★「あまてるみたま考(1)」のつづき
いっぽう、(4)(5)(6)(10)いがいの神社についても詳しくみてみる必要がある。
(2)水主神社(神名帳には十座とある。)の祭祀氏族はこの地にいた水主直だったと考えられるが、『新撰姓氏録』山城国神別には「水主直 火明命之後也」とあり、ここから水主坐天照御魂神社はほんらい、この古代豪族が天火明命を始祖とした10代の祖神たちを祀ったものと考えられる。ちなみに、同じく『新撰姓氏録』山城国神別によれば、当社のある「水主村」にいた榎室連がやはり天火明命を祖神としている。
水主神社
同上
この他、(1)木島坐天照御魂神社については『神祇志料』、(3)他田坐天照御魂神社については『特選神名牒』『神名帳考証』(延經)が、それぞれその祭神を火明命としている。
木島坐天照御魂神社
木島坐天照御魂神社の三鳥居
当社のシンボル
他田坐天照御魂神社
(9)の阿麻氐留神社については書き始めると長くなるので説明ははぶくが、結論から言うと当社で祀られている天日神命という祭神は対馬系の日神である。が、これがまったく天火明命と関係がなかったかというと、両者の間にはある程度、習合が進んでいたフシもみられるのである。
阿麻氐留神社
同上
ということで、この10社のうち、祭神が火明命とする徴候の全くみられないのは(7)天照大神高座神社と(8)伊勢天照御祖神社だけということになる。そして、この2つの神社は伊勢との強い関係を感じさせるという共通点がある。すなわち、(8)は社名に「伊勢」がついているし、(7)も伊勢神宮で祀られている皇祖神の名が社名についている(当然ながら祭神もアマテラスである。)。しかも後者には伊勢国宇治山田原に鎮座していたものが、雄略天皇二十三年に遷座してきたとか、伊勢津彦と伊勢津姫の二座が伊勢国度会郡の高倉山から勧請されてきたといった伝えがあり、伝承面でも伊勢とのつながりが強い。このような関係は、ほかの8社にはほとんどみられないものであり、この二社は「あまてる神社」の系列というより、隠岐の伊勢命神社とか備前の伊勢神社をはじめとした「いせ神社」の系列に属するのではないか、という疑いを生じせしめるものである。以下ここではとりあえず(7)と(8)を「あまてる神社」の系列社から除外する(もっとも(7)が「あまてる神社」の系列でないかどうかは保留としておく。)。
天照大神高座神社
こうしてみると、「あまてる神社」という式内社群を貫通する赤い糸として、天火明命という神名が同定されてくるのである。「あまてる」は太陽光線の霊格を表す名前と考えられるため、ここから松前は前述の『天照御魂神考』で、天火明命は太陽神であると説いた。
「あまてるみたま考(3)」につづく
天照神社は太陽神を祀る神社という共通認識が
あると思います。
太陽神を祀る職にあった氏族について着目しますと、
日奉氏があります。
宝賀寿男氏の古代氏族系譜集成には、
大伴姓の日奉氏、武蔵国造系の他田日奉氏が見え、
姓氏家系大辞典で太田亮は大伴姓の日奉氏も
武蔵国造系と見ています。
武蔵国造の祖とも言うべき人に海上五十狭茅宿禰
という人がいて、神功皇后に命じられて、太陽神
である稚日女尊を生田神社に初代神主として奉っています。
太陽神の祭祀は日奉氏の祖である海上五十狭茅宿禰
こと出雲臣族に関係があると言うべきだと
考えます。
海上五十狭茅宿禰は下海上国造の祖でもあって、
猿田神社の社家の祖でもありました。
生田神社には銚子の猿田神社から、海上五十狭茅宿禰が奉じた猿田彦大神が、大海神社として現在も
生田神社摂社として存在しています。
武蔵国造族は、大名持命、伊勢津彦からの系譜
であったと見られ、杵築大社上官家、富家の伝承では、武蔵国造は大国主の後裔の神門臣家であったと言います。
対馬にある阿麻テ留神社についても、
津島県造の祖は古事記では出雲臣の津狭命
です。津狭命は別名、伊佐我命、
五十坂三磯命とも言って、伊佐我は出雲弁
ではイサワと読み、伊勢の内宮元宮、伊雑宮
(イサワ)と同じ名を持ちます。
対馬にある阿麻テ留神社についても
出雲臣族と関係すると言うべきだと考えます。
