富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

久しぶりに

2011-04-26 22:37:09 | 更新履歴

2作品初出情報を得ました。今回はアラカワ隊長のおてがらです。

『問題小説』からまだ判明しそうですが、国会図書館には増刊はなく、文藝年鑑の記載も不十分とのことで、地道な調査が必要となりそうです。

まだまだ引き続き情報募集中ですので、心当たりある方はよろしくお願いします!


たそがれの女

2011-04-13 22:58:24 | 中間小説

徳間文庫 1992年2月初版 
カバーデザイン:池田雄一

この作品については、昨年11月にちゃこさんからリクエストをいただき、書籍まで提供していただきました、ありがとうございました!
※「官能小説」カテゴリを「中間小説」に変更しました。


この手の短編集を読んだのは『女の夜の声』以来だろうか。
ジュニア小説にホレこんでいた当時はストーリー展開に「ありえへん、ありえへん」を連発していたが、『女人追憶』も読み進めてきたし、今回はもう少し冷静に読むことができた。

冒頭の「可愛い浮気」「貞淑な妻」は、富島氏がよく引き合いに出す“可愛い女”のイメージを印象付ける。他の男と寝ても、浮気であっても、目の前のあなたが好きなの、という女に男は惹かれるものか。ちょっと甘えん坊の小悪魔的な女の姿がそこにある。

「女の戦い」は、自分の亭主の素晴らしさを証明するために、亭主を主婦仲間にあてがうというとんでもない展開。浮気をしないという意味でこの妻は“貞淑”であるという立ち位置であるが、人間性よりもあちらの素晴らしさを誇示したいという願望には、結局浮気で性を楽しむ主婦仲間へのあこがれが表れていると思うのだが。

「相互鑑賞」は(未読だが)『男女の原点』シリーズを彷彿とさせるスワップ実録風だが中途半端な感。

「母の情事と娘の反応」は、女子高生からの手紙をもとにしたというこれまた実録風。若い男と年増女という組み合わせに女子高生を第三者として登場させることで絶妙な色香が加わる。表現はきわどいが、ジュニア誌に載ったのかと一見思わせる作品(実際は『オール読切』掲載)。

「浮気の現場」も、結婚をまじかに控えた処女が中年大学教授とホテルに行き、ギリギリの線まで行くというありえない設定。処女と非処女の中間にある女に、全くの純白ではない微妙なエロティシズムを持たせている。犯すか、のみこまれるか。本文中にもあるが、そこに男性の奇妙なサド・マゾヒズムをみるような気がする。ラストに「月曜日の眸」のようなドキドキ感あり。

「セックス・フレンド」「夏休み前後」は、学生のアバンチュールを描き、ちょっと『女人追憶』のにおいがする。下宿、帰郷、そんな言葉に富島健夫独特の青春の空気感を見る。


「浮気の現場」のように余韻を残した終わり方をするものに対し、「相互鑑賞」や「セックス・フレンド」はぷっつりと突然終わった印象がある。作品は答えを出さない。首をかしげたくもなるが、それはまた“考えても答えの出ない”人生の姿をも表しているのかもしれない…とは深読みか。


さて、これらの作品は、若い男性にとっては憧れであったり、刺激的であったりするかもしれないが、書き込みの浅さは否めない。

タイトルになっている「たそがれの女」を読んだとき、やっと「ああ、これだ」と思えた。他の作品とは力の入れ方が違う。これを巻末に持ってきたのは正しいと。

学生時代の見聞と前置きしながら、バラック家に住む女たちの姿を描く(ここは『七つの部屋』を彷彿とさせる)。登場する二人の女は梅毒に侵されたチンピラの妻、康子と、卵巣を失った元女郎、花子。どちらも、女性器官を失った女なのだ。
康子は性器が溶けても女の情欲を持ちづつけ(性器の描写にはクラッとさせられる)、花子は男のようにたくましく生きる。この二人に共通するもの、それは生きる力だ。性と生。康子の夫である松井も悲劇的な結末をたどるが、作者が康子にこの運命を背負わせなかったのは、女の強さを際立たせるためではないか。

巻末に国文学者 小川和佑氏の解説があるが、作品と照らし合わせているものに無理があり、ちょっとかみ合わない印象。けれども、最後のこの言葉には共感する。

(筆者注:「たそがれの女」を)本書の表題にしたのは、富島さんとしても思い入れが多かったからでしょう。ひどく哀しい作品でした。それは作家富島さんの素顔の小説といってよいかもしれません。

富島初期の作品にみられる影とほんのかすかな光が、この作品には感じられた。
そして、やっぱり富島健夫は、青春と人間を描く作家なのだ、と思う。


ところで「夏休み前後」に、こんな文がある。

和彦が何人もの女と関係を持っていることは、弘美は知っている。(略)
だから、和彦と弘美の関係は、和彦がほかの女と遊ぶことを弘美は認め、しかし愛されているのは自分だけだと弘美が信じているという状態なのだ。
男とはそういうものだと、弘美に和彦は思い込ませている。もちろん、和彦は弘美には貞操を求めている。
男女同権論者には許せないことであろうが、そんなタテマエなど和彦には関係のない話であった。

おなじみの男の身勝手さである。けれども、この作品集には、そんな男を翻弄する女の姿も見えはしないか。
女のエロティシズムは、貞操を守る女のものであっても男を支配している。

男も女も、どっちもどっちなのだ。

 

2011年4月13日読了

すっかり忘れてましたが初出情報引き続き募集中です!どうぞよろしく!


