富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

次は

2010-07-31 21:27:19 | つぶやき
『青春の野望』と迷いましたが、こちらを読むことにしました。



今まで避けてきましたが、「恋愛観」シリーズ?書いていて、
やっぱりこちら系の作品も読み込む必要があると感じました。
青春系も官能系も全部ひっくるめて富島健夫なのだと。

1冊ずつ読み、書いていきますが、
なにしろこのボリュームですし、電車の中で読めないので(!)
レビューにはしばらく時間がかかると思います。

ちなみにこのブログの検索ワード、ダントツトップは『女人追憶』です。
でもこれをひとつの「エロ小説」として興味のある方には、
レビューをあげたとしてお役に立てないでしょうね…(そうでないことを期待して読むわけですから!)

感想っていってもまた怒って終わるかもしれない…
いや、推測してもはじまらない。とにかく、がんばって読みます!


ところでこのブログも開設して半年になろうとしています。
途中メランコリックになりもしましたが、
読んでくださるみなさんのおかげで続けることができました。本当にありがとうございます。

読書も飽きるどころかますます深みにはまってきています。
ふみの実験はまだまだ続きそうです。


では、たまに近況報告します。

よい夏を!

『不良少年の恋』追記

2010-07-29 21:03:56 | その他
『不良少年の恋』の中にある

「おまえはおれのスーちゃんなんだ」

というセリフについて、
キャンディーズの“スーちゃん”ととらえて読んでいましたが、
そのことについて情報をいただきました。

初出誌である「ジュニア文芸」(1969年1月号)でもセリフはこのままのようで、
キャンディーズとは関係なく、“蓮っ葉な「スーちゃん」”という意ではないかということです。

“ミーちゃんハーちゃん”を「ミーちゃんケイちゃんの間違いじゃないの?」と思うがごとき読み違いでした。

流行語に限らず、時代によってことばの移り変わりがあるのだなあということを改めて認識させられました。

それにしても初出誌からたどれるなんて…ひとりで読んでいたらそう簡単にはできないことです。
しょうさん、ありがとうございました!

ことば

2010-07-27 22:53:11 | 番外編
「初恋」に、こんな文章がある。


後年、健司は若い女性の読む雑誌に小説を多く発表してこの世を送る作家となったが、
その作品のヒロインに、けっして流行語を使わせない。方言を使わせるのも好まない。
俗語を避ける。はすっぱなことば遣いも慎んでいる。



しつこいようだが、このことば遣いが富島作品の大きな魅力なのだ。

(だから『不良少年の恋』の中で「おまえはおれのスーちゃんなんだ」というセリフを見たときは目を疑った)
※2010年7月29日追記 この件について情報いただきました


私もこのブログでそんな文章を書きたいと思うのだが、
語彙不足や表現下手、なにより内面のいたらなさから、なかなかうまくいかない。

しかし、このブログの読者の方々も同じ思いがあるようで、
同世代の方からのメッセージが多い(といっても絶対数が少ない)のだけれど、
みなさん文章がとてもきれいで感動します。

(代わりにブログ書いてほしい!私みたいに下世話な興味も持たないだろうし!)

みなさん、いつもありがとうございます。

【私見】富島健夫の恋愛観(2)~初恋は幻想か

2010-07-27 21:33:03 | 【私見】富島健夫の恋愛観


またもやおおげさなタイトルのこのシリーズ(【私見】をつけました)。
「富島健夫作品に見る」とでもしたほうがいいかもしれないが、
まあしばらくこのままでいきます。


「初恋」(春陽文庫『風車の歌』所収)は健司と真理、二人の恋物語なのだが、
健司という名前もさながら、冒頭のファーストキスシーンで、
ノンフィクションを思わせられた。


あるインタビューで、作者はファーストキスの相手が1歳年上であり、場所は雨の降る港の波止場だと答えているが、
真理は健司より年上の17歳であり、そしてキスの舞台も小雨ふる海の波止場であるのだ。


