富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

初出判明「おかあさん」

2011-11-27 21:57:38 | 番外編

『また会う日に』所収の短編「おかあさん」。気になっていたんです。好きな作品なので。
「女学生の友」に1965年6月掲載されたことがわかりました。

“武村一郎”名義で検索かけたら出てきたそうです。武村一郎といえば…。

コバルトブックス所収のもう一遍「ふさ子の良心」の初出もそうかもしれません。

ちなみにこの「女学生の友」別冊付録、ネット書店で高値で買いましたが古本市でも見かけたことがあります。
みんな、大事にとっていたのでしょうね。


雪の記憶~ギャラリー

2011-11-20 14:11:18 | その他の小説

『恋と少年』ギャラリーに引き続き、リクエストにお応えして(おひとりさまですが…)『雪の記憶』ギャラリーを開催します。

富島ファンの一番人気ともいえる『雪の記憶』。はたして装丁はどんな変遷をたどっているのでしょうか。お楽しみください。

昭和33年10月 平凡出版 装丁:奥津国道
うつくしい抽象画
(画像提供 荒川さん)

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昭和36年6月 角川小説新書 装丁:佃幸野
これも雪をモチーフにした抽象画ですね。
(画像提供 しょうさん)

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昭和41年8月 学習研究社版『富島健夫青春文庫』第1巻 装丁:多田進
またまたおとこまえなアップ。
(画像提供 しょうさん)

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昭和46年3月 角川文庫 カバー:宇野亜喜良
ファンに黒く塗りつぶされてしまった雪子。いたしかたあるまい。

なんだかほっとする風間完バージョン
(画像提供 荒川さん)

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昭和46年8月 集英社版『青春文学選集』第1巻 装丁:栃折久美子
まあ、面白味はありませんが…。

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昭和50年11月 春陽文庫 装画:海津正道
海津さんの絵はすてきなんですけど…時代背景が全くズレてますね。ブーツにジーンズ…。

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昭和52年9月 立風書房版『富島健夫青春文庫』第1巻 装丁:多田進
これも面白味はありませんが…。
(画像提供 tentokuさん)

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昭和56年1月 実業之日本社版『富島健夫小説選集』第9巻 カバー絵:景山景子 装幀:サン・プランニング
うむー、『黒い河』のイメージなのか?
(画像提供 荒川さん)

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昭和62年8月 ケイブンシャ文庫 カバー:松田譲 
雪子は雪子でも、『女人追憶』の雪子にしかみえない…。
(画像提供 荒川さん)

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平成15年に徳間文庫もでています。一番新しい本がない不思議。お持ちの方はメールください。

平凡出版のがいちばん作品のイメージにそっていて好きですね。でも、ケイブンシャ文庫の松田さんの絵にもひかれる…。
「あたしを嫌いにならないで!」の雪子もいつかはこんな姿になるのかも(ん、当時はスリップなんてあったのだろうか…)。

 

ファンなら20回は読むという(ふみ調べ)『雪の記憶』。もう一度読んでみようかな。


次は

2011-11-19 13:18:43 | つぶやき

やっぱりこれにしました。


ちょっと青い(iPhoneで撮影)

最後は小学館版ではなく、集英社文庫で。
持ち歩きはらくですが、やっぱり通勤電車の中ではよみづらいですなあ。

年内に読み終わるようがんばります。

※『恋と少年』の記事に重大な誤りを発見!赤字にしときました。


恋と少年~ギャラリー

2011-11-08 20:46:16 | その他の小説

『恋と少年』は富島氏の代表作だけあって、昭和38年の刊行後、出版社や装丁を変えて何度も出版されている。
おもしろいのでその変遷をどうぞ(スキャン画像は解像度を落としています)。

これが最初の本。装丁:原弘

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昭和41年10月 学習研究社 『富島健夫青春文庫』第4巻(装丁:前野洋一)

本人のどアップが表紙! 画像提供:しょうさん

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昭和46年11月 集英社 『富島健夫青春文学選集』第12巻(装丁:栃折久美子)

あとがきで、河出書房版のあとがきで「これは三部作の一つであり二部三部をやがて書かねばならぬ、というようなことを書いた」とあるが、河出版にあとがきはなく、上青春文庫のまちがい。
(前回「荒川さんが富島氏に聞いたところによると…」というところも修正しました)
※貴重な本をしょうさんに譲っていただきました。ありがとうございました。

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昭和47年5月 角川文庫 (カバー:宇野亜喜良)

作品の世界観を的確にとらえた尾崎秀樹の解説にしんみりさせられた。
対してこれまた黒く塗りつぶされそうな表紙…。

11月10日追記 途中から装丁が風間完にかわります。
戦後の女学生という感じがしますね。地味で清楚な和風美人、まさに富島ヒロイン的。
(画像提供:荒川さん)

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昭和52年9月 立風書房版 『青春文庫』 (装丁:多田進)

画像提供:tentokuさん

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昭和53年12月 東邦出版(装丁:一の宮慶子)

