神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(6)【藤原広嗣の乱】

2012年10月29日 21時55分18秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(5)」のつづき

 つづいて、藤原広嗣について。


南都鏡神社本殿
延享四年(1747)に春日大社の第三殿を移築したものと伝わる

 奈良市高畑町の南都鏡神社について私が、春日山の南麓で遣唐使が航海安全を祈願した祭祀の、遺存の社であると考えていることはすでに述べたが(詳しくはココ  →  「赤い土の地母神【遣唐使と鏡神社】」)この神社の祭神は天照大神・藤原広嗣・地主神である。このうち、藤原広嗣はもともと佐賀県唐津市鏡の鏡神社で祀られていたものであるが、当社はこの唐津のほうの鏡神社を勧請したものである(紛らわしいので、これから後者を「南都鏡神社」と表記する。)。唐津の鏡神社は息長足姫命(一ノ宮)と藤原広嗣(二ノ宮)を祭神とするが、二ノ宮は広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝二年(750年)、肥前国司に左遷された吉備真備によって創建された。それにしてもなぜ、遣唐使の祈願所であった地に、はるばる唐津からこの神社が勧請されてきたのだろうか。


唐津市の鏡神社


同、藤原広嗣を祀る二ノ宮

 隼人たちの反乱は養老四年のそれをもって終息したため、それ以後、朝廷による南九州への統制は何とか浸透し、唐から帰還する遣唐使がもし南島に漂着しても、ひとまずそこにいる住民から襲撃される恐れはなくなった。それかあらぬか、天平四年(733)に多治比広成を大使とする遣唐使が企画された時は、前回のaのように春日山で祭祀が行われた記録が『続日本紀』には見られない。

 ちなみにこの時の遣唐使は全船、無事に唐に到着し、天平六年(734)十月、帰国の途についた。広成を乗せた遣唐使船(第1船)は他の3船と供に唐の蘇州を出航したが、やがて「悪しき風たちまち起りて彼此相失う」という事態に見舞われた後、種子島に漂着する。
 その後、この船の乗組員は翌年の三月には平城京に到着しているが、彼らの中には吉備真備や玄といった後の政界の有力者もいたほか、唐から招来した莫大な量の書籍・文物も携えていたため、この第1船だけでもわが国の政治文化に与えた影響はそうとうに大きい。

 そのいっぽうで、判官の平群広成が指揮した第3船は悲惨だった。崑崙国まで流され、原住民の襲撃や疫病により、広成ら4名を除き115名いた乗組員が全滅しているのである。第1船とは明暗を分けた格好だが、もしも隼人たちが朝廷に帰順していなければ、彼らの勢力圏に漂着した第1船もまた同じような運命をたどったかもしれない。

 いずれにせよ、この頃の遣唐使にとって、南九州の隼人たちはそれほど恐るべき存在ではなかったと言えるだろう。だがその後、遣唐使と朝廷は、隼人たちとの関係でもう一度、危機を迎えるのである。その原因を作ったのが藤原広嗣であった。

 藤原広嗣は不比等の生んだ藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)のうち、式家の開祖である藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長子であった。天皇家との縁戚関係から、聖武帝の朝において圧倒的な権勢を誇っていた四兄弟の1人を親に持つため、普通であれば広嗣もまた、政権内での栄達が約束されていただろう。しかし天平九年、順調であったはずの彼の人生は暗礁に乗り上げる。当時、流行していた天然痘によって四兄弟が相次いで倒れたのである。後ろ盾を失ったことと、反藤原勢力の台頭により天平十年、彼は大宰少弐に左遷されてしまう。


広嗣が左遷された太宰府政庁跡

 この左遷を不服とした広嗣は政界から吉備真備(きびのまきび)と玄(げんぽう)を除くよう、任地の北九州から朝廷に上奏する。これに対し聖武天皇は広嗣を召喚しようとするが、彼は従わず、天平十二年(740)、弟の綱手とともに反乱を起こす。藤原広嗣の乱である。朝廷は鎮圧のため、大野東人を大将軍とする追討軍を直ちに派兵した。

 両軍の決戦は北九州市内を流れる板櫃川を挟んで行われたが、広嗣の軍勢の中には多くの隼人たちがおり、広嗣は自ら先鋒をつとめて彼らを率いていた。いっぽう朝廷は派兵にあたって畿内にいた24名の隼人を御所に召し、位を授け、その官位に当たる色の服を賜与して発遣する。川を挟んで両軍がにらみ合っている時、この朝廷から送り込まれてきた隼人たちが広嗣軍にいる同胞に投降を呼びかけた。その内容は、「逆人広嗣に随いて官軍を拒棹フセぐ者は、直にその身を滅ぼすのみに非ず、罪は祭祀親族に及ばん。」というものだった。


広嗣軍と政府軍が対峙した板櫃川古戦場
北九州市小倉北区にある到津八幡宮ふきんの板櫃川が伝承地


同上

 それまで、大宰少弐だった広嗣からの命を、朝廷からのそれと信じていた反乱軍の隼人たちは、当然のことながら自分たちが官軍の側についていると信じていた。ところが、敵軍から聞こえる同胞の言葉によって、自分たちが騙されて逆賊の側についていたことを知らされるのである。広嗣軍にいた隼人たちは動揺し、相次いで戦列を離れはじめる。そしてこれが転機となり、広嗣はこの決戦に大敗した。敗走した彼はやがて肥前国松浦郡で捕らえられ、綱手と共に唐津で処刑される。

 この反乱のきっかけとなった広嗣から朝廷への上奏文には、政界から吉備真備と玄を除くようにあることはすでに述べた。いっぱんにこの2人は当て馬にすぎず、上奏分の本当の目的は反藤原氏勢力の領袖であった右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)を攻撃することにあったと考えられているが、2人が遣唐使であったことも見逃せない。地方の下級役人の出身でありながら、藤原氏の勢力が後退した後の政界で彼らがニューリーダーになれたのも、この経歴のおかげだったのはずである。したがいこの上奏文には、中央貴族出身である広嗣の、遣唐使に対するルサンチマンが滲んで見える。

 また、南九州の隼人たちを手兵に納め、かつ遣唐使に対してこのような反感を抱く者が九州で反乱を起こしたのだから、これが鎮圧されなかったら遣唐使の派遣にとって大きな障害となったことは間違いない。一時的なものとはいえ、これが隼人たちとの関係をめぐる遣唐使の新たな危機であった。と同時におそらくこれが、遣唐使たちによる春日山の祭祀と隼人たちを結びつけるもう一つの契機になったのではないか。

 

孤独な場所で(7)」につづく

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