富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

青春の野望 第四部 学生作家の群

2013-03-24 13:49:33 | 青春の野望


iPhoneで撮影。なんだかしぶくなった。
左:集英社 1980(昭和55年)年11月初版 装丁:土居淳男
右:集英社文庫 1983(昭和58)年9月初版(読んだのは84年6月 第2刷) カバー:土居淳男
  ※三部までに比べ、重版の時期が遅くなっているなあ。

すっかり遅読になった富島作品。面白いのだが刺激が足りなくなったのか。男性目線で描かれる男女の風景に嫌気がさしたのか。

作家を目指す若杉良平の物語はすっかりいつもの話になってしまった。『女人追憶』だと言われても疑わなかったかも。

美子の存在に心を痛めながら小里との関係は発展し、それでいて他の女性たちとの関係も相変わらず。帰省中、後輩の裕子とは性の“実験”に付き合い、特に女性二人と床を同じくするシーンは多すぎる。

それでもちらほら「学生作家の群」のタイトルを思い出させる場面は見いだせる。世の中に作家志望の若者があふれていること。その中で小説を生活の糧に出来る運と才能の持ち主はわずかであること。芸術と自己満足の混合に気づかない自称天才たち。引揚者である良平が先の見えない作家の道を進むことは、美子との結婚の弊害となる。作中数ページを割き述べられている現実の厳しさは、安直に作家を目指すものへの苦言であり、幸運にして成功した作者がまだその道の危うさを振り返っているようにも受け取れる。

小説を書く能力は、天分と努力である。その才能のない者は、いかに努力してもそれは徒労となる。
その人に才能があるかどうか、本人にはわからない。友人にもわからない。結果としてすぐれた作品を書いてはじめて、それがあったことになる。
多くの作家志望の青年中年は、裏付けのない自信のなかで、修行している。神から見れば、それは虚しい努力かも知れないのに、本人は気づいていない。
きわめて恵まれたほんの一握りの人だけが、その天与の才能を持つ。
しかし、それだけでは、その人が作家になれるとはかぎらない。その才能に磨きをかける有効な努力が必要なのだ。多くの才能が、有効な努力を見いだせないままに彷徨し、街のなかに埋もれて行ったことであろう。
それに加えて、既成作家にはないあたらしい何かを表現しなければならない。それがなければ、世はその人を作家にする理由を持たない。文学は、現実社会では無用のものなのである。あたらしい精神を持たない技術者を必要としない。 

ちなみに続いて美子との結婚をためらう理由を

自分の一生を賭けてその道を目指す本人は、行く手にみじめな挫折が待っていたとしても後悔しないだろう。夢を追いつづけてきた自己満足がある。
しかし、その人に期待しその人の巻添えになる人は、災難と言える。それが若い女であれば、なおさらである。

と続けているが、前置きが長過ぎてかえっていい訳がましく思えてしまう(小里ならいいのか)。時代背景を考慮する想像力に欠けているからかもしれない。

あえて「戦後の人々」と銘打ち、ひとりで生きていかざるを得ない女たちの姿が描かれる章もある。ただ男女が戯れるだけの脱線ではないところがいい。娼婦のサチコのエピソードは『黒い河』に通ずる。繰り返し用いられるエピソードは実話である可能性を感じさせる。中村八郎が愛妻家であることや丹羽文雄に抱かれたいという道江の姿には、作品と恋愛観の関わり、あたらしい女性(作家)の価値観が現れているような気がする。

そういえば『街』はどうなったんだ。第三部から2年後に書かれた本作は、作者自身があとがきで「大きな道草」と述べている。似た性体験を繰り返すこの作品が「青春の浪費」であってはもったいない気がするが、残すはあと一冊。

2013年3月1日読了

※半年前から盛田隆二先生の小説教室に通いはじめ、『青春の野望』の世界を垣間みるいい経験をしました。小説教室の感想は別ブログに書く予定なので、のちほどここにリンクはります。