である武之のもとに、父とけんかして家出したいとこの七重が突如現れ…。設定は『純子の実験』に似ているが、共有されていく互いの心、二人の世界の深まりと同時に、日常生活で起こるさまざまな出来事や交友関係も描かれ、舞台が閉鎖的でないところが『純子』とは異なる。旅やハプニング…富島の青春小説らしく、起こらなそうで起こりそうな展開は読者を飽きさせない。
主人公の七重は家出したり、親を巻いて恋人と旅行を企てるくらい、自分を持ち行動力のある少女だ。それでいて“不良”ではなく、学業をおろそかにせず家事も手伝う。男性からも女性からも愛される少女(嫉妬される部分もあるが)は読者のあたらしい模範となっただろう。七重は作者の理想の少女像であり、書き終えるのが惜しいというほど愛着があったらしい。

この小説のヒロイン七重は、情熱の少女である。その情熱には、そして、賢明な判断と理性のうらうちがある。だから作者は、安心して彼女をどこへでも旅立たせることができた。ぼくのもっとも好きなタイプの少女である。
雑誌「美しい十代」に連載しながら七重の行動を描くのは、作者のよろこびのひとつであった。連載が終わったときは、好きな子と別れねばならない悲しみを覚えたものである。
(「読者のみなさんへ」学研レモンブックス)

『純子の実験』の感想を書いたとき、富島ファン歴40年以上のしょうさんからメールをいただいた。わたしは性的な部分で共感するところが多かったが、しょうさんの着眼点は、自分の真実にしたがって行動する純子の姿であった。当時富島作品が“人生論”として読まれていたことがわかる。わたしが『純子』では気づかなかったこの部分が『青春の門』ではよりわかりやすく現れていたと思う。この作品は1964年「美しい十代」に連載され、後の「小説ジュニア」の時代よりは性的な表現はかなり少ない。それでも武之が七重の指をなめるシーンには驚いた。(性的な表現の採用については「夜の青葉」で少し後述する)

旅行のシーンが多いところが作品の舞台を幅広くしているが、興味深いのは武之が秋保温泉に旅行するところ。同行者に藤尾藤雄という漫画家が登場するが、その名の通り、モデルは富島氏と交流の深かった藤子不二雄(A)である。厳格な菜食主義者で、主食はスイカとバナナ。「負けるのはいやだし、勝つのはかわいそう」なので勝負事を嫌う、といったようにユーモアを込めて描かれている。我孫子素雄が富島と交流があったことを知る藤子ファンは少ないのではないか。そういう意味でファン必見の作品だと思うが、まあ藤子検索でこのブログにひっかかった人がいたら図書館で借りて読んでみてください。

ラストは『燃ゆる頬』に似た阿蘇山頂。「あなたが落ちたら、わたしもすぐに飛び込むわ」という台詞がつやっぽい。
あとがきでは、富島は武之が作者自身でないといいながら、自分自身の投影であることもほものめかしている。五木寛之より先の発表だったことも、自分のほうが「ずっと早い」と強調。富島氏がマネしたと誤った知識をお持ちのかたはご注意を。

夜の青葉

集英社 1962年10月初版 装幀:土井栄

日常に起こる数々の事件を主人公の良太が解決するというスタイルで進む作品。恋愛あり殺人事件ありともりだくさんだが、どれも中途半端な印象。「青春文庫」あとがきによると、元は学燈社「若人」に連載されたもので、独立した物語がつながって一つの長編となることを目指したようだが、それぞれの物語のつなぎは良太という登場人物のみで、統一感は今ひとつ。良太は深く問題に追求する印象のキャラクターなので、余計違和感がある。作者はこれに懲りて、その後の作品の挿話では、無理に話にこじつけることをやめたのではないだろうかと思った(『女人追憶』の七部のようになってもそれはそれで困るが)。若い人に遠慮ない重いテーマや社会的な問題提起もあったので、中途半端に終わっているのは残念だ。せっかくの『七つの部屋』のような雰囲気がもったいない。

掲載誌の「若人」は学生だけでなく、若い社会人も対象としていたものだったため、いわゆるジュニア雑誌より多少大人びた表現も許容されたのかもしれない。「××××したのか」というような直接的な表現も見られ、さすが「青春前夜祭」を掲載した雑誌だと思った(発禁になったのだが)。視点も男性的である。
こんな話を荒川さんとしていたら、作品に“性”を持ち込む富島氏の試みは「若人」で失敗し、その後「小説ジュニア」創刊号に発表した『制服の胸のここには』では表現を“接吻”にとどめ、それから長い年月をかけて『おさな妻』にまで読者や出版社をリードしていったんだ、という話をしてくれたのだが、それはそのうち「花と戦車 光と闇」で書いてもらおう。
恋愛小説とも青春小説とも推理小説ともいいがたい、読了後も消化不良で、正直失敗したな、ととわたしは感じたが、作者のあとがきでは満足しているようなので、何も言うまい。

集英社版には章題がついており、作品の雰囲気がうかがえると思う。
第一話 ぬれぎぬ
第二話 暗い青春
第三話 黒い潮風
第四話 白痴の恋
第五話 幻の日記
第六話 学級裁判
第七話 秀才失踪

2012年7月9日読了