Tinker, Tailor, Soldier, Sailor (Original Stereo)
レッド・ツェッペリンは偉大なバンドです。
私のブログのタイトルに入っている「クラシック・ロック」という言葉から連想するバンドの中でも、一二を争うほどの人気バンドで、ゼップ大好き!という私よりかなり若い世代の人間が大勢います。
そこでです。ゼップのリーダーであり、企画者的存在であったジミー・ペイジが所属していたヤードバーズをどれだけのゼップファンが知っているんだろう?と考えてしまう時があります。
そして、ゼップのファースト・アルバムを絶賛するファンが、ジミーのその前の作品であるヤードバーズのラスト・アルバム「リトル・ゲームス」を聴いた事があるか?と質問した時に、「もちろん、聴きました。」と答えるだろうか?と気になってしまいます。
おそらく、聴いたことはないでしょうね。まあ、聴かなくてもいいです。音楽的にあまりにも差があるから・・・。
聴いても、つまんないと思います。
この動画の曲を聴いてもらえばわかるんですけど、イントロだけ聴くと後の「The song remain the same」に似ているかな?やっぱりジミー・ペイジだ!と思うけど、ヴォーカルが入った途端、60年代の平凡なビートバンドになってしまうんです。ゼップのような、魔法は一切ありません。あまりにも平凡。
このアルバムにはゼップになってからも演奏するシタール風の名曲「ホワイト・サマー」がはいっているため、そこはファンとしては押さえておきたいところでしょうけど、やっぱり、ほとんどの曲が70年代初期風の言い方をすれば、「ニューロックではない。」ということになります。(あ、若い人のために説明すると70年代初めのころは、突然出てきたハードロックやプログレッシブ・ロックのような革新的なロックを「ニューロック」と呼び、60年代のシングルで勝負するようなヒットチャート向けのロックと区別してたんですね。)
このアルバムを作っていたときに、ジミー・ペイジの頭の中にはゼップの構想があったと思います。メンバーの演奏力量、特に、ヴォーカルのキース・レルフの素人っぽい歌ではもう満足できないという葛藤があったと思います。
で、何を言いたいかというと、この作品を冷静に分析すると、60年代後半、具体的には67年ごろに、ミュージシャンの能力・技術が飛躍的に向上しはじめたってことなんです。
同じミュージシャンでも歌唱力、個性、演奏力が段違い桁違いに違う人が現れたのがこの時期だったんですね。
ヤードバーズのジミー以外のメンバーは新時代のミュージシャンの力量とは実力がかけ離れてたんです。もちろん、プロだし、イギリスのロック界をけん引してきたバンドでしたけど、新時代のバンドのメンバーにはなれなかった。それがわかってしまいます。哀しいかな、その現実を知ることができるのがこの「リトル・ゲームス」というアルバムなんです。
ロックの歴史の転換期を知るという意味で、「リトル・ゲームス」を聴く意味はあります。
ツェッペリンがそれまでのロックの構造を変革したというのは事実ですし、ヤードバーズのメンバーがそれについていけなかったのも事実です。
しかし、「それゆえにヤードバーズは聴く価値がない」という結論になりかねない文章なので、ちょっと危惧しております。(^_^;
「ロックの歴史の転換期を知るという意味で…」と言う書かれ方で『リトルゲームス』の価値を擁護されているようですが、僕の感じ方はやや違います。それは多分、ミュウさんのように時代が劇的に変化する瞬間を経験していないことが原因だと思いますが。
大雑把に言ってロックの構造変革は3回あったと思います。
一つはビル・ヘイリーの“ロック・アラウンド・ザ・クロック”。それまでのマイナーな存在だった「ジャンプブルース」を一躍表舞台に叩き出し、「ロックンロール」として定着させた事件でした。
2つ目はビートルズの登場。それまでのビート感覚、和声感覚をぶち壊し、大きな変化をもたらしました。
3つ目はニュー・ロックなどの台頭にともなう「ビートルズの影響力の衰退」。
乱暴に言うと、3つ目の現象以降、ロックは21世紀を超えても根本的な変化は起こっていません。
パンクは目新しさはあったけど、基本は1960年代のシンプルなR&Rの復権でした。
ヒップホップについては僕はあまり詳しくないのですが、ラップに関して言えば、リトル・リチャードなどが演っていた「弾丸シャウト」の延長線上に過ぎません。
これの「変革」は、往々にして「進歩」「進化」と捉えられかねないのですが、僕はそう思っていません。
21世紀の現代に置いて、これらの歴史的なムーブメントをフラットに振り返ってみると、「変革前」と「後」とで大きな変化があるのは確かですが、「変革以前の音楽」は「無価値になっていない」のです。
僕たちは(少なくとも僕は)1940年代のルイ・ジョーダンの音楽が21世紀のどのミュージシャンよりもグルーブしていることをしていますし、プレスリーやバディ・ホリーのオリジナリティがいささかも揺らいでいないことを知っています。(1950年代を雰囲気で捉えると足元を救われて「所詮オールディズ」としか捉えられないので、ここは偏見を捨てて純粋なものの見方をすることが肝心です。)
ツェッペリンら「ニュー・ロック」が台頭したことで、リアルタイムではソレまでの音楽が古臭くなったように思われたかもしれません。
ですが、21世紀の地表に立って振り返って俯瞰みれば、それらは「変化」ではあっても、必ずしも「進歩」「進化」を示してはいないのです。
強がりを言うようですが、時代の波に揉まれた来たリスナーには却ってこの部分は共感しにくいことだと思います。
僕が日本(に限らず)の音楽ジャーナリズムについて危惧しているのは、進歩、進化を是とするあまり、昔の、具体的にはビートル以前の音楽が亡き者にされているのではないかということです。
まとまらなくなってきたので要旨を再度記しておきます。
ロックは「変化」してきましたが、その変化は過去の遺産を否定するものではないし、また、否定してはいけないと思います。どうしても「旧い」という色眼鏡で見てしまいそうになりますが、それは、単に「純粋に音を聴く、楽しむ」という姿勢を自ら破棄しているに等しいのです。
ミュウさんがツェッペリンとヤードバーズを比較したのは、後者を貶(おとし)めるためではないとは思いますが、ちょっと気になったこと、つい長文で書いてしまいました。(^_^;
高校時代、大学時代、友人とロックについて語り合ったことを思い出してしまいました。
ロックに対する考え方はいろいろあるので、賛同できることと、できないことは当然あると思います。心の内をおっしゃっていただき、感謝いたします。
確かに、ロックが変化していくたびに、過去の音楽を古い音楽と決めつける評論家がいました。
代表的なのは、渋谷陽一氏と大貫憲章氏です。
私が若い頃(70年代~80年代)、彼らが、「今の、最新のロックを聴かねばならない!ロックは進歩しているのだから。また、ロックは大衆に迎合してはいけない。ロックは若者の怒りの音楽なんだから。」という意見というか決めつけに頭が来たことを覚えています。私は、変化の前のロックをけっこう好きですよ(笑)。
でも、今はインターネットの時代ですから、古い時代のロックを好きな人はいっぱいいると思います。古い時代のロックが否定されることはないでしょう。
唯一どうしようもないのが、音質の問題でしょうか?
私はヤードバーズの「幻の10年」という曲が好きなんです。それこそ、非常に価値があるヤードバーズの名曲です。ですが、若い人に聴かせると、「音が悪い」という感想になります。そのへんがちょっと残念です。
革新的な面と、ポップな面がある不思議なバンドですね。彼らがブリティッシュ・ロックの礎になったことは間違いないと思います。ロックの歴史を語るのに外せないバンドですね。