神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(4)【春日山と遣唐使の祭祀】

2012年10月14日 23時53分02秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(3)」のつづき

 この隼神社は社地の移動を経験しているらしく、境内の看板によると創祀の地は「春日ノ邑率川坂上」であったという。おそらく開化天皇陵の近くだろう。


開化天皇陵

市街地の中に異空間

 だが、これとは違う記事が『大和志』に見られる。「隼神祠 在南都角振町 昔在春日山号曰椿本神祠」とあって、隼神社はかつて春日山にあり、椿本神祠と称していたというのだ(ちなみにかつては隼神社じたいも椿本神社とよばれることがあったらしい。)。 

 おそらく、社地に関する伝承としてはこちらのほうが信憑性が高いだろう。というのも、春日山は春日大社の東にある山塊であるが、現在、春日大社の本殿瑞垣の北西側に角振神を祀った椿本神社という小祠があるからである。おそらく、かつての隼神社が春日山に鎮座していたからこそ、遷座後もそのつながりからこの小祠が祀られているのではないか。そのいっぽう、「春日ノ邑率川坂上」にあったという伝承は、『元要記』にかつて隼神社の前には率川神社の鳥居が立っていたという記事があるので、こうした率川神社とのつながりとか、率川神社の社地が開化天皇の皇居であったとする伝承のなかから自然発生したように思われる。


椿本神社
祭神は角振大神で、看板によるとその神徳は
「勇猛果敢な大宮の眷属神に坐し、天魔退散攘災の神様である。」


後殿御門
春日大社の末社には栗柄(くりから)神社という神社があり、
祭神は(角振神の父神である)火酢芹命である
栗柄神社は春日大社の瑞垣内にある内院末社5社中の一であり、
54社あるという末社中でも別格の扱いを受けている

看板には「門戸守護、邪霊の侵入を防ぐ攘災の神様として信仰が篤い」
とあり、上記した椿本神社のそれとよく似ているのは父神だからか

なお、内院末社は瑞垣内にあって直接、参拝できないため、
参拝は画像の後殿御門(うしろどのごもん)の前で行う

 隼神社が春日山に鎮座していたということは、隼人たちとこの山との間に何らかのつながりがあったという疑いを抱かせる。だが、南九州に故郷をもつ彼らに、南都の東にそびえる春日山と直接的なつながりがあったとは思えない。おそらく、両者の結びつきは何かを介したものであろう。そしてその何かとは遣唐使の祭祀だったと考える。 

  『続日本紀』等には渡航前の遣唐使たちが春日山しゅうへんで祭祀を行った記事が見られる。 

 『続日本紀』養老元年(717)二月一日の条には、「遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。」とある。盖山は現在、御蓋山と表記され、春日大社の東にある神体山であり、この山の背後に楯のように連なる山塊が春日山である(下の画像を参照)。


三笠山と春日山
中央にある笠を伏せたような三角形の山が御蓋山
そのバックに連なっている台形状の山塊が春日山

 『万葉集』巻十九には、天平勝宝三年(751)に遣唐大使に任命された藤原清河に光明皇后が賜った「大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち(4241)」という歌が収められているが、その注には「春日にて神を祀る日に、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首」とある。 

 さらに『続日本紀』宝亀八年(777)二月六日の条には「遣唐使が天神地祗を春日山の下に拝した。」という記事もある。そこには続けて、「去年、風調トトノはずして、渡海することを得ず、使人復頻マタシキりに以て相替る、是に到りて、副使小野朝臣石根重ねて祭祀を脩するなり。」とあるので、前年にも同じような祭祀が行われたらしい。

 ここでちょっと、奈良朝の遣唐使について説明する。 

 唐の律令を全面的に取り入れた大宝律令の施行や、長安を手本にした平城京の造営が象徴するように、当時のわが国にあって唐の政治・文化の吸収は政策上、最大の課題であった。遣唐使はこのために、唐に渡って様々な分野の知識を持ち帰るために派遣されたのであり、はたんなる親善使節ではなく、当時の日本が国家の命運をかけて行っていた大事業だった。

 しかしそのいっぽうで当時の航海・造船技術では、遣唐使が大陸まで行ってまた無事に帰ってこられる確率は必ずしも高くなかった。遣唐使の一団に選ばれた者たちの中には、帰朝してから各界で栄達を遂げた者が多かったが、その影には海の藻屑と消え去った者らも少なからずいたのである。

