神社の世紀

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ニウツ姫の島【邇保姫神社(広島県南区西本浦町)】

2011年08月11日 00時30分03秒 | 丹生、ニウツ姫

 意外かもしれないが、広島市街にニウツ姫を祀った古社がある。南区西本浦町に鎮座する邇保姫神社がそれで、『安芸国内神名帳』安南郡の四位に登載ある同名の神社に比定されている。社伝によれば、「神功皇后が三韓御出兵を終えてお帰りの時、この所に一夜御宿陣になり、御霊験を頂いた爾保都比売神(★ニウツ姫の異字体)を御鎮祭報賽され鎮護綏撫の神祐をお祈りになった。翌日御出発の際、邪気祓いのため白羽の矢をお放ちになったところ、この山に矢が止ったので矢を納めて島の鎮守とした。」という。

邇保姫神社

 ここで「御霊験を頂いた爾保都比売神」とあるいきさつは、次に挙げる『播磨国風土記』逸文に詳しい。

「息長帯日女の命(★神功皇后)が、新羅の国を平定しようと思って西行なさった時、多くの神々に祈願なさった。その時、国土を生成された大神の御子である尓保都比売の命(★にほつひめのみこと、ニウツ姫の異字体)が、国の造の石坂比売の命に寄り託き神がかりし、教えて「私を手厚く斎奉ったなら、私はよい効験を出して、『比々良木の八尋鉾根の底付かぬ国』『嬢子の眉引きの国』『玉匣かが益す国苫枕宝有る国』『白衾新羅の国』(★いずれも新羅のこと)を赤い浪の威力でもって平定なさろう。」とおっしゃった。このようにお教えになって、ここに魔除けの赤土をお出しになった。そこで息長帯日女の命は、その土を天の逆鉾にお塗りになり、船尾と船首にお建てになられた。また船の舷側と兵隊の鎧をこの赤でお染めになった。こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。こういう次第で、新羅を無事平定され帰還されたのである。そこで、尓保都比売の命を紀伊の国の管川にある藤代の峰にお移しし、お祭り申し上げたのである。」
 ・小学館日本古典文学全集『風土記』より、上垣節也の現代語訳

 つまり神功皇后の新羅を平定する航海に効験のあったニウツ姫を、帰国してから祀ったのが当社なのだ。

 ところでのこの記事の最後のほうに、皇后が帰還してからニウツ姫を紀伊国の管川にある藤代峰に移して祀ったとある。『丹生大明神告門』には紀伊国内をはじめ、ニウツ姫が大和の吉野・十市・巨勢・宇智の各郡に忌杖をさして廻ってから、最終的に丹生都比売神社が鎮座する天野に至ったとある。このため、ニウツ姫の本社である丹生都比売神社は紀伊山地の山フトコロに抱かれた天野という美しい隠れ里に鎮座している。播磨で託宣したこの女神がどうしてこのような場所で祀られるようになったのかは興味深いが、なかなかの難問だ。

丹生都比売神社
紀伊国伊都郡の式内明神大社

楼門と並んで当社のシンボルになっている太鼓橋

丹生都比売神社本殿

拝殿を兼ねた楼門の地面に見られる赤土
ニウツ姫のモノザネだ

初夏の天野

 ニウツ姫の神格については松田壽男の唱えた水銀朱の神であるという説の人気がたいへん高く、これを定説だと信じている人も少なくないが、他にも水神を本質とした農業神ではないかという説もあったりして、現在でもこの神の神格については議論の余地が残されている。

 本館のほうの「赤い浪の威力」でも論じたが、『播磨国風土記』逸文にあるニウツ姫の記事を率直に読めば、マジカルな力を備えた赤土の女神であることは間違いないものの、神功皇后はそれを用いて航海の安全を確保しているので、ニウツ姫には航海神としての神格もあった感じがする。ニウツ姫は神功皇后が播磨の沖合を航行中に、国造だった石坂比売命に憑依したのだから、もともとは播磨沿岸の海民の間で信仰されていたのではないか。

