集英社文庫 コバルトシリーズ 昭和53年12月5版(初版:昭和52年3月)
雪国の過酷な環境のなかで生きる少年…ではなく、苦学生の話。
主人公の一秋は、東京の大学に進学するための資金を深夜労働で稼いでいる高校生。
ストイックに生きる姿はいつものごとく。
肉体的にも過酷な泥臭い世界が、ますます精神の強さを浮きだたせている。
そんな一秋の心の支えが、一つ年下の晴代。
言葉の美しさが際立つ晴代は、『雪の記憶』の雪子をほうふつとさせる。
厳しさと美しさと純粋さ…この世界のままいくのかと思いきや、
一秋がT大合格後、二人の仲は進展していき、
後半には『女人追憶』か?とでもいうようなかなりきわどい表現も。
当時の高校男子は大騒ぎしたのではないだろうか(逆に女の子は意味がわからなかったかも)。
ラストは『純愛一路』風。
メッセージ性ある前半に対し、後半はちょっと話がズレた印象。
でも、苦行のごとき自己目標を達成する主人公の姿は、
当時の学生読者に限らず、今の時代であっても、人生すぐにさじを投げがちな読者に希望と勇気を与えてくれるだろう。
(まあそれが「英会話」とか「ダイエット」とかつまらないことであっても!)
生徒目線の教師との交流もいい。
やっぱり富島作品は優れた人生訓だと思う。
もう一編は異色作
<恋の海>
主人公はある国の少女、A女。他の登場人物もBだのKだのと記号化されている。
A女は海の向こうの恋人に会おうと、両親を捨て、国を捨て、密航船に乗りこむのだ。
激情をともなう、「死」と隣り合わせの「性」。そして、その激情の中に「生」がある。
そんなテーマが流れているような作品。
コバルト文庫だが、大人向けの話だろうと思いきや、初出は『ジュニア文芸』とのこと!(『富島健夫書誌』参照)
文中「強姦されても女は感じる」とでもいわんばかりの表現があり、ちょっと気になった
(『青春の海』にもそんなところが…)。
大人だったら、強姦と和姦の境があいまいな場合(それがかけひきだったりする)もあると思うが、高校生でそれってどうかと。
それも一つのリアリズムなのだろうか。
激情に突き動かされてA女は決心をしたわけだから。
…さて、胸ときめく読書は終わり。
そろそろ真吾の物語に戻るか…。
2010年10月29日読了
「吹雪のなかの少年」はかつて読んだ富島氏のジュニア雑誌の小説の中でも、書き出しをすぐ思い出せる作品なんです。大学進学の目的のために、深夜ツルハシをふるって“石ととりくむ”少年。こういう男になりたいと思い、自己確立をめざしたものですが、あえなく失敗しました。
「恋の海」が雑誌に載ったときはちょっとおどろきました。まったく異色で…。当時、軍事独裁だった韓国をイメージしたものでしょうが、富島の植民地育ちの感覚が生かされています。ふみさんの指摘通り、富島の古い(通俗的)女性観も…。まあそれを言ったら「女人追憶」は噴飯ものですけどね。富島に限らず、その点だけから見渡すと、日本の男の作家が書いた文学はほとんどその欠陥をまのがれないでしょうけど。
古い女性観も、富島作品は許せる範疇です。許せないのは演歌かな(笑)。
でも、私は演歌もカラオケも、嫌いじゃありません。馬鹿っぽい「戦争を知らない子供たち」や「私のお墓の前で、どうだら」や森山良子のせがれの「さくら」の通俗性には鳥肌が立ちます。詞のくだらない歌だけ嫌いです(笑)
ピアノは金持ちの、ギターはバカ学生の象徴みたいな…。
音楽そのものが通俗的だと思っていたのでしょうか。
それもあってか富島作品読むときは音楽聴きません。
くだらない歌…あはは。「お墓」もだめなんですね(笑)。カラオケ行くときには注意しないと!
懐かしいです。
確か、公園でデート中に、
やさぐれ男に絡まれた時、
兄貴が警官をしてるから呼んできますよ。
とその場を逃れた…
そんな場面があったような…(笑)
懐かしいです
公園のシーン、その通りでした(笑)
ジュニア小説ですが、この話はちょっと硬派な感じですよね。