 しかも倭国・百済連合軍が白村江の戦いに敗れ、新羅との関係が緊張するようになると、もっとも着実に唐へ渡れる北回りルート(北九州から壱岐・対馬を経て、半島の西岸を伝わりながら中国の港に到着するルート)は避けられるようになってしまう。このため、五島列島から東に船出し、一気に海を渡って唐の海岸線にたどり着く南回りルートが採用されるようになったが、このルートは往路と比較して復路に問題があった。すなわち、日本から唐に向かうときは多少、航路が逸れても長大な唐の海岸線のどこかにたどり着ける可能性が高いが、唐から日本に帰るときは、目標となる九州島西部の海岸線は長くないのでそうはいかないのだ。


ふぜん河
五島列島には遣唐使にちなんだ遺跡が少なくない
画像は福江島の「ふぜん河」
海岸にちかい岩盤からわき出す清水で、
遣唐使船に乗せる水として使われたという

 しかもそれに輪をかけて問題があった。九州の南部には隼人たちの国があり、彼らは朝廷に帰順していなかったのである。したがって、せっかく遣唐使が南九州までたどり着いても、そこにいる彼らによって害される恐れがあった。

 

孤独な場所で(5)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(3)【角振明神】

2012年10月03日 07時49分46秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(2)」のつづき

 ただし、隼人たちの月神の場合、そうした神婚儀礼は当然、月の出る夜間に行われたと思われる。就中それは、煌々と月がさえ渡る満月の夜ではなかったか。あたかも、現在でも隼人たちの故郷であった南九州には、十五夜満月の下で相撲を取ったり綱引きをしたりする習俗が残っているように。

『日本書紀』天武十一年七月条に、大隅隼人と阿多隼人が
朝廷で相撲をとった記事があるなど、
古くから隼人たちは相撲と関係ぶかい

画像は鹿児島県鹿屋市串良町有里の月読神社境内で見かけた土俵

 またその神婚も、神霊の憑依した樹木の映像ではなく、月のイメージを映した水面に巫女が入ることで達成されたかもしれない。 

 そう考えた私は、どこか満月の夜に若い娘が入水したというような伝承が残っている土地はないか、と捜してみた。そしてその結果、ゆき当たったのが冒頭で紹介した猿沢の池に身を投げた采女の悲話だったのである。すでに述べたとおり、彼女が身を投げたのは中秋の名月の晩であり、その霊を慰める采女祭もその日の晩に行われるからである。


采女祭(2006年)


同上


上空の満月

 そこで、この采女の伝承が、隼人たちによって行われた月神との神婚儀礼の記憶を伝えている可能性はないか検討してみた。

 

猿沢池の東畔には入水前の采女が衣類を掛けたという柳がある
(何代目のものだろうか) 

こうしたモチーフは白鳥処女説話(羽衣説話)を連想させ、
采女の伝説の基底に、
別の古いタイプの神話が眠っている可能性を思わせる

 まず、采女が入水した当時の平城京に、彼らが存在していなければならない。が、この条件はクリアできる。というのも、養老令などに衛門府に属する隼人司に彼らを出仕させる旨の規定があり、また実際に平城京跡からは彼らが儀式に使用していたエキゾチックなデザインの楯が発見されているので、当時の奈良に隼人たちがいたのは確実だからだ。 

 しかし、では何故、朝廷によって故郷から引き離された隼人たちの神婚儀礼が、異郷である奈良の地で行われたのか、── この問題は後で考えるとして、まず采女の伝承に隼人たちによる月神との神婚儀礼が関係していたとすれば、猿沢池のしゅうへんに彼らと関係のある古社が残されていないだろうか、── そう思って捜したところ直ちに、采女神社から西に200m程しか離れていない場所で隼(はやぶさ)神社という神社が見つかった。


隼神社
Mapion


神体の柿の木

当社は治承四年に平家の焼き討ちに遭ったため、
それ以来、社殿なく柿の木を神体としている
柳の木が神体だったこともあるという

当社はふだん、入り口の門が閉まっていて中に入れない
采女神社もそうだが、奈良市内にこうした神社が多いのは
鹿を入れないためだろうか

 隼神社は通称を「角振(つのふり)明神」とか「角振隼明神」という。現在の鎮座地は角振新屋町だが、これは地名に社名が転移したものだろう。江戸時代中期に村井古道によって著された『奈良坊目拙解』には「角振神は火酢芹命の御子で、隼神は父である。父子二座をまつる」旨の記事があり、祭神を火酢芹命(父)と角振神(子)の二座としている。前者は隼人の祖神であり、『海幸・山幸』の神話に登場した海幸のことである。社名の「隼」も、「隼人」からきたものだろう。

