神社の世紀

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(13)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その壱)】

2010年11月09日 23時01分50秒 | 伊勢津彦

 

 『日本書紀』垂仁天皇二十五年条によると、それまで倭ヤマトの笠縫邑カサヌイノムラに祀られていた天照大神の御杖代となった倭姫命は、各地を放浪して最後に伊勢に入ったとき、「この神風の伊勢国は常世の浪の重浪シキナミする国なり。傍国カタクニの可怜ウマし国なり。この国に居らむとおもう。」という大神の託宣があったため、五十鈴川のほとりに磯宮という斎宮を建て、そこにはじめて天照大神が天から降りたという。言うまでもなく倭姫命の巡行伝説として知られるもので、磯宮は伊勢神宮の濫觴となった。

 この伝承は一種の貴種流離譚だが、『日本書紀』によれば倭姫命は、笠縫邑カサヌイノムラをてから宇陀の篠幡サハタに行き、それから引き返して近江に入り、美濃を巡って伊勢国に至ったとあるだけである。ところが、後世になって成立した『皇太神宮儀式帳』『太神宮諸雑事記』などの記事では、この行程がだんだん詳密になる傾向があり、倭姫命が近江や美濃で滞在していた宮の名前なども載るようになる。なかんずく『倭姫命世紀』に挙げられている巡行地の数は、27箇所にもなっている。


「宇陀の篠幡」に比定される奈良県宇陀市山辺三にある篠幡神社 

 

 愛知県一宮市今伊勢町本神戸にある酒見神社は、尾張国中嶋郡の同名の式内社に比定されている。が、当社は式内社であることより、『倭姫命世紀』の尾張国中嶋宮に比定されていることのほうで有名だろう


酒見神社

同上

 

  以下は『平成祭りデータ』にある酒見神社の御由緒(本文とはとくに関係なし)


「御祭神、天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男神、酒弥豆女神

 其の昔、倭姫命は勅名を受けられ天照皇大御神の霊代を永久にお祀り出来る地を求めて旅される途中、尾張の神戸である、当村にお出でになられたのは今から2000有余年前の事で、ご一行は現在の無量寺にあったと云われる神戸屋敷にお泊りになり、御神体は宮山の此の地にお祀りになられました。そして村民の奉仕により社殿が建設せられたのが、当酒見神社の始めであると伝えられています。当時の神戸村は40戸で1戸平均5人と見て200人の村民がこぞって建設に当り出来上った社殿は、総丸柱、草屋根にて高く、下から見れば恰も天井の如く、梯子をかけて御神体を其の中程に祀る、下は腰板をつけず、吹抜きにて只下に板敷をはるのみであり、後世に吹抜きの宮と呼ばれたと云います。現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であり、この社殿は全国でも珍しい吹抜きの社殿であります。

 

本殿の東側にある皇大神宮遙拝所
4本の丸木柱で屋根を持ち上げているだけの「吹き抜けの宮」をモデルにしている。

 

 次にご覧頂きたいのは、本殿向かって左側にある倭姫命御愛用の姿見石であります。これも非常に貴重なもので現在の鏡の代りで倭姫命が当村にお出で遊ばされるに当たり、わざわざ石工に作らせられたものであると伝えられています。

 さて、当神社は其の名のとおり酒に最も縁の深い神社であり、日本に於いては清酒の醸造が最初に行われた所であります。その際に使われた甕が今も本殿裏の両側に埋められております。これは当神社第一の宝物であります。時は紀元1514年、今から1138年前、第五十五代文徳天皇、斉衡3年9月、大邑刃自、小邑刃自、の酒造師が勅命を受け伊勢皇太神宮より当宮山に遣わされ伊勢神宮にお供えする御神酒を造らせになりました。その際に持ってこられた、大甕2個が地下1メ-トルに埋められております。日本は地球の温帯に位置し春夏秋冬の区別がはっきりしているので、良い季節に醸造を行えば良いのですが、支那(中国)では大陸気候なので寒暖の差が激しく朝晩では夏と冬程度違います。そこで地熱を利用できる方法が取られ、地下1メ-トルの所に甕をいけ、そこで醸造が行われたのであります。即ち、支那式醸造法で行われた甕が此処にあるのです。


 この外境内正面右側に岩船という石があります。当神社宝物の一つでもあります。なる程石で出来ていて船の型をしているので船の名がつけられていますが、実は清酒を造る日本に於ける最初の試みに酒を絞る台として使用された酒船であります。石質が極めて軟く房州石や大谷石の類で酒甕と一緒に御使者がお持ちになったと伝えられております。」

 
船磐

当地で醸造した伊勢神宮に奉納する白酒・黒酒を搾るのに使われたという。

かつての磐座であった可能性も考えられる。

 

 『日本書紀』から『倭姫命世紀』に至る過程で、倭姫命の巡行地が増量された背景としては、天照大神よりも古い日神祭祀の聖地を伊勢に結びつけるために語り出されたとか、諸国にある伊勢神宮の神領や分社を結びつけるために創作されたのだろうとか言われる



神明造りの酒見神社本殿

  酒見神社のしゅうへんにも、(鎮座地の「本神戸」という地名が示すように)酒見御厨という神宮の神戸があった。『一宮市今伊勢町史』によればこの神戸は、8世紀以前から成立していたもので、天慶三年(940)からの新神戸も加わって、後世まで有力な神領だったという。