真理の言葉の美しさや、健司が母を早くになくし、貧しい生活を送っていること、
早大の仏文科を目指していること、後に作家になることなど…『雪の記憶』や作者自身の姿が交錯している。


先のインタビューを読み返してみると、真理と健司の出会いのシーンは事実とは違うようだし、
作者は読者をだますのがお上手なようなので(!)これをそのままノンフィクションとして受け止めることはできないのだが、
『雪の記憶』のように純粋な恋愛の美しさを閉じ込めているのではない点にリアリズムを感じざるを得ない。


真理の両親は健司との交際に猛反対し、真理を違う町の親戚に預けてしまう。
それから2年の間に、健司から真理の面影は薄れゆき、映子という少女に心を動かす。
卒業後二人は再会するのだが、健司は映子を心に残しながら、真理を欲望の対象として見つめるようになる。


さて、私がこの前に読んでいたのは『本音で語る恋愛論』だったのだが、
私がそのエッセイに対して納得いかなかったのは、
そこに男の身勝手さや女に対する甘え、開き直りのようなものを感じたからだった。
しかし健司の苦悩をみると、
そこには男性のある種の絶望や諦念、自責の念が込められているのではないかとも思えてきた。


『雪の記憶』にあるような美しい恋は、人生でたった一回きりの、
思い出だけのなかで永遠に続くものなのかもしれない。

作者が果たしてそんな恋をしたのかどうかはわからないが、
読者は確実に理想的に美しい恋を追体験させられている。

でも、それはあくまで一瞬のリアルであり、それを永遠に保つためには幻想に生きるしかない。
それは作者の本意ではないだろう。


この作品のラストに

恋におぼれるのは、十八歳の少年の選ぶ道ではない。

という一文がある。


別の本に「僕が人にほれたのは十代の時だけ。それ以来はほれたことはないな」と書いてあったのが気になっていた。


真理の両親に引き裂かれたときに健司の恋はまったく終わってしまったのか。
それがどう『青春の野望』や『女人追憶』のような、女性遍歴の物語につながっていくのか。
そして、果たしてその中に雪子や真理の姿はあるのだろうか。


そろそろどちらかを読んでみようと思う。 


そして、この一文にさみしさを覚える私は、やはり、リアリストになりきれないのだろうか。



趣旨がずれた。

風車の歌

2010-07-26 10:33:41 | ジュニア小説


(春陽文庫 昭和50年3月初版 海津正道さんのイラスト、素敵ですね…)


ジュニア系の4編が収録された短編集。


「風車の歌」は中学生、「月曜日の眸(ひとみ)」「二輪の花」は高校生が主人公。
どれも初めての“恋心”にとまどう少年少女の物語だが、
特に、男の子の心情がよく描かれている。


「風車の歌」の正則は『制服の胸のここには』の京太のように、
先生に、好意を持つ雪子と「同じクラスにしないでくれ」と頼み込み、
「月曜日の眸」の田村は学校をさぼってみたり、
「二輪の花」の良吉と雄作は決闘してみたり(そこに男の友情も見える)。


恋する少年は彼らなりの美学や哲学を持つようだ。
それがあまりにもぶっきらぼうなので、女の子は全然気づかないのだが。


特に気に入ったのは「月曜日の眸」

ラスト

「あした来たら、ぼくはまた同じことをきみに求める」
「…………」
「来るかい?」


電車の中で読んでいたのだが、またしてもひとりもだえてしまった。


ひざをついてふすまを開けた良美のほうを、ゆっくりとふり返った。


こんな何気ない一文の中にも、女性の優雅さと美しさが現れていてどきりとする。



さて、残る一編なのだが…



「初恋」

これがノンフィクションを思わせる、もうひとつの『雪の記憶』といった感じの作品なのだ。

というわけで改めて詳しく書きたいと思う。

(2010年7月25日読了)


リアルタイムより、ずうっと富島作品を愛し続けておられる方よりメッセージいただきました!
やっぱり、いらっしゃったのですね!しょうさん、ありがとうございます