神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(8)【孤独な場所で】

2012年11月11日 20時56分10秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(7)」のつづき

 かつて、春日山にあったという隼神社は、この山のどこに鎮座していたのだろう。


春日山
古都の東に楯のような山稜がつづく

 おそらくそこは、湧水が見られる場所であったように思われる。 

 京都市中京区にある隼神社は、奈良市の同名社を平安遷都に伴って勧請したものだが、明治になってから現在地に遷座する前は、今よりも300mほど北に鎮座していた。『式内社の研究』には、かつてのこの旧社地が、「いったいの畑のアチコチに水が湧いていた。」とあり、ここから当社の祭祀に湧水が関係していたことが感じられる。したがって、春日山に鎮座していた頃の隼神社も、周囲に湧水が見られたことが類推されるのだ。


京都市中京区壬生梛ノ宮町の隼神社
当社は平安遷都の際に奈良から当地に遷ったもので、
奈良にある隼神社は元社にあたる
現在は元祇園として知られる梛神社の境内社となっている


「式内隼神社旧蹟」の石標
旧社地は現社地から
四条通を渡って、
坊城通を300mほど北上した場所にあり、
現地には「式内隼神社旧蹟」の石標が立つ

 春日山中でそういう古い祭祀に関係のある清泉というと、龍王池のことが思い浮かぶ。 

 龍王池は春日山稜線の南端に近い標高約380mの山林中にあり、佐保川と能登川の水源にあたる。北側にある小高い場所には十八段の石階をひかえて南面する朱塗りの社殿が鎮座するが、ちょうど池を見下ろすような格好のこの小さな神社が、式内大社の鳴雷(なるいかつちの)神社である。神名帳では大和国添上郡の筆頭に登載されている。


龍王池


鳴雷神社
現在は春日大社の末社となり、施設はこの社殿だけとなっているが
平安中期までは二月と十一月の祭礼に
「絁(あしぎぬ)」をはじめとした莫大な供物が奉納され、
中臣氏の官人が差遣されていた
これは春日祭と軌を一にするもので、
朝廷からの崇敬のほどを示すものである

 龍王池はそもそも、鳴雷神社の神体として原始的な水源祭祀の対象となっていたものだろうが、中世以降は龍神信仰と習合し、雨乞いの聖地として近隣諸国から多くの崇敬を集めていた。その霊験に関する記録は枚挙にいとまがないというが、現在は参道らしい参道もなく、周囲の樹林を水面に映すたたずまいは静謐そのものである。 

 池は直径8.5mの円形で石積みで周囲を護岸してあり、外観は鏡に似ている。「野守の鏡」をテーマにした謡曲『野守』が飛火野を舞台にしていたり、神功皇后が戦勝を祈願して山頂に鏡を納めた鏡山の麓に鎮座する鏡神社が勧請されたりと、春日山のしゅうへんに伏在するこうした鏡への偏執は注意をひく。 

 それはともかく、隼人たちの呪能を神格化して祀ったらしい隼神社が、かつて龍王池しゅうへんにあったと考える場合、鳴雷神社の存在は意義深い。
 『延喜式』巻28大儀の条には「隼人の服装」についての記述があるが、その様子は『日本霊異記』(上巻一)にある、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雄略天皇の勅命で雷神を捕えた時の姿、「緋(あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」と酷似する。井上辰雄はここから、隼人には雷神の鎮魂という職掌があり、小子部連との結びつきはそこから生じたと推測したが、その場合、鳴雷神社は社名からしてほんらいは雷神を祀ったものだろうから(現祭神は天水分神)、井上が推測したような職掌を介して、隼人たちの呪能がこの場所で展開したことが考えられる。 


小子部栖軽を祀ると言われる奈良県橿原市の小部神社
大和国十市郡に登載ある式内大社の論社でもある


奈良県明日香村にある雷丘
『日本霊異記』にある伝承で栖軽が雷神を捉えた場所である

 龍王池の東側には水中に下りる石段がついている。堆積物が多くて確かめられないが、おそらく池の底に下りられるのだろう。水中で行われる何らかの儀式に使われたと思われる。


水中に下りる石段

 ここからは私の夢想だ。

 都が奈良にある頃、隼人たちの巫女の1人が龍王池につれてこられた。
 文武四年に彼らが覓国使を剽却した際、事件の首謀者の筆頭には「薩摩の比売(ひめ)」なる人物が見られる。おそらく隼人たちの首長だったのであろうが、女性の名であるところから判断すると、すぐれた呪能を発揮する巫女的な指導者であったと考えられる。今、龍王池に連れてこられたのも、そのような人物であった。

 彼女の故郷は南九州にあった。しかし、当時の朝廷は隼人たちの呪能を高く評価し、それを積極的に利用しようとしたため、この巫女の場合もその霊力を買われて出仕させられ、現在、ある祭祀に臨んでいるのである。

 その日は中秋の名月の夜であった。おりしも沖天の満月が龍王池の水面に映る。やがてその巫女は池に入って、この故国から引き離された孤独な場所で、自分たちの部族が祀る月神との婚儀を果たす。古代人は月と潮の満ち引きの関係を知っていたと言われる。月はヒコホホデミノ命が海面を溢れさせて兄に復讐した潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)の等価物だった。位の高い隼人たちの巫女は、月神と交わることで、海や河川や霧や降雨などとなって自然界に遍在する水への支配力を取り込むことができるのだ。今、龍王池に連れてこられた隼人の巫女の場合、求められているのは、こうした月神から取り込む水への支配力によって、遣唐使船団の、海路の安全を保障することにあった ── 。

 やがて、龍王池の畔にはこうした祭祀にちなんで、月神と、この巫女の間の神婚儀礼によって生まれたとされた御子神が祀られるようになった。これが隼神社の創祀である。当社の現祭神は火酢芹命(=月神)と角振神の父子二座であるが、古社で父子二座というのは珍しい。あるいは、この巫女と角振神の母子二座がほんらいの祭神であったかもしれない。

 その後、この龍王池の畔にあった隼神社は何らかの理由で、今の角振新屋町に遷座した。それに伴って、かつて満月を映す龍王池に入って月神との婚儀を遂げた隼人の巫女の記憶は、角振新屋町に近い猿沢池へと転移し、天皇の寵愛が薄れたことを嘆き、中秋の名月の晩にこの池に身を投げた采女の悲話として伝承されるようになった。

 

孤独な場所で(9)」につづく

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