 伊勢神宮の神領というと、院政期以降は伊勢地方はもとより、東国方面にまでその数が増えてゆくのだが、建久三年(1192)の神領目録、『二所太神宮神領注文』に「国造貢進」の註のあるものは十世紀以前に成立したもので、神領の中でも成立時期が古い。これらは「往古神領」と呼ばれるが、8世紀以前に成立していた酒見御厨はその往古神領の中でもさらに飛び抜けて古かったことになる。当社しゅうへんの地域と、伊勢とのつながりはどうして生じたのだろうか。

 酒見神社を考える場合、ふきんにある今伊勢古墳群、なかんずく車塚古墳の存在を無視することはできない。この古墳群は酒見神社から500mほど北方にあり、かつては19基の古墳から成っていた(現存するのは7基のみ)。主墳とみなされる車塚古墳が推定全長70mの前方後円墳であったとすれば、当古墳群中で最も規模が大きかったのみならず、尾張地方でも十指に入る古墳であることになる(ただし、車塚古墳は円墳であったとする有力な説もある。)。この古墳には酒見神社の祭神を葬ったという伝承があり、また、倭姫命がここに登って伊勢の方向の見当をつけたとも言われるため見当山古墳という名もある。

 現在、北面する酒見神社の社殿の軸を延長すると、ほぼその線上に車塚古墳が載ってくる。今、言ったような伝承が残ることからいっても、この古墳には当社の祭祀に関係のあった人物が葬られている可能性がある。



酒見神社の社殿は、とくに地形上の制約がないのに北面している。

 

  その場合、注目されるのがこの古墳のある字の「目久井(資料によって「めくい」とも「もくい」とも訓んでいる。)」である。車塚古墳はこの字によって「目久井古墳」ともよばれるが、この地名はもともと、古代氏族の「裳咋(もくい)氏」にちなむものだ

 


車塚古墳の現況(北側)

一宮市教育委員会が立てた車塚古墳の解説看板

この古墳には円墳説もあることに触れていないのはフェアじゃないな。

 

  『続日本紀』の天応元年(781)五月条に、尾張国中嶋郡の裳咋モクイ臣船主フナヌシが次のように言上した記事がある。すなわち、「私たちは伊賀国の敢アエ朝臣と同祖であり、曾祖父の宇奈より以前はみな敢臣の姓であった。ところが庚午戸籍が造られた際、祖父の得麻呂が誤って母方の姓にしたがって裳咋臣とされてしまった。謹んで改姓してほしい。」
 これを受けた朝廷は船主ら8名に「敢臣」の姓を賜った。

 『続日本紀』を通読すると船主と似たような言上をして改姓を願い出た者たちの記事が散見さる。これらは自分の家柄に箔をつける目的で、名家の血統に自家のそれを擬制させようとしたものであり、したがって、こうした言上は必ずしも史実として受けとる必要はない。以下は『新編一宮市史・本文編(上)』からの引用である。

「阿部氏の一族で伊賀国阿拝郡の豪族阿閉氏=敢臣の勢力が尾張に及んでおり、その支配下の民衆、おそらくは敢石部(敢磯部)の首長の一人が裳咋臣であったのだろう。彼らは支配と従属の関係から進んで同族系譜で血縁を擬制するようになっていたはずであるが、奈良時代後期の改賜姓の盛行するなかで、裳咋臣が時流に乗って本宗家のの敢臣と氏姓の同一化をはかったというのが事実に近いのではあるまいか。」

 つまり、敢臣への改姓を願い出た裳咋氏は、もともとは敢臣の配下にあった磯部氏であったらしいのだ。

 ここで要点をまとめてみる。  

  1.  酒見神社は倭姫命の巡行地の1つ、尾張国中嶋宮に比定され、ふきんには8世紀以前に遡る酒見御厨という伊勢神宮の神領があるなど、この地域は伊勢とのつながりはかなり古くからあった。
  2.  酒見神社のふきんに「目久井」という字があり、車塚古墳という古墳がある。この古墳とその被葬者は、立地や伝承面から推して、当社の祭祀に関係していた可能性がある。
  3.  『続日本紀』天応元年条の記事には、酒見神社と同じ尾張国中嶋郡にいた「裳咋モクイ臣船主」という首長が登場するが、彼の家柄はほんらい、伊賀国阿拝郡の豪族、阿閉氏の配下にあった磯部たち、すなわち敢磯部であった。「目久井」という地名もおそらく、上代のそのふきんに彼らが活動していたことを示すものだろう。

 なお、酒見神社と同じ尾張国中嶋郡には裳咋神社という式内社があり、この神社は現在、愛知県稲沢市目比(もくい)町に鎮座している。祭神は裳咋臣船主だ

稲沢市目比町に鎮座する裳咋(もくい)神社。

『延喜式』神名帳 尾張国中嶋郡に登載のある同名の神社に比定される。

祭神は裳咋臣船主。

裳咋神社の社殿

 

 ここでとりあえず、酒見神社ふきんの地域と伊勢とのつながりは、上代のこの地域に敢磯部という磯部の一派が活動しており、彼らが伊勢からそうしたつながりを持ち込んだために生じた、と考えても良いだろう。隠岐の伊勢命神社の場合や、豊橋市の車神社の場合と同じく、古くから伊勢と関わりのある土地のきんぺんを探すと、上代に磯部が活動していた痕跡の見つかるケースが多いのだ。

 ただ私は、伊勢津彦との関係でもっと踏み込んだ議論をしてみたい

 

 『伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その弐)】』へつづく

 

 

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