富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

五木寛之 青年は荒野をめざす 

2012-01-29 20:39:09 | ☆他作家の小説レビュー

五木寛之作品集3 1975年2月4刷

富島作品ですっかり遅読になってしまったわたしだが、2日で読み終えた!読んでいる時の昂揚感。初出はS42年「平凡パンチ」連載らしいが、これを読んだ当時の若者はさぞ熱狂しただろう。

主人公のジュンは20歳。ジャズクラブでトランペットを吹くジュンは、自分の音楽に迷い、悩む。「何が足りない?」「ジャズとはなんだろうか?」。ジュンは大学進学の道を選ばず、15万円と楽器を手に、ナホトカ行きの船に乗り込む。

中流階級でハングリーな思いをしたことのないジュンに様々な出会い(もちろん女も)や事件が起こり、ジュンの音楽や“男っぷり”が変わっていくのだが、「そんなうまくいくわけないだろ!」って思っていても、つい心が躍る。
未知の地で遭遇する難局を“トランペット”という武器で乗り越え、そのたびに音楽に深みを増していく、という展開も読者の期待に大いに応えてくれてうれしい。

さりげなくテーマを追って、ワン・コーラス。ドラムが途中からつけてきた。ジュンのトランペットが不意に揺れる。ピアノが退いた。トランペットのフリー・ソロ。

こういう描写の仕方って、今では当たり前のように思えるけど、すごく洗練されて新鮮だ!今読んでもこうなんだから、当時はもっとだろう。
ちなみにこの本を読んだきっかけはフォークルの歌だったけど、「青年は~」って頭の中で鳴らしながら読むと変な感じ!

併録されていた『悪い夏 悪い旅』もそうなのだが、作品のなかではたびたび“常識”という壁をブレイクスルーできるか、ということが問われる。特にセックスに関する観念がわかりやすいが、誰もが心のどこかであこがれるぎりぎりの境界線に触れるところも、読中の昂揚感につながるのかもしれない。かといって、ジュンは非常識な人間になるわけではなく、睡眠薬代わりに男を変えるクリスティーヌや、謎の青年ケンのような登場人物とは差別化がされているので安心感がある(『悪い夏 悪い旅』では、飛び越えたものへのうらやましさも描かれているし、彼らを否定するわけでもないのだが)。
麻薬に溺れたトニーに“勝ち”、地下クラブに集う退廃者たちを“やっつけて”いるし。

さて、「ジャズとは何か」を問う旅であるから同時に音楽についても言及されているのだが、わたしが一番印象に残った音楽についての言葉は、ナチの暗い過去をせおったリシュリューの、人間と音楽性は一致しない、ということ。

いいかね、わたしは美しい音楽は美しい心からしたたり落ちる音だと信じていた。だが、実際には、あのような汚れた手からでも、感動的な音楽は流れるのだ。その残酷さが私を絶望させたのだった。

作品の冒頭でプロフェッサーが「スイングとはアンビバレンツの美学である」と言うが、これもそうだし、常識と非常識の境を迷うこともアンビバレンツではないだろうか。

作品は終わりに近づくと、ジュンの孤独な旅というより、マキやケン、プロフェッサーたちとの旅になってきて、それはそれでいいのだが、わたしとしてはジュンの物語で通してほしかった。プロフェッサーの言う「青年の特権」も、若くない読者(わたしのように)の“受け皿”にはなるが、やはり若者の青春にはかなわないと思ってしまうのだ。
最後のジュンが親にあてた手紙も、せっかくいい感じになったジュンが平凡な子どもにもどってしまったよう。可笑しくもあるが、残念でもある。

ネットで検索すると、この本を片手に海を渡った人がやっぱりいたようだ。ブレイクスルーできずにくすぶっているわたしも(毎日新聞「リアル30’s」の世代!)、20歳でこの本に出会っていたら変わったかな(変わんねえだろうな)。
質は違うが影響力の強さは富島健夫に似てるな、と思った。富島が閉鎖的な「孤独の強さ」を書いたなら、この作品は開放的な「孤独の安心感(連帯感?)」を書いたというだろうか。

歴史を知り、人種を知り、人間を知り、音楽を知り、未来を切り開くジュンの旅。

<GO・FOR・BROKE!>
<形式にこだわるな。感じたままに吹いてみろ! それがジャズだ!>

初体験のときジュンに聞こえたこの声を、これからの人生においてわたしも聞くことがあるだろう。いや、反芻するんだ、心の中で!

