富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

今夜のチャンス

2012-05-28 18:55:05 | 中間小説


廣済堂ブルーブックス 平成3年(1991年)6月初版
カバーイラスト:西村春海

の…のりピーか…

 

「富島作品悪趣味タイトルベスト10」に入るのではないか、と荒川さんと盛り上がっていた作品。「情欲の門」とか「性欲物語」とか、“官能もの”には「なんだかなあ」というものが多い。そこには作者のいいかげんさがあらわれているような…。

目次をみて「9つの短編」が収録されているのかと思ったら、9章だった。読み始めからもう「く、くだらない…」という気持ちだったので、第1章を読み終えると続きがあってがっかりしてしまった。

出世街道をはずれたサラリーマン、敬助が飲んで帰る途中、若い男に「女と話をしてくれませんか」と声をかけられる。女に会うと「わたしはT女子大生で、ちょうど二十歳です。不感症みたいです。その気になって下さったら、治療してください。のぶ子」という手紙を渡され…
ここまでの展開で3ページ。『のぶ子の悲しみ』ののぶ子が泣きますよ。

妻は浮気公認だし、のぶ子は案の定“体験したい”友達、栄子を連れてくるし、未亡人と寝てくれと上司に声をかけられるし…さらに都合よく話は進む。
展開はこんなにいい加減なのに、「敬助はマンション派ではない。東武東上線志木に五十坪ばかりの土地を買い、そこに小さな家を建てて住んでいる」なんて話に関係ない部分がやたら丁寧だったりする。

『女人追憶』を雑に切り取ったような作品。下半身の描写にカタカナが使われ、近親相姦的なエピソードもちょっと悪趣味(『七つの部屋』にも近親相姦は出てくるがちょっと違う)。表現に『女人』ほど神経を使っていないなあ、と思わせられる。

最後は登場人物たちのスワップを予感させて終わる。若者3人の中におじさんが一人まざったら気持ち悪いと思うのだが…。いちおう主役は敬助だが、やっぱり富島作品には若者がいないと成り立たないのだな。

カバー裏、著者のことばにはこうある。

みずから、「自分は異性にモテない」
そう思い込んでいる人が多い。ひとつの不幸だね。
人間、だれにだってチャンスはある。
そのチャンスにどう対処するか、それが運命の岐れ路になる。
ただし、長い目で見て悪いチャンスも世には多く、注意がたいせつ。

最後の「たいせつ」に脱力。

こういうストーリーって、やっぱり“男のロマン”なのか。ちょっと青年マンガみたいだなと思った(小谷憲一とか村生ミオとか思い出したのだけど、よくわからんので違ったらごめんなさい)。雑だな。

 

ここまで酷評?したが、作者自身は気に入っていたようで、コンタクト誌(夫婦交換の相手を探す雑誌)の素人対談ではこんな会話を。

※表紙は自主規制。背表紙には「薔薇族・百合族真っ青のコンタクト・マガジン」とあります。

富島―(略)そこでいま、日刊ゲンダイに不感症をなおす小説を書いています。“今夜のチャンス”という題ですけど、小説の中の主人公は女性に対して非常にうまくいくけど、現実のわたくしはなかなかうまくいかないというジレンマがありますな。小説家の中には(笑)。
さえ子―まあ、面白そう!読んでみたいわ。
富島―“今夜のチャンス”っていう表題いいでしょ。あるなまけもののサラリーマンが主人公でね。これがね、会社の仕事もできなくて、うだつもあがらん男でね。ただ会社の仕事には熱心でね。ただただセックスは大好き人間なんだな。

(略)

富島―(略)現代版「与兵衛」ですな。一朝一夕に、そんなにすぐ女学生が成長してよくなるなんてことはなかなかないですよ。そこで主人公がいろいろとお手伝いする。そのプロセスを書いているわけです。このプロセスが小説の世界というわけです。

スウィンギング対談「富島健夫VS木下さえ子」(月刊「虹の世界」4号 1987年11月)

