富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

純子の実験

2012-06-11 20:57:39 | コバルト


※カメラの調子が悪く、とりあえずiPhoneで撮影。

読んだのは左:集英社文庫 コバルトシリーズ 昭和53年9月16刷(初版:昭和51年8月) カバー・中沢潮
右:集英社コバルトブックス 昭和49年7月4版(初版:昭和48年2月) カバー・ユニフォトプレス 装丁・三谷明広
併録作品はともに「月曜日の眸」(春陽文庫『風車の歌』所収)

「ふみの実験記録」というのは、『純子の実験』からとったのですか、とよく聞かれる。

“実験”という言葉は子供のころから好きで、台所にある洗剤を片っ端から混ぜたり、コンセントを分解し、プラグに針金を差し込んで火花を散らしてみたり(危険)、科学者ごっこをよくしたものだ(おとなになったら理系はからきしダメだけど)。20代ではまったオカルトの魔術も一種の実験だし、パラケルススやら「錬金術」といった話題にも心ときめかせた。
富島作品を読む前から、いつか「ふみの実験室」というHPを立ち上げようと思っていた。

『純子の実験』は、そのタイトルだけでなく、あらすじを知っただけでわたしのこころは舞い上がってしまい、ストーリーを妄想し、読むのが惜しくてずっととっておいた。

実際読んでみると、わたしの妄想とはちょっと違っていた。主人公の純子と実験相手のジュニア小説家 永井は、最後の最後にそういうことになるのかと思ったら、ふたりは意外と早く性的な雰囲気になる。永井は気持ち(欲望?)をはぐらかすことなく純子に接触するし、「ん、これでいいのか?」と思わなくもないが、いいのである。共感できるのである。
書いてあることは言ってしまえば『女人追憶』とさほど変わらない。けれども『女人』を読んでいて腹が立ったり違和感があった内容が、この作品では共感とときめきを与えてくれる。主体が女子高生に変わっただけでこんなにも印象が違うのか。これが富島健夫のちから!

純子は“普通の高校生とは違う、あたらしい女”を永井に印象付けようとし、自分でもそういう少女だと思っている。しかし情の厚さだけが付け加えられた『女人』と違い、純子は家庭的で母性をも持つ“富島ヒロイン”。近所のおばさんと顔を合わせた時の機転の利いた受け答えも、純子がかしこい女性であることを表している。
相変わらず料理の描写が細かい。なぜエビのテンプラに尾っぽがついているのかとか…。富島作品を読むと「女の子は料理ができなきゃだめなのね」と思わせられることが多いが、当時の読者もきっと触発されただろう。

今まで読んだコバルト作品にも性的な描写はあったが、ここまで性が主体ではなかった。夜を迎えるまでの純子と永井の間に流れる雰囲気。体温と息遣いが自分の領域に徐々に入ってくる“あの”雰囲気。じんわりと生まれてくる、あたしはあの人の「もの」、あの人はあたしの「もの」、という意識。世界が二人だけのものになってしまった気分…読んでいるうちに、恋(愛)が生まれるとき特有の感覚がよみがえってくる。

(略)ふいに純子は永井から肩を抱かれた。
「いっしょに出て行っちゃだめだぞ」
低く強い声だった。
純子のからだを電流が走った。

わたしにも電流が走った。

書いてあることは『女人』と変わらない、と書いたように、当時の中高校生にとっては結構きわどい作品だと思う。でもそれは、機械による自慰のような単なる刺激ではない。生身をもった、まさに“女の子のエロス”なのだ。

あたらしい世界を知ってしまうと、自分が変わってしまうのではないかという純子。実際永井を好きになってしまったのだからその通りになったのだが、歓びを感じるのも早かっただけに、奈美やかすみに見た女のみにくさも早く感じてしまうだろう。

コバルトらしく夢のある終わり方。行為は大胆だが、「作品を通して永井に心の触れあいを感じているからだ」という、純子が永井と“実験”したかった理由に純粋さを感じたい。女のややこしい感情は中間小説で十分だ。

ところで永井は昭和ヒトケタ生まれの量産作家、杉島健一を敵対視しているが、その名前からして富島氏のことだろうか。
ストレートな欲望が愛情に昇華された純子がうらやましい。富島先生が生きていたら、わたしも「実験」しに行きたかった(何を?!)。当時の女学生も実践したに違いない。この作品を読んだらなおさら。その結果は、どうだったのだろう。

2012年6月11日読了