 ただし、丹生都比売神社や備後国の式内・邇比都賣神社、大和、伊勢、近江、若狭、但馬、越前にある式内「丹生神社」等の系列社をみてゆくと、比較的海から離れた山地部に鎮座するケースが多く、航海神を祀っていたという雰囲気は感じられない。もっとも、住吉神や宗像神を祀る古社が海から離れた山間部に鎮座しているケースもあるので、それだけではどうとも言えないだろうが。

 さて、当社の鎮座している黄金山いったいはかつて広島湾に浮かぶ島で、仁保島と呼ぱれていた。瀬戸内海に浮かぶ島々には厳島神社や大山祇神社のような航海神が祀られてきたことから類推すると、おそらく当社もまた航海神として創祀されたのだろう。この神社は、『播磨国風土記』逸文の伝承地と同じく瀬戸内海地方に鎮座し、立地から言っても航海神を祀ったことを感じさせるので、ニウツ姫の神格について考えさせるものをもっている。

 

      

 

 邇保姫神社へは平成22年のゴールデンウィーク中に訪れた。ところが、当社は平成19年9月27日の不審火で本殿と拝殿を失ったため、現地ではその再建工事のまっただ中であった。神社は近くにあるビル(社務所?)の一階に仮遷座していたので一応の参拝はできたものの、誠に残念なことである。焼失した社殿は近世に再建されたものらしいが、写真で見るとかなり大きな建造物で、原爆の爆風にも耐え、被爆者の救護にも利用されたという。神職や氏子の方々は、さぞや断腸の思いだったろう。

邇保姫神社は、社地近くのビルに仮遷座中だった

仮拝所

再建工事現場

  


  

邇保姫神社

広島市南区西本浦町12-13に鎮座、「にほひめ」神社
Mapion

 『安芸国内神名帳』安南郡の、四位十八前の中に登載のある「邇保姫神社」に比定される。周囲には丹生と同義語の仁保の地名がある。
 
  祭神は爾保都比売神。相殿神として帯中津日子神、息長帯比売神、品陀和気神を祀る。
  
 本文中で引用した部分と重複するが、平成祭りデータにある由緒の全文は以下の通り

 
  「神功皇后が三韓御出兵を終えてお帰りの時、この所に一夜御宿陣になり、御霊験を頂いた爾保都比売神を御鎮祭報賽され鎮護綏撫の神祐をお祈りになった。翌日御出発の際、邪気祓いのため白羽の矢をお放ちになったところ、この山に矢が止ったので矢を納めて島の鎮守とした。
 仁和元年(885)8月上旬、宇佐八幡宮を勧請し正八幡宮と称した。正応元年(1288)三浦公より社領30石を賜ったが、その後、福島正則公の時、悉く召上げられた。社殿は文暦2年(1235)に再建、さらに現在の本殿は建築様式上、享保年間(1716~36)の再建と考えられる。
 なお、楽音寺蔵の安芸国神名帳(平安末)において安南郡の四位十八前の内に邇保HIME明神と記せるは当神社のこととされる。(注)HIMEは土が三つ。」

 焼失した社殿に変わる新社殿は平成22年の末頃、竣工したもよう。なお、この復興事業の一環として、法面の崩落防止のため、標高21mあった境内の地盤を15mまで削った。これにより、98段あった参道の石段が60段程度まで短縮され、敷地の有効面積も1.3倍になるという。しかし、ニウツ姫の祀ってある神社の地面は、この赤土の女神のモノザネであった特別な地面だと思うので、6mも削ってしまったらもったいない気もする。もっとも、工事現場で見かけた土はあまり赤くなかった。

今回の復興神社で出現した社地を取り囲む垂直擁壁

境内への進入路も整備されたようだ

 

 

 



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