 なお、当社の祭神には文献によって多少のぶれがあるので、下にそれをまとめてみた(以下、よほどのマニアでなければ、読まずに飛ばしてもらってかまわない。)
    
  『奈良坊目拙解』に「火酢芹命」と「角振神」の二座とする旨の記述があることは上述の通りだが、『奈良市史 社寺編』はこれを引用するものの(p180)、祭神は「隼総別命」一座のみとしている。『奈良県史5神社編』は「火酢芹命・隼総別命」の二座、境内にある由緒書の看板には「角振隼総別命」とだけある(ただしこの看板は風化している上、当社の境内は柵がしてあり、近寄って読むことが出来ないため、判読が困難だが)。なお、平成祭りデータで「隼神社」の検索をかけても当社のことはヒットしない。春日大社の摂社でもなく、旧無格社らしいので単立社かもしれない。
    
  ちなみに隼総別命(はやぶさわけのみこと)という神名は、仁徳天皇の異母弟であった速総別王(はやぶさわけのおおきみ)とよく似ている。両者の混同から生じたものではないか。

 この奈良にある隼神社じたいは式内社ではないが、神名帳の京中三座のうちには「隼神社」の名前が見えている。こちらのほうの隼神社は現在、中京区壬生梛ノ宮町に、元祇園とされる梛神社と並んで鎮座しているが、都が京都に遷った際、一緒に奈良から遷座したものと言われている。つまり、この猿沢池の近くにある隼神社は京都にある同名式内社の元宮だったことになるのだ。現在ではポケット・パークのような境内になってしまっているが、非常に由緒の古い神社なのである。ちなみに、境内にかかっている読みにくい由緒書の看板には、舒明天皇の代に創建されたとある。


京都市中京区の隼神社

元祇園として知られる梛神社(左側に写っている社殿)の境内社となっている

 隼神社の祭神、角振神については次のような伝承がある。 

 『多聞院日記』天文12年(1543年)7月1日条によると、ある時、天皇が禁裏で受戒しようとすると、白昼にもかかわらず多くの天狗が出現し、異類異形のモノどももやって来た。そこで天皇が、今日の禁裏の番をする神は誰かと問うと、「角振の神です。」と答える声がして、この神が浄衣をハリハリとさせながら出仕する音が聞こえたかと思うと、天魔たちはあまねく消滅したという。 

 「また、延慶2年(1309年)の『春日権現記絵』第4巻「天狗参入東三条殿事」には、関白・藤原忠実の東三条邸に忍び込んだ天狗法師を、角振明神の霊威によって追い払う話が見られ、その終わり部分に以下の記載がある。 …その御聲につきて春日大社神主時盛まいりて候けり、これをみて天狗法師どもみなにげうせにけり、つのふり、はやぶさの明神は春日御にて、御社におわします也。」
 ・ウィキペディア「角振隼総明神」の項からコピペ 

 こうした伝承は『古事記』で、天皇家の祖であるヒコホホデミノ尊によって降参させられた火酢芹命が「僕は今より以後は、汝命の昼夜の守護人と為りて仕え奉らむ」と誓った記事、あるいは『日本書紀』で「諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻ミカキの傍を離れずして、代ヨヨに狗イヌして奉事る者なり」とあるそれ、さらに律令制時代の隼人たちが衛門府に属し、「吠声」を発することによって皇居を災いや妖魔から呪的に守る任務についていたことを連想させる。角振神とは、こうした天皇の居住空間を守護する隼人たちの呪能を神格化したものらしい。

 

孤独な場所で(4)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(2)【入水する娘たち】

2012年09月28日 00時11分33秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(1)」のつづき

 まず、桂が重要である。

 中国の古典、『西陽雑俎』には月の中に桂の樹とガマガエルがいるとある。また、月面には巨大な桂があり、呉剛という仙人がそれを切り倒そうとする姿が見られるともある。 

 呉剛は仙術を学んだが、過失により月に流され、切っても切口がすぐにふさがって倒せないこの木を切り倒す永劫の罰を受けている。ここから転じて「月桂」は、眼には見えながらも、手には取ることのできないあこがれの譬えとなったが、そのいっぽうでこの切り倒せない桂の木は、月が不死の信仰と結びついていることを暗示している。  


