神社の世紀

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孤独な場所で(7)【二つの鏡神社】

2012年11月01日 23時17分42秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(6)」のつづき

 広嗣の乱後、10年もしないで聖武帝は譲位する(749)。新帝となった孝謙帝のもとで藤原仲麻呂が台頭し、かつての広嗣の政敵たちもこれに前後して政界の浮き沈みを経験するようになる。 

 天平十七年(745)、玄は筑紫観世音寺別当に左遷され、その翌年、任地で没する。驕りのせいからか、彼は世間から疎んじられるようになっていたらしい。『続日本紀』に載せる卒伝によれば、「藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、当時、その死が広嗣の怨霊によるものという風評のあったことが分かる。天平勝宝八年(756)には橘諸兄も讒言を受けて政界を引退し、翌年には没する。


頭塔
南都鏡神社と同じ奈良市高畑町にある

『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄を連れ去り、
後日、頭のみが興福寺に落ちていた、
これは広嗣の怨霊の仕業であった、という伝承が見られる
頭塔には、この玄の首を葬ったとの伝承がある

(じっさいは七段に築造された土製の塔であり、
奈良時代の僧、実忠によって造営された)

 玄よりは人望のあった吉備真備も、天平勝宝二年(750)には筑前守・肥前守に左遷されていた。
 唐津の鏡神社は、藤原広嗣を二ノ宮の祭神として祀っているが、社伝によればこうして北九州に配流されていた際、真備によって創建されたと伝わる。広嗣が斬られたこの地で、その霊を慰めるためであったという(境内にある看板の由緒記による)。


唐津の鏡神社で藤原広嗣を祀る二ノ宮の本殿

 この社伝は結構、信憑性があるのではないか。これまで見てきたとおり、広嗣はその反乱のきっかけとなった上奏文で、真備と玄のことを攻撃していたし、そのためもあってか、『東大寺要録』には広嗣の乱が鎮圧された後の玄が千手経一千巻の書写・供養を発願して広嗣の霊の鎮撫に努めたとある。この記事はその際に写経された「千手千眼陀羅尼経残巻」が一巻だけが現存するため史実であることが確かめられるのだが、生前の玄が広嗣の怨霊を恐れていたことを伺わすものである。そして、そこまでしたにも関わらず玄は広嗣の怨霊によって殺されたという風評がたっていたのだから、真備もそれを恐れ、これを慰めるために広嗣を祭神とする神社を創建したのはありそうなことなのだ。

 ちなみに、『松浦廟宮本縁起』には天平十七年(745)、真備が当社を祀り、さらに彼が大宰少弐に任ぜられた天平勝宝六年(754)、奏して神宮寺に神田を寄進したとある。

 翌・天平勝宝三年(751)、藤原清川を遣唐大使とする遣唐使が企画される。この時、56歳の吉備真備も副使に任命され、再び入唐をめざす。『万葉集』4241の注にあるbの祭祀(「春日にて神を祀る」)はこの時に行われたものである。彼もまたそこに参列したことだろう。

 この時の遣唐使は往路は順調であったが、帰路は前回と同じく多難なものとなった。4隻の遣唐使船は天保十二年(753)十一月、蘇州を出航して帰途に就くが、第1・第2・第3船は冬の強い季節風に遭って沖縄に漂着する。南風が吹くのを待って再度、出航し、第2・3船はそれぞれ薩摩国阿多郡と屋久島に漂着できたが(ちなみに吉備真備は第3船に乗船していた。)、第1船はベトナム北部まで流された後、現地人の襲撃により乗員180余名の大半が殺害された。生存したのは大使の藤原清河と阿倍仲麻呂をはじめとした十余名だけであるが、この2人はその後、唐までは戻ったものの、望郷の念にさいなまれながらそこで没している。第4船も途中で船火事に遭うなどのアクシデントに見舞われ、薩摩国石籬浦にたどり着いた時は蘇州を発ってから150日以上が経っていた。

 それにしても、こうしてみるとこの度の遣唐使船はその帰路、全ての船が南島や薩摩国の領域内に漂着していることがわかる。これは多治比広成が遣唐大使だった、前回の遣唐使の場合にも見られる傾向であり、おそらく、隼人たちの反乱が収束し、その統制も進んだために、唐から日本を目指す遣唐使船はもはや現地の隼人たちを恐れずに南島や南九州に上陸できるようになったことを示すものだろう。南島や南九州は、最初から目的地として設定された訳ではなく、あくまでも漂流して南に流された場合のセイフティ・ネットではあるが、それにしても唐から帰国する航路での有効性は相対的に高まっていたのである。

 こうした中で、天平四年(733)の遣唐使と天平勝宝二年(750)のそれのほぼ中間に挟まる天平十二年(740)の藤原広嗣の乱は、遣唐使と隼人たちの間に不協和音を響かせ、たいへんなインパクトをもったはずである。また、その首謀者である広嗣は、吉備真備や玄のような遣唐使の経歴をもつ者に対して屈折した感情を抱いて刑死し、没後は怨霊となって後者を害したなどと言われた。おそらく、遣唐使の祭祀の地であった春日山の南麓に唐津の鏡神社が勧請されたのは、こうした負のインパクトを介してではなかったか。広嗣の怨霊を慰撫することで、その荒ぶる霊力を取り込み、遣唐使の守護神として祭り上げようという逆転の祭祀である。

 そして、このように御霊神となることで遣唐使にとって両義的な存在となった場合、藤原広嗣は隼人たちと遣唐使の祭祀の地であった春日山南麓を結びつける契機ともなりえたのだ。


南都鏡神社
奈良市高畑町468に鎮座
Mapion

祭神として藤原広嗣、天照皇大神、地主神を祀る

ウィキなどにもあるわりと一般的な社伝によれば
大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として
唐津の鏡神社を勧請したものと伝わる

福智院
Mapion

ただし神社の発行している「御由緒」には、
当初は奈良市奈良町にある福智院の前身、平城清水寺の境内において
玄の弟子である報恩により崇められ、
その創建は天平年間であったとある

あるいは吉備真備が遣唐副使に任命された際、
自ら創建した唐津の鏡神社を勧請したことも考えられる


福智院の石仏


南都鏡神社の紅葉

 

孤独な場所で(8)」につづく

 

 

 



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