70年代の終わりだが80年代っぽい装丁。帯裏で一人称は“ボク”になっている。

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その他、コンパクトブックス版、風間完イラストの角川文庫もあり(画像提供募集:笑)。
あたらしめの徳間文庫もあるが、意外にも周りでもっている人がいない。

※光風社版もあるとのうわさあり(11月10日追記) ないらしい

装丁や挿絵は作品のイメージを大きく変えますね。
“幻の少女”とも多摩代とも取れる少女の絵が描かれた河出版がいちばん好きだな。
みなさんはどうですか。


恋と少年

2011-11-06 23:24:54 | その他の小説


昭和38年5月初版 河出ペーパーバックス 装丁:原弘
※半透明のビニールカバーがついていて見にくいので押さえて撮影。

富島健夫の自伝的小説、という前知識があったので、そういうストーリーなのだろうと、いつも感想に書いていることの集大成になるだろうと思っていた。初めて読んだなら、“こういう”読み方をしないならそうなったかもしれない。でも、富島作品にホレこんで1年間、ブログまで立ち上げて読み続けてきたのである。
付せんをべたべたつけながら読んだ。本当は全部につけたいくらいだ。読書は杉良吉、または冨島少年との会話でもあった。

物語は主人公、杉良吉のおおむね中学時代から、早稲田入学後までを順を追って描いている。“ぼく”の一人称で語られ、あたかも少年時代を終えた“ぼく”の回想のようだ。
“ぼく”こと良吉は、継母と父、弟と貧しい生活を送る。貧しい主人公は多くの作品で見られるが、良吉と富島氏を重ね合わせたとき、継母と弟の存在はフィクションであるためか、描写もややリアリティにかけ、作中からも途中で姿を消してしまう。対してその後寝たきりとなる父との生活は、非常になまなましい。
敗戦やまずしさという背景のなか、世の不条理と人間の醜さを目の当たりにする良吉にめばえていくのは強烈な不信感と自尊心であった。

自尊心に接触することは、執念深く忘れない。逆に相手をやっつけねば、気がすまない。

これは富島作品のテーマともいえることだが、法律や倫理観、親戚、医者までも信頼せず、貧しさという自分の意志に反したものから身を守るために、自尊心を強固にする描写が随時にみられ、これは“本当”なのだな、と納得させられる。

孤独を愛し、人に頭を下げることを嫌う良吉にとって、“昭和6年生まれの不幸”はどれだけ不幸だったことだろう。学校制度改革で、最上級の中学5年ではなく新制高校2年という中途半端な身分になった良吉の、それでも作中描かれる学校生活は豊かだ。『二年二組の勇者たち』に登場するようなユニークな仲間や教師に恵まれ、男女共学がおこるとともに良吉の周りも恋が咲き乱れる。

良吉の前にもさまざまな女性(少女だが)が登場する。良吉の恋人となる多摩代、文芸部の永子、通りすがりの少女や年上の女性…。
女学生との交際を禁じられた時代からいきなりの男女共学である。空想のなかの“幻の少女”ではない、生身の少女が目の前にあらわれたのは、10代の少年にとって敗戦と同じくらいの衝撃ではないだろうか。良吉もまた少女たちの声やしぐさといったささいなことに心を動かされる。
不良少女のるり子や、お互い気になりながら結局離れていった玲子のような女性は、富島作品の中でたびたび登場しているし、真に良吉が理想とする女性像なのではないかと思うのだが、なぜか良吉は美人でもない「頭のいいこども」、永子に夢中になる。夢中というよりも意地だ。“恋”自体に不信感を持つ永子は、『サイン・ノート』の英子(読みが同じ!)をほうふつとさせるが、『サイン・ノート』が恋愛小説として昇華されているのに対し、永子は魅力的なキャラクターとしては描かれず、面白味はない。二人の関係は『青春の野望』で形を変えて描かれているようで楽しみなのだが。
わけのわからないまま恋をし、わけのわからないまま終わる。こんな恋愛小説があるだろうか。でも恋には理由がない、そんなリアリズムがありのまま描かれていると思う。

さて、この作品のヒロイン多摩代である。良吉は多摩代との関係を通して“愛”について考えていくことになる。
『女人追憶』でもそうだが、真吾も良吉も考えすぎである。自分は「ほんとうに彼女を愛しているのか」ということばかり考えている。それは相手に対する思いやりともいえるが、「彼女は自分の真実なのか」という問いでもあり、自己愛だとも思う。多摩代の両親に交際を反対され、結婚する意志を示そうとまで思った良吉も、「結婚」のことばと引き換えにからだを許そうとした多摩代の期待に応えることはなかった。
「両親の子」から抜け出せず、平凡に教師への道をたどろうとする多摩代に対する失望など、明確な理由もあるかもしれないが、それだけではなく、現実に目の前に現れた自分を愛する少女に漠然と脅威を覚えたのではないかと思う。