桂の大木
 

ちなみに中国でいう「桂」は、わが国の木犀なのだそうだ

 それはともかく、月桂の故事はわが国にも早くから伝わっていたようで、『万葉集』巻四には湯原王の「目には見て手には取らえぬ月の内の 桂のごとき妹をいかにせむ」の歌がある。湯原王は光仁天皇の兄弟で、天平前期頃の人物である。 

 さらにまた京都市右京区にある桂は、桂離宮があることで有名だが、古くから月の名所であった。桂離宮じたいが月のことを非常に意識した建築として知られるが、この離宮の敷地にはもともと藤原道長の別業があり、そこで歌われた歌の中には月を愛でる内容のものが多い(この別業で行われた観月の宴の様子は『紫式部日記』にも出てくる。)。近くには月神を祀る式内明神大社の月読神社も鎮座し、『日本書紀』顕宗天皇3年(487年)条には当社が壱岐から勧請された由緒の記事もある。  


右京区の月読神社

 こうしてみると桂の木が月と関係深いという観念は、結構、古い時代からわが国にも伝わっていたことがわかる。  


桂離宮

 さて、海神宮を訪れたヒコホホデミノ尊は桂の木の上にいたことになっているが、これはこの木がヒモロギで、彼がそれに憑依したことを神話的に表現しているのである。 

 ただ、問題はそれが桂の木であることだ。どうしてヒコホホデミノ尊は月と関係が深いこの木に憑依したのだろうか。「海幸・山幸」の神話がほんらいは隼人たちのものであったこと、彼らには月神を祀る習俗があったことを考えると、大和岩雄も指摘するようにここでの彼には、隼人たちが祀った月神の要素が混入していたと考えられる。 

 ちなみに『山城国風土記』逸文とされるテキストに以下のようなものがある(本当は古風土記の逸文ではないらしいが)。 

「月読尊、天照大神の勅を受けて、豊葦原の中国に降りて、保食神の許に到りまし。時に、一つの湯津桂の樹あり。月読尊、乃ちその樹に寄りて立たしましき。その樹のある所、今、桂の里と号く。」 

 前述した京都市右京区の桂の地名起源説話であるが、ここに登場する月神の月読尊も高天原から下界に降り立った際に「湯津桂の樹」近くに寄り立っている。その行動は海神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ命のそれときわめてよく似ており、後者に隼人たちが信仰していた月神格が混入していたという考えを支証するものである。  

 さて私は、海神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ命の伝承のうち、「宮殿の前にある井泉の傍らにある桂の木に登っていたところを発見されて、トヨタマ姫と結ばれる。」という部分は、おそらく古代に行われた隼人の月神と、それに仕える巫女との神婚儀礼の記憶を伝えるものだと考えている。この儀礼を復元してみよう。まず、ヒコホホデミノ命が井戸の傍らにある桂の木に登った等が、この木に月神を憑依させたことの神話的表現であることはすでに述べた。 

 だが、どうして、その木は井戸の傍らになければならなかったのか? 

 古代の水辺は神婚の舞台で、そこには洋の東西を問わずしばしば「水の女」がいて神と結ばれる。「海幸・山幸」の場合はトヨタマ姫が「水の女」なのであり、ここにおける井戸は、「ヒコホホデミノ命=隼人たちの月神」が彼女と結ばれるための装置だったのだろう。 

 では、この井戸によってど両者がどのように結ばれたというのか? 

 神婚とその儀礼のことは、神話学や民俗学の書物などにしょっちゅう出てくる。しかし、実体のない神は、そのままでは巫女と交わることができない。したがって、神とその一夜妻との婚姻は、果たしてどのような儀礼によって行われたのかという素朴な疑問が生じるのだが、それを具体的に解説した書物というのは意外と少ない。神が憑依した生身の神主が巫女と交合したというような想像も可能だが、私は、神婚は神の憑依した聖樹の影を水面に映し、巫女がそこに飛び込むことで行われたと考えている。 

 だが、『日本書紀』一書(第二)のトヨタマ姫は、宮殿から出てきて水を汲もうとしたとき、水面に映るヒコホホデミノ尊の影で彼のことに気づいたが、だからといってそこに飛び込んだりはしていない。したがい「どうしてそんなことが分かるのか。」と言われそうだが、これは全国各地に次のような伝承や民話がたくさん残っていることからそう考えるのである。すなわち、山姥の追跡を受けた猟師が木に登って隠れると、その影が下の水面に映り、猟師が水の中に隠れたと誤解した山姥はそこに飛び込んで溺死したとか、恋に狂った娘の追跡を受けた若い山伏が木に登って隠れていると、やはりその影が水面に映り、山伏が入水したと勘違いした娘が後を追って身を投げてしまった、とかである。山姥は人里から離れた場所で神に仕える巫女たちの零落した姿だったと言われるので、こうした伝承もまた神の憑依した聖樹の影を水面に映し、そこへ巫女が飛び込むという神婚儀礼の記憶を伝えるものだったと思う。  


