五木寛之作品集3 1975年2月4刷
富島作品ですっかり遅読になってしまったわたしだが、2日で読み終えた!読んでいる時の昂揚感。初出はS42年「平凡パンチ」連載らしいが、これを読んだ当時の若者はさぞ熱狂しただろう。
主人公のジュンは20歳。ジャズクラブでトランペットを吹くジュンは、自分の音楽に迷い、悩む。「何が足りない?」「ジャズとはなんだろうか?」。ジュンは大学進学の道を選ばず、15万円と楽器を手に、ナホトカ行きの船に乗り込む。
中流階級でハングリーな思いをしたことのないジュンに様々な出会い(もちろん女も)や事件が起こり、ジュンの音楽や“男っぷり”が変わっていくのだが、「そんなうまくいくわけないだろ!」って思っていても、つい心が躍る。
未知の地で遭遇する難局を“トランペット”という武器で乗り越え、そのたびに音楽に深みを増していく、という展開も読者の期待に大いに応えてくれてうれしい。
さりげなくテーマを追って、ワン・コーラス。ドラムが途中からつけてきた。ジュンのトランペットが不意に揺れる。ピアノが退いた。トランペットのフリー・ソロ。
こういう描写の仕方って、今では当たり前のように思えるけど、すごく洗練されて新鮮だ!今読んでもこうなんだから、当時はもっとだろう。
ちなみにこの本を読んだきっかけはフォークルの歌だったけど、「青年は~」って頭の中で鳴らしながら読むと変な感じ!
併録されていた『悪い夏 悪い旅』もそうなのだが、作品のなかではたびたび“常識”という壁をブレイクスルーできるか、ということが問われる。特にセックスに関する観念がわかりやすいが、誰もが心のどこかであこがれるぎりぎりの境界線に触れるところも、読中の昂揚感につながるのかもしれない。かといって、ジュンは非常識な人間になるわけではなく、睡眠薬代わりに男を変えるクリスティーヌや、謎の青年ケンのような登場人物とは差別化がされているので安心感がある(『悪い夏 悪い旅』では、飛び越えたものへのうらやましさも描かれているし、彼らを否定するわけでもないのだが)。
麻薬に溺れたトニーに“勝ち”、地下クラブに集う退廃者たちを“やっつけて”いるし。
さて、「ジャズとは何か」を問う旅であるから同時に音楽についても言及されているのだが、わたしが一番印象に残った音楽についての言葉は、ナチの暗い過去をせおったリシュリューの、人間と音楽性は一致しない、ということ。
いいかね、わたしは美しい音楽は美しい心からしたたり落ちる音だと信じていた。だが、実際には、あのような汚れた手からでも、感動的な音楽は流れるのだ。その残酷さが私を絶望させたのだった。
作品の冒頭でプロフェッサーが「スイングとはアンビバレンツの美学である」と言うが、これもそうだし、常識と非常識の境を迷うこともアンビバレンツではないだろうか。
作品は終わりに近づくと、ジュンの孤独な旅というより、マキやケン、プロフェッサーたちとの旅になってきて、それはそれでいいのだが、わたしとしてはジュンの物語で通してほしかった。プロフェッサーの言う「青年の特権」も、若くない読者(わたしのように)の“受け皿”にはなるが、やはり若者の青春にはかなわないと思ってしまうのだ。
最後のジュンが親にあてた手紙も、せっかくいい感じになったジュンが平凡な子どもにもどってしまったよう。可笑しくもあるが、残念でもある。
ネットで検索すると、この本を片手に海を渡った人がやっぱりいたようだ。ブレイクスルーできずにくすぶっているわたしも(毎日新聞「リアル30’s」の世代!)、20歳でこの本に出会っていたら変わったかな(変わんねえだろうな)。
質は違うが影響力の強さは富島健夫に似てるな、と思った。富島が閉鎖的な「孤独の強さ」を書いたなら、この作品は開放的な「孤独の安心感(連帯感?)」を書いたというだろうか。
歴史を知り、人種を知り、人間を知り、音楽を知り、未来を切り開くジュンの旅。
<GO・FOR・BROKE!>
<形式にこだわるな。感じたままに吹いてみろ! それがジャズだ!>
初体験のときジュンに聞こえたこの声を、これからの人生においてわたしも聞くことがあるだろう。いや、反芻するんだ、心の中で!
2012年1月22日読了