良吉の心の中には、いつも“幻の少女”がいた。誰もが空想するであろう少女の像は、良吉の心の変化にともない姿を変え、あらわれては消える。多摩代という別人格の人物と会話をし、性欲と葛藤するという現実的な“恋”の行為は、いくら多摩代と彼女との恋が魅力的であっても、完璧ではありえない。
「永遠の少女は、何といっても、ぼく自身なのである」
良吉は結局真に多摩代を愛していただろう。けれども友情にも猜疑心を持つ良吉だ。多摩代を観念化しようとしたり、憎もうとしたりする行為は、無意識のうちに多摩代をさばき、心のとりでを守ろうとしたからかもしれない。

物語は良吉の就職、早稲田入学からは、仲間と同人誌を立ち上げようとするまで一気に進む。読み終えたとたん、「『青春の野望』を読まなくては!」と思ったほどだ。富島研究家 荒川佳洋さんが富島氏の生前聞いたところ、『恋と少年』は3部作の構想があったようだが、発表されることなく今では他の作品を通して推測するしかないところが残念だ。
※11月8日追記 3部作の構想は昭和41年発行 学研版『富島健夫青春文庫』のあとがきによりました。荒川さんが聞いたのは、2部以降がなかなか書かれなかった理由。それは『恋と少年』がノンフィクションに近いというところにあったようです。

途中、豊原中学の先輩の選挙の応援に数章裂かれているが、『白い一本の道』では太郎が代議士の秘書としてアルバイトをしていることとも関係があるかもしれない。社会人となった同年たちも、社会のきびしさや女を知り、少しずつ変わっていく。

そして多摩代の告白。荒川さんがインタビューで「大きな傷」と述べたように、この本で2ページにわたる描写はおぞましい。確かに最後の一言は多摩代のセリフとは言えないだろう。死ぬ死なないということは大げさではなく、性事情は昔と今では大きく異なる。大正時代には「生命か貞操か」なんて論議もあったほどだ。多摩代は“家”にその観念を利用された犠牲者である。単なる“処女喪失”で流されるような話ではない。いわば暴行相手の“モノ”になってしまったようなものだ。

良吉が多摩代を見送り、物語は終わる。『恋と少年』の一部分をリライトしたともいえる「初恋」(ここにも“永子”が“英子”として登場する)で、真理が健司を見送るのとは逆である。唐突ともいえる結末だが、続編の存在を抜きにしても、良吉のなかでひとつの区切りがついたのは確かだろう。

ぼくが多摩代を愛している限り、多摩代をもう抱かないであろうことを、本能的に予感しかかっていた。

“幻の少女”の像が多摩代と重なる。多摩代は生身の女性でありながら、観念的な永遠の少女として良吉の心に刻まれたのだろう。それは良吉の見ていた恋愛に対する夢との別れであり、同時に「かつてないほど強烈な創作欲」、つまり小説家という現実的な目標に生きることへの原動力となったのではないかと思った。

 

この本は古書で購入したが、こんな箇所に線が引かれていた。

少年時代の恋をばかにしてはならない。それは大人の恋よりも、はるかに強烈に生命にひびく場合が多い。より純粋だからだ。

性欲を感じるだけでなく、実際に性体験をすることは通過儀礼のひとつだ。性欲も性も男女の恋愛のリアリティだが、真にプラトニックな恋愛ができるのは性の感覚をしらない性体験以前かもしれない。
良吉のその後は『青春の野望』や『女人追憶』につながっているともいえるが、官能に特化しないで『恋と少年』として読んでみたかった。貧しいときに空想した巨万の富も女性も手にできたであろう、少年でなくなった作者の生きざまもまた。

『恋と少年』はどこまでもリアルだと前回書いたが、ややこしいことを言うと『雪の記憶』がリアルに描かれたファンタジーなのに対し、リアルでありながらファンタジ―を描いているのが『恋と少年』なのかもしれない。あたかも胡蝶の夢のように。

「あなたはいつも、希望そのままを実行してきたではありませんか」
“幻の少女”の声に良吉が早稲田受験を後押しされたように、空想と現実は表裏一体で、人生をつくりだすのだ。

理想と現実は違うかもしれない。けれども人は心の奥底でいつでもそれを求めているのではないか。

この作品を十代から大事に読んでいる方は多い。「少年は真実の愛をもとめて」という帯の文句に、なるほどなと思った。


2011年10月5日読了


--まとめきれなかったこと—
<好きなシーン>
雨の中、多摩代が両親の反対を押し切り、傘もささずに良吉を訪ねてくる。接吻と抱擁のあと、走り去る多摩代を見つめながら良吉はたたずむ。「多摩代が濡れただけぼくも濡れなければ。―」

新年会の後、吹雪の中を、死んだ級友 大野の母を訪ねるシーン。

<気になるセリフ>
このなかに住む主人公は、高校時代に見たことがある。「あ、そう」ということばを使うという評判であった。

「明治の人たちは」
と、ぼくは言った。
「意識するしないにかかわらず、大正昭和の天皇を軽蔑しているのかもしれないね」

早稲田の学友、葉山のセリフ
「父、母、先生、教官の言うこと、その全部を守った。あの八月十五日で、それがからっぽになっちゃったよ」