菅田神社の一夜松
 

奈良県大和郡山市に鎮座する菅田神社には、恋に狂った娘に追跡された山伏が、
境内にあった松に登って隠れると、その木は一夜にして大木となり、
男の姿が下の水面に映っているのを見た娘は、男が身投げしたものと勘違いして
後を追って入水したと伝わる

菅田神社は式内社だが、近くにはやはり式内社の菅田比売神社があり、
この伝承は両社の祭神間で行われた神婚の記憶に、
道明寺のモチーフなどが加わって成立したものだろう
 

現在、拝殿と本殿を結ぶ渡り廊下の中に古ぼけた木の残骸があるが、
伝承にある「一夜松」の2代目のものという

 この問題に関してもう少し書いておくと、概して日本各地には入水して果てた娘の伝承がやけに多い。悲恋の結果だの、落城した城から落ち延びたお姫様が追っ手の追跡から逃れられなくなって入水しただの、理由は様々だが、こうした「入水した娘」タイプの伝承は、「機織り姫」タイプのそれと同じく、かつて神に仕えていた一夜妻の記憶を反映したものが多いのではないか。 

 また、各地の古い神社の境内にしばしばみられる「鏡池」「鏡ヶ池」「鏡の池」などといった名前の池も、祭神の女神が姿を映して化粧をしただの、神宝の鏡がそこに沈めているだのといった伝承が伝わっていることが多いが、上代にこうした神婚儀礼が行われていたケースもあるのではないか(出羽三山神社の「鏡の池」のように実際に池中から大量の鏡が見つかっているケースもあるが)。  


出羽三山神社本殿と鏡池
 

一面水草に覆われていて分かりづらいが、
この池中からこれまで平安~鎌倉期の古鏡が
500面近く見つかっている
 


八重垣神社の鏡の池

島根県松江市の八重垣神社には「鏡の池」という池があり、
祭神の稲田姫命が姿を映したという伝承がある

この池は縁結びのスポットとして有名で、遠近から多くの女性参拝客が集まるが
こうした信仰は古代にここで行われていた神婚儀礼の名残ではないか

孤独な場所で(3)」につづく

 

 

 


孤独な場所で(1)【猿沢池の采女】

2012年09月27日 22時00分43秒 | 隼人たちと月神

 前回のボランティア・ツアーに参加した記事でもちょっと書いたが、宮城県七ヶ浜町に鎮座する鼻節神社は思い出深い神社だ。思えば、この神社を参詣したのは、奈良の猿沢池に身を投げた采女の伝説に興味をもったことがきっかけだった。私はその頃、本館の『神社空間』で「水面に映った月影」というシリーズを執筆していたのだが、その中で水面に映った月影と遣唐使の関係について述べたいと考えていて、その中でこの采女の伝承に触れる予定だったのである。その後、ずっと書かないままになっていたが、最近になって久々に東北に行ったことがきっかけとなり、当時、考えていたことが脳裏に蘇ってきた。ついてはそれをここにアップする。ただし、すでに本館に掲載した「水面に映った月影」シリーズと重複する部分もかなり多い。これは、前後の脈絡を説明するために、いちいちリンクをはって「水面に映った月影」を参照してもらう煩わしさを避け、独立したものとして読めるようにしたためだ。


鼻節神社

 

 奈良の猿沢池の畔に、采女神社という神社がある。平城京があった頃、天皇の寵愛が薄れたことを嘆いてこの池に身を投げた采女がおり、当社は彼女のことを祀ったものという(現祭神は事代主命と采女)。


采女神社

最初は采女が入水した池のほうを向いていたが、それはしのびないと、
一夜のうちに背を向けたと伝わる
画像は池側から写したもの(つまり背面)

池に背を向けていることより、
こうして背面に鳥居があることのほうが不思議な気がする

采女神社の周囲には柵がしてあって、ふだんは周囲に近づけない
私にとってはこれも結構、謎である
(画像は柵の間から手を入れて撮っている)