なんだかんだいって富島健夫はこういうのが好きなのではないかと思う。
くだらんくだらん言いながら最後にはこの展開になれてしまっている自分もまた何とも…。

2012年5月25日読了


たそがれの女

2011-04-13 22:58:24 | 中間小説

徳間文庫 1992年2月初版 
カバーデザイン:池田雄一

この作品については、昨年11月にちゃこさんからリクエストをいただき、書籍まで提供していただきました、ありがとうございました!
※「官能小説」カテゴリを「中間小説」に変更しました。


この手の短編集を読んだのは『女の夜の声』以来だろうか。
ジュニア小説にホレこんでいた当時はストーリー展開に「ありえへん、ありえへん」を連発していたが、『女人追憶』も読み進めてきたし、今回はもう少し冷静に読むことができた。

冒頭の「可愛い浮気」「貞淑な妻」は、富島氏がよく引き合いに出す“可愛い女”のイメージを印象付ける。他の男と寝ても、浮気であっても、目の前のあなたが好きなの、という女に男は惹かれるものか。ちょっと甘えん坊の小悪魔的な女の姿がそこにある。

「女の戦い」は、自分の亭主の素晴らしさを証明するために、亭主を主婦仲間にあてがうというとんでもない展開。浮気をしないという意味でこの妻は“貞淑”であるという立ち位置であるが、人間性よりもあちらの素晴らしさを誇示したいという願望には、結局浮気で性を楽しむ主婦仲間へのあこがれが表れていると思うのだが。

「相互鑑賞」は(未読だが)『男女の原点』シリーズを彷彿とさせるスワップ実録風だが中途半端な感。

「母の情事と娘の反応」は、女子高生からの手紙をもとにしたというこれまた実録風。若い男と年増女という組み合わせに女子高生を第三者として登場させることで絶妙な色香が加わる。表現はきわどいが、ジュニア誌に載ったのかと一見思わせる作品(実際は『オール読切』掲載)。

「浮気の現場」も、結婚をまじかに控えた処女が中年大学教授とホテルに行き、ギリギリの線まで行くというありえない設定。処女と非処女の中間にある女に、全くの純白ではない微妙なエロティシズムを持たせている。犯すか、のみこまれるか。本文中にもあるが、そこに男性の奇妙なサド・マゾヒズムをみるような気がする。ラストに「月曜日の眸」のようなドキドキ感あり。

「セックス・フレンド」「夏休み前後」は、学生のアバンチュールを描き、ちょっと『女人追憶』のにおいがする。下宿、帰郷、そんな言葉に富島健夫独特の青春の空気感を見る。


「浮気の現場」のように余韻を残した終わり方をするものに対し、「相互鑑賞」や「セックス・フレンド」はぷっつりと突然終わった印象がある。作品は答えを出さない。首をかしげたくもなるが、それはまた“考えても答えの出ない”人生の姿をも表しているのかもしれない…とは深読みか。


さて、これらの作品は、若い男性にとっては憧れであったり、刺激的であったりするかもしれないが、書き込みの浅さは否めない。

タイトルになっている「たそがれの女」を読んだとき、やっと「ああ、これだ」と思えた。他の作品とは力の入れ方が違う。これを巻末に持ってきたのは正しいと。

学生時代の見聞と前置きしながら、バラック家に住む女たちの姿を描く(ここは『七つの部屋』を彷彿とさせる)。登場する二人の女は梅毒に侵されたチンピラの妻、康子と、卵巣を失った元女郎、花子。どちらも、女性器官を失った女なのだ。
康子は性器が溶けても女の情欲を持ちづつけ(性器の描写にはクラッとさせられる)、花子は男のようにたくましく生きる。この二人に共通するもの、それは生きる力だ。性と生。康子の夫である松井も悲劇的な結末をたどるが、作者が康子にこの運命を背負わせなかったのは、女の強さを際立たせるためではないか。

巻末に国文学者 小川和佑氏の解説があるが、作品と照らし合わせているものに無理があり、ちょっとかみ合わない印象。けれども、最後のこの言葉には共感する。

(筆者注:「たそがれの女」を)本書の表題にしたのは、富島さんとしても思い入れが多かったからでしょう。ひどく哀しい作品でした。それは作家富島さんの素顔の小説といってよいかもしれません。

