神社の世紀

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孤独な場所で(5)【赤の部族】

2012年10月25日 23時53分17秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(4)」のつづき

 唐から帰還する遣唐使船にとって、種子島や屋久島をはじめとする九州島南部の島々は、万一、漂流したときの救いとなる安全ネットであった。おそらくこのためだろう、朝廷は文武二年(698)に覓国使を南島に派遣している。

 「覓国使(くにまぎし)」=「国をもとめる使い」は現地調査団にようなもので、漂流した遣唐使がたどりついた場合に備え、南島の位置関係や上陸したときに飲料水が確保できる地点などの調査にあたったらしい。だが、『続日本紀』によると朝廷は出発する彼らに、身を守るための武器を支給したという。当初からこの任務は危険なものと予感されていたことがわかる。

 その予感は的中した。2年後の文武四年(700)に、「薩末の比売、久売、波豆、衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、また肝衝難波」等が、肥の国の兵らを従えて覓国使の「刑部真木」等を「剽却」したため、朝廷がこれに対して犯罪と同じような処分を行った記事があるのだ。

 「剽却(ひょうきゃく)」は宇治谷孟の現代語訳では、物品を脅し取ることの意にとっているが、いずれにせよ、ここに見られる「薩末の比売」をはじめとした者たちは在地の隼人たちの首長層であったと考えられる。この事件の背景には、朝廷によって強化される支配に対し、彼らが危機感を強めていたことがうかがえるが、だからといって政府としては、遣唐使船が隼人たちの勢力圏に漂着した際、その安全が保障できないことになるので、こうした事態をそのまま見過すことはできなかったはずだ。

 そのためもあってか、緊張の高まりにもかかわらず、朝廷は隼人たちの統制を強化し、それに反発する彼らは以後、たびたび反乱を起こすことになる。すなわち、それぞれ大宝二年、和銅六年、養老四年の反乱である。特に養老四年のそれは、隼人たちが大隅国守の陽侯史麻呂を殺害するという衝撃的なもので、朝廷はただちに大軍を派兵してこれを鎮圧したが、たいへんな苦戦を強いられた。しかしこれ以後、大きな隼人の反乱は見られなくなる

霧島市隼人町にある比売城の岩山
政府軍に対し徹底抗戦した隼人たちは
ここに立てこもって最後まで戦った

 隼人たちの反乱を年代順に並べてみる。

  1.文武四年(700) 薩末の比売等が覓国使を剽却する。
  2.大宝二年(701) 薩摩、種子島の隼人たちが命に背く
  3.和銅六年(713) 大伴宿禰安麻呂が大将軍に任ぜられ、乱後に受勲(経過は不詳)
  4.養老四年(720) 隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂を殺せり

 いっぽう、遣唐使たちが春日山のふもとで航海安全を祈願した祭祀はこうである。

  a.養老元年(717) 遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。
  b.天平勝宝三年(751)遣唐使が春日にて神を祀る(『万葉集』4241の注)。
  c.宝亀八年(777) 遣唐使が天神地祗を春日山(=御蓋山)の下に拝した。

 1~4とa~cを比較すると、aは3と4の中間に位置し、隼人たちとの緊張がまだ解けない時期にこの祭祀がはじまったことを示している。

 当時の遣唐使たちはどんな気持ちでaに参加しただろうか。唐への渡海が危険であることは覚悟の上だろうが、帰途において領国であるはずの南九州に漂着した場合も、下手をすると原住民から危害が加えられるかもしれないとなると、「せめてそれだけは何とかしてくれ。」という気持ちが強かったのではないか。また、遣唐使を唐に派遣する政府としても、南九州の隼人たちの統制が難航する中で、せめて神頼みの世界だけは彼らをこの事業に協力させたいと望んだのではないか。そしてそう考えてくると、都にいて皇居の守護などにあたっていた隼人たちを朝廷が動員し、その強い呪能によって海難から遣唐使船を守らしめるようこの祭祀にあたらせたのではないか、という疑いが生じる。

 その場合、2つの契機が両者の結びつきを強めた可能性がある。藤原広嗣と赤い土だ。

 まず後者から説明する。

 本館のほうの「赤い土の地母神【遣唐使と鏡神社】」で述べたように、私はかつてふきんに残る伝承などから、奈良市高畑町にある鏡神社こそ、春日山の南麓で遣唐使たちが航海の安全を祈願した祭祀の、遺存の社であると考えた。


奈良市高畑町の鏡神社

 また同じく「赤い土の地母神【赤い浪の威力】」と「赤い土の地母神【空海という回路】」では、こうした祭祀が高畑町きんぺんで行われたのは、この地に露頭する赤い土にマジカルな威力がもとめられたためだと論考した。わが国の古代には『播磨国風土記』逸文の「尓保都比売命」の伝承によく現れているように、赤色の呪力によって邪気を祓い、航海の安全を保障するような魔術が行われていたのである。


南都鏡神社と同じ高畑町内にある赤穂神社

「赤穂」は「丹生」と同じく赤っぽい粘土質の土のことで、
高畑町きんぺんには酸化鉄を含んだ褐色土の露頭がみられ、
ふきんには「丹坂町」の地名もある
赤穂神社は大和国添上郡の式内社

 破邪のための赤色魔術は隼人たちも行ったらしい。『延喜式』には隼人たちの装束について、耳形鬘(犬の耳の形をした鬘バン=髪飾り)は白赤木綿で作り、肩布ヒレは緋帛のものとする旨の規定がある。ちなみに「緋」は赤の中でも、とりわけ鮮やかなそれのことである。さらに、平城京跡から出土した有名な隼人の楯には、上下の鋸歯紋と中央の大きなS字渦巻によく目立つ赤が使われている等、こうして見てくると隼人たちにとって赤は特権的な色彩であったことがわかる。

 「海幸・山幸」の神話には彼らの祖である火酢芹命が弟に服従する場面で、「赭をもって掌に塗り、面に塗りて」とある。赭(そほに)は赤土のことで、ここから彼らは儀礼の際に、赤土を使って手のひらと顔面を赤く塗ったことが分かる。おそらく破邪のためだろうが、あるいは平城京にいた隼人たちが顔に塗ったのは、高畑町きんぺんの赤土だったかもしれない。隼人たちと春日山のふもとで執行された遣唐使の祭祀は、こうした赤土の呪術を介して結びつくのである。  

 
春日大社末社の椿本神社
春日大社の末社になっている椿本神社は
隼人の呪能を神格化した角振神を祀るものだが、
現地に行くと赤色の幣帛を奉納する風習が見られる


アップ
扉の前に並んでいるミニ幣帛を買って、足許に供える


足許アップ
祠の足許には供えられた赤い幣帛がびっしり並ぶ

この風習がいつ頃から始まったかは不明だが、
隼人たちと赤色呪術の関係を思わすものがある

 

孤独な場所で(6)」につづく

 

 

 



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