猿沢池を挟んで写した采女神社の遠景

天平ホテルの右下に当社のオレンジ色が小さく写っている

 毎年、中秋の名月の晩、この池で行われる采女祭は当社の例祭であり、采女の霊を慰めるために行われる。日が落ちて月が昇る頃、神前に花扇を捧げ、やがて竜頭・鷁首に乗って猿沢池を廻りながらそれを池中に投げ入れる神事だ。


采女祭

2012年の開催日は9月30日

 猿沢の池に身を投げた采女のことは『大和物語』や『枕草子』にも見えており、なかなか古い伝承らしい。だが、采女はどうして人から発見されやすい明るい満月の晩などに身を投げたのだろうか。あるいは、満月が精神に及ぼす異常な作用の所為だろうか(サンフランシスコの金門橋で発生する投身自殺の件数は、満月の日に多くなるという統計もある)。私は一時期、この問題に非常に興味をもっていた。というのも、もしかするとこれは隼人たちの間で行われていた月神との神婚儀礼の記憶を伝えるものではないか、と思われたからである。

 南九州には十五夜満月の下で綱引きをしたり、相撲をとったりする習俗が見られる。こうした行事は月との関係を強く感じさせるが、その分布圏は隼人たちの墓制とされる地下式横穴墓等のそれと重なる。


隼人の老人

大分県宇佐市にある百体社の境内にあったもの

 ここで注意をひくのは、古代において隼人たちの大集団がいたことが分かっている京都府京田辺市の大住郷に、月読神社、樺井月神社等といった月神を祀る古社が集中することである。こうしたことから、彼らには月神を祀る習俗があったのではないかという説が唱えられるようになった。


京田辺市の月読神社

 いっぽう、記紀神話には「海幸・山幸」の物語がある。周知のストーリーだが、いちおう概略を述べておくと、漁師である兄のホノスセリノ命と、猟師である弟のヒコホホデミノ尊がある日、弟の気まぐれから、互いの生活道具である釣り針と弓矢を交換し、普段とは逆に兄は山へ、弟は海へと行く。だが、全く成果があがらなかったばかりか、ヒコホホデミノ尊は海で兄の釣り針を紛失してしまう。謝罪しても兄が許さないために途方に暮れていると、シオツチノオジの導きがあり、彼は釣り針の行方を追って海中にある海神の宮殿を訪れる。そこでなくした釣り針を見つけだすとともに、海神の娘のトヨタマ姫と結ばれる。 

 やがて陸上に帰還したヒコホホデミノ尊は、海神から授けられた潮満玉と潮涸玉を使って海水を溢れさせ、ホノスセリ命を溺れさす。ホノスセリノ命は降参して子孫ともども、尊とその子孫に仕えることを誓う。尊は神武天皇の祖父であり、ホノスセリノ命は隼人たちの祖神である。毎年、宮廷で隼人たちが服属儀礼として朝廷で演じる隼人舞は、大潮に溺れるホノスセリ命の所作を模したものである、── 。 

 南九州を舞台としたこの神話はほんらい、隼人たちの間に語り継がれていたものと考えられている。それが皇室神話に取り入れられ、現在、見られるような形になったのだ。 

 ところで『古事記』によると神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ尊は、宮殿の前にある井戸の傍らにあった神聖な桂の木に登って、中から誰かが出てくるのを待っていた。やがて、水を汲もうとしてトヨタマ姫の侍女が宮殿から出てくると、光がさすので振り仰ぎ、樹上の彼を発見する。


「わだつみのいろこの宮」

青木繁の晩年の名作 

海神の宮殿を訪れたヒコホホデミノ尊が
トヨタマ姫から発見される場面が描かれている

 『日本書紀』一書(第二)でも、やはり宮殿の前にある井戸の傍らに桂の木があったことになっており、ヒコホホデミノ尊が跳び上がってその上に立っていると、宮殿の中からトヨタマ姫が水を汲もうと出てきて、水面に映る影から彼を発見している。このほか、『日本書紀』本文と一書(第一)にも宮殿の前には井戸の傍らに神聖な桂の樹(湯津桂の樹)があったことになっており、ヒコホホデミノ尊はいずれもこの桂の木ふきんで発見されている。 

 実はここに見られる、「井戸の傍らにある桂の木ふきんにいた男神が、女神から発見されて結ばれる」というモチーフを突き詰めてゆくと、猿沢池に身を投げた采女の伝承につながってゆくのである。順を追って、一つ一つ説明してゆこう。

孤独な場所で(2)」につづく