富島初期の作品にみられる影とほんのかすかな光が、この作品には感じられた。
そして、やっぱり富島健夫は、青春と人間を描く作家なのだ、と思う。


ところで「夏休み前後」に、こんな文がある。

和彦が何人もの女と関係を持っていることは、弘美は知っている。(略)
だから、和彦と弘美の関係は、和彦がほかの女と遊ぶことを弘美は認め、しかし愛されているのは自分だけだと弘美が信じているという状態なのだ。
男とはそういうものだと、弘美に和彦は思い込ませている。もちろん、和彦は弘美には貞操を求めている。
男女同権論者には許せないことであろうが、そんなタテマエなど和彦には関係のない話であった。

おなじみの男の身勝手さである。けれども、この作品集には、そんな男を翻弄する女の姿も見えはしないか。
女のエロティシズムは、貞操を守る女のものであっても男を支配している。

男も女も、どっちもどっちなのだ。

 

2011年4月13日読了

すっかり忘れてましたが初出情報引き続き募集中です!どうぞよろしく!


女の夜の声

2010-03-23 16:41:10 | 中間小説

光文社文庫 初版:2002年3月
(初出は1984年有楽出版社刊)


遠い町の古本屋で店主にいぶかしがられながら購入。

新古書店で官能系の文庫をたまに見かけるが、
状態の良いものはぽちぽち買っていた(汚いのはきもちわるい…)。

ただ「密通」で懲りたので読むまでにはいたらない。
今回は道中電車待ちの時間が長かったのでしかたなしにページを開いてみた。

すると…あら、大胆なタイトルの割には青春小説のおもむき。
コバルトシリーズのおとな版か?


裏表紙には
「自分の気持ちと裏腹に猛り狂う欲望を、冷静に見つめつづけた著者の珠玉集」

とアオリがあるが、行為についてのハードな描写はそれほどありません。


というわけで電車の中でこそこそ読んでおりました。


20歳前後の男女が主人公の16の短編集で、
ストーリーは…

・童貞の大学生を手ほどきしようとする人妻
・いとなみを見学したい、または「半分体験したい」処女の女子高生
・プレイボーイに自ら抱かれに行く女の子
・乱交および夫婦交換

などなど。





ありえへん。


いつもノートを片手に、思ったことを書きながら読書しているのだが、
ノートには「ありえへん」の文字がいくつも…。
一編読み終わるたびにため息…。


都合のいい女の子。
快楽をおぼえ、フリーセックスに興じる女の子。
それを(もちろん)喜んで受け入れる男ども。


あのコバルト系の清純なカップルはどこにいってしまったのか。

ターゲットが男性にしぼられてるから、こうなるのだろうか。
これが男のロマンなのだろうか。


…わからん。
私の青春がまちがっていたのですか。


これはまさに娯楽作品だ。
コバルト系はヴィジュアルではなく文章を味わいたいものだけど、
これは、まんがでもいいかな…という感じ(趣味で描くか)。


そして、精神より肉体的な「好奇心」に重点が置かれているのも大きな違いだと思う。

そりゃあ、いつまでも清くはいられない。
そう、もういいかげん我慢しなくたっていいじゃないか!
そう、我慢しなくていいんだ!やっちまえ!


そこで発動するのが好奇心だ。
作品の女の子は、考え方によっては「純粋に」好奇心をあらわにしている、という言い方もできるだろう。


しかし、好奇心は実体験によって一気に消滅する。
期待は当たりか、はずれか、どっちかだ。



キスまでが恋愛の醍醐味とはよくいわれることだが、
その次のプロセスに対するドキドキ感は、多少あったとしても、
初めての「その時」にはおよばない。
それは、それがすなわち「完結」だったからかもしれない。





さて、「ありえへん」と何度も書いてきたが、最後に収録された「女の意地」は、
作者の学生時代「当時」の実話らしい(で、誰の?)。
いずれにせよ、私とは違う世界のお話だ。


富島ワールドからつまはじきされたような感じにさびしさを覚えつつ…。
まあ、こんな感想じたいが蛇足なのだ。


つみあがった「女人追憶」…まだ読んでないけど、
感想「ありえへん」だけかもな。

蛇足続けるのか?
いいじゃんか、「私的実験室」なんだからさ。


(ちなみに表題作はショートサスペンス?でした。)


2010年3月23日読了