女人追憶 第五部

2011-04-03 23:50:07 | 女人追憶

小学館 初版:昭和62年5月
※集英社文庫版では 「自然の流れの巻」と副題あり


しばらく荒川さんネタに頼ってきて、まあ、そっちのほうが有意義だと思って読書をサボってきましたが、
四部を読み終えたのはいつだったかとブログを読み返してみたら、「メリークリスマス」だって!!
これではいけない。ちょっとペースアップして七部まで読まなくては。
荒川さんも発表の場を持ったことですし、しっかりやります。

 

さて、この巻でも真吾はいろいろな女性と交歓を繰り広げるわけだが、男と女と性に対する真吾の独り言はいつもと同じ。うるさすぎるほどだ。

そこで一つの疑問。『女人追憶』は、官能小説として知られているが、果たして本当に官能小説なのだろうか。
確かに話の大半は男女のそういう行為だ。でも、直接的・刺激的な表現のなさは、作者の単なる美意識なのだろうか。

雪子、ちえ、松美、明美、英子、鈴子、そして、妙子。
さまざまな女性が登場し、それぞれに人格的な特徴はいちおうあるが、結局は性的な“反応”と、真吾をどのような“女の目”で見ているか、が関心事であり、女性たちはテストパターンのサンプルのようなもの。

男は愛していない女と関係できる。男は愛している女がいても、ほかの女と関係できる。
でも、やっぱり一人の女に特別な感情を持つことがある。
男の生理と女の情感については結局は相容れない部分があり、だからこそ男女の悩みは尽きないのだろうが、
宮崎真吾の独り言は、その答えを必死で出そうとする、誰もが行っているであろう行為なのではないか。

つまり、「人はなぜ生きるのか」という命題のごとく、永遠に答えの出ない(おれは、なぜこんなことをしているのか)という問いに真吾は向き合っているようだ。

文中には真吾のカッコ書きの独り言のほかに、作者の価値観が現れた短文がぽろぽろ盛り込まれている。
作者は数々の恋愛論を発表しているが、
もしかして、『女人追憶』は、その延長で記された富島健夫の性愛論の集大成なのではないか、と今回読書していて感じた。


そして、芸者の松美が不能になった中年の「いいさん」に復讐する場面は、“官能小説”としてはどうなのだろうか。
「富島作品には中年の性を書いた官能小説はない」とは荒川さんの受け売りだが、確かに、いいさんには枯れた男の魅力もなにもない。みじめで哀れなだけだ。
このエピソードは松美を通じて、女の復讐心を表現したものかもしれないが、それだけではなくて、やはり性は「エネルギーの消費」であり、若さの特権なのだという作者の価値観も表れているように思える。

ところで真吾は、いいさんに「ウグイスの谷渡り」で傷つけられた様子を順序立てて説明する松美に対し、
「えらいなあ。よくそこまで自分を客観視することができるものだ」という。
これは女は情に溺れやすいという逆説なのだろうか。


もう一つ気になったのは、刺激を得る方法として、いつも第三者をからませている。
おなじみの3Pやスワップ。今回は行為を他人に見せるエピソードがいくつかあった。
ふたりで行う性の追求はあくまでノーマルであり、SMなどの変態行為には発展しない(「SMファン」掲載の「背徳の部屋」はどうなのだろう)。

“他の男”と関係を持った明美を真吾が“噛む”シーンがでてきたが、それも、明美への“嫉妬”という“サービス”であった。
そういうことにはあまり興味がないようだ。浴びたり、呑んだりするだけで十分だということか。
ただ、意外に妙子が一番性的な遊戯にめざめていくような気がする。真吾に露骨な言葉を言わせようとしたり。恥ずかしながらも、性に対する好奇心を見せつつある。
女の顔を覗かせ、二人の関係に少しずつ入り込んでいく、妙子の母のこれからも気になる。

また、五部はみな“よろこび”を知った女性ばかりのせいか(雪子すら!)、どの女性にも妖しさがあふれている。
そして、鈴子が痛々しい。

「ごめんなさい。あたしは今、わがままを言っているだけなの。だから、だまって聞いていて」
「うん」
「東京へ行って、あなたの近くに住んで、あなたの下着を洗濯して……」
「……」

こんな傷つけ方をしてはいけない。


さて、真吾が明美との関係を続けることを「貴重な適齢期を侵食している」と考えたり、「女にとって大切なのは結婚」という言葉があったりするのは、やはり作者が古い価値観を持っているからだろう。

他にも、詩を書く者へのちょっとした皮肉?や、「恋愛論」にもあった、女は「なぐる」ではなくて「たたく」という言葉を使うこと。「湯上りの女の匂いは、洗髪してはじめて効果がある」「宇野千代も山田五十鈴も、つぎつぎに男を変えて大きくなった」など、細かなところにおもしろさが見えた。

学生運動については、
「うちの大学の場合は、ほとんど無関係だわ。社会主義とか人民とかに無関心。自分のことだけ考えているの」
コバルトシリーズでは逆に関心を持った人物が登場しているが、この作品では、これで思う存分性に没頭することができるということか。

真吾が帰省した時の体操の先生の台詞には、こうある。
「学生が身を持ちくずすのは酒と女だと思っていたが、そうじゃないな。勉強も何もしないのはもちろんいかん。そのつぎが学生運動だ。きみも深入りはするなよ。いいか。田舎出のやつほど、純情だから過激になりやすい。大都会で育った連中はちゃっかりしていて、結局はかしこく振舞う。そんな連中に踊らされるんじゃないぞ」


第二部の「エピソード」で出てきた高瀬と道代夫婦とのやりとりは、富島作品特有の青春のにおいも感じる。
ラストの章は「二人の母」。思わずくすっと笑ってしまう終わり方だった。

しかし、“たたずまい”や“内部反応”ばかりが“追憶”されては、女もたまったものではないな。

2011年4月3日読了