2012年1月22日読了


女人追憶 第七部

2012-01-15 20:56:18 | 女人追憶

 

集英社文庫 「紅い園の巻」 初版:1995年2月 カバー:松田穣
※左 小学館版は 初版:平成元年5月 装丁:長友啓典

一年半ぐらいかかってやっと読了。ペーパーバック調の分厚い小学館版で7冊、集英社文庫で14冊。私が今まで読んだ小説で一番長かったのは『モンテクリスト伯』だが、その倍以上になるのかな。

 

真吾の帰郷に始まる七部は、妙子や安希子との再会の後、旧友江藤と出会い、おなじみの“他人の挿話”になって…という噂は聞いていた。ラストのあっけなさは予想以上で、覚悟していたものの思わず「は?」と声が出た。

しかし、今まで半ば義務のように読み、今回も読み始めは「もう富島ファンやめるかもしれない」というくらい気持ちがだらけていたのに、後半から一気に読み終えた。上巻にベタベタついている付箋が下巻にはほとんどない。つまり、おもしろかったのだ。ただそれは、真吾ではなく、虹子の物語。

真吾は五部で伏線のように出てきた教師、英子と再会し、入った料理屋の仲居である虹子の身の上話を聞くことになるのだが、この話が七部の半分以上を占めている。

旧家に子守り奉公に出された虹子は、その家の娘 律子の性体験に立ち会ったり、幼なじみの治郎兵の手ほどきを受けたりして性に目覚めていく。無知で素朴な疑問を持つ虹子のその過程が面白い。律子が寺の息子と初体験の最中に、お嬢様を守ろうとするあまり、それを邪魔するシーンもある。
14歳の虹子は今の14歳とは全く違う。カスリの着物にモンぺを着て、初潮もまだない。奉公先の娘に対し、忠誠心を持ってつかえる。そして、“治郎兵”という名前。2012年の今、「ひと昔前の話」とは言えない。もう、時代劇くらいに時間をさかのぼらないとイメージが追い付いていかないのだ。とはいっても時代劇ではないから、チョンマゲのおっちゃんではなく、がっしりとした好青年の“治郎兵”像を思い浮かべる作業をしていた。
ネットで「『十三歳の実験』を買ってだまされた。時代古いし」みたいな感想を見つけたが、その通りだと思う。どうして『女人』は復刊されないのかと疑問に思っていたけれど、もう官能小説としては売れないだろう。こんなに時代が古すぎては煽情されない。

ただ、文学としてのニーズは別だろう。何とかイメージを作って読み進めていくと、実に不思議な感覚に襲われる。現代とは全く違う時代の話なのに、いとなみは変わらないということ。昔の生活のなかにも、性は当然あったわけだが、それがリアリティを持って伝わってくる。現代にはない素朴な生活のなかの性に、何か人間の生きる力まで感じてくるのである。
この物語の登場人物も、基本的にはドライに性を謳歌しようとしているのだが、虹子と治郎兵の間には、なにか愛情のようなものが感じられて、そこに感情移入することができる。登場人物が生き生きとしていて、ただの性遍歴の物語でなく、一つのドラマとなっている。
作者は軽い気持ちでこれを書いたのだろうか。思い入れが感じられ、虹子のモデルがいるのではないかと疑ってしまう。挿話とするにはもったいない。独立させた中編としてもいいくらいの傑作だとわたしは思うのだが…。

ところで、『女人追憶』に登場する女性たちはあまりにも男性に都合がいいと思ってきたのだが、この本を読んで、「なるほどなー」と思った。

『恋とセックスで幸せになる秘密』二村ヒトシ(2011.3 イースト・プレス)