他田坐天照御魂神社についても
武蔵国造系 他田日奉氏との関連を見るべきでは
ないでしょうか。
アマテル神は、伊勢津彦の一族と関連しています。
ただ、天照御魂神と伊勢津彦のつながりというのはどうでしょう。後者が武蔵などの国造家や出雲というキーワードと深くつながることは認めますが、たとえ日奉部を介して東国の国造家と太陽の祭祀を結んだとしても、伊勢津彦と太陽神という解はそれだけでは出てこない感じがします。
神名帳には「あまてる神社」の系列社が10社近くありますが、それらは天火明命を祭神とする例が多い訳です。伊勢津彦が祭神であるという伝承のある「あまてる神社」は河内国の天照大神高座神社くらいではないでしょうか。
しかし伊勢津彦にまつわるこの神社の社伝は附会だと思うのですよ。伊勢の高倉山(知ってると思いますけど、外宮の裏山)に伊勢津彦の岩窟があるという『神宮雑事録』等の記事から言い出されたものらしいですが、この岩屋は7世紀代に築造された円墳の横穴式石室で今でも残っています。実見したことはありませんが石舞台クラスの巨大な横穴式石室で、古くから開口していたらしく、かつては天照大神が籠もった岩戸とか伊勢津彦の岩屋などと言われていました。『神祇百首和歌』という歌集にはこの石室を歌った「伊勢津彦の 岩屋を残す 深山べの 苔踏みわけて 誰か通らん」などという歌が載っていたりします。天照大神高座神社は伊勢神宮で祀られている皇祖神の名前がつき、かつ社地では大きな岩窟を祀っていて、あまつさえ社名に「たかくら」とあるために、この伊勢の高倉山にある岩窟の伝承が附会されたものと考えます。
現在の神社庁の天照神社の祭神表記も怪しいとは思いませんか?
彦火明命についての古い伝承を持つ籠神社の
先代宮司様が書かれた
「元初の最高神と大和朝廷の原始」
には、天照国照尊と彦火明命は別神で
彦火明命は天照国照尊ではないと言っておられます。
彦火明命の天照神社の祭神表記も後世の豪族による付会と考えられます。
天照神社であれば太陽神アマテル神を祀ってしかる
べきですから。ちなみに、天火明命の表記より
彦火明命の方が古いと海部氏は言っておられます。
猿田神社の宮司家の言い伝えに伊勢津彦とは
猿田彦大神なりとあって、更に、猿田神社資料集に、
猿田彦大神とは天照神なりとあります。
猿田神社ぐらいですね宮司さんの口から、活き活きとした伊勢津彦命の名が出て来るのは。
伊勢の上社近辺には、未だに伊勢津彦、伊勢津姫を
屋敷神として祀っているお宅があります。
銚子市史に
6世紀後半には、敏達天皇は他田宮に仕える日奉部を設けて長い間朝廷の支配下に入らなかった全国の出雲系部族を懐柔することに成功した。その下菟上国造すなわち下海上国造の中心地を古城村鏑木の当家の位置と推定している。・・・下海上国造は他の天下り的国造とは異なり、天皇支配以前の房総の最古の太陽信仰を守ろうとした国造である。
とあります。「房総の最古の太陽信仰」は出雲臣族が奉っていた古代からの太陽神を意味しています。
失礼しました。
伊勢津彦と猿田彦が同神だというのは、天火明命と同神だという説より受け容れやすそうです。ただ、昨日も書いたことですが、天火明命や猿田彦がアマテラス以前から存在した古い古い太陽神だったとする説と比較すると、伊勢津彦と太陽神というのは今イチつながりがよくない感じがします。これを何とかするにはやはり東国における日奉部の動向を追ってゆく必要があるのかもしれませんね。ぼんやりながら、私にもやっと七美さんのやりたいことが分かってきました。
天火明命(といちおうここでは表記しておきますね。)は系譜関係などに矛盾が多く、かなりブレがある神であることは了解しております。が、私は「あまてる神社」という式内社群のほとんどを訪れましたが、その際、社地のふきんで流水や湧水に出合うケースが非常に多く、親水性のつよい自然信仰をいつも感じました。もっぱら畿内を中心とした西日本だけに分布することであるとか、しはしばしゅうへんに天火明命を祖神とする古代氏族の活動が認められることなど、神社をベースに考えるとこの神の同質性というのはじゅうぶん担保されます。例の赤い糸の譬えですよ。