今紅白見ながら書いています。年末の忙しい時、ブログ見てる人、いるかな?
昨日の大掃除では、探していたこれが出てきました。
来年読もう。
父の遺品ですが、丹羽ファンだったわけでなく、この全集を集めていたということで。
好きだったのは大江、三島、太宰…残念ながら稀観本はなし。
さて、今年最後の読書はこの本。
薄い文庫だけど、中身は濃厚。
年末にふさわしい一冊でした。
『考えない人』
角川文庫
昭和53年3月4版(初版:昭和51年7月)
所収;
喪家の狗
鮮魚の匂い
唖
犬の幽霊
考えない人
しょっぱなからこれだもの
<喪家の狗>
「うわっ、やめた!」と何度もページを閉じたけれど、もったいぶってはいられない。
ご存じ、芥川賞候補となった富島氏の処女作である。
二十一歳の時の作品で、宇野浩二には「もつと勉強しなさい」なんて評されているが、
稚拙さは感じられない、富島健夫そのままだ。
孤独と絶望、そして男と女の息遣い。
『七つの部屋』のように、陰鬱な空気がたちこめる。
でも、その絶望は底なしのものではない。
途中で読むのを断念したくなる、まったく救いようのない小説というのがあるが、
この作品…富島作品には特に希望もないが生きる力がある。
「そういう運命なら、ようし、はいつくばってでも生きてやろうじゃないか」とでもいうような。
それは小説の主人公でなくとも、生きてる人間ならみな同じなのではないだろうか。
だから読者は「主人公の絶望」にある種のカタルシスを覚えるのかもしれない。
…と、読後村松定孝氏の解説を読むと、同じような点に着目していた。
こんなにも深刻な題材の小説を、読みながら暗鬱な感情に陥らないのは何故だろうか。(略)作中人物に対する作者の温いまなざしを感ずるからである。
少しまぬけで、里子に劣等感を抱いている金秀承をあわれむ作者のまなざしは、金の内部を見すかしながら、金になりかわって、読者に、その心理を演じ、読者をして金への愛情をつのらせることに成功している。それが救いとなっている。
うむ。愛情か。私は“愛情”というより共犯者のような気分になるのだが。
「春の海」の密航船に乗り込んだ人々のように。
さて、金秀承という朝鮮人を主人公に据えた意味も無理やり考えてみた。
作者の引き揚げ体験が…うんぬんはよくわからない。
ただ、民族性というのは、逃れられない運命の一つだと思う。
戦争、敗戦、引き揚げ…作者も人生のなかで民族性を強く実感したことだろう。
金秀承は、運命に抗うわけでもなく、かといって受け入れるわけでもなく、
その中でいかに個人としての自分を確立していくか…という作者のテーマをより象徴化しているように思う。
さて、村松氏の解説には、続いて
この作者は小説の面白さを清純なヒューマニティによって支え、大人の世界をもメルヘンにしてしまう。
われわれが幼時に童話を読んだ時の愉しさに似たような快楽を、富島文学はわれわれに、少くともわたしに与えてくれる。
とあるが、これについてはのちほど。
つづく