下世話でなく、心理学的に女性の陥りやすい罠を的確に説明した名著なのだが、こんなことが書いてあった。

かつての一般的な女性は、自分からは恋をせず「自分に恋してくれた男たち」の中から、いちばん「愛せそうな男」を選んで結婚していました。
男から恋をされ、愛やセックスを求められることで、女としての受け身のナルシシズムを満足させることができました。
自分に恋をした男を愛し、子供を産んで育てることで、彼女自身も精神的に成長して自己肯定することができていたのです。


昔の女性の多くは、自分の方から恋をする機会や、恋で苦しむ必要が、なかったのです。
もちろん、「愛した男に浮気され、嫉妬に苦しむ」ことは、昔もあったでしょう。
しかし、当時の女性社会には「男は浮気をするもの」という共通の認識がありました。
それは文字どおり「浮気」であって、家庭が壊れてしまって妻が自分の存在意義を失ってしまう怖れまでは抱かずにすんでいたのです。


筆者は恋を「欲望」、愛を「相手を認める」ことと定義づけており、まず自分を愛することが(自己肯定)できないと、恋から愛には進めませんよ…というようなことをこの本では述べているのだが、なるほど、男女の恋愛はこんな風に成立していたのか。こう説明されると、女が「浮気」に寛容なのが納得できる。女は、ただじっと耐えているのではなかったのだ。
ちなみに現代は、まだ男の自己実現を支えるしくみの社会であるにも関わらず、女性も「恋」や「仕事」など男性的な役割を持つようになったがゆえに、女性がとても生きづらくなっているのだそうだ(その通りと思う。ぜひ読んでください!)。

相手が他の女性と寝たりしたら、今では大騒ぎするのが当然だろう。もしかして今の女性の方が、男性関係に情緒を求めているのかもしれない。または、二村風にいうと恋愛による「自己(自他)肯定」がうまくいっていないのか。いずれにしても、当時の女性についての認識をあらためなければいけない。
『女人追憶』の登場人物の女性は、あたらしい女性のように描かれているが、それは、受け身の恋しかできない女性の唯一の楽しみとして、性をとらえようとする一つの試みなのかもしれない。(ん、はたまた女性が「恋」をする始まりなのか?)

そう考えると、『女人追憶』は女性の性意識を探るうえで、ジェンダー研究のいい資料になるのではないだろうか。

 

七部の前半、江藤の女性経験の話も悪くなく(つまり、わたしは七部にしてはじめて『女人』を読んでもムラッとしたのだが)、挿話の印象だけで感想を「なかなか面白かった」とまとめることもできた。

しかし、上巻を読み直して気が変わった。確かに虹子は真吾より年上で、さらに若い時の話であるから、真吾とも時代が違う。けれども、真吾の物語にこの人間らしさが感じられないのは何故だろう。それは時代の違いのせいではない。

もし挿話なく、『女人追憶』全編から真吾の物語だけを抜き出したとして、虹子の物語のようになったのであろうか。

真吾には、『恋と少年』の良吉のような夢も情熱もない。「まじめで女好き」ということくらいしかわからない。つまり『女人追憶』では、主人公の人間性が切り捨てられ、青春時代の性の浪費だけが延々と描かれてしまったのではないか。
もし、性を主題にするのであれば、文庫のあとがきにあるように「カツオ君ワカメちゃん」に終わらせず、真吾の壮年まで描いたほうがよかっただろう。
あとがきにいろいろ書いているが、同じような場面なんて、ファンにとっては何を今さらって感じの承知のことで、それでも富島作品を愛するのは、そこに「青春時代のすばらしさ」が描かれているからなのだ。

題名通り主人公は「女人たち」であって、真吾は脇役なのかもしれない。でも、作者は変なところで青春時代にこだわってしまったと思う。

『女人追憶』は、ただ浪費された青春の集大成なのかもしれない。